長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語

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 <第一章 エレオドラの虹> 

(後)

 火の上の鍋の中身は、何かどろどろした穀物のお粥だった。里菜はそれを、なぜか、さっき抜け出したばかりの寝台の上で食べるはめになったのだ。
「あの……。ここは?」と、二言めでやっとまともな質問をした里菜に、若者は、あきらかにほっとした様子を見せ、
「俺の家だ。イルファーラン国のイルゼール村にある。君は、昨日、気を失って、この近くの川の中に倒れていたんだ。俺はアルファード。この村で羊飼いをしている。怖がらないでくれ。君の力になりたいと思っているんだ」と答えた。その淀みない口調といい、必要なことを無駄なく伝える簡潔にして的確な内容といい、これはたぶん、里菜が起きてくる前に彼がよく吟味して用意していた、予測される質問に対する模範解答のひとつだったのだろう。
 それから若者──アルファ−ド──は、幼児をあやすような微笑みを浮かべて、いきなり、この上なくやさしく、
「ところで、君、御不浄に行きたくはないか?」と尋ねてきた。
 里菜は、とっさに意味がわからず、ぽかんとしてから、一瞬後に赤くなった。赤くなりながらも自分の身体の声に耳を傾けてみたが、別段『御不浄』に行きたい状態ではなさそうだったので、小さな声で、
「い、いいえ」と答えた。
 ちょっとデリカシ−に欠ける人だなと思ったが、もし本当に行きたかったら、こうしてむこうから尋ねてくれなかったらすごくもじもじしなければならないところだっただろうから、そう思うと、配慮の行き届いた、心づかいの細やかな人だと、ありがたく思うべきだったかもしれない。
 アルファ−ドは鷹揚に頷き、
「そうか、それじゃ、今、寝床に食事を運んであげるら、まだ寝ておいで。何も心配はいらない。このとおりのあばらやだが、好きなだけここにいてくれていいから、ともかく温かいものでも食べて、ゆっくり休むといい。ああ、御不浄に行きたくなったら、遠慮しないですぐに言うんだよ」と言いながら、慎重に里菜に歩み寄ると、そっと肩にかけた手で有無を言わさず里菜をくるりと後ろ向きにした。
 そうして里菜は、わけがわからないまま、さっき出てきたばかりの部屋へ押し戻され、いきなり幼児のようにひょいと持ち上げられて寝台の端に座らされた。
 アルファ−ドは、シャツの裾から覗いた里菜のひざ小僧にチラリと向けた目を困惑したようにそらし、とってつけたように難しい顔をして里菜の額に手を当てながら「熱がある」というようなことをぼそぼそ言うと、掛け布を引っぱってきて足元を厳重にくるみ込んでしまった。そうしておいて、これでやっと安心だというように破顔し、木の椀によそったお粥と、消化を助ける香草のお茶だという熱い飲み物のお盆を、寝台の脇の小卓に置いてくれたのだ。
 この、病気の子供のような扱いには少々異議を述べたかったが、子供の頃からあまり身体が丈夫でなく、一人娘の上に病弱ということで少しばかり過保護に育てられた里菜は、こういう病人扱いには、実は慣れていた。
 お椀の中身を見やった里菜は、最初、朝からこんなどろどろしたものを食べる気にはとてもなれないと密かに躊躇した。食が細いのは子供の頃からだが、特に最近は食べることに全く興味を持てなくなった気がして、朝などはいつも紅茶一杯で済ませていたのだ。けれど、気を励まして最初の一匙を口に運んだとたん、里菜は自分がとても空腹だったことに気がついた。ハチミツ入りの粥はほんのりと甘く、お茶は爽やかで、香ばしい匂いがして、どちらもとてもおいしかった。食べ物がこんなにおいしいなんて何年ぶりだろうと思うと、なんだかすごく幸せな気分だった。
