〜『里菜と竜兄ちゃん』シリーズ おまけ小話〜

 じぃじのキモチ 




 休日の朝、息子の嫁である里菜さんから、突然電話があった。これから孫の廉を廉れて遊びに行ってもいいかという。
 特に用事も無かったので、もちろん歓迎だと答えた。
 しかし、こんなふうにいきなり連絡してくるとは、いったいどういう風の吹き回しだろう。
 息子一家とは、特に疎遠なわけではないが、距離的に少々離れていることもあり、日常的に行き来しているわけでもない。特に、向こうからこちらに訪ねてきたことは、結婚前の挨拶時も含めても何度もない。当日の電話一本で突然訪ねてくるような、気安い間柄ではないのだ。
 それに、そういえば、そもそも里菜さんと廉だけで来るのだろうか。竜は今日は仕事があるんじゃないか?
 可愛い盛りの孫に会いたくないわけはないが、どうも良く分からない。

 まあ、いい。どうせ他に用事も無い。昼食はすませてくるそうだが、廉や里菜さんが好きそうな菓子でも用意しておこう。そういえば、もらいもののクッキーがあったじゃないか。俺は食わないから置きっぱなしになっていたが、数日前にもらったばかりだ。そうだ、廉が退屈して騒ぐといけないから、押入れの奥から竜が子供の頃の玩具でも探して出しておいてやるか。


 数時間後、小さな身体の前には抱っこ紐で廉をくくりつけ、背中にはきっと紙おむつでも入っているのだろう大きなリュックサックを背負い、両手には手土産らしき近所の洋菓子店の紙袋と小さなバッグをそれぞれ下げた里菜さんが、はにかんだ笑顔で戸口に現れた。
 いつ見ても可愛らしいお嬢さんだ。いや、既に子供もいる息子の嫁なんだから『お嬢さん』というのもおかしいかもしれないが、小柄で童顔のこの人は、婚約の挨拶に初めて我が家を訪れた時の『清楚な良いお嬢さん』という印象のまま雰囲気が少しも変わらないので、他の表現が、どうにも出てこないのだ。
 しかし、里菜さんは相変わらずだが、廉は、ほんのしばらく見ない間にずいぶん大きくなった。小柄な里菜さんには重いだろう。早く招き入れて、荷物をおろさせてやろう。
 そう思って俺が口を開くより先に、里菜さんがぴょこんと頭を下げて挨拶した。
「こんにちは、お義父さん、お久しぶりですぅ! 今日はちょっと家出してきましたー!」

 元気よく、にこにこと。
 ……だが、今、なんと言った?


 なんだか良く分からないままに、とりあえず家に招き入れ、里菜さんがリュックを降ろす間、廉を預けられて抱いていた。
 おお、おお、重くなった。覚えているか、じぃじだぞ。
 廉は不思議そうに俺をじっと見ている。おお、おお、賢そうな眼だ。考え深そうな子だ。

 廉をあやしている間に、里菜さんが、俺に許可を求めながらテーブルに子供用チェアを取り付け、他にもなにやら大量の幼児用品一式を手際よくずらりと並べて、廉の居場所をセットした。なるほど、あれだけのものが入っていれば、リュックがでかいわけだ。しかし、あの折りたたみ式の携帯チェアは便利だな。昨今の育児用品の日進月歩ぶりには目を見張るものがある。

 里菜さんの手土産は、シュークリームだった。そう、あの駅前のケーキ屋は昔からシュークリームが名物で、そういえば昔から、家に来る客が、よく手土産に買ってきたものだった。竜が小さい頃は、口の回りをクリームだらけにして喜んで食ったものだ。
 今でもその店は同じ場所にあって、同じシュークリームを売っているわけだが、そういえばもう、長年食っていない。今では家に客が来ること自体が滅多にないし、そもそも、昔、来客がみな菓子を買ってきたのは、うちに子供がいるのを知っていたからだったのだろう。
 当時、俺はそのシュークリームが特に好きだったわけでもないのだが、久しぶりに食うシュークリームの、あの頃と変わらぬ優しい甘みは懐かしい。いや、それよりも、幼児が口の周りをクリームだらけにしてシュークリームを食う様が、懐かしい。里菜さんが廉の口に小さくちぎったシュークリームの皮を入れてやったり、口元についたクリームを指先でぬぐってやっている、甘やかな光景も。
 そう、昔、この居間で、同じような光景を幾度も見たのだ。そして、それから長いこと、この家から、こうした光景は失われていたのだ……。

