〜『里菜と竜兄ちゃん』シリーズ おまけ小話〜

私がおばあさんになっても


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本作は異世界ファンタジー『イルファーラン物語』の後日譚『里菜と竜兄ちゃん』シリーズの、
さらに後日譚の、最終話です。
このシリーズは基本的に『イルファーラン物語』未読でも読めるものでしたが、
今回に限り、『イルファーラン物語』の内容に、かなり触れています。
とはいえ、『イルファーラン物語』を読んでなくても、
本作を読めばだいたいの想像はつくので特に不自由はないと思いますが、
未読の方にとっては結末のネタバレになりますので、ご注意ください。
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 長かった梅雨がやっと明けて、青空が広がった夏の日。
 やっとお休みを取れた竜が、前から気になっていた庭の柵のペンキを塗りなおしてくれることになった。
 四月に一年生になったとたん急にしっかりしてきた廉も、面白がってお手伝い。
 すっかり年寄りになったミュシカは、さすがにもうはしゃいで駆けまわることはないけれど、それでも、大好きな二人の近くにちゃっかり陣取って、しっぽをゆさゆさ振って嬉しそう。

 最近、廉が急にお兄ちゃんっぽくなったのは、一年生になったからだけじゃなく、きっと妹ができたせいね。
 今あたしの腕の中にいる、あたしたちの二人目の赤ちゃん――瑠花《るか》が生まれたのは去年の秋。一時期は赤ちゃん返りしたりして大変だった廉も、今じゃすっかり妹の騎士《ナイト》気取りで、毎日何かと張り切ってるの。

 その瑠花は、木陰のテーブルで座るあたしの腕の中で、もうすぐ寝入るところ。本当はあたしも一緒にペンキを塗るつもりだったんだけど、瑠花がぐずってたから、いったん離脱したの。でも、廉があたしの代わりに十分助手の役に立ってくれてるみたいで、助かっちゃう。
 今日みたいな天気のいい日は、日射しは強くても風が爽やかだから、木陰のテーブルに座っていると、木漏れ日や小鳥のさえずりもあいまって、まるで高原の避暑地にいるみたいよ。ほんのちょっと離れた街中に出ると、びっくりするほど暑いけど、周りが舗装されてなくて木が多いここは、別に標高が高いわけでもないのに、ずいぶん涼しいの。さっきまでぐずっていた瑠花も、小さなあくびをして気持ち良さそうよ。

 それにしても、廉が生まれる前は子供が苦手って公言してた竜が、こんなに良いお父さんになるなんて思わなかった。一緒にペンキ塗りをする竜と廉の楽しそうな姿を見て、あらためてしみじみ思っちゃう。男の子とお父さんの絆って、ちょっと割り込めない特別なものがあるような気がして、ちょっぴりやけるくらいだけど、でも嬉しい。
 竜は、自分のお父さんとはあんまり仲良くなくて、小さい頃もあんまり一緒に過ごした覚えがないそうだから……そんな竜が、今になって、立場は逆だけど父と子の幸せを味わっているんだなと思うと、なんか、しみじみ愛しい気持ちになるの。しかも、それはあたしが竜の息子を産んだからなんだと思うと、胸の中で何か温かいものがいっぱいに膨らむような感じ。

