長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語

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 <第一章 エレオドラの虹> 

 (――引用――)

 古代の聖地エレオドラ山(さん)の麓の村々の中でも、特にこのイルゼール村には、古いエレオドリーナ女神信仰が色濃く残されている。
 たとえば、この村では、家畜の出産に際してその家の女性――主に未婚の少女――が女神の祠に花輪などの供物を捧げる風習がある。また、妊婦や妊娠を望む女性が女神の祠に参拝して、妊婦の姿を連想させる瓢箪(ひょうたん)を奉納するという、都市部ではすでにほとんど見られなくなった古風な風俗も未だ廃(すた)れてはいない。
 この村には、上古から連綿(れんめん)と続く女神の司祭の家系があり、さまざまな宗教行事を守り伝えている。司祭の家は、村の他の家と何ら変わるところのない農家であるが、代々、その家の最年長の女性が女神の祠を祀り、秋の村祭りには、祠の前で儀式を執り行ってきたのである。

……中略……

 また、このイルゼール村は、よく知られているように、すべての<マレビト>の出身地である。
 <マレビト>という呼称も、もともとは、この村の古い方言で、すなわち、『珍しい客人』と言うような意味だという。
 世界中でただ一か所、この村にだけ、ごくまれに現われる異世界からの客人を、村の人々は、伝統的に、村に恵みをもたらす幸運の使者として尊び、手厚くもてなしてきた。そして<マレビト>たちは、彼らのみが異世界からこの世にもたらすことのできる<本物の魔法>の力を以てその歓待に応え、ある時は村を日照りや水害から救い、またある時は、<統一>前の戦乱の世にあって、歴史の表舞台にもいくたりか足跡を残してきた。この国の<統一>に大きな役割を果たした伝説的な名軍師ユ−ディ−ドもまたこの村出身の<魔法使い>であったという歴史的事実は、あまりにも有名である。

……中略……

 村では、<マレビト>のことを、また、<女神のおさな子>とも呼び習わしている。
 女神の司祭をつとめる老婦人の話によれば、<マレビト>は、エレオドラ山に源をもつエレオドラ川を、小舟に乗った赤子の姿で流れてくるという。そして、必ず、村はずれの<女神の淵>(前述の祠のある場所である)の淀みで岸に流れ着き、そこで赤子は、大人または少年の姿に変わり、小舟はそのまま流れ去る。
 彼らは、女神が村のために遣わした、女神の御子であるという。
 最後の<マレビト>であるユ−ディ−ドの訪れからすでに百六十年以上の時が流れた現代にあっても、村人たちは、<マレビト>の出現への期待を忘れてはいない。上古の伝統がひっそりと生きるこの村で、女神の御子の再びの訪れを、今も彼らは、静かに待ち続けているのである。

――『エレオドラ地方の神話と民俗に関する調査報告書』(イルファーラン国立研究所主任研究員ユーリオン著 統一暦百五十三年発行)より。


 エレオドラ山 (さん)の上に、虹が出ている。まもなく薄れて消えそうな、夕方の虹である。
 こんなふうに山の上にかかる虹を、村では、『女神の橋』と呼んでいる。
 羊飼いの若者アルファードは、坂の途中でふと足を止め、陽に灼けた顔を上げて虹を仰いだ。
 エレオドラ山の頂きの石灰質の岩肌を、秋の夕方の光が、淡いバラ色に輝かせている。その、同じ弱々しい秋の陽が、彼の逞しい肩や広い背中にも纏わり付き、質素な生成りの羊毛の上衣に、オレンジと灰色のほのかな陰影を与えている。
 普段なら、小枝の鞭(むち)を手に羊の群れを追って歩くこの道だが、今、彼につき従うのは、彼の忠実な牧羊犬、ミュシカだけだ。
 ミュシカは、ふさふさした毛並みの、大きな茶色の雌犬である。彼が仔犬のころから大切に育てたこの牧羊犬は、彼の、仕事上の有能な相棒であるとともに、この上なく誠実な親友でもある。
