〜『里菜と竜兄ちゃん』シリーズ おまけ小話〜
『エイプリルフールの約束』

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時系列をちょっと遡って、結婚一年目のエイプリルフール、
廉が里菜のお腹にいた頃のお話です。
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 春といえども朝晩はまだ肌寒い四月の一日のこと。朝食の後、こたつで新聞を読んでいると、里菜が隣にもぐり込んできて、唐突に言った。
「竜、あのね。あたし、他に好きな人ができたの」

 一瞬、意味がわからなかった。
「……なに?」
「だからね、えっと、他の男の人を好きになったの」

 ……他の男を? 里菜が?
 にわかには事態を飲み込めず、俺はまじまじと里菜を見つめながら絶句した。
 心の中では、さまざまな思考がせめぎあっていた。
 まさか嘘だろう。冗談だろう。だが……。里菜が、こんな冗談を言うか? 里菜は、こんな冗談を言うような人間ではないように思う。……だったら、これは本当なのか? まさか本気なのか?
 それで里菜はどうしたいのだ。まさか俺と別れたいのか? こんなことをわざわざ言い出すということは、そういうことか?
 ……もし万一、里菜が俺と別れたいというのなら、俺には、それを止める権利はない。いや、婚姻の契約を盾にその継続を迫る権利はあるだろうが――この場合、里菜が有責配偶者で、有責配偶者からの一方的な離婚請求は認められないはずだ――、里菜の心が移ることまでは止められない。人の心を縛る権利は、誰にもないのだ。心が移った里菜を引き止めても、苦しめるだけだ。里菜を苦しめることは望まない。
 だが、だからといって、俺に里菜を手放すことができるか? 里菜と別れるなんてことができるか?
 できない。ありえない。里菜のいないこれからの人生など、考えられない。里菜は俺のものだ。なにしろ、里菜は今、俺の子を身ごもっているのだぞ!
 そうだ、里菜は妊娠中なんだった。やはり、こんなことはありえない。よりによって俺の子が腹の中にいる時に、突然こんなことを言い出すなど。やはりこれは冗談なのだろう。きっと、次の瞬間、いたずらっぽく「嘘だよ」と言って笑い出すのだ。そんな嘘をほんの一瞬でも真に受けるなど、滑稽以外のなにものでもないのだ。……そうであってくれ。
 でも、もしも本当のことだとしても、たぶん里菜が悪いわけではないのだ。人の心は自由なのだから、俺に怒る権利はない。
 ……頭ではそう考えつつ、それでも沸きあがろうとする、眩暈がするような、身体が震えるような怒り――これはたぶん、里菜に対する怒りではない。あり得べからざる状況への怒りだ。そんなあり得べからざる事態が存在していまったという理不尽に対する怒りだ。
 だが、その怒りが爆発した時、それは目の前に里菜に向かってしまうだろう。
 その時、俺は、里菜に何をするかわからない。
 ……だめだ、いけない。俺は、臓腑の底から頭をもたげようとする危険な妄念を無理やり抑えつけた。
 戸惑い、驚愕、不信、疑問、怒り、苦悩、祈り、絶望……ありとあらゆる思考と感情が、すさまじいスピードで脳内を駆け巡り、渦を巻く。
 あまりにぐるぐるして、言葉が出てこなかった。
 傍目には、無言無表情で、ただ固まっているように見えただろう。

「竜……? 竜ってば」
 気がつくと里菜が俺の目の前で掌を左右に振っている。
「どうしたの? 何か言ってよ。まさか本気にした?」

 ……やはり本気じゃなかったのか。
 圧倒的な安堵とともに、さきほどの深く激しい絶望的な怒りとは違う、里菜の軽率な悪ふざけに対する小さな怒りの火が胸にともる。里菜はなぜそんなひどい嘘を……。今度は別の混乱と怒りで、やはり言葉が出ない。

「ねえ、竜、今日はエイプリルフールよ」
「あ、ああ……」

 そういうことだったのか。
 世の中にそういう行事があることはもちろん知っていたが、今日がその日だったのか。そういえばそうだった気もするが、そんなことは、すっかり忘れていた。世間には、なぜそんなくだらない行事があるのだ! ……とほうもない脱力感が襲ってきた。
 里菜がなぜそんな嘘をついたかという戸惑いが消え、そんなくだらない悪ふざけで俺の心を弄んだのかと、胸の奥に小さな怒りがくすぶる。同じ嘘をつくにしたって、なぜ、よりにもよってあんな悪質な嘘を……。もっと無害な嘘をつけばいいものを。
 俺を傷つけて、俺が絶望する様を見て、里菜は面白いのか?