 でもね、娘の瑠花には、竜はまだ、どう接していいか分からないところがあるみたい。触るのも、壊れ物に触るみたいにおっかなびっくりよ。どうも、女の子だからって気後れしてるみたいなの。こんな赤ちゃん相手に、可笑しいったら。まあ、そのうち慣れてくれるでしょ。
 でも、竜は、男の子に対しては理想のお父さんになれるけど、娘に対しては、過保護で心配性なパパになりそうな気がするのよね。竜って案外口うるさいから、そのうち年頃になった娘に煙たがられて、内心ひそかにしょげたりするのかも。想像すると、かわいそうで可笑しい。竜は、この子の結婚式で泣いたりするのかしら。……ううん、泣かないだろうな。少なくとも人前では。だって、あたしだって、竜が泣くとこ見たことないもん。泣き顔が想像つかないもん。でも、心の中では滂沱の涙なのよ、きっと。で、そんな時には、竜はきっと、よけい無表情になって、怖い顔になる。あの人、そういう習性だから。披露宴で花束を渡される時なんて、にこりともしない無表情で、直立不動で受け取ったりするのよ。……その姿が、目に浮かぶよう。
 結婚式の後、瑠花のいない家に帰ってきて、無表情で寂しがってる竜に、あたしは、そっと寄り添って、『あなたにはあたしがいるじゃないの』って言おう。『これからはまた、他の女の子は目に入れずに、いつもあたしだけを見てね』って。まあ、そのときには……ていうか今だって、あたしは『女の子』ってトシじゃないけどね。
 ……なあんて、あたしも今から瑠花の結婚式を想像してにやにやしてるんだから、たいがいよね。
 ねえ、瑠花。今、あなたが綺麗な花嫁さんになったところが目に浮かんだわ。純白のドレスに一点のサムシング・ブルー――青い花を飾って。
 あたしの大事な瑠花。その日まで、健やかに清らかに育って欲しい。夢の中で揺れていた、あの青い花のように……。


 瑠花の名前は、あたしが付けた。
 青い花――瑠璃色の花って意味。

 瑠花がお腹にいる時、あたし、不思議な夢を見たの。
 あたしは、とっても広い、天井の高い、洞窟みたいなところにいた。地底なんだけど、でも、ここは空の上なんだなって、なんとなく感じてた。たぶん、天上の世界の山の上にある洞窟。
 天井に空いた穴から、いまにも薄れて消えそうな夕暮れの光が弱々しく差し込んでいて、洞窟の中全体が、それとは別の、どこから来るのか分からない淡い真珠色の光にぼんやりと満たされていた。
 洞窟の底には、鏡のように静かな翡翠色の地底湖が広がっていて、その畔《ほとり》には、青い花が一面に咲き乱れて、微かに揺れていた。ちょっとケシに似た、掌くらいある大きな花で、透き通るように薄い花弁は、まるで内側から光を発しているような、不思議な瑠璃の色。ラピスラズリの青。
 とても綺麗で、夢の中だからあたりまえかもしれないけど、文字通り夢のような景色だった。

 そんな洞窟の中で、湖の畔に佇むあたしの隣に、誰かがいた。誰か、背の高い、大きい――きっと、男の人。そして、あたしの愛する人。きっと、ここまで、長い道を一緒に歩んできた――。
 あたしはその人の方を向いてなくて、だからその人の顔も見えなくて、服装とかもよく分からない。
 ただ、穏やかで温かな声と、確かにそこにある大きな身体の存在感だけが、あたしに感じ取れるすべて。
 でも、あれは、きっと竜だった。夢の中のあたしはその人を、何か違う名前で呼んでいたような気がするけど、それでもあれは、竜だった。ただ、たぶん、今よりもっと――あたしと出会った頃よりも、もっと若い頃の。
 もっと若い頃の竜なんて、あたし、写真でしか見たことがないはずなんだけど。
 そして、夢の中のあたしも、たぶん、竜と出会ったころよりもっと若い、少女のあたしだった気がする。

 あたしたちは、並んで、湖の面 《おもて》を見つめていた。
 その人が、あたしの手を取った。
 あたしたちは、手を取り合って、湖に入っていった。湖の底に別の世界があって、その世界こそが自分たちの本来の居場所で、ふるさとで、自分たちはそこへ帰らなきゃいけないって知っていたから。
 手をつないでいても、この先、きっと、離れ離れになってしまう。そのことも、知っていた。
 でも、また会えると信じていた。

 ――きっと、あたしを見つけてね――

 そう言ったら、その人は、力強く『ああ、必ず』って言って、あたしを抱きしめてくれた。間違いなく、竜の声、竜の腕。竜の体温、竜の匂い、竜の鼓動。間違えるわけなんかない。よく知っているもの。