 ガラにもなくふと感傷的になりかけて、過去にさまよいだしていた自分の心を現実に引き戻す。
 ところで、なごやかな空気にすっかり忘れそうになっていたが、里菜さんは、さっき、何やら変なことを言っていたんじゃなかったか?

 が、どうやら俺の聞き違いだったようだ。里菜さんには特に変わった様子はない。廉がシュークリームを食い終わると隣の和室に連れて行って襖の陰で紙オムツを替え、それが済むと俺が押入れから出して並べておいた玩具で遊ばせ、一緒に眺めている俺に廉の成長具合を得々と説明する。いたってのどかで平和な状況で、何から何まで幸せそうで、何の問題も無さそうだ。
 しかし廉は、元気の良い子だな。機嫌も良い。里菜さんが自慢気なのも無理はない。人見知りもしないようだ。俺のいない時にも里菜さんが練習させていたのだろうか、俺のことをじぃじ、じぃじと呼んで、しきりと寄り付いてくる。ぺたぺたと触ってくるもみじのような小さな手の、なんと愛らしいことか。
 しばらく機嫌よく遊んでいるうちに、眠くなったらしい。様子を察した里菜さんが抱き上げると、あっという間に寝入ってしまった。寝付きも良いのだな。寝付きの良い子を持ったお母さんは幸運だ。赤ん坊が寝付きが良いのは、何よりの親孝行だ。

 廉のあどけない寝顔や、廉を座布団の上に寝かしつける里菜さんの愛情に満ちたまなざしや優しい手つきを見守っていると、俺も温かいものに包まれているような心地になる。俺の人生に再びこのような家庭的な幸せが訪れることなど、もう諦めかけていたのに。妻に去られ、息子に叛かれ、残ったのは、仕事と、がらんと冷え切った、一人住まいには広すぎるこの家だけだった。このまま一人で年を取っていくのかと思っていたのだが、今さらのように訪れたこの穏やかで温かな時間を、しみじみとありがたく噛み締める。
 これも、竜が、このように気立ての良い娘さんを娶ってくれたおかげなのだ。この里菜さんが、どういうわけか竜などに惚れてくれたおかげなのだ。里菜さんが、かたくなになっていた竜の気持ちを――そしてたぶん俺の気持ちもほぐし、二人の間を再び取り持ってくれたのだ。いくら感謝してもしたりない。
 こんな良い嫁さんを持って、竜は幸せだ。二人には、いつまでも仲睦まじく幸せでいてもらいたいものだ。

 ちょうどそう思ったところで、居間のテーブルに戻った里菜さんが口を開いた。

「お義父さん、今日は突然ですみませんでした」
「ああ、いや、いいんだよ、どうせ用事は無かったから。だが、廉と二人だけで突然来るなんて、いったいどういう風の吹き回しだね? 竜は、今日、どうした?」

 向かいの椅子に座りながら、探りを入れてみる。最初の妙な発言は聞き間違いだろうとは思ったが、本当にそうだったのか、念のため確認しておきたかったのだ。

「竜は、今日、仕事です。東京に来てるはずですよ。……あの、あたし、さっきもちょっと言ったけど、今日、家出してきたんです。どうも、大変ご迷惑をおかけします。あ、でも、心配しないでくださいね。家出っていっても、ただの、ほんのちょっとしたプチ家出ですから!」

 プ、プチ……。では、あれは聞き間違いではなかったのか。なんということだ。
 しかし、それにしては、ずいぶんとのんきな様子をしているが……。『プチ』だからか? 『プチ』だからなのか? 普通の家出と、どう違うのだ?

