長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語

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 <第一章 エレオドラの虹> 

(つづき)


 アルファ−ドは、かつてレグル老のものだった小さな家に、今は一人で住んでいる。灰色の石積みの、質素な家である。歴史の古いこの村で、そっけないたたずまいのその家は特別古いわけではないのだが、村の他の家々と違って魔法による手入れが行き届いていないので、ひときわ古びて、少しばかりみすぼらしく見える。部屋は二部屋。台所と居間と食堂を兼ねた中央の広い部屋と、その横につけたしのようについている小さな寝室だが、かつてレグル老が使っていたその寝室は、今は全く使われていない。アルファ−ドは、今でも、子供の頃にレグル老が居間の壁際に作りつけてくれた簡単な寝台で寝起きしているのだ。
 独り暮らしでも、特に寂しいとは思ったことはない。調理用と暖房を兼ねた武骨な石積みの暖炉の前には、いつも、忠実なミュシカが寝そべっていて、アルファ−ドと目が合うと、必ず軽く尾を振って応えてくれる。
 男の独り暮らし、しかも魔法が使えないとあって、家事のことを心配をするものもいるが、彼は、努力と工夫と体力で、大抵のことは自分でこなしてきた。そのことには、いささかの自負がある。
 魔法を使えるものたちは、魔法が日常生活に必要不可欠なものであると、あらためて考えるまでもなく無条件に信じているが、その実、たいがいのことは魔法なしでも、多少の手間ひまはかかるがそれなりになんとかなるものだというのが、彼がこれまでに探り当てた、世界の隠された真相だ。ただ、人より余計に頭を働かせ、あとは身体を惜しまずに汗を流せばいいのである。
 幸い、体力は人一倍ある。だから、たとえば水なら、ただ、何回でも桶を持って坂を上り下りして川から汲んでくれば済むまでのことだ。
 根気強く几帳面な性格ゆえに細かい手作業も別に苦にならないし、魔法に代わるちょっとした工夫を思いつく才気も豊かで、数々の小発明を、ひそかに誇りにしてもいる。
 とはいえ、そんな彼の生活が他の村人たちの暮らしぶりと比べてひどく不便で少々非文明的なものであることは否めなかったが、彼にとって、なるべく人手を頼らず家事をこなすことが、自分は魔法が使えなくてもちゃんと一人前にやっているのだというひそかな自負心の拠り所になっているのだ。
 そんなささやかな独り住まいの、質素な住み処に帰り着いたアルファ−ドは、暖炉の前の敷物の上に横たえた少女を見下ろして、我にもなく困惑していた。
 手には、洗い上りの自分のシャツを持っている。少女に着せるつもりで、一番マシそうなものを探し出してきたのだ。
 そこまではよかったのだが、その先が困った。
 いくら子供とはいえ、女性は女性だ。気を失っている間に断りもなく服を脱がせたりしたら、非常な失礼にあたるのではないか……。
 もちろん、この際、そんなことを言っている場合ではない。
 九月とはいえ、高原の夜は冷える。このままでは確実に風邪をひく。肺炎でもおこしたら、命にかかわりかねないのだ。どう考えても、濡れた衣服は早急に脱がせるのが適切なのである。何もやましいことはない、理にかなった当然の処置だ。──それは、分かっている。
 分かっては、いるのだが……。
 アルファ−ドは途方に暮れた。

