長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語

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 <第一章 エレオドラの虹> 

(前)


 忘れかけていたあの頃――世界が毎朝新しく珍しかった子供の頃の、その中でも特に目新しい楽しみが待っているはずだった日曜日の朝のような、新鮮な期待に満ちた気分で、里菜は目を覚ました。
 目を閉じたままベッドのぬくもりを楽しむ里菜の耳に、静かな雨音が聞こえてきた。
(なあんだ、せっかくの日曜日に雨か……。今日はどこかに遊びに行く予定だったんだっけ? だって、あたし、こんなに何か楽しいことがありそうな気持ちで目が覚めたんだから、そうだったはずよね……)
 そこまで考えてから、里菜は、自分がもう小さな子供ではないこと、そこが自分の子供部屋のベッドではないことに、やっと気がついた。
(そうだ、ここ、どこ!?)
 里菜は羊毛の匂いのする灰色の掛け布をあわててはね除け、硬いベッドの上に身を起こして、あたりを見回した。
(やっぱり、夢じゃなかったんだ……。あたしは、知らない世界に来たんだわ)
 そこは、薄暗い、小さな部屋だった。なんの飾りけもない、殺風景な部屋だ。
 長いこと使っていない部屋に特有の、胸の奥がしんと寂しくなるような、どこか懐かしく、少し湿っぽい匂いがした。
 壁は漆喰のようなもので、床は灰色のレンガのような石を平らに敷きつめてあり、今、寝ている簡素なベッドのほかには、そのかたわらに木の小卓と小さな椅子がひとつ、それに、隅の方に木の箱のような家具が置いてあるだけだ。
 高いところにひとつだけある明かり取りの小窓からちらりと見える空は、雨に煙って、淡くやわらかな銀ねず色を帯びていた。
 天気が悪いので薄暗いが、ぼんやり差し込む光の加減からして、今はたぶん、まだ午前中だろう。
 ベッドの頭が接している壁には小さな扉があって、半開きになったその扉の隙間から、暖かにゆらめく橙色の光と一緒に、鍋がぐつぐつ煮えるような静かな音と、ほのかに甘い匂いが忍び込んでくる。
 自分の姿を見下ろす。
 着ているのは、男ものらしい、ゆったりした生成りの長袖シャツである。
 が、里菜の知っているような、普通の、いわゆるワイシャツだのポロシャツだのとは違う。形もちょっと変わっているが、もっと風変わりなのはその生地で、片腕を目の前に持ち上げてよくよく観察すると、厚手の不織布というか薄手のフェルトというか、ざっくりした風合いなのに織り目のない、不思議な布でできているのだ。
 腕を持ち上げたついでに、なんとなく袖の布地に鼻を埋めて匂いを嗅いでみると、何かのハーブのような、石鹸のような、洗いあがりらしい清潔な香りに混じって、微かに、嗅ぎ覚えのある汗の匂がした。
(あの人の匂いだ……。これ、あの人の服なんだわ。じゃあ、ここはやっぱり、あの人の家かしら。隣の部屋で料理をしているのは、昨日の女の人かな。もしかして、あの人の奥さんなのかな……)
 里菜は、思い切って寝台をすべり降りようとした。
 と同時に、いつものくせで、ベッドサイドテ−ブルのあるはずの位置に片手を伸ばそうとして、はっと気がついた。もちろん、ここに、自分の部屋のいつものベッドサイドテ−ブルがあるわけがないのだ。当然、寝る時はいつもそこに置いておくはずの眼鏡も。
(眼鏡を忘れてきちゃった……)
 里菜は、ちょっと困惑して、何度か目を瞬いた。
 それから、すぐに気を取り直した。考えてみれば、眼鏡がなくても別に困らないのだ。
 里菜は、普段、外出する時には必ず眼鏡をかけているが、本当は、日常生活で不自由するほど視力が悪いわけではない。眼鏡の度も、ごく弱い。普通なら、そんなに度の弱い眼鏡で済むくらいなら眼鏡なしで済ませてしまうだろうという程度だ。