「家出? なんでまた……?」
「だって、家出するなら今のうちですもん。廉がもう少し大きくなったら、私、たぶんパートで働きに出るつもりなんですけど、そしたらもう、家出なんてできないでしょう?」
「……よく分からんが、そういうものなのか?」
「はい。だって、自分や子供が急病だったら仕方ないけど、そうじゃない時に、急に仕事休むわけにいかないですもん。子供が小さいうちはどうしたって子供の病気で急に休ませてもらうことが多くなるじゃないですか。それはしょうがないことなんだけど、特に主婦が多い職場ではお互いさまでカバーしあうことになるわけだけど、でも、だからこそ、せめてそれ以外の時はなるべく休まないようにしないと申し訳ないもの」
「なるほど。里菜さんは真面目だな」
「いえ、そんな。だって、人が少ない職場だと、急に休むと他の人に大迷惑かかるんですよ? 近所の人がパートしてたパン屋さんでね、旦那さんと喧嘩して家を飛び出して、そのまま無断欠勤しちゃった人がいたんですって。シフトの時間になっても来ないから家に電話しても出なくて、携帯にかけてみても繋がらなくて、ぎりぎりの人数で回してる小さい店だからすっごい困って、しかたなく、その日に休み取ってた別のパートさんに電話して急遽入ってもらったんだけど、その人も本当は歯医者さんに行くために休み取って、予約入れてたんですよ。なのに、しかたなく、苦労してやっと取れた歯医者の予約をキャンセルして、出てきてくれたんですって。で、その休んじゃった人、みんなで何か事故でもあったんじゃないかってすごい心配してたら夕方になってやっと連絡がついて、実家にいるって分かったんですって。それで理由が、夫婦喧嘩。大迷惑でしょう?」
「ああ、まあ、そうだな」
「ねえ。まあ、やむを得ない事情があったらしょうがないですよ? たとえば、身の危険を感じるようなひどいDV受けてるとかだったら、職場のことなんか気にしてるどころじゃなく、何を置いても自分の身柄の安全確保を第一に、緊急避難しなくちゃいけないですもんね。でも、そういうわけじゃなくて、ちょっとした口喧嘩くらいで職場に迷惑をかけたり親や回りの人に心配かけるなんて、あたし的には、絶対あり得ないです! でも、だからって、旦那と喧嘩なんていつするか分からないのに、この日は家出するからって予め休み取っとくっていうのもヘンでしょう?」
「……ああ、ヘンだな」

 ……しかし、今の話は、就職したら家出ができない理由の説明にはなっているかもしれないが、なぜ家出する必要があるかの説明には、なっていないような気がするんだが。
 が、里菜さんの中ではちゃんと筋道が通っているらしく、里菜さんは引き続き、腕を振り回さんばかりの勢いで力説する。

「でしょ!? だってそんなの、予知能力がなきゃ無理ですよねえ! あたし、超能力者じゃないですから! でも、じゃあ喧嘩は仕事が休みの前日の夜にしようとか、そういうわけにもいかないでしょう?」
「ああ、まあ、たしかに……」

 俺は苦笑した。真面目な顔して『超能力』か……。
 里菜さんは、竜はすごく変わっているが自分は普通だと信じているらしいが、俺には里菜さんもけっこう変わっているように見えるぞ。しかも、もしや、実は竜とタイプが似ているのではないか? 竜も、我が息子ながらどこかズレているところがあるような気が常々していたが、里菜さんの、この大真面目なピンボケぶりは、竜と非常に近い気がするんだが……。
 この二人、実は、傍から見たら、見かけは正反対だが中身は案外似たもの夫婦なのではないか?
 真面目で責任感が強く誠実だが、なんというか、すっとんきょうというか、とんちんかんというか、ありていにいって、ちょっと変だ。すごく変というわけではなく、ここが明らかに変だと明確に指摘できるような箇所があるわけでもないが、やっぱり、どことなくズレている。
 俺は竜が里菜さんを連れてきた時、こんな可愛らしい良いお嬢さんが、いったいあの愛想のかけらもないボンクラ朴念仁なぞのどこを気に入ってくれたのだろうと非常に不思議だったのだが、今、謎の一端が解けたような気がする。何のことはない、見た目によらぬ似たもの同士なのだな。