 アルファ−ドは、自分の後ろでおとなしく立ち止まったミュシカを、やさしいまなざしで振り返る。その、瞳の色は、暖かな暗褐色。夏の陽光を奥深く蓄えた、揺るぎなく力強い大地の色だ。
 主人の視線に、ミュシカは軽く尾を振って応えた。
 ザワザワと草を鳴らして、風が吹き抜ける。
 風に吹かれて額にかかる茶色がかった黒髪を無造作に手で払い除け、アルファ−ドは、ふたたび歩きはじめた。ミュシカも、とことことついて来る。
 ゆるやかな山道を大股に登るアルファ−ドの行く先は、村はずれの<女神の淵>だ。
(なぜ俺は、虹が出るたびに、引き寄せられるようにあの場所へ行くのだろう。なんのために……。あそこに、何があると言うのだろう。俺の失われた過去の手掛かりを探しにいくのだろうか。自分がこの世界に生まれ出た場所、自分の原点ともいえる、あの場所に。……そうだ、俺があそこで倒れていたあの日にも、虹が出ていたのだ。目をあけて、最初に見たのは、虹だった……)
 アルファードは、思い出す。
 彼はこの村で生まれたのではない。十二年前、<女神の淵>で気を失って倒れていた彼を、村の老人が連れ帰って育てたのだ。
 その時、彼は、一切の記憶を失っていた。言葉は話せたが、記憶にあるのは、老人が現われる前、半ば川の水につかったままうつろに目を開けて虹を見たこと、そして、それからまた気を失ったらしいことだけだ。
 自分の名も、年令も、わからなかった。彼は、今、二十二才ということになっているのだが、老人に拾われた時の年格好が十才位と判断されたからに過ぎない。名前は、老人がつけてくれた。
 彼は自分がどこから来たのか知らなかったが、老人や村人たちは、彼が異世界からやってきたのだと信じた。彼の着ていた服は、この世界のものではない不思議な生地で出来ていたという。その服は、老人がどこかへ仕舞ったまま、みつからなくなったそうだ。もしかすると老人は、わざとその服を隠していたのかもしれないが、何年も前に老人が死んだ今となっては、確かめるすべもない。
 そう、この村で、彼は、異世界からの来訪者、<マレビト>なのである。
 それは、子供の頃から十年以上をここで過ごし、成長してきた今も変わらない。彼は、ここでは、永遠に客人であり、年配の村人たちが彼を見る目には、親しみや慈しみと同時に、今も微かな畏怖が宿っている。
 親愛と崇拝、期待と賞賛、そして若干の畏怖を込めて、村人たちは、彼を呼ぶ。
 <女神のおさな子>と。
 すでに立派な成人であり、しかも、人一倍大きく逞しい堂々たる体躯と年齢に似合わぬほどの落ち着きを兼ね備えたアルファ−ドが<おさな子>などと呼ばれているのは、いかにも奇妙だが、村の人々にとって、<マレビト>は、女神に愛でられしもの、女神の御子(みこ)であり、村に恵みをもたらす聖なる<おさな子>なのだから、しかたがない。この村にいる限り、彼はたぶん、いくつになっても<おさな子>と呼ばれ続けるだろう。
 けれど、そんなふうに呼ばれる時、アルファ−ドのその、常は穏やかな、大地の色の瞳が暗い自嘲にふと翳り、薄い唇が皮肉な笑みの形にそっとゆがむことがあるのに、気づいているものは誰もいない。
(もしも俺が女神の息子だというのなら――)
 アルファ−ドは、苦い気持ちで考えるのだ。
(どうやら俺は、母親に愛されなかった息子であるらしい。皆が言うように女神が俺を愛してくれていたのなら、どうして女神が、他のすべての人間に魔法の力を与えながら、息子である俺にだけ、それを与えてくれないなどということがあるだろうか。誰でも持っているはずの魔法の力さえ与えられぬまま、俺は、捨て犬のように、この世に放り出されたのだ……)


