長編連載ファンタジー イルファーラン物語 <<トップページへ <目次へ || 次へ> <序章>
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(――引用――) ――『イルファーラン国立上級学校神話学教科書』(<賢人会議>長老・イルファーラン国立研究所名誉研究員 ユーリオン著, 統一暦百六十六年発行)序文より。 |
里菜《りな》は、水の中にいた。
自分を包んで脈打つようにゆらめく水を、確かに感じていた。
不思議と、冷たくはなかった。
水は、里菜の回りで渦巻き、たゆたい、顔の回りに広がる長い髪を弄び、裸足のくるぶしをやさしく愛撫しては、ゆるやかに流れていく。
流れに揺られてさわさわと素脚に纏わりついてくるものは、きっと制服のスカートだ。ごわごわした布地が膝の裏のやわらかいところに戯れかかって、ちょっとくすぐったい。
(あたし、水の中にいるのかしら……。でも、どうして?)
ぼんやりと目覚め始めた里菜の意識が、そろそろと状況を探りだす。
どうやら自分は、服を着たまま仰向けに水に浮かんでいるらしい。全身が水に包まれているように感じたけれど、きっと、それは錯覚で、顔は水面に出ているのだろう。
ここは、どこだろう――?
あたりを見回そうと思ったが、目を開けることは、まだ、できない。ちょうど、深い眠りからあまりに急に浮かび上がった時のように、意識は目覚めているはずなのに、身体を動かす方法が思い出せないのだ。
目を閉じたまま、里菜は記憶をたどる。
今は九月。高校二年の二学期の、ありふれた放課後。
退屈な授業と退屈なホ−ムル−ムが終わり、教室の後ろに群がってにぎやかにおしゃべりしているクラスメイトたちの横を、里菜は、じゃあね、と呟きながら、ひっそりとすり抜けた。何人かがそれに気づいて顔を上げ、お義理の笑顔で軽く手を振って、それからすぐに里菜のことなど忘れて、おしゃべりの輪に戻っていった。そうして里菜は、いつものようにただひとり、文庫本片手に電車に乗って帰ってきた。
そう、ここまでは、いつもと同じ。
いつものように駅に降り、いつものように家に帰って……。
そこから先は、思い出せない。きっとまだ、目が覚め切っていないからだ。
だが、すぐに、そんなことはどうでもよくなってしまう。
何もかもが、別の世界で起こった、自分とは関係のないことのように感じられる。
心が、心地よいまどろみの中に引き戻されようとする。
さっきまで、身体のどこかが激しく痛んでいたような気もする。が、それも今は、ぼんやりとした記憶に過ぎない。
目を閉じて、全ての痛みが静かに癒されていくのを感じながら、里菜は水に抱かれている。おさな子に還って、母の胸に抱かれるように。
里菜を包んで、水が揺れる。
さわさわと、ゆらゆらと、ゆらめき、たゆたう、水のゆりかご。
(いい気持ち……。もしかしたら、ここは天国なのかなあ。だとしたら、あたしはもう、死んでいるのかしら)
そう思っても、悲しくはない。
生まれ出る前のまどろみにも似た穏やかな安らぎが、さざ波のように心を満たす。
そしてそのまま、里菜の意識は、再び遠のいていった――。