 亜麻色のお下げ髪を背中に垂らした若い娘が一人、焼き菓子の包みと角灯を手に、宵闇に閉ざされかけた村の小道を急いでいた。
 ふくらはぎまでしっかり隠す落ち着いた色合いのスカートに洗いざらしの清潔な前掛けを重ね、きちんとした未婚女性の手本のように慎しみ深く装ったこの娘は、村中でしっかり者と評判の、ヴィーレことマルヴィーレ。アルファードが子供の頃から何かと世話になってきた隣人一家の、十九才になる一人娘である。
 ふくよかな身体付き、豊かな胸の、母性的な雰囲気の娘だ。
 同じ年ごろの娘たちの中でも、背は、わりと高い方。
 落ち着いた性格の、分別のある娘で、病気がちな母親に代わってほんの子供の頃から有能な主婦の役をこなしてはきたが、長いお下げが一足ごとに背中で弾むその様には、夢見る少女の面影が隠し切れずに顔を出す。つつましいその装いに、バラ色の頬が娘らしい華やぎを添える。どんな慎みも、恋する乙女の輝きを封じ込めてはおけないのだ。彼女の足取りが軽く、頬がバラ色に輝いているのは、恋しい人に会いに行く、胸のときめきのためだから。
 ヴィーレの父は、寄り合いで選ばれた村の世話役である。そのこともあってヴィーレの両親は、変り者の隣家の老人に引き取られた幼い<マレビト>のことをずっと心にかけ、半分は自分たちの息子のように思ってなにくれとなく援助してきたし、レグル老の死後は進んでアルファードの後見人を買って出もした。だからヴィーレは、アルファードとは名実ともに兄妹同然の仲だ。レグル老が死んでアルファードが一人暮しになった当初など、ヴィーレは、母親から託された差し入れを持って毎日のようにアルファードの家に通い、アルファードが遠慮するのも構わず、せっせと身辺の世話を焼いたものだ。
 そのアルファードを、いつから兄としてではなく意識するようになったのか、ヴィーレは覚えていない。幼い胸の奥に自分でも気付かぬうちに芽ばえていた密かな思慕は、いつしか切なく胸を焦がしていたのだ。
 たぶんアルファードも、ヴィーレの気持ちに気付いているだろう。けれど、気付いても応えられないから、気付かないふりをしてくれているのだと、ヴィ−レは知っている。だからヴィーレは、自分の想いを決して口に出さない。口に出せば、自分が兄としてのアルファードをさえ失ってしまうことが、ヴィ−レにはわかっているのだ。
 それでもヴィーレは、今日もこうして、アルファードの元へ急ぐ。しっかりと胸に抱えた包みの中の焼き菓子は、秋祭りの二日目の夜に食べる伝統の行事菓子だ。今ではこの村でも自分の家でこれを焼くところは減ってしまったのだが、ヴィ−レは毎年、余るほど焼く。そうして、必ずアルファ−ドのところに持って行く。表向きは『たくさん焼きすぎたからおすそ分け』だが、本当は最初から、アルファードのために焼いているのだ。祭りに限らず、彼女は年中、焼き菓子を焼いてはアルファ−ドのところへ持っていく。子どもの頃、アルファードは、甘い焼き菓子が好きだった。今はアルファードは、菓子などあまり食べないのだが、せっせと焼いて持ってきてくれるヴィーレにはそのことを言えずにいるので、ヴィーレはいまだに、彼はそれが好きだと信じている。
(いそがなくちゃ。あんまり暗くなってから行くと、ファードにまた叱られるわ)
 瞬き始めた一番星を見上げて、ヴィーレは足を早める。アルファ−ドの家は、村の中心部から少し離れた丘の上にぽつんと建っているので、一応は隣家であるヴィーレの家からでも、少々時間がかかるのだ。
 アルファードはいつも、ヴィーレに、夜道のひとり歩きは物騒だと注意している。でもヴィーレは、しばしば、暗くなる頃アルファードを訪ねる。そうすると、帰る時はアルファードが家まで送ってくれる。
 無口なアルファードと、ただ黙って肩を並べて家までの短い道のりを歩くのが、ヴィーレは好きだ。
(あたしたち、恋人どうしみたいに見えるかしら)などと思いながら、宵闇の中で頬を赤らめることもある。
 けれど、ヴィーレにとっては少々さみしいことに、ふたりがそんなふうに並んで夜道を歩いていてさえ、村中の誰も、ふたりの間柄を誤解してくれないのである。それも、たぶん村中の人が、ヴィーレの秘めた想いを知っているだろうというのに。
 そもそも、ヴィ−レの両親にしてからが、娘のアルファ−ドへの想いに気付いていながら、彼女がこんな夜分にアルファ−ドのところへ行こうとするのを、止めようともしないのだ。それは、彼らが品行方正なアルファ−ドをそれだけ信用しているということでもあるが、つまりは彼らも、アルファ−ドにとってヴィ−レがあくまで『妹』にしか過ぎないことを、よくよく理解しているのである。
 それでもヴィ−レは幸せだった。
 誰もが認める人格者であり、村中の若者たちから頼られ、慕われている人望厚いアルファードが、本当は孤独を好み、容易には人に心を開かない性質であることを、ヴィ−レは知っている。そのことが、ヴィーレは、心の底では、ほんの少しうれしい。彼と親しく付き合うことが、自分だけの特権のように思えるからだ。
 事実、彼をファードという愛称で呼ぶのはヴィーレだけだ。他の村人は皆互いを短い愛称で呼びあっており、正式名などほとんど忘れられている者も多いというのに、<女神のおさな子>であり、本人は別に特別扱いを求めるわけでなくともどこか常人離れした孤高の印象があるアルファ−ドだけは、普段から正式名を呼ばれているのだ。
 ──そう、自分は誰よりもアルファードの近くにいるのだ。無口なアルファードの内面を、誰よりもよく知っているのだ。感情を表に出さない彼の孤独を、屈託を、誰よりも理解しているのだ。たとえ妹としてでも、こんなにアルファードの近くにいることを許される女の子は自分だけだ――。
 そんなふうに、ヴィーレは、信じていた。
 そう信じることで、それなりに幸せでいられた。
 そう、この夜、アルファードの家の、少しぎいぎい言うお馴染みの扉を押し開けた時までは……。