 里菜の眼鏡は、『学校で黒板の字が見えにくい』と親に言い張って連れていってもらった、街の眼鏡屋の視力検査で本当は見える文字をひとつだけ見えないフリをして、やっと手に入れたものである。黒板の文字が見えにくいというのは実は嘘で、里菜はただ、眼鏡をかけたかったのだ。たぶん、自分を世界から遮断し、隔離するために。
 里菜の眼鏡は、自分と世界を隔てるガラスの壁であり、外の世界から自分を守る鎧だった。
 ガラス越しにしか世界を見ないため、そして自分の素顔を不用意に他人に見られないために、里菜は眼鏡をかけてきたのだ。
 でも、ここでは、この世界では、きっと、眼鏡は要らない──。
 わけもなく高揚した気持ちでそう思って、里菜は果敢に床に降り立った。
 きっと、ここの人たちは家の中でも靴を履いて暮らしているのだろう。石の床は冷たくざらざらして、立ち上がると、足の裏が少し痛かった。
 まだ少し身体がだるく、軽い頭痛があるが、特に身体に異常はないようだ。
 着ているシャツの丈はたっぷりしていて、小柄な里菜の膝のあたりまであった。
 そっと半開きの扉に近寄って隣室を覗くと、その向こうは、こっちよりは大分広い部屋だった。やはり質素で、飾り気はないが、こちらの部屋よりはずっと生活感があり、居心地がよさそうだ。がっしりした木の食卓や椅子、戸棚など、いくつかの素朴な家具もあって、台所から寝室までを兼ねているらしく部屋の一隅には木製の流し台のようなものが並び、別の一方の壁際には寝棚といった方がいいような簡素な寝台が据え付けられていて、その上には里菜が掛けていたのと同じ灰色っぽい分厚い毛布がきちんと畳んで積まれている。里菜が、自分が毛布をはね除けたまま起きてきたのを思い出して落ち着かない気持ちになったほど、几帳面な畳み方である。
 正面の壁際には武骨な石積みの暖炉があかあかと燃えていて、その、暖炉の前に、火の上に釣った鍋の上に広い背中を丸めるようにして屈み込んでいる、昨日の若者らしい後ろ姿があった。
 なんだか大きな人だな、と、里菜は思った。
 たしかに、身体は大きかった。今は屈み込んでいるが、それでもかなり背が高いのはわかるし、見るからに逞しい、がっしりした体格で、横幅も厚みもある。
 けれど、里菜が彼を大きいと思ったのは、そうした見た目のことだけではなかった。若者の後ろ姿は、そのたたずまいの静かさにもかかわらず、ほととんど圧迫感として感じられるほどの圧倒的な存在感を、抑えようもなく周囲に漂わせていたのだ。
 普段なら、そうした威圧的なまでの大きさ、力強さは、ただそれだけで里菜のような人見知りがちな少女を訳もなく威嚇し、相手を敬遠させるのに十分だっただろう。
 けれど、暖炉で暖かな炎が静かに踊り、鍋がぐつぐつといい匂いをさせている、この穏やかな光景の中では、若者の大きな背中は、どっしりと落ち着いて、いかにも頼もしそうに見えた。ふいに、ちょっと後ろからおぶさって甘えてみたくなるような慕わしさが胸に沸き上がってきて、里菜は自分の感情に戸惑った。もちろん、実際には、口をきいたこともない男性を相手に、いきなりそんなことを出来るわけがない。が、それ以前に、内気な自分が見知らぬ男性に対して恐怖や警戒心のかわりにそんな甘えた感情を抱くということ自体が、里菜には信じられないことだったのだ。
 里菜がそっと扉を押し開けると、若者の足元に寝そべってさっきから横目でこちらを見ていた大きな茶色い犬が、ちょっとだけ頭を上げ、里菜に向かって、挨拶するようにゆったりと尾を振ってみせた。
 若者が、ゆっくりと振り返った。
 たぶん彼は、足元の犬と同様、里菜が扉の陰にいることに最初から気付いていたのだろう。そしてきっと、里菜に自分や部屋の様子を観察する猶予を与えるために、わざと素知らぬ振りでじっとしていてくれたのだ。ちょうど、拾ったばかりの臆病な仔猫にするような、細やかな心遣いでもって……。