 アルファードの養い親は、名をレグルといい、妻も子もなく、隣り近所や親類からの援助も一切拒んで世捨人同然に一人暮しをしていた頑固で偏屈な老人だった。若い頃に突然、理由も告げずに村を飛び出し、二十年ほどして皆が彼のことを忘れかけたころ、平然とした顔でひょっこり帰ってきたが、その間、どこで何をしてきたのかを誰にも一切語らぬまま、集落から少し外れた丘の上の、長く空き家になっていた古いあばら屋に勝手に閉じこもって、それ以来、そのあばら屋を気長に修繕しながら、ほとんど誰ともまともに口もきかない変人として、人を寄せつけない隠遁生活を続けてきた。
 だから、彼がある日、<女神の淵>で拾ってきた幼い<マレビト>を自分で引き取って育てると言い出した時には、誰もが耳を疑い、もっと子供を育てるにふさわしい家庭に養育を委(ゆだ)ねてはどうかと、村を挙げて説得を試みたものだ。
 が、村人たちの懸念をよそに、レグル老は彼なりのやり方でアルファ−ドを深く愛し、アルファ−ドもまた、その愛情に応えて、年老いた養い親をよく慕い、敬った。
 レグル老は、司祭でも占術師でもなんでもないただの変り者の老人だったが、なにかしら不思議な力を持っていたらしく、時折、奇妙な予言をすることがあった。それはたいてい、謎めいた、どうにでも取れるような言葉で、その時は全く意味が分からないが過ぎた後にそれと知れるたぐいのものだった。そういう予言は、たぶんレグル自身にも意味はわかっていなかったのだろう。
 だが、近い未来については比較的わかりやすい予言がされることもあって、彼がアルファードを見付けたのも、何かそうした不思議な力に導かれてのことだったらしい。
 それはやはり、秋祭りが済んだばかりの、ちょうど今頃の季節のことだったという。虹の下で拾った子供にアルファ−ドという名をつけたのはそのためだと、いつかアルファ−ドは、レグル老から聞かされたことがある。秋祭りのころは、また、銀のアルファ−ド星が一番よく見える時期でもあるのだ。
 アルファ−ド星は、全天で一番明るい星である。この星の回りには、ほかにあまり明るい星がないので、よけいこの星が目立つ。それでこの星は、古い言葉で『ひとつ星』あるいは『孤独な星』を意味する”アルファ−ド”と呼ばれている。
 この星は、この辺りの村からは、ちょうど女神の祭りの季節である秋の宵に、まるでエレオドラ山に寄り添っているかのように山頂付近の東の空にかかって見える。この星が神話の中で女神の恋人として語られるようになったのは、このためだろう。
 神話によると、この、神代の終焉をもたらす原因となった女神の恋人”アルファード”は、エレオドラ山の羊飼いの若者だったが、空で一番明るい星のようなその美貌を女神に愛でられ、短い人間の一生が終るまで、山頂の神殿で女神とともに暮らしたという。
 彼の口の悪い友人であるローイは、この神話のことで、
「あんたの場合、いくら女神の恋人と同じ”エレオドラ山の羊飼いのアルファード”だといっても、その程度の顔じゃ、女神様に見初められる心配はないよな」などとアルファードをからかう。
 たしかに、こちらのアルファ−ドは、まあ、地味ながらそこそこ無難に整った顔立ちではあるが、高原の強い陽射しと尾根を吹き下ろす乾いた風に長い年月晒(さら)され続けたその肌は武骨に日焼けして、真面目一方の彼の性格そのままに思慮深げに引き締まった禁欲的な風貌にはおよそ華やいだところがなく、凛々しく精悍であると褒められることはあっても、『美しい』などという形容には、どう見ても縁遠い。
 が、アルファ−ドがこの名を自分に不似合いなものに思う理由は、それではない。
 銀のアルファ−ド星はまた、<魔法使いの星>とも呼ばれているのだ。それは、この星の名を持つ女神の恋人が女神に魔法の力を与えられた最初の人間で、<本物の魔法使い>であり、人間界に魔法をもたらした恩人であるという伝説のためである。
 アルファ−ドの知る限り、レグル老の予言は、一度も外れたことがない。その彼がなぜ自分の養い子に、よりによってこんな不似合いな名をつけてしまったのかと、アルファ−ドは時々、そのことの皮肉を思って、なにか笑いたいような気分になる。