 食事の後、寝台の脇に椅子を寄せて一緒にお茶を飲みながら、アルファードは、慎重に言葉を選んで、里菜にいくつかの質問をし、自分も別の世界から来た人間であるらしいこと、これまでもこの村ではそういうことが時々あって、そういう客人は<マレビト>と呼ばれ古来暖かく受け入れられてきたこと、自分にはこの世界に現われる前の記憶がないことなどを話してくれた。
 彼が、それらのことを話すのに里菜に衝撃を与えないようにと細心の注意を払ってくれているのはあきらかで、その気遣いは嬉しかったが、里菜自身は、やはりここは別の世界で元の世界に戻る方法は全く分からないのだということがはっきりしても、自分でも不思議なほど平静だった。ただ、こうなることが唯一の正しい運命だったのだという気がした。
 ――そう、こここそが、本当の、自分が在るべき世界なのだ。今まで自分が『あちら』の世界にいたのは、ずっと漠然と感じていた通りやはり何かの間違いで、だから自分は、『あちら』ではいつも、自分が本当はその世界に属していないとでもいうような違和感を抱き続けて、中途半端に生きて来たのだ。だからあんなに生きるのが辛かったのだ――。 そんなふうに、里菜は思った。
(『あちら』の世界では自分の存在はどうなっているのだろう、両親はどうしているだろうか)などと考えてみないでもなかったが、それらの想像は今やまるで現実味を伴わず、里菜の注意は、すぐに、目の前の新しい現実に立ち戻ってしまう。
 無理にでも『あちら』の世界のことをきちんと考えようと心を集中してみても、『あちら』にまつわる事柄はみな、近付こうとすればするほど遠ざかって逃げ水のように捉えどころなく、里菜の心は、どうしてもそこに焦点を結ぶことができない。
 『あちら』の世界の記憶がないわけではないが、それらすべては目が覚めてから思い出そうとする夢のようにぼんやり霞んで、里菜の心に強い感情を呼び起すことができないのだ。
 何か、自分の心の中に、自分の意識が『あちら』に向くことを阻む見えない障壁があるような、そんな奇妙な感覚だった。
 が、そのことすら、特に気にする必要があると思えなかった。
 それよりも、今ここに、目の前にあるこの世界、目の前にいるアルファ−ドこそが、今の里菜の『現実』だったのだ。
 アルファードは、里菜(りな)のことを、リーナ、と呼んだ。耳慣れぬ別世界の名前を、自分に馴染みやすい音に――たぶんこの世界にある名前に――置き換えて聞き取ったらしい。
 里菜はそれを、訂正しなかった。
 この人がリーナと呼んでくれるなら、自分はリーナになろう。自分はもう、この世界の人間になるのだから、『あちら』での名前なんか、いらない。この世界の人に分かりやすい名前のほうがいい――。
 アルファードが、リーナ、と、名を呼んでくれるたび、里菜はうれしくなった。何度でも呼んで欲しかった。深く暖かなその声を、いつまでも聞いていたかった。
 アルファードは、里菜の質問に答えて、この世界のこと、この村のこと、自分のことなどをいろいろと話してくれた。
 里菜が驚いたことに、この世界は、群立する都市国家同士の戦乱の時代を経てのち、百六十年以上も前にひとつのイルファーランという国家として統一され、<賢人会議>と呼ばれる合議制の組織によって治められているという。
 アルファ−ドのどこか古風な服装といい、部屋の調度から窺われるほとんど博物館モノの素朴な暮らしぶりといい、『あちら』の世界とくらべるとかなり『遅れて』いるらしいこの国を、里菜は何となく、王様やお姫様が住んでいる、おとぎ話のような昔風の世界かと思いこんでいたのだが、聞いてみればなんのことはない、ただの近代国家らしい。