 目が覚めてから、あたし、あれはきっと生まれる前のことなんだなって思った。
 あたしと竜は、生まれる前にどこか別の世界であんなふうに出会っていて、この世界でもう一度出会うために、この世界を二人で生きるために、手を取りあってここへ降りてきたんだって。
 少女趣味だよね。笑っちゃうよね。だから誰にも言わないつもりだけど、竜にだけは、その夢のことを話した。
 竜は、笑わなかった。ただ、ちょっと奇妙な……、なんていうか、考えこむような顔で黙りこんで、それから、ちょっと何か言おうとしたみたいなんだけど、そのまま口を閉じた。
「なあに? 何か言おうとした?」って聞いてみたけど、「いや……」としか言ってくれなかったから、竜がそのとき何を考えてたのか、よく分からないんだけど。そういうとき、いくら問い詰めても、竜はもう絶対しゃべってくれないんだから。

 その、不思議な夢の中で咲いていた、青い花。それが、瑠花の名前の由来。この子がお腹にいるときにあの夢を見たんだもの。なんだか、この子が見せてくれたような気がするの。


 でもね。もしかすると、その夢をみたのは、初めてじゃないかもしれない。
 たぶん、一度目は、高校生二年の秋、十七歳のとき。
 
 それまでの高校時代は、あたしにとって、繭籠りの時期だった。自分を傷つける外の世界が怖くって自分で自分を閉じ込めた小さな殻の中で、心を閉ざして縮こまって、傷つきやすい時代をなんとかやりすごそうとしていた。
 高校時代って、よく、青春真っ盛りの輝かしい時代って言われるし、実際にそうである人も多いんだろうけど、あたしにとっては、人生で一番地味な、退屈で鬱屈した季節だった気がする。
 別に不幸だったわけじゃない。いじめられてたわけじゃないし、親と不仲だったわけでもないし、そこそこの成績取ってて、少ないなりに、浅い付き合いなりに、一応は友達もいた。
 でも、毎日ただ学校と家を往復するだけで、将来の夢も展望もなくて。大人になってやりたいことなんか何にもないような気がして。好きな人もいなくて、この先自分が恋をすることがあるとも思えなくて。
 楽しいことは子供時代に全部終わっちゃって、この先はもう、退屈でつまらない大人になって、食べていくためにしかたなく働くだけで一生が終わるんだろうなとか。引っ込み思案で暗い性格だから友達もあんまりできなくて、当然恋人もできなくて、何も特別な才能もないからたいした仕事もできなくて、生きていたって何も世の中の役になんか立たなくて、本を読む以外には何も楽しいことなんかなくて……なんて悲観してて、大人になっても、どうせ、良いことなんてひとつもないんだって思い込んでた。

 そんな十七の秋、あたしは、自殺未遂をした。
 別に何か直接のきっかけやはっきりした原因があったわけじゃない。なんでそんなことをしたのか、自分でも分からなかったし、実は未だによく分からない。
 でも、その頃のあたしは、自分がこれからずっとこの世界で生きていくってことが、どうしても想像できずにいたの。そうなることに、なんだか納得できずにいたの。『あたしの居場所はここじゃない』っていう、どうしても消せない違和感が、いつも自分の真ん中に居座って、あたしがここで生きるのを邪魔していて。

 それで、ある日突然、発作的に手首を切ったんだけど、運良く死ななくて、何日か意識不明だった後、けろっと目を覚まして。
 そのとき、あたしは、変わっていたの。
 なんか、まるで憑き物が落ちたみたいだった。
 そして、突然、あたしはこれからここで生きていくんだって、思うことができたの。――その理由が、たぶん、あの夢。

 眠っていた間、長い長い夢を見ていたような気がする。
 目覚めた時、夢の内容は何一つ覚えていなかった。――覚えていなかったはずなのに、しばらくたって、ひとつだけ思い出した――ような気がした――ことがあった。
 それは、夢の中で巡り会った誰か大事な人――名前も顔も覚えていない、今は離れ離れになってしまった大切な誰かが、別れ際に言った言葉。
 その人は言ったの。
「たとえ巡り会えなくても、どこかに君が生きているというだけで、その世界は自分にとって生きる価値がある」って。
 だったら、あたしも、生きられると思った。どこかで生きているその人を探すために、この、辛いことも多い現実の世界を生きられるって。