 そういえば、ごく稀にだが、里菜は俺をわざと挑発して怒らせるようなことをする。
 そのくせ、実際に俺が少しでも怒ったような反応を示すと、兎のようにびくっと身をすくめたりして、なぜか俺が後ろめたい思いをさせられる羽目になるのだ。
 俺は里菜を怒りたくなどないのに、なぜ里菜は、わざわざ俺を怒らせようとするのだ。そんなことをして何が面白いのだ。俺は少しも面白くないぞ!

 考えているうちに、里菜の軽率さ、無神経さに対する怒りが燃え上がった。
 表情を変えたつもりはないが、内心の怒りが気配ににじみ出たのだろう、里菜がわずかに身を引き、おずおずと見上げてきた。
「……竜、怒ってる?」

 怒ってなどいないと、笑いかけてやるべきだったのだろう。本人はちょっとしたおふざけ、愉快な冗談のつもりだったのだろうから。……が、俺は、未熟さ故に、そうできなかった。
「……あたりまえだろう」
 怒りを押し殺して低く言った。
 里菜を怖がらせるのは本意でない。それほど怖い顔になっていないといいのだが。
 でも、たぶん、怖い顔になっていたのだろう。里菜が少しおどおどした。
 ……ああ、俺は里菜にこんなおどおどした様子をさせてはいけないのに。里菜を怯えさせたりしてはいけないのに……。
 そう思いつつ、一方で、里菜の怯えた顔に、奇妙な満足を感じてもいた。――俺の心を弄んだお仕置きだ。もっと怯えろ。
 そして、一瞬でもそんな風に思ってしまった自分が不本意で、よけいに腹が立った。
 里菜が悪いのだ。里菜は俺にそんなことを考えさせるべきじゃない! おとなしく、良い子にしてれば、俺はこんなことを思ったりしない! こいつ、ちょっと耳でも引っ張ってやろうか……痛くない程度に。……などと、一瞬思ってしまったのは、見下ろした里菜の耳たぶが大層可愛らしかったからもあるのだが、いや、止めておこう、ばかばかしい、くだらない。まあ、この耳たぶはちょっとつまんでみてやりたいが、それはまた別の時にしよう、こんな際ではなく。

 里菜は機嫌を取るように小首をかしげて胸に寄り添ってきた。
「……ごめんね。ほんの冗談だったんだよ? ほんとのわけないでしょ? あたしが好きなのは竜だけよ。あたしは竜の奥さんだもん。ね? 他の男の人なんか、一瞬でも、ほんの少しでもいいなと思ったことなんか、一度もないよ。あたりまえでしょ?」
 不安にこわばった顔で懸命に微笑んでみせながら、小さな手を俺の胸に添え、仔犬のように顔を覗き込んでくる。
 その姿を、いじらしいとは思った。
 けれど、我ながらぶんむくれたような、硬い声しか出なかった。
「そうだろうとも」
 ああ、俺は未熟者だ。
 媚びるように胸元に甘えかかろうとする里菜から、つい、目を背けた。自分でも大人げないとは思ったが、俺は手酷い打撃を受けたのだ、この場合、目を逸らすくらいのささやかな報復は許されてしかるべきだろう。耳たぶも今度引っ張ってやるぞ、痛くない程度に。覚悟しとけ。