「ファード、入っていい? お祭りの焼き菓子、持って来たのよ!」
 明るい声とともに扉を開けたヴィーレは、口に手を当てて、その場に立ちすくんだ。
 扉の向こうにヴィーレが見たのは、彼女にとっては、かなり衝撃的な光景だった。
 見慣れたアルファードの部屋の暖炉の前に、見知らぬ少女が横たわっている。しかも、いとしいアルファードは少女のかたわらに膝をつき、あろうことか、手をのばして少女の服を脱がそうとしているらしい……。
 これがヴィーレでなくて、もっと感情的な娘だったら、訳の分からない叫び声を上げてこの場を飛び出してゆき、あとでアルファードが何と言い訳しても一切聞こうとしない、といった展開になるところであるが、ヴィーレは、落ち着いた、実際的な娘だった。頭の回転も悪くない。一瞬のショックの後、ヴィーレは瞬時に状況を把握した。寝ているのがまだ子供のような少女であること、その服が見たことのないような奇妙なものであること、そして、びしょ濡れであること。
 では、もしかすると、この子は……?
「ああ、ヴィーレ、ちょうどいいところへ来てくれた……」
 顔を上げたアルファードは、救いの神を見るような目でヴィーレを見た。そういえばヴィーレは、これまで一度も、アルファードに、こんな有難そうな顔で迎えてもらったことはない。
「ファード、その子……」
「ああ、その……。さっき、見つけたんだ。<女神の淵>で。気を失って、倒れていた」
 ああ、やはりそうなのだ。世界でただ一人の<マレビト>だったアルファ−ドが、ついに、同じ<マレビト>を、自分の同類を、見出したのだ――。
 ヴィ−レは、その時、自分が、『アルファ−ドの一番の理解者』、『アルファ−ドに一番近い女の子』の地位を、確実に失うだろうことを知った。それは、淡い、けれど底知れず深い、喪失の予感だった。
 けれど、やさしいと同時に強い心の持ち主である彼女は、その、足下の大地が揺らぐかのような絶望を、ほとんど顔には出さなかった。出さずに、済んでいたと思う。
 その証拠にアルファ−ドは、ヴィ−レの一瞬の微妙な表情になど気づいた様子もなく、
「それより、ヴィーレ、頼みがあるんだが……。この子の服を、これに着替えさせてやってくれないか。それと、髪の毛や身体も、拭いてやって欲しいんだ。俺は、あっちの部屋で、この子を寝かすように寝台を整えてるから……」と、持っていたシャツをヴィ−レの手に押しつけるなり、ヴィ−レの気持ちを知ってか知らずか、そそくさと部屋を出ていってしまったのだ。
 その、逃げるような後ろ姿を見送って、
(ファ−ドってば、この子を着替えさせようと思って、女の子だからって困ってたんだったのね)と、小さく笑ったヴィ−レは、床の上の少女に目を移した。
 こうしてあらためて見ると、少女は、最初に思ったほど子供ではなかった。小柄で童顔だし、痩せすぎのために身体つきも子供のようだが、たぶん十五、六にはなっているだろうと、女同士ならではのカンでヴィ−レは見当をつけた。それなのに、ドラゴンのことはよく知っていても女の子にはまるきり疎いアルファ−ドは、たぶん、この子を、小柄さに目を欺かれてまるきりの子供だと思っているのだろう。そうでなければ、彼の性格からして、この子を自分の家に運び込んだりせず、最初からヴィ−レの家にでも連れて来ただろうはずだから。
(ファ−ドはこの子を、ここに置くつもりでしょうね。部屋も空いてるし、同じ<マレビト>どうしだもの、みんなもそれが当然だと思うだろうし……)
 勝手知ったるアルファードの台所をきびきびと動き回ってタオルやタライを用意しながら、ヴィーレは、内心の痛みを押し殺した。
(もう、今までのような、たとえ妹としてでもファードを独占できた日々は、終わるのかもしれない。あたしとファードとのあいだの、中途半端だけど幸せだった関係は変わってしまうのかもしれない。でも、だからって、この子を恨んじゃいけないわ。この子は何も悪くないんだもの。あたしはこの子に、きっと、親切にしてあげよう。うんとやさしくしてあげよう。突然、誰も知っている人のいない別の世界に来てしまったら、それは心細いはずだもの……)
 少女の額に張り付いた髪をそっと払ってやりながら、ヴィーレは寂しい笑みを浮かべ、そしてすぐに、意識のない人を着替えさせるという、女手一つには非常に厳しい実際的な難事業に向けて頭を切り替えた。アルファ−ドに手助けを求めることは、絶対に、したくなかったのだ──少女のためにも、自分のためにも。