 目覚めた時は忘れてて、しばらくしてから思い出したことだから、もしかすると自分が後から考えついて勝手に付け足した記憶なのかもしれない。でも、それでもいいの。その言葉を支えに、あたしはそれから、生きてこられたんだから。この世界は、あたしの人生は、生きるに値するはずって、思うことができたんだから。
 世界のどこかに巡り会うべき誰かがいる――その人と出会うために、あたしはここにいる。あのとき離してしまったその人の手を――つなぐべきただひとつの手を求めて、あたしはここで生きるんだ、って。

 そうしてあたし、その人を見つけたよ。
 諦めかけていたときもあったけれど……でも、あたしたちは、ちゃんと巡り会った。

 今、こうして、ダサい麦わら帽子を被って黙々と庭の柵にペンキを塗っている、大きな身体のあの人。器用で力持ちで頼もしいけど、頑固で偏屈で、無口なくせに口うるさくて、ときどきとんちんかんで、ときどき顔が怖くて、たまに鈍感で腹が立つ、でもいつまでも大好きな、愛しい人。

 光あふれる庭で笑ってる、愛する人と、可愛い子どもたち。傍らで寝そべる愛犬。一生懸命育てたささやかな花壇と菜園。おんぼろだけど居心地の良い、楽しい我が家。まるで、絵に描いたような、夢に見たような、今の幸せ――。
 辛いこともあったし、大変な時もあったよ。これからも、きっといろんなことがある。でも、今、あたしは本当に幸せ。
 高校生の頃には、こんな幸せが自分のものになるなんて、想像できなかった。
 一度だけ昔に戻って、大人になったらもう何も楽しいことなんかないなんて意味もなく悲観していたあの頃のあたしに教えてあげたい。心配ないよ、大人の人生だって意外と楽しいよって。大変なことももちろんあるけど、楽しいこともちゃんといっぱいあるよって。そして、あなたは幸せになれるよ、大丈夫、愛しあう人と、ちゃんと巡り会えるよって。

 さあ、もうすぐお昼の時間。瑠花も寝入ったことだし、ペンキ塗りはあたしが手伝いにいくまでもなくもうすぐ終わりそうだし、あたしはいったん家に戻って、お昼ご飯の用意をしましょう。今日は天気が良いから、庭でご飯ね。木陰のテーブルに廉が摘んできてくれた野の花を飾って、がんばってくれた二人のために山盛りのサンドウィッチを積み上げて、廉には冷たいオレンジジュース、竜とあたしは、庭で摘んだミントを浮かべたアイスティーを。



 明るい庭から戻れば、家の中は薄暗くて、ひっそりと静か。
 開け放した窓から聞こえてくる廉のはしゃいだ声、それになにか答える竜の低い声。風がそよいで、お気に入りの木綿のカーテンを揺らしていく。
 窓辺のベビーベッドにそっと下ろした瑠花のあどけない寝顔を見ながら、さっき想像した瑠花の花嫁姿を、また思い描いて微笑む。
 今はこんなに小さな瑠花も、廉も、いつか大きくなって、この家を巣立っていくのね。
 そしてその後には、また、竜とあたしが、新婚の頃みたいにふたりきりでここに残る。おじいさんとおばあさんになった竜とあたしが。
 縁側でお茶を飲みながら、家族のアルバムを見返して、思い出を語り合ったりしたいね。語り合うって言っても、どうせ竜はろくにしゃべらないから、あたしが一人でしゃべって、竜は頷くだけだろうけど。

 そんなことを思いながら、窓の向こう、出会った頃より少し年をとった竜の姿を眺めて、心の中で呟いた。
 ――竜、竜。竜がおじいさんになって、あたしがおばあさんになっても、いつまでも好きだよ。ずっと、ずっと、一緒だよ――



……『私がおばあさんになっても』・完……
(『里菜と竜兄ちゃん』おまけ小話・最終話)


※作中の『つなぐべきただひとつの手』というフレーズは、小夏鮎様からいただいた『イルファーラン物語』イメージソングのタイトルの引用です。(イメージソングはこちら


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