 と、開き直ったらしい里菜が突然攻勢に転じた。
「竜、まさか一瞬でも信じたの? 少しでも信じたの? ひどいっ!」
 俺は虚をつかれて目を瞬いた。

「一瞬でも信じちゃったんなら、ごめんねっ! でも、あたし、竜が一瞬でも真に受けるなんて思わなかったの! あたしが竜だけを愛してるって、絶対わかってくれてるって信じてた! 竜はあたしの気持ちを一瞬でも疑ったりしないって、信じてたの! だからあんなこと言ったのよ。少しでも本気にされるかもしれないって思ったら、あんなこと言わないよ。なのにっ!!」
 拳を握りしめて叫ばれたが、ひどいのはどっちだ。それに、今の『ごめんねっ!』は、全く謝っていない! むしろ、言葉とは裏腹に語調が俺を責めている! もともとは自分のせいだろうに。

「あたしね、竜は、笑い飛ばしてくれると思ったの。竜に、笑い飛ばして欲しかったの。『なに言ってるんだ、コイツぅ』とかって笑って、頭ナデナデとかして欲しかったの。そうしてくれると思ったの。思ったのに……」
 里菜の声が潤みだした。
 な、泣くのか!? まさか泣くのか!?
 俺は慌てて里菜を引き寄せ、頭を撫でた――そうして欲しかったらしいから。
「里菜、泣くな、泣かなくていい……」
 こういう場合、この言葉はしばしば逆効果であり、よけいに涙の引き金を引いてしまう場合が多いとわかってはいるのだが、何も気の利いた言葉を思いつけない不器用者なので、他に言える言葉がなかったのだ。
 案の定、里菜は俺の胸にすがってグズグズと泣きだした。なぜ俺はここで、里菜を泣かさずにすむような、何かうまいことを言えないのだろう。
 どうしようもないので、そのまま頭を撫でていた。
 ……また里菜を泣かせてしまった。俺の不徳のいたすところである。

 そうしょっちゅうというわけではないのだが、俺は何度か里菜を泣かせたことがある。泣かせたというか、里菜が勝手に泣き出すのだが、原因は俺にあるのだろう――よくわからないが、俺にある……らしい。
 これで何度目だろうか。まず、付き合って最初のバレンタインデーに泣かせた。その後のホワイトデーに泣かせた。そして今度はエイプリルフールだ。何か行事があるたびに泣かせているような気がする。俺はそんなにダメなのか。そんなに不甲斐ないのか。最初のホワイトデーにはプレゼントを忘れて泣かせたが、それを教訓に、以降は然るべき時にはちゃんとプレゼントをしているし、エイプリルフールはプレゼントをする日ではないじゃないか。なぜ、こうなるんだ。どこがいけないんだ。こういう時、普通の、もっと女性と付き合うのに慣れている男は、どういうふうにするものなのだ。俺にはわからん!
 いや待て。それとも近ごろ世間では、菓子屋だの花屋だの本屋だの、何らかの業界団体の陰謀で、エイプリルフールも女性にプレゼントをする日だということにされつつあるのか? そんなのは聞いたことがないぞ? 俺が聞いたことがないだけか? それでプレゼントをしなかったから、腹いせにあんな嘘をつかれたのか? まさか。
 ……いや、念のため、あとで調べてみよう、エイプリルフールという愚かしい行事をめぐる昨今の情勢の変化について……。

 里菜は頭を撫でられながら、グズグズと言い募る。
「あたしだってね、これが結婚する前とかだったら、こんなこと、冗談でも言わなかったよ。でも、今なら言っても平気なんじゃないかと思ったの。だって、もう結婚してて、一年近く一緒に暮らして、お腹には竜の赤ちゃんがいるんだよ? 昨日まで幸せの絶頂状態でマタニティウェアのカタログ見比べてウキウキしてた奥さんが急にそんなこと言い出すなんて、そんなこと、一瞬でも本気にするほうがおかしいよ、どうかしてるよ……」

 あー……、まあ、たしかに、冷静に考えてみればその状況はかなり不自然だが……、でも、結婚していようが子供がいようが、心変わりする人はいくらでもいるだろう。現に俺の母親だって、父と結婚していて俺という子供がいたが、父を裏切ったのだ。世の中にそういう事例は、いくらもある……と、俺は苦々しく思ったが、口には出さなかった。
 里菜はあまりにも一途で貞淑である故に、結婚して俺の子を宿してまでいる自分が他の男に心を移すなどということが、想像もつかなかったのだろう。だから俺にも想像がつかないだろうと期待していたのだろう。その期待に応えてやれずに、申し訳なかったのかもしれない。俺にはまだ、里菜を信じる気持ちが足りなかったのだろう……里菜が期待してくれたほどには。