 が、世界がひとつに統一されて百何十年も大きな戦さを知らず、しかも専制国家ではなく、よくはわからないがそれなりに民主的であるらしい議会制度があるというこの国は、それはそれで、別の意味でおとぎ話めいた、夢のような世界かもしれない。
 ただ、これは里菜が何度も聞き質してやっと理解したことなのだが、どうやら、彼のいう『この世界』というのは、四方を海や山などの天然の国境で囲われた一続きの陸地に過ぎないらしい。
 アルファ−ドを含むここの人々にとって、この国の西に広がる大洋や東に広がる太古の樹海、南に聳えるイルシエル山脈とエレオドラ山の向こうというのは、里菜にとっての宇宙の果てのその向こうにも等しい意識の外の領域であるらしく、そこに行こうとも行きたいとも思わないばかりか、里菜に問いただされなければ、その向こうになにがあるかとあらためて考えてみることさえなかったらしい。
 当然、そこに人間が住んでいる可能性も考えたことがないらしいが、海の向こうはともかく、陸続きの場所に他の国があって何百年も互いの存在をまったく知らずに過ごすというのも不自然だから、たぶん、そこには人間は住んでいないだろう。
 アルファードは、次から次へと浴びせかけられる里菜の質問に、ときおり自分でも考え込みながらどんなことにでも大真面目に答え、様々なことを辛抱強く丁寧に、たぶんとても正確に説明してくれた。
 その語り口は生真面目でもの静かで、求めに応じて自分のことをごく簡潔に語った時にもあくまで淡々としていて、その口調にただ一度だけわずかに誇らしさが滲んだのは、愛犬ミュシカについて、
「ミュシカは俺が仕込んだんだ。このあたりで最高の牧羊犬だ」と語った時だけだった。
 そんなふうにしばらく会話を交わしていて気づいたのだが、どうやら彼は、あまりにも几帳面で生真面目なために、どんなにズレた質問にでも、脈絡のない意図不明の質問にでも、とりあえず額面通り、いちいち律儀に答えずにいられないようなタイプらしい。真面目も度を過ごすと、時に、とぼけて見えるが、里菜は、そういうタイプが嫌いではない。自分もどちらかといえばそのタイプなので、なんとなく親しみを感じるのだ。
 元来どちらかというと無口なほうであるらしい彼が、こうして自分と向き合って話をしてくれることが、里菜はとてもうれしかった。
 たぶん彼は里菜が最初に彼を見て悲鳴を上げたことを気にしているのだろう、彼の動きはすべてゆっくりと慎重で、里菜を驚かさぬようにという細心な配慮が感じられたが、同時に、その身のこなしは、ただお茶をいれたり盆を運んだりという何気ない日常の動作をしているだけなのに、妙に正確で無駄がなかった。無駄がないというより、見る目のあるものが見ればこういうのを『隙がない』と評するのではないかというような気がした。
 その抑制のきいた物腰が、もの静かな口調とあいまって、体格から受ける一見猛々しそうな印象を打ち消し、彼に、どこか、禁欲的で内省的な、求道者めいた趣を与えている。
 この人は武骨な見かけによらず、実はとても頭がいいのに違いないと、里菜は思った。 別に難しいことを話していなくても、その正確で冷静な語り口に思慮深さが滲み出て、なんとなく知的な、思索的な印象を与えるのだ。
 最初、里菜はアルファ−ドを、なんとなく自分よりずっと年上の、全くの『大人』だと思い込んでいたのだが、それはその『老成した』と言えるほどの落ち着いた雰囲気と、自分に対する子供扱いのせいで、よく見ると、顔は全然若いのだ。どう見ても、まだ二十代だろう。
 しかも、その顔も、最初はうんと年上だと思っていた上に、里菜のような少女が異性として意識するには彼は逆に男っぽすぎて、いわゆる『守備範囲外』だったためにあまり気にとめなかったのだが、よく見ると、地味だがクセのない、そこそこの顔立ちである。あまり整い過ぎていないところが素朴な暖かみを感じさせるし、何といっても凛々しく精悍で、今まで関心を持ったことのないタイプではあるが、見ているうちに、こういうのも案外かっこいいかな、などと思えてくる。