 そんなことを思われているとも知らず、里菜さんは、俺の相槌に我が意を得たりとばかりに元気よく主張する。

「ねっ? だから、仕事始めたら、もう家出なんかできないんです! してみるなら今のうちなんです!」

 いや、だからそれは、なぜ家出をする必要があるかの説明には、全くなっていないと思うんだが……。

 まともな返事が返ってくるかは甚だ心もとないが、話が噛み合わないからと言って放置していい事柄とは思えないので、一応、追求してみることにする。

「してみるって……家出とはそんな理由でするものか?」
「そ、そんなことないけど……。でも、みんなが夫婦喧嘩して友達の家にプチ家出したとか実家に帰ったとか言う話をしてて、それで旦那さんが血相変えて実家に迎えに来てくれたって話を聞いたら、何か、あたしも一度くらい家出してみたいような気がしてきて。ヘンですよね? 分かってるんですけど……」

 それまで明るくしゃべっていた里菜さんが、ちょっと下を向いた。

「……あたし、割と、いろいろ我慢しちゃうほうなんです」
「ああ、それはいかんなあ」
「……ですか?」
「ああ。いかんな」

 そう、それはいかん。夫婦間での小さな不平不満は、心のなかに貯めておいてはいけないのだ。積もり積もって、いつか夫婦の深刻な危機を招いてしまうのだ。場合によっては、とりかえしのつかない事態を……。
 ここは俺が話を聞き出してやったほうがいいのか?

 ……と、思った時にはもう、里菜さんの話は違う方に飛んでいた。
 今うつむきかけたことなど忘れたように、廉が食い散らかしたテーブルをせっせと片付けながら、元気よく喋り始める。初対面の時、里菜さんは、ずいぶん内気そうな、言っては悪いがどちらかというと少々暗そうな、おどおどした印象だったのだが、どうやら単に人見知りをするだけで、懐けばけっこうよく喋るし、性格も案外明るいようなのだ。

「あのね、近所の奥さんで、ちょっと旦那と喧嘩するとすぐ、旦那のいない間に黙って実家に帰っちゃう人がいるんです。実家も近所だから。で、そのたびに旦那が、どうせ実家にいるって分かってるから迎えに来て謝って、連れて帰るらしいんです。
 でも、それってズルくないですか? 旦那が一方的に悪いんだったらしょうがないかもしれないけど、もし奥さんのほうが悪かったり、それか、喧嘩ってたいていそうだけどふたりとも悪かったりしても、そういう状況になったら、旦那が一方的に謝るしかないじゃないですか。だいたいその人、言っちゃ悪いけど、すごい我儘なの。喧嘩の原因を聞いても、私には旦那さんじゃなくてその人が悪い気がするんだけど。
 あ、でも、私、その人、好きなんですよ。我儘は我儘だけど、いい人なんです。明るくて裏表がなくて面倒見がよくて。それでも、毎度毎度の夫婦喧嘩や家出の話を聞くと、旦那さんはよく毎度毎度根気よくそれに付き合うなって思うわ。旦那さん、おとなしそうな人なんだけど。
 でもね、そんな二人なのに、喧嘩してない時は、仲いいんです。実家から連れ戻してもらった次の日に、ラブラブで手つないで一緒にゴミ出しに出て来たりとか。
 その人とかを見てるとね、時々、思うんです。あんなふうに思ったことをなんでもズケズケ言って、それでも周りのみんなに愛されてて、旦那さんとだって、ちょっとでも何か気に入らないと怒鳴り散らして家出して、大騒ぎして戻ってきて、それで幸せなのって、なんかちょっと羨ましいなあ……って。世の中、結局は我儘言った者勝ちみたいなところ、ありますしね」
「ああ、あるなあ……」