 里菜を信じられなかったのは、自分に自信がなかったからかもしれない。自分が、里菜に愛されるに値する人間であるという確信が持てていなかったから。
 だからいつか自分は里菜に愛想を尽かされ見捨てられるかもしれないと――自分は捨てられてもしかたのない人間なのかもしれないと、心のどこかで常に恐れていたのだろう。
 俺が疑ったのは里菜の貞節ではなく、己の価値なのだ。
 ……だが、そんなことは、里菜に対する言い訳にはならないだろう。
 そもそも、そんなみっともない、惨めったらしいことを、里菜に言えるか。

「だからね、今なら、たとえばエイプリルフールにそういうばからしい嘘ついても、もう一瞬も本気にされないで笑い飛ばしてもらえるって、あたしが竜だけを愛してるってこと、もう心の底から信じてもらえてるだろうって思って、たぶんそれを実際に確かめてみたくなって、それでつい、あんなこと言っちゃったの……。なのに、なのに、……竜のばかぁ……」

 里菜は左手で俺の服を掴んですがりついたまま、右手の拳で力なくぽふぽふと俺の胸を叩き始めた。すがりつきながら叩くとは、器用だ。というか、わけがわからない。
 もちろん本気で叩いてはいないし、非力な里菜がたとえ本気で叩いたところで別にたいして痛くもないだろうが、このように気分次第で好き放題にぽかぽかと叩かせておくのも問題だろう……と思い、頭を撫でるのをやめて、里菜が振り上げた手首を、やんわりと、けれど断固として掴んで、動きを封じた。そのまま、その手を握り、胸に抑え込む。
 ――仔犬の甘噛みだの、遊びにかこつけてのマウントだのを、痛くないから、可愛らしいから、叱るのが可哀想だからなどといって甘受していては、そのうちに人に対する侮りの気持ちが芽ばえ――ひらたく言えばナメられて、将来、成犬になった時に手に負えなくなる可能性がある。そのような様子見的な反抗の発露を、許しておいてはならない。その都度、断固として押さえ込み、こちらのほうが力が強いのだ、優位なのだということをきちんと示して、身体に叩きこんでおく必要がある。
 ……と、そこまで思ってから気がついた。いや、里菜は仔犬ではないのでこれ以上大きくなることはないし、今後俺より力が強くなることもないだろう。それ以前に、そもそも家庭内は犬の群れではないので、どちらが優位か、リーダーかなどということを気にする必要はないのだ。俺と里菜は身体の大小、腕力の強弱等とは関係なく、対等なパートナーなのである。力で優位を示す必要も、そもそも優位に立とうとする必要性もない。
 だが俺は、人間と付き合うことに慣れていないので、つい、犬基準でものを考えてしまうようだ。
 俺は反省した。
 こうして俺をぽかすか叩くことで多少なりとも里菜の気が楽になるのであれば、俺は里菜に叩かれてやるべきだろう。どうせ痛くもないのだから、里菜の気が済むまで叩かせてやればよかろう。そもそも、こうして里菜が泣く原因を作ったのは俺なのだから。

 それに、里菜には、こんなふうにぽふぽふとではなく、本気で俺を殴る権利すらあるのだ。
 ……なぜなら、俺には、そうされるだけの非がある。たとえ里菜がそれを知らなくても。
 むしろ俺は、里菜に殴ってもらうべきなのだ。どうやら俺は、ちょっと矯正される必要がある。どこを矯正される必要があるかは、里菜は知らなくていい。

 胸に押さえ込んでいた里菜の右手を解放し、誠意を込めてまっすぐに里菜を見つめて告げた。
「里菜、俺を殴れ」
「へっ? ……なんで?」
 里菜はきょとんとして、それから、半泣きの顔のまま、ぷっと噴き出した。
「やだ、なに、それ……。『走れメロス』ごっこ?」