 アルファ−ドは、<マレビト>でありながら、魔法が使えないのだ。それも、<マレビト>であるからには当然期待される<本物の魔法>の力がないだけでなく、この国の人なら誰でも使えるような<普通の魔法>さえ、彼には使えないのである。竈(かまど)に火を呼び起こしたり、鍋の中に水を呼び出したりといった、ごく日常的な、それこそ子供にでもできるような基本的な魔法でさえ。
 <普通の魔法>の基礎は、誰もが幼児期に、特に教えられなくても自然に身につけるものだ。赤ん坊がよちよち歩きを始め、カタコトを話し出せば、その次にはいつのまにか初歩的な魔法を見よう見まねで試みて見せるようになるのがあたりまえであり、自分が赤ん坊だった時にどうやって言葉や歩きかたを学んだか覚えているものがいないように、自分や自分の子供が最初の魔法をいつどうやって身につけたのか、あらためて考えてみるものなどいない。
 もちろん、ある程度高度な魔法や、あるいは特定の職業に必要な特殊な魔法は学習の結果として習得するものだが、それもあくまで、すでに基礎的な魔法の素地があってこそ学ぶことができるのであって、そもそも魔法を使うというのがどういう感覚なのかハナから知らなかったアルファ−ドには、魔法の習得のためにどんな努力をすればいいのかさえ、全く見当がつかなかったのだ。
 誰もが魔法を使えるこの国では、魔法に替わる文明の利器が発達していない。あらゆる産業も魔法の上に成り立っている。そんな世界でただ一人魔法の使えない彼は、日常生活でもずっと不便な思いをしてきたし、なんとか就く事が出来る職も、ごく限られる。
 早い話が、この村で彼にできる仕事は、羊飼いだけだった。そして、その羊飼いの仕事も、誰も口には出さないが、魔法の力がなくてほかに出来る仕事がない彼のために村人たちがひねりだしてくれたものなのだ。
 羊飼いとはいっても、アルファ−ドは、自分の羊を持たない。夏には山の小屋に住み込み冬には低地に降りて何千頭もの羊を通年放牧する本格的な牧羊業者とは違い、彼の仕事はただ、夏の間の毎朝、村の家々を回って集めた羊たちを山の牧場に連れていき、夕方には村の広場まで連れ戻るというだけのものだ。農地の豊かなこの村では、牧羊は主要な産業ではないが、主に自家用の乳や毛を取るためにほとんどの家で数頭づつの羊を飼っていて、アルファ−ドは、そうした羊たちをまとめて託されているのである。
 そうして、各家が羊の数に応じて出し合ったささやかな報酬を供物(くもつ)のように受け取って、彼は生計(たつき)を立ててきた。
 それは、彼のプライドを傷つけることなく彼に食いぶちを与え、同時に彼に一人前の村の成員としての地位を確保してやろうという、村人たちの周到な配慮なのだ。
 聖なる<おさな子>である彼は、女神に連なる貴い客人であると同時に一種のハンディを負った人間として、病人やみなし子といった弱者と同様に村の共同体の中で庇い養ってゆくべき存在と見なされているのである。
 もちろんアルファ−ドは、そのことを知っている。知ってはいるが 村人が誰もそれを口には出さないのと同じように、彼もまた、口に出さない。それが村人たちの思いやりに応える最良の道であると、彼は理解しているのだ。人々の素朴な思いやりに黙って感謝しつつ、十二の時から、彼は羊飼いをしている。
 羊飼いの仕事は、嫌いではない。無口な彼は、物言わぬ獣たちを愛する。一日中、犬と羊だけを相手に山のまきばで過ごすこの仕事は、村の誰からも温厚な人格者と見なされ、もう何年も村の自警団長を勤めて村中の若者たちから頼れる兄貴分として慕われていながら本心では人付き合いをあまり好まない彼にうってつけだ。羊を見張りながら、唯一本当に心を許す友であるミュシカと無言で並んで座り、時にはミュシカに羊を任せて身体の鍛錬や剣術の稽古に励むこともできる。