 しかし、俺には里菜さんも、見かけによらずけっこうはっきりとものを言う女性のように思えるが、もしかすると竜には言えないのだろうか。惚れた弱みか?
 それに、まあ、本人は確実にそんなつもりはないと言うだろうが、傍で見ていると、竜もけっこう高圧的なところがあるからな。たぶん竜のほうにも多少問題があるのだろう。そのうち説教してやらにゃいかん。

「それに、あんなにしょっちゅう大喧嘩して、毎回家出されて連れ戻しに行くなんて、旦那さん、よっぽど奥さんのこと愛してるんだろうなあって思って。……でね、つい、思っちゃったんです。あたしが家出したら、竜、迎えに来てくれるかなあ、って。もちろん絶対迎えに来てくれるって百パーセント信じてるけど、あたしも一回くらい、本当にそうしてもらってみたいなあ、してもらってもいいんじゃないかなあって。
 そんな理由で家出するなんて、すごいバカみたいで我儘だっていうのは、分かってるんです。そんな理由で竜に迷惑かけるなんて、ほんとは考えられない! でもね、あたし、今まで一度も、竜にあの奥さんみたいな我儘言って困らせたことはないんですよ。一回くらい、我儘言ってみてもいいでしょう? ……なんて、つい、うっかりね、そう思っちゃったんです。お義父さんには迷惑かけてごめんなさい」

 里菜さんは小さく頭を下げた。

 いやいや、こんな気立ての良い、出来た嫁である里菜さんに何やら不満を抱かせ、家出までさせるなんて、息子の不始末じゃないか。謝るべきは里菜さんではなく、むしろ俺のほうだろう。俺が、息子の不出来を詫びるべきだろう。竜のやつ、何をやらかしたんだ。本当にしょうもない……。
 が、俺がここで竜を貶せば、里菜さんはきっと竜を庇うだろう。まったく、あいつには過ぎた嫁だ。

「いや、迷惑だなんてことは全くないよ。久しぶりに孫の顔が見られて、私としてはかえって有り難いくらいだ。しかし、竜が心配しているんじゃないかね? 行き先は伝えてあるのか?」

 口に出してしまってから、自分でも間抜けな事を言ったと気がついた。家出をするのに行き先を言っていく馬鹿があるものか。
 が、里菜さんは、俺の言葉に全く違和感を抱かなかったようだ。また元気を取り戻して、得意気に言う。

「大丈夫、ちゃんと時間を見計らってケータイにメール入れときます! まだ早いから、もうちょっとしたら。なんでかっていうと、竜、今はまだ仕事中で、もしメール見てもすぐ帰れないんだから、仕事終わるまでずっと身動き取れずに内心やきもきしてるなんてことになったら可哀想だし、気になって上の空になって、お仕事に差し支えちゃうかもしれないでしょ? だから、仕事が終わる頃にメールしますから。それから帰りがけにここに寄ってもらえば、そんなに時間も取らせないし。ちゃんと、竜の予定を確認して、そういう日を選んだんです。竜は日によって行き先違うでしょう? だから今日はなに線に乗るかも調べて、あんまり遠回りにならない日にしたの。毎日仕事で忙しい竜に、いったん家まで戻ってからここまで迎えに来てもらうなんて、悪いでしょ? 竜、明日も朝イチから仕事入ってるんだから、寝るのが遅くなっちゃいけないですもん。明日のお仕事に差し障っちゃう。で、竜は仕事が終わる時間も日によって違うんだけど、今日はちょうど早上がりなの。だから、ここに寄ってから帰っても、今日なら大丈夫。夕ご飯もね、ちゃんと作ってきたんです。帰ったらすぐ食べられるように。ご飯はタイマー炊飯にしてあるし、おかずは作って冷蔵庫に入れてあるから、チンするだけですぐ食べられるんですよ」

 ……いや、いろいろと計画的で準備が良いのは結構だが、やはりそれは、家出とは言わないんじゃないだろうか。
 夕飯は、なんなら竜も一緒に、ここで店屋物《てんやもの》でも取って食っていってもらってもいいんだが、もう作ってあるならしかたがない。これは、夕飯時にこの家にいることで俺に飯の心配をかけないようにとの配慮でもあるのだろうな。うちで食事をしていってもらっても、全く迷惑でなどないのだが。むしろ嬉しいのだが。が、里菜さんには、まだそこまで甘えてもらえてはいないようだ。