 ただ、薄めの唇の端のあたりに、時々ふっと、何か微かな鬱屈、あるいは自嘲の陰のようなものが漂うように思えて気になったが、それも全体の穏やかな印象を損なうほどではなく、何よりも、太陽に暖められた大地のような暗褐色の瞳の深さ、やさしさが、里菜を惹きつける――。
(あたし、眼鏡をかけてこなくてよかった)と、里菜は、アルファ−ドの顔を眺めながらぼんやり考えていた。
 世の中には眼鏡が本当に似合う女の子もいるのだろうが、自分は眼鏡をかけていない方が少しはかわいく見えると、里菜は思っている。
 だいたい里菜は、自分でもなぜかわからないけれど、眼鏡を選ぶ時、わざと、なるべく冴えない、なるべく自分がかわいく見えないようなものを選んだのだ。
 だから、今は、あのダサい眼鏡をしてなくてよかった──。
 とりとめもなくそう思ってから、
(でも、あたし、なんでそんなこと考えてるんだろう)と、はっとして、なぜだか、ちょっと赤くなった。
 ふいに、アルファ−ドが、居心地悪そうに咳払いをした。いつのまにか自分がぼんやりとアルファ−ドに見蕩れていたことに気づいた里菜は、我に返って、今度は盛大に真っ赤になった。
 アルファ−ドが、不審そうに里菜の顔を覗き込んでいる。
 深いところに静かな力を秘めた大地の色の瞳に見つめられて、里菜は、思わず目を伏せた。頬が燃え、耳が熱くなるのが分かる。
 アルファ−ドはその様子に困惑したように、かすかに眉をよせた。
「……というわけなんだが、君、今の話、聞いていたか?」
「え? あの、えっと……ごめんなさい」
「いや、別に謝らなくてもいい。まだ疲れているんだろう。話はまた今度にして、とにかくまた一眠りするといい」
「えっ、あのっ、別に、もう全然眠くないから……」
「いや、眠くなくても、横になっていたほうがいい。君、顔が赤いじゃないか。熱が上がってきたのかもしれない」
「え? そ、そう……?」
 言い訳に困る赤面ぶりを都合よく誤解してもらえたらしい。そのまま誤解してもらうことにしよう──。里菜はそらっとぼけながら急いで布団にすべり込み、掛け布団を鼻先まで引っ張りあげた。
 里菜は、これまで、自分がすぐ赤面するのがとても気になって、それで、もともと苦手な人づきあいにますます臆病になっていたのだが、今は、赤くなっていても、わりと平気でいられる気がする。不思議だった。
 里菜が布団に入るのを見届けたアルファ−ドが、「おやすみ」と言い置いて出ていこうとしたので、里菜は思わず呼び止めた。
「あ、あの、アルファ−ド!?」
「なんだ?」と振り向いてくれたアルファ−ドに何を言っていいかわからなくなった里菜は、とっさに、さっきから考えていた疑問を口にしていた。
「えっと、アルファ−ド、歳、いくつ?」
 出ていこうとするのを慌てて呼び止めてまで尋ねるほどのことではなかったが、アルファ−ドは、例によって、律儀に即答してくれた。
「二十二だ。もっとも、ここに来た時、自分の齢も知らなかったので、おおよその推定なんだが」
 そして、思い出したようにつけ加えた。
「ところで、リ−ナ、君はいくつだ?」
 アルファ−ドと自分が思いのほか年が近いことを知って、五歳違いくらいなら恋人に立候補しても全然おかしくないではないかとひそかに胸を弾ませた里菜は、
(わっ、あたしったら何考えてるの!)と、ますます赤くなって、慌てて頭まで掛け布団を引き上げた。
 そして、掛け布団の下から答えた。
「……あたし、十七」
「えっ……」
 アルファ−ドは口を半開きにしたまま凍りついた。

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