 若者は、扱い慣れない子供を前にして相手を怯えさせぬよう精一杯気を遣っている不慣れな大人のような、どこかぎこちない、遠慮がちな笑みを浮かべた。
「ああ、目が覚めたね。おはよう。気分は?」
 安心させてくれようとしているのがすぐわかる、慎重な、やさしい口調だった。
 彼の声を聞くのは初めてだ。やや低めの、深く暖かい、穏やかな声。
 初めて聞いたその声が、なんだかとても懐かしいような気がした。
 そういえば、ちゃんと言葉が通じる。今の今まで、言葉が通じないかもしれないとことには、なぜかまったく想い至らなかったのだ。
 初めてまともに向かい合った若者は、里菜より頭二つ分近く背が高かった。と言ってもそれは里菜が人よりかなり小柄なほう──というか、はっきりいうとチビで、身長は百四十五センチしかない──だからで、彼がそれほど人並みはずれて長身だというわけではないのだろう。が、姿勢が良いので、その分よけいに背が高く見える。
 部屋の印象同様に飾りけのない、質実剛健そのものといった様子の武骨な若者で、茶系を中心とした地味な色の、どこか古風で風変わりな素朴な服を着て、革の長靴を履いている。
 その服装は、質素というよりむしろ粗末といった方がいいほどだったが、着こなし方がきちんとしているためか、ただむやみと逞しいだけでなく無駄なく引き締まってきれいに均整が取れた体格や、人柄の折り目正しさを暗示するかのように自然にすっと背筋が伸びた堂々たる立ち姿のためか、粗末な服を着ていてもだらしない感じやみすぼらしい感じはしないし、洗濯も行き届いているらしく、こざっぱりしていて、不潔な感じもない。
 日に焼けた顔は、特にハンサムというほどでもないが、男らしく引き締まって意志の強さと思慮深さを感じさせ、きりっとした眉の下で、暖かな暗褐色の目がやさしい。
 無造作に掻き分けた、やや固そうな髪は、茶色がかった黒だ。
 そういえば、昨日の女の子は青い目をしていて外国人のようだったが、髪も目も黒に近い焦げ茶色で肌も小麦色に日焼けした彼は、顔つきもどことなく日本人っぽくて、言葉が通じることに妙に違和感がない。
 全体に質素で飾り気のない服装の中で、どういうわけか、袖をまくりあげた左手首に鈍い銀色の幅広の腕輪が覗いているのが不思議だが、どう見てもおしゃれに特別気を遣うような人には見えないから、この世界では、それが普通の一般的な風俗なのか、あるいは、おしゃれのためのアクセサリ−というより、何か別の意味なり用途なりがあってつけているものなのかもしれない。
 そして、右手には、木製の杓子を握っている……。彼は、火の上に釣り下げた鍋の中身を杓子で掻き回していたのだ。
(このひとがお料理してたんだ。独身なのかなあ……。そういえば、昨日の女の子は?)と、思ったとたん、里菜は、質問を発していた。
「あのう……。奥さんは?」
 若者は、思いっきり意表を突かれた様子で、
「えっ?」と言ったきり絶句し、質問の意図を測りかねるという風に怪訝そうに眉をひそめて里菜を見返した。
 二人の間に、一瞬、まぬけな沈黙が流れた。
 それから、若者は、気を取り直したように口を開き直して、ぼそりと答えた。
「……いや、そんなものはいない。俺は独身だ」
 とりあえず律儀に答えてはくれたが思いっきり不審そうな若者の反応に、
(いやだ、あたしったら、何をすっとんきょうなこと尋いちゃったのかしら……。こういうときはまず『ここはどこ、あなたは誰』とか尋くものと相場は決まっているのに……)と、真っ赤になった時にはもう遅い。これが里菜の、新しい世界での第一声であった。

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