「そうか、それならいいが。しかし、なんでまた、うちなんだね。……自分の実家じゃなく」

 これは、尋ねていいものかどうか、ちょっと躊躇した。里菜さんのご実家は和やかなご家庭に見えたが、他人にはうかがい知れない事情があるのかもしれないではないか。そこに踏み込んでいいものか。
 しかし里菜さんは他人ではない。息子の嫁である。俺にとって、義理の娘である。その親族に何か事情があるというのなら、俺にも無関係ではないだろう。場合によっては、何か力になれることもあるかもしれん。
 が、そんな心配は、杞憂だったようだ。

「だって、実家に帰ったりしたら親が心配するじゃないですか。もしかして竜と上手く行ってないんじゃないか、とか……。ぜんぜんそんなことないのに。別にそんなたいしたことでもないのに、親に余計な心配かけたくなかったんです。旦那と喧嘩するとすぐ実家に帰る人が多いけど、そうやって親に心配かけるなんて、あたしには信じらんない!
 ……あたし、高校生の頃、いろいろあって、ちょっとバカやっちゃって、親にすごい心配をかけたことがあるんです。それもあって、この年になっていまさら心配かけたくないって思うんです。
 あ、お義父さんには心配かけていいってわけじゃないんですよ! でも、お義父さんなら、ちゃんと説明すれば、無駄な心配せずに分かってくれるだろうと思って」

 そうか、そんなふうに信頼してもらえているのはありがたいが、しかし、この里菜さんが、どんなバカをやったというのだろう。ずっと健やかに清らかに育ってきたようにしか見えないが、やはり十代の頃には人並みに反抗したり、非行の真似事をしてみたりしたのだろうか。今の里菜さんからは想像もつかないが。
 だが、十代の頃には、たいていの子供は親に心配をかけているだろう。それが普通だ。十代の頃に親を心配させないような子供のほうが、かえって心配だ。反抗期などというものは、ちゃんと十代のうちに済ませたほうがいいのだ。水痘だのおたふくだのと同じで、子供のうちにやれば軽く済むが大人になってから罹ると重症になりやすい。竜がそのいい例だ。

 ……そういえば竜は、十代の頃、母親がいないという点以外では俺にいっさい心配をかけさせない息子だった。その分、二十歳をすぎて突然爆発したわけだが。
 他人の子供のことなら、思春期の息子が反抗もせず父親の言いなりであるのは不自然だろうと思うが、思えば、当時の俺は、自分の息子がそうであることには、何も疑問を持たなかった。そうあって当然だと思っていた。
 俺は、良い親であるつもりだったが――俺の教育が正しいから竜もグレたり反抗したりせず、俺に従順に育っているのだと思っていたが――、もしかするとあれは、単に、頭ごなしに抑えつけすぎて反抗もできないだけだったのではないか?
 今にして思えば、どうやら俺は、息子に人並みに反抗することさえ許してやれなかったような、高圧的な親であったらしい。母親がいない分、俺が一人で二人分の親の役割を不足なく果たさねばという気負いと使命感が裏目に出たのかもしれない。今更ながらに、反省しきりである。
 が、結果的には、竜は、まあ、少なくとも真っ当な人間に育ってくれた。それでよしとしよう。

 そう、俺はちょっと前まで、竜に叛かれたと思い、やつが進路を変えたのを自分に対する造反と感じ、自分のそれまでの親としての努力、子を思うが故の尽力をすべて無にされたと憤っていたが――当初はそれこそ怒り狂って、かっとなった勢いで絶縁を言い渡したりもしたが――、今思えば、あれは単に、竜の自立の始まりであり、どこの家にもある正常な親離れ子離れの過程だったのだ。その程度のことを広い心で受け止められないようでは、俺もまだまだ、親として、人として未熟だったということだ。息子が自分の敷いた――しかも本人の意向も確かめずに勝手に敷いた――レールの上から外れたからと言って逆上して勘当するなど、客観的に見れば、とんだバカ親父だ。思えば俺も愚かなことをした。
 その俺達が、今、それなりにつながりを取り戻すことができたのは、この里菜さんのおかげなのだ。