 アルファ−ドは、一時期、身体を鍛え剣の腕を磨くことに、憑(つ)かれたように熱中してきた。それはたぶん、彼に魔法が使えないからだったのだろう。魔法の力がない代わりにせめて埋め合わせとして別の種類の力が欲しいと、心のどこかで、たぶん思っていたのだ。一時期の彼が見せていた一種強迫的なまでの『力』への執着は、二年前のある日を境に憑き物が落ちたように影をひそめたが、それからも彼は、身体が鈍らない程度の――と、本人は称しているが、他人から見れば充分激しい――鍛錬を欠かすことはない。
 村に現れた当時、アルファ−ドは、色白で、どちらかというと線の細い印象のある少年だった。が、今、彼の均整の取れた長身は一分の隙もなく見事な筋肉に鎧(よろ)われて無駄なく引き締まり、あのころの、育ち良さげだがどこかひ弱そうな少年の面影はどこにもない。肩幅の広い、がっしりしたその体躯は、ただ黙って立っていてさえ静かながらも圧倒的な力の気配を全身から発散して、それが彼を、実際の身長以上にさらに大きく見せている。
 そんなアルファ−ドの力強い姿を頼もしげに見上げて、村人たちは、目を細める。それは、立派に成長した自慢の息子を見る目だ。村の大人たちの考えでは、彼は女神から村への贈り物であり、だから、誰の家に引き取られようと、村全体の養い子も同然なのだ。そして、その、女神から授かった彼らの愛息子は、期待に違わず、こんなにも強く逞しく、礼儀正しく孝心厚く育って、冬至の火祭りに演じられる古い聖劇の中の少年英雄そのままに、恐ろしいドラゴンから村を守ってくれている――。
 イルシエル山脈を越えて、世界の果てのその向こうから時おり人里に飛来する巨大なドラゴンは、このあたりの村では最も警戒される危険な害獣である。そのドラゴンを、これまでに何頭もその手で斃(たお)してきたアルファ−ドは、<ドラゴン退治のアルファ−ド>として近隣に名をとどろかす、村の英雄だ。
 理由は知られていないが、他の動物と同様、ドラゴンには魔法による攻撃が効かない。だからドラゴン退治は、魔法を使えない彼にとって、それがハンディにならない数少ない仕事であり、彼は、ひたすらその鍛え上げた肉体と磨き抜いた剣の技にものを言わせて、村を荒らすドラゴンを、かたっぱしから退け続けてきたのだ。
 こうして彼は、この古い村で、来る日も来る日も羊を見張り、たまさか現れるドラゴンを斃しながら、<マレビト>として生きてきた。
 決して、不幸な境遇ではなかったと思う。
 どこから来たのかもわからない天涯孤独のみなし子を、村人たちは、女神に遣わされた聖なる御子として貴重な贈り物のように受け入れ、その成長をつかず離れずやさしく見守り、過去を持たずどこにも属していなかった彼に、暖かい居場所を与えてくれた。貧しくはあるが、時の止まったかのような村の暮らしは穏やかで、誰もが肉親のように彼を気づかい、彼を誇り、信じ切って頼ってくれる。心優しい村人たちに対する、彼の、感謝の念は深い。
 けれど、祭りの季節が廻りくるたびに、彼はふと、考えずにはいられないのだ。
(俺は、どこから来て、なぜ、なんのために、このような存在として、ここに、この場所にいるのだろう。俺はいったい、何者なのだろう……)
 魔法の使えない、はんぱものの自分。半人前の、出来損ないの男。女神のおさな子よ、ドラゴン退治の英雄よと祭り上げられながら、まともな仕事もできず、夏には羊を見張り冬にはドラゴンを殺す。単調な日常の繰り返し。
 村の、女神の司祭のばあさまは、常々、彼のことを、祭りの聖劇の中の童形の英雄になぞらえて、ドラゴンから村を守るために女神が遣わした聖なる御子なのだと言っていたが、そんな言葉を、彼は信じてはいなかった。もしもドラゴン退治が彼の天命であり存在理由であるならば、彼は、ドラゴンと戦うことにもっと喜びを感じ、<ドラゴン退治のアルファ−ド>と呼ばれることに誇りを感じてもよいはずだ。けれど彼は、たとえドラゴンといえども生き物を殺すことは好きではなかったし、また、そうして誰からも自分の名をドラゴンと結びつけて呼ばれることに、むしろ、微妙な抵抗と屈託を感じている。