 なんだ、それは。『走れメロス』? 中学だか高校だかの国語の教科書に載っていたから読んだことはあるが、そんな台詞でもあったのだろうか。……ああ、そういえば、あったような気もする。
 だが、この状況で、いきなりそんな、昔教科書に載っていた小説の真似など始めるわけがなかろう。……ここで突然そんな突拍子も無いことを言い出す里菜は、少々変わっている。
「竜ってヘンだよね……」と、里菜は泣き笑いを始めたが、そういう里菜のほうがよっぽど変だと思うのだが。誰がこんな時に、いや、どんなときにでも、突然脈絡もなく『メロスごっこ』など始めるか。

 里菜が、くすくす笑いながら尋ねる。
「で、なんで『俺を殴れ』なの?」
「いや、一瞬でも君を疑ったから……」
「やっぱりメロスだぁ……」

 いや、だんだん思い出してきたんだが、それはセリヌンティウスのほうじゃないか?
 たしか、メロスはセリヌンティウスに『自分は悪い夢を見た』というようなことを言い、セリヌンティウスがメロスに『お前を疑った』と言ったのだ。それぞれに、だから自分を殴れ、と。
 俺も、一瞬、ほんの少しでも、里菜を疑った。そして、人に言えない悪い夢を見た。だから殴られるのに値する。

 里菜が泣き笑いの顔を上げてテーブルの上に手を伸ばした。
 ティッシュを取りたいのだろうと察して、指の少し先にあったティッシュの箱を引き寄せてやった。箱にはピンクのウサギのぬいぐるみを模したカバーがかかっている。なんだってティッシュの箱などにこんなごてごてしたカバーが必要なのかさっぱりわからないが、里菜がカバーをかけたいというなら、別に構わない。よほど著しく実用性を損なわない限り、そういうことは里菜の好きにさせている。
 里菜は、ありがと、と呟いてテイッシュを引き抜き、俺の腕の中でグズグズと洟をかんだ。鼻の頭が真っ赤だ。

 里菜は風邪を引くとまず鼻にくる質で、そのせいか、泣くとてきめんに鼻水が出て鼻が赤くなる。目もすぐに赤くなり、睫毛が涙まみれになって、顔中涙でぐしゃぐしゃな様は、非常に哀れっぽく、惨めったらしく、はっきりいって不細工である。……だが可愛い。その泣き顔の、情けない、頼りない様がなんともいたいけで、なんというか、庇護欲をそそるのだ。たとえば、汚れて痩せこけたみすぼらしい仔猫が雨に濡れているのを見てつい手を差し伸べたくなってしまう、そういう感情に似ている。
 里菜は、こんな不細工な顔を、俺以外には見せてはいけないのだ。だから里菜は、俺以外の前で泣いてはいけない。特に、俺以外の、男の前では。だって、その男が、うっかり里菜に手を差し伸べたくなってしまったら困るじゃないか。里菜のこんな無防備でいたいけな顔を、俺以外の男が見ていいわけがない。里菜の泣き顔は、俺だけのものだ。
 だから、俺以外の人間は、里菜を泣かせてはいけないのだ。俺なら泣かせてもいいというわけではないが、俺以外の男が里菜を泣かせることは、絶対にあってはならないのだ。俺と別れて別の男と付き合ったり結婚するなど、もちろん論外だ。付き合ったり結婚したりすれば、里菜のこの泣き顔を、きっと見るじゃないか。泣き顔だけじゃなく、笑顔も寝顔も、寝起きの寝ぼけ顔も、その他あんな顔もこんな顔も見るじゃないか。あんな姿もこんな姿も見るじゃないか。冗談じゃない。許せるわけがない。里菜は俺のものなのだ。笑顔も泣き顔も寝顔も怒った顔も、この可愛らしい耳たぶも、この目もこの唇も、この小さな手も身体も、頭の先から足の先まで余すところなく、全部、全部、俺のものなのだ! 文句あるか! 里菜は俺の妻なんだぞ!