「あのね、あたしたち、喧嘩らしい喧嘩って、一度もしたことないんですよ」

 一応家出をしてきたことになっているのに、里菜さんはいつのまにか、なぜか自分たちの仲の良さを自慢している。

「ほう、いいことじゃないか」
「ええ、まあ。だって、喧嘩する理由なんて、そんなにないですもん。他の、結婚してる人たちの話を聞いてるとね、あたし、なんでみんなそんなにしょっちゅう喧嘩するんだろうって、いつもびっくりしちゃうんです。何をそんなに喧嘩することがるのか、ほんとに不思議。
 でもね、うちの場合は、喧嘩にならない最大の理由は竜がたいていのことじゃ怒らなかったり、ちょっと怒りそうになっても私が微妙な顔になってるのに気づくと慌てて自分から折れてくれちゃうからだけど、あたしも、ちょっと言いたいことがあっても雰囲気が険悪になるのが嫌で我慢しちゃうっていうか、言えないで貯めちゃうほうだからっていうのもあるんですよね……。
 だって、竜は仕事で大変なのに、家に帰ってきてまであたしが機嫌悪そうにして気を使わせたりしたら可哀想じゃないですか。竜に、よけいな気持ちの負担をかけたくないし、それに、せっかく二人で楽しく過ごせるはずの時間をくだらない喧嘩でだいなしにしたら自分も損だし。せっかく好きな人と一緒に住んでるんだから、なるべくいつも仲良く楽しく過ごしたいでしょう? じゃなきゃ、もったいないでしょう?
 だから、ちょっとくらい気に入らないことがあっても、いちいち言わないの。実際、たいていは、いちいち文句言うほどのことじゃないし。
 そうやって、ちょっとずつ我慢しあうことで、いつもだいたい和やかなんだけど……。
 だから、普段、ちょっとした不満があってもあまり口にださないようにしてて、実際、どれもたいしたことじゃないからわざわざ喧嘩するほどのことでもなくて、でも、やっぱり、ささいなことの積み重ねが心の中にたまってることって、あるんですね……」

 ああ、やっぱり、そこに話が戻って来るのか。それがこの二人の問題点なのだな。
 この二人、互いに惚れた弱みで、相手の機嫌を損ねるのが怖くて、遠慮しあっているのではないか? 夫婦生活に於いて互いの譲歩は大切だし、思い遣りあうのは良いことだが、言いたいことを言わずに胸の内に溜めすぎるのは良くないだろう。
 ……あのな、どうやらたまには喧嘩くらいしたほうがいいらしいぞ。俺たちも、一度も喧嘩をしたことがない夫婦だった。その結果が、このざまだ。
 本人に言えないのなら、せめて誰か第三者に愚痴でも言ったほうがいいだろう。とりあえず、今は、明らかに俺に聞いて欲しがっているから、今度こそ聞き出してやろう。誰かに言うだけ言えば、それで気がすんで、楽になったりするものだ。

「それはいかんなあ。たとえば、どんな不満があるのかね?」

 水を向けると、里菜さんは、しばし躊躇い、恥ずかしそうに目を伏せた。

「あのね、どれもささいなことばかりなんですけど。他人からみればバカバカしいでしょうけど……。呆れないでくださいね?」
「大丈夫だよ、言ってみなさい」

 俺は極力穏やかに促してみた。俺は武骨な人間だが、女性の不安や不満を聞くことについては、仕事柄、長年の経験を積んでいる。
 里菜さんは、意を決したように顔を上げた。

「えっと、たとえば肉じゃがの作り方とか」
「……は? 肉じゃが?」
「はい。肉じゃが。竜とあたしで味つけや作り方が違うのはしょうがないの。別の家で育ったんだから。だから、あたしは別に、竜がどんな作り方したって構いません。あたしが具合が悪い時とか廉の寝かしつけで手が離せない時とか、作ってくれるだけでありがたいし。