 が、それでも、ドラゴンの害から村を守るためには誰かがドラゴンを斃さねばならないことは分かっていたし、彼に<本物の魔法の力>がない以上、村の食客(しょっかく)、養われものである彼が村人たちの育ての恩に報いるためにできることは、身体を鍛えてドラゴンを退治することだけなのだ。
(俺は、これからもずっと、ここでこうして、ドラゴンを殺しながら生きていくのだろうか。そのことに、いったいどんな意味があるというのだろうか……)
 思いに沈みながら歩くアルファ−ドの陽に晒(さら)された髪を、冷え始めた山の夕風がなぶっていく。
 いつのまにか、虹は消えている。短い秋の日が、暮れようとしている。空はまだ儚い青をとどめ、山頂には夕日の最後のひとかけらが宿っているが、すじ雲は桃色に染まり、谷あいのイルドの村のあたりは、もう、夕闇の底に沈んでいる。
 女神の淵へと下る脇道に入ってしばらく行くと、女神を祀(まつ)る古い祠(ほこら)がある。祠の前で、彼は半ば無意識の内に足を止め、軽くこうべを垂れて、幅広の銀の腕輪をはめた左手首を胸にあて、村の習慣どおり、女神に敬意を表した。
 そうしてから、苦笑した。
 養い親のレグル老は、信心深い人間だった。祠の前を過ぎるとき、礼拝のしぐさを忘れると、厳しくたしなめられた。そのころの習慣が、いまだに身体にしみついている。養い親の形見と思いなして肌身離さず身につけている、装飾品というには少々武骨な銀の腕輪が、すでに自分の身体の一部となってしまった気がするのと同じように。
 祠を過ぎると、草に埋もれかけた小道は急に下りの勾配がきつくなって、ほどなく、木立のすき間から、眼下に淵が見えてくる。淵と言っても、手前のほうは浅い淀みになっていて、上流から流れてきた木の葉などが溜って静かに渦を巻いている。その淀みに、かつて、彼は、倒れていたのだ。
 ふいにミュシカが、ひと声ふた声吠えて、何か訴えるようにアルファ−ドの顔を見上げると、淵に向かって駆け出した。
 しつけのよいミュシカは、普段、理由もなく吠えたり、勝手に主人の前に飛び出したりはしない。彼女がこういうことをするのは、その不思議な知覚で何か異変を感じ取った時だけだ。アルファードの心が、波立った。アルファ−ドも、ミュシカの後を追って、心のざわめきに駆り立てられるように走り出した。
 狭い切り通しを駆け下りて淵のほとりにたどりついたアルファードの目に最初に飛び込んで来たものは、なにか、青色のものだった。
 アルファードは、はっと立ち止った。
 それは、彼が発見されたあの淀みに仰向けに倒れている、一人の少女だった。
 少女は、見慣れぬ意匠の濃紺の衣服を身につけており、その、細かくひだを取った奇妙なスカートが、青い花が開くようにふわりと広がって、水の流れに揺れていたのだ。
 ミュシカが、岸に座って、もの問いたげにアルファードを見上げている。
 たぶん、かつての彼がそうだったように気を失っているのだろう、少女は目を閉じて、か細い手足をぐったりと投げ出し、布きれのように頼りなく、浅い水に浮かんでいる。
 アルファードは呆然と立ち尽くし、夢を見ているような思いで少女を見つめた。
 ほっそりとした、華奢な少女だ。たぶん、まだ幼い。漆黒の長い髪と濃紺の衣服が、水の中で揺らいでいる。スカートが揺れるたびに白い素脚が膝小僧まであらわになって、アルファードの目を思わず背けさせる。
 透き通るように薄い青い花びらを持つ不思議な形の花がいくつも、少女を取り巻くように水面に浮かんでいるのに気づいたアルファ−ドは、さらに目を見張った。
(<女神の花>だ……)
 大人の掌ほども大きさのあるその花は、山頂の結界の中だけに人知れず咲くと言う神秘の花だった。ごくまれにその花びらだけが川を流れて来ることはあっても、花が咲いているところはこれまで誰も見たことがないはずの、その、幻の花が、今、彼の目の前で、暮れ行く水のおもてにゆらゆらと漂っている。