 考えていたら、思わず口に出してしまった。
「里菜、君の泣き顔は不細工だから、あまり人前で泣かないほうがいい」

「えっ……?」
 里菜はぽかんと顔を上げ、それから、ただでさえ泣いたせいで鼻やら耳やら赤かったのに、顔中さらに真っ赤になって、「ひどっ……!」と声をつまらせた。

 ……まあ、今のはたしかにひどかった。
 あれは俺にとって、うっかり口に出してしまった『お前は俺のもの』宣言にも等しい言葉であったのだが、あまりにも言葉が足りないため、言葉通りに取れば単なる失礼な暴言だった。申し訳ない。

 里菜は根が素直なので、俺の失言を真に受け、
「……そんなに不細工?」と心細げな声になって慌てて下を向き、拳で涙を拭った。子供のようにゴシゴシと。それで顔中に涙が塗り広げられて、なおさらみっともなくなった。……だが、そこが可愛い。
 このいたいけさはけしからんから、ここはひとつ、ちゃんと言い聞かせておかねばならないだろう。
「ああ、不細工だ。だから、外で、よその人の前では、なるべく泣かないように。特に、よその男の前では絶対だめだ。……泣くのは、俺の前だけにしろ」

 そう言うと、里菜は下を向いて目をこすりながら、少し笑ったようだった。涙を拭えるように、ティッシュを取って渡してやった。涙を拭う里菜を見ながら、その様子のあまりの無防備さに、ついついダメ押しをしてしまった。
「俺以外の男は君を泣かせてはいけないんだ。君の泣き顔を見ちゃいけないんだ。だから君は、俺以外の男に泣かされないようにしないといけない」

 自分でも、理不尽で意味不明だと思った。これは要するに、俺以外の男とはあまり関わり合いになるなということか? 別に恋愛関係でなくても、泣いたり泣かされたりすることはあるだろう。それもするなというのか。世の中の人間の二分の一を占める男性と、恋愛関係以外でも一切関わり合いになるなということか? そんなことでは社会生活が成り立たないではないか。我ながらなんという狭量な独占欲だ……とは思ったが、いまさら発言を撤回する気はなかった。
 実際に里菜を世の中の男すべての目から隠すべく家の中に閉じ込めたりしたらそれは問題だが、言うだけなら害はない。

 里菜はまた、少し笑ったようだった。
「……じゃあ、竜はあたしを泣かせてもいいの?」
「いや、良くはない。……里菜、すまなかった」
 ふいにぽろりと素直な言葉がこぼれ落ちた。
 里菜は俺を試したのだ。そして俺は、里菜の期待に応えられなかった。試すのが良いか悪いかは別として、期待に応えてやれなかったことを、俺はすまなく思ったのだ。
 しかしこの言葉もまた、里菜をよけいに泣かせる言葉だった。
 里菜はまた泣き出した。
 しまった……。

「ううん、ううん、こっちこそ……。あんなくだらない嘘なんかついて、竜に嫌な思いをさせちゃって、ごめんなさい……。そんなつもりじゃなかったの……」

 今度の『ごめんなさい』は、本当に謝罪だった。
 そう、里菜は基本的には心優しいのだ。だいたいにおいて、悪気は全くないのだ。ただ、ごくまれに、悪気もなく無神経なことを言ったりしたりしてしまうだけで……。その後、こうしてちゃんと反省するのが可愛いところだ。
 たまにこういうことがあると、いつになくしおらしい里菜が見られて、それもまた悪くない。
 しおれている里菜をどう慰めていいかわからなかったので、とりあえず口の中で「ああ……」と呟き、そのまま髪を撫でていると、しばらくして、里菜が涙声でしょんぼりと呟いた。
「ねえ、竜、あたし、どうしたらいいの? あたしが本当に竜だけを愛してるって、竜に心から信じてもらうためには。ねえ、どうしたらあたしの気持ちを信じてもらえるの? 何が足りないの? 何をすれば信じてもらえるの? 信じてもらうためなら、何でもするよ?」
「……いや、何も足りなくなんかない」

 足りなかったりするものか。里菜は非の打ち所がなく貞淑だ。そういう面では、里菜には何の落ち度もない。……他の面では――主に家事の面では、しばしばドジだったり迂闊だったり粗忽だったりヌケていたり全体的に大雑把だったりで、やることがほぼ漏れなく杜撰なので、主婦としての存在そのものが落ち度といっていいほどの有様であるが、まあ、それも可愛げのうちといえる範囲だ、問題ない。そして少なくとも、妻としての貞節ぶりには、全く問題はない。
 里菜は確かに他の男には一切目もくれないし――いくら何でもそこまで他人に無関心すぎるのは人間としてどうかと思うほど、他の男の存在自体が全く目に入っていないと言っても過言ではない――、俺には一転してべったり懐いて全幅の信頼を寄せてくれ、慎ましやかななりに俺に愛情を示すことを惜しまない。控えめに、羞じらいがちに、けれど非常にストレートに示される素朴な愛情表現は、それは愛らしく、いじらしく、愛おしい。俺には過分と思われこそすれ、何の不足も不満もない。
 だからこそ、里菜のこの純真素朴な愛情表現が他の男に向けられるところを想像してしまうと、ものすごい勢いで頭に血が上るわけだが、それは里菜のせいではない。まあ、それもこれも里菜が可愛すぎるせいだから、里菜のせいといえば里菜のせいだが、里菜が悪いわけではない。
 問題は里菜にではなく、俺のほうにあるのだ。

「何もしなくていい。君はそのままでいい。今までだって、別に疑ってなんかいなかった。君の気持ちを疑ったことなど、一度もない。だから、さっき君にああ言われたときは、青天の霹靂だったんだ。元から疑っていたのなら、『ああ、ついにきたか』と思いこそすれ、あんなに驚くものか」
「そんなに驚いてたの?」
「……驚いていただろう」
「えーっ、わからなかった。無表情だったから……」

 たしかに俺はもとから表情豊かなほうではないが、衝撃を受けると混乱してよけい無表情になるのだ。何か考え込んでいる時も、考えている内容にかかわらず自然と無表情になるのだ。一年近くも俺の妻をやっていたのだから、そのくらいのことには、もう気づいてくれていて欲しい。里菜にはそういう、観察力の足りないところがある。……だが、黙っていてわかってもらおうなどというのは、こちらの怠慢なのだろう。
 何にしても、謝るべきなのは俺なのだ。いろいろな面で。

 さっき、里菜に殴れと言ったのには、理由がある。
 やはり俺はメロスだった。セリヌンティウスであっただけでなく。
 俺はあの時、ほんの須臾の間にしろ、悪い夢を見たのだ。

 ――里菜は俺のものだ、俺だけのものだ、本人が何と言おうと関係ない、たとえ他の人を好きになったと言われても里菜を放す気はない、里菜を他人に渡すくらいなら、どこへも行かせないように閉じ込めて……いっそ里菜を殺して俺も……里菜の首はこんなに細い、今、目の前のその首に手を伸ばして……そうすれば里菜は永遠に俺のものだ――

 ……そんなふうに、ほんの一瞬でも、俺は、本気で考えたのだ。そんな、悪い夢を見たのだ。

 その瞬間、俺はたぶん、人間の顔をしていても、ほとんど悪鬼だった。人間の皮を被った醜い怪物だった。俺の手は、里菜の首を求めて差し伸ばされる寸前だった。一瞬、指先に力がこもりさえした。
 次の瞬間、我に返って、
(いやいや、俺は何を考えているんだ!)と思ったのだが、我に返る前に実際に里菜の首に手をかけようとすることが、絶対になかったという保証はない。
 だから俺は、里菜に殴られるべきだ。

 ……一瞬にして膨れ上がり俺を圧倒しかけた、あの化け物じみた激情に、里菜は全く気づいていないだろう。
 それでいい。束の間俺の胸のうちで荒れ狂った無様な嫉妬、浅ましく身勝手な独占欲、そして己でも制御できない暗く凶暴な破壊の衝動――そんなものを、里菜に知られたくはない。俺の中にそんなものがあることになど、一生気づかずにいて欲しい。
 あんなものは、愛ではない。相手を傷つけてでも壊してでも自分のものにしたい、自分に縛り付けておきたいという一方的な執着心は、恋着ではあるかもしれないが、愛ではない。愛しているなら、愛しく思うなら、相手の幸せを願うものだ。だが俺は、あの瞬間、ほんの一瞬とはいえ、里菜の気持ちよりも、里菜を所有していたい、独占していたいという己の身勝手な欲望を優先しようとしたのだ。非常に我侭で利己的なことだ。
 今回、俺は、ぎりぎりのところで、己の欲望よりも里菜の幸せを優先することができた。
 だが、いつか里菜が本当に俺から離れていこうとすることがあったら、その時、俺は、激情に負けて里菜にひどいことをしてしまうかもしれない。
 そんな自分が、俺は怖い。

 里菜は、こんな醜いドロドロした妄念など、理解することはないのだろう。今、こうして優しげに髪を撫でたりなどしている俺が、胸のうちではこんな物騒なことを考えているなど、想像もしていないだろう。ついさっき、自分が一瞬我が身を危うくしかけたなどとは、夢にも思っていないだろう。
 それでいい。このままずっと、そんなドス黒い感情などまるでわからないまま知らないままの、清らかで健やかな里菜でいて欲しい。俺の醜い欲望になど何一つ気づきもしない、そんな素直で鈍感な里菜のままで、ずっと俺を慕い続けていて欲しい。
 そうすれば俺は、里菜の幸せを望む気持ちと己の利己的な執着心との相克に苦しむ必要がない。なぜなら、里菜が俺に愛してくれている限り、その二つは、俺の中で乖離することなく同じ方向を向いて、道義的に何ら問題のない妻への正当な愛として共存することができるから。
 里菜が俺と共にあることを望み続けてくれる限り、俺に愛されること、俺に独占され続けることを喜びと感じてくれている限り、里菜を幸せにすることと里菜を独占し続けることの幸福な両立は可能なのだ。

 そんな幸福な日々が、永遠のように続けば、そのうちに俺は、里菜がああいう冗談を言っても、もう動揺しないようになれるかもしれない。いや、きっと、そうなれる、そういう俺になれる……。

 ふと、言葉が口をついて出た。
 俺は、あまり、思ったことをそのまま口に出さないほうだ。何か思ってから口に出すまでに、たいていは、ワンクッションがある。そして、そのワンクッションの吟味の間に、たいていの言葉は、口に出さないことを選択される。
 だが、最近、里菜の前では、思ったことがそのまますぐに口に出てしまうことが増えた気がする――。

「里菜、さっきの嘘を、二、三十年後のエイプリルフールに、もう一度、言ってくれないか」
「えっ?」
 里菜が涙に濡れた目を上げて、きょとんと俺を見た。
 今の言葉の意味を説明しなければならないのかと思うと気が引けて、口に出したことを少し後悔したが、もう言ってしまったからには仕方がない。
「俺はさっき、君の嘘をとっさに笑い飛ばせなかった。でも、あと十年、二十年、三十年と、このまま二人で生きていって、二人とも年をとった頃には、俺は、きっと、さっきの嘘を躊躇なく冗談とみなして笑い飛ばせるような俺になっているだろうと思う。なぜなら、きっと、その頃までには君が俺を、そういう俺にしてくれるから。君がこれから何十年も、俺だけを愛し続けてくれれば、俺はきっとそういう俺に、君の望むような俺になれるから……、だから、いつかのエイプリルフールに、もう一度、あの嘘を言ってくれ」
 里菜の顔にゆっくりと笑顔が広がった。
「うん、約束ね」
「約束だ」

 そう、里菜はきっと、そうしてくれる。二人とも年をとるまで、脇目もふらずに俺だけを愛し続けてくれる――。

 そう思った、その続きの言葉は、思ったとたんに、また、するりと口から出てしまった。
「その時まで、君を他の男になんか渡すものか。絶対にだ」
 里菜は小さく頷いた。
「うん、絶対だよ……」

 そうだ、絶対だ。俺たちは、十年後も、二十年後も、三十年後も、こうしてふたりでいよう。こうやって寄り添って、ともに生きてゆこう。……俺は思いを込めて里菜を抱きしめた。
 里菜が俺を愛してくれている限り、俺はもう、自分を恐れる必要がない。


……終……


→ 次のおまけ小話『私がおばあさんになっても』


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