 顔を拭かれて、里菜は目を覚ました。薄く目をあけると、自分よりいくつか年上らしい若い娘が目に入った。かたわらに置かれたタライでタオルをゆすいでいる娘は、里菜が目を開けたのに気づかないようだ。何か言おうと思ったが、口を開くのも大儀で、里菜は黙って娘を観察した。
 やさしそうな人だ。どうやら、外国人らしい。一本の緩いお下げに編んで背中にたらした、亜麻色の長い髪。忘れな草のような、春の空のような、やわらかな水色の瞳。クリームのように白い肌に、ふっくらしたバラ色の頬。豊かな胸に、まろやかな肩。特に美人ではないが、人をほっとさせるような素朴な愛らしさの、ややぽっちゃりした大柄な娘だ。
 娘の着ている服は、昔の西洋の田舎といった感じの、質素で古風な長めのワンピースだった。お菓子かなにかの箱に描かれたかわいい田舎娘が絵から抜け出して動き出したみたいだと、里菜は思った。自分は、別の世界ではなく、どういうわけでか、どこか古風な外国の田舎にでも来ているのだろうか……。
 けれど、娘の服には、どこか奇妙な違和感があった。デザイン自体は、たしかに、どことなく少し変わった、見慣れないものではあるが、それでも、違和感を与えるよりは、むしろ、なぜか、懐かしさを感じさせる。それなのにやっぱり、なんだか、どこかが違うのだ。どこが変なんだろう……。
 だが今は、身体がだるくて、やけに眠くて、そのことについて考える気力もなかった。 腕まくりした娘の白い肘に小さなエクボが出来るのがなんとも愛らしく、里菜は、それにうっとりと見とれて、
(かわいい人だな……)などと思いつつ、幸福な気持で、また、まぶたを閉じて、深い眠りにおちた。
 そのまえに、なんだか、その娘がなにも無い空中から水を出してタライに注ぐのを見たような気がするが、眠さにまぎれて深く考えられなかった。きっとなにかの見間違いだったのだろうと里菜は考え、それも、眠りの中で忘れてしまった。 
 眠りの底へと落ちていく途中で、遠い呼び声を、微かに聴いたような気がした。 
 夢の中へと紛れ込む、深く、昏いその声を、意識の届かぬ心の底で、里菜は昔からよく知っていた。
 それは、里菜がよく見る夢の中でいつも聴くのと同じ声だったのだ。
 里菜があの夢を見るようになったのはいつのころからだろう。繰り返し見る夢なのに、いつでも、目が覚めると忘れてしまう。けれど、覚めている時は忘れていても、また同じ夢を見る度に、自分がその同じ景色をもう何度も見ていること、その同じ声をもう何度も聴いていることを思い出すのだ。
 里菜の夢に、いつも繰り返し訪れるのは、全ての命の死に絶えた虚しいまでの清浄の土地のイメ−ジだった。たぶん、それは、人類の滅びたあとの風景なのだ。
 里菜がいるのは、古代の神殿を思わせる白い廃墟だ。きっと、山の上なのだろう。四方には、なにもない。ただ、一面の空。
 そこにあるのは、痛いほどに清らかな風と、ガラスの破片のようにキラキラと空の高みから降り注ぐ、悲しいほどに明るく澄んだ陽光だけだ。
 崩れかけた円柱に身を凭せかけ、里菜は空を見ている。
『これでいいのだ。すべての穢れは払われた……』
 人間ではない誰かの声が、里菜に告げる。
 天上の神殿の廃墟で風と光だけを食べて、里菜の身体は透き通り、いつのまにか肉体は消えて、里菜は虹に変わっている。そして、消える。
(これがきっと、あたしの望んだこと。そうよ、みんな、消えてしまえばいい。滅びてしまえばいい。このあたしも……)
 最後に残った里菜の意識が、そっと呟く。
 それは、寂しく空虚な光景だった。が、なぜか抗いがたい魅力で、里菜の心に、予言のように啓示のように、繰り返し示されるのだった。
 その、廃墟の夢の中で何度も聴いた人間ではないものの声が、今また、眠りに落ちる寸前の里菜の心の奥底に、遠く、幽かに届いたのだ。
 声は、里菜の知らない名前を呼んでいた。
――『……リ−ナ、エレオドリ−ナ。待っている。私は、待っている……』――  

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