 夕映えの名残りも木立に遮られて届かない緑の薄暗がりの底で、儚げな青い花弁にそっと包み込まれた真珠色の蕊(しべ)は幽(かす)かな燐光を湛えて、そこだけぼうっと川面を明るませ、まるで、女神の祭壇に飾られる、花をかたどった燈明(とうみょう)立てを川に浮かべたかに見えるのだった。
 花芯に淡い光を抱く青い花に囲まれて、少女は、何か、触れてはならない神聖なものに見えた。女神の祭壇の花の形の燈明立てに似つかわしい、この世のものならぬ、幻めいた何かに。
 まぶたを閉じたその顔は、決して死者のようにではなく、ただ安らかに眠っているように見えたが、一方で、生あるものの持つ生々しさを一切感じさず、やはり、この世のものとは思われなかったのだ。
 瞳の中に眠る秘密の夢を守るように、ひっそりと閉ざされた白いまぶた。細かな水滴を真珠のように飾って伏せられた漆黒の睫毛。精巧に刻み込んだ薔薇水晶のような、さくら色に透き通る耳たぶ。おとぎ話の王子のくちづけを待ち受けるかのように微かにほころんだ、あどけない唇――。
 華奢な肢体はいかにも脆そうで、武骨な手で不用意に触れたらたちまち砕け散ってしまいそうだったし、薄闇に浮かび上がる白い肌は半ば透き通っているようにさえ見え、さっき見た虹のように、今にも薄れて消えてしまいそうだった。
 あえかに儚げなその姿は、生身の少女というには、あまりにも、清らかすぎた。
 アルファードは、人が思っているほど信心深い人間ではない。人並みの魔法さえ使えぬただの人間の男が十数年間も<女神のおさな子>などと言われ続けてきて、その本人が、どうして信心深くなどなれるだろう。彼が村人たちから『女神の御子だけあって模範的な信心者だ』と信じられているのは、ただ、自分に良くしてくれる村人たちに対する礼儀として、村の信仰やしきたりに常に敬意を払ってみせているからだ。他の若者たちがよくやるように、これといった理由もなく単なる幼稚な反抗心から古いしきたりをわざとないがしろにしてみせて善良な老人たちを嘆かせるような無意味なことを、彼はしなかったというだけの話なのだ。
 もしも女神を礼拝することが自らの信条に反し、自らを貶めることになると思えば、彼は、力づくで強制されても礼拝を拒むだろう。が、彼には、女神への礼拝を拒まねばならぬ内的な必然性など、別に無い。だったら、無意味に礼拝を拒んで人の気持ちを傷つけ、よけいな摩擦を生むのは、単なる無駄であり、愚行である。彼は、無駄や不合理、非効率を嫌う。無益なこと、無意味なことは、なるべくしない主義だ。彼が礼拝を拒むことで悲しむ人や、彼がしきたりを尊重して見せることで心が慰められる人がおり、かつ、彼らの信仰を傷つけないように振る舞うことが自分の信条に反しないなら、そのように振る舞っておけばよいのである。
 そんなふうに、彼は、ただ、自分の信念に反しない範囲で村人たちの心情を尊重し、他人の心を無意味に傷つけぬために礼儀正しく振る舞ってきただけなのだ。──少なくとも、自分では、そのつもりでいた。
 けれどもこの時、アルファードは、ふいに、敬虔な想いに捕らわれた。
(奇跡は、本当にあるのだ。たぶん俺は、人の言うような女神の御子などではないが、それでもやはり、女神は、俺に、特別な運命を用意していたのだ。女神の愛し児(いとしご)は、今、こうして、他の誰でもない、この俺の前に現われた……)
 天啓のように訪れた運命の予感に、彼の胸は我知らず打ち震えた。
(そうだ、俺が今、ここにいること──俺が今までここで生きてきたことには、ちゃんと意味があったのだ。この村での俺のこれまでの日々は、きっと、今日、この日のためにあったのだ。今、ここで、女神の愛し児を水の中から抱き上げ、地上に連れ出すために。女神の愛し児の、この世への誕生に立ち会うために……)
 アルファードは、水の中に足を踏み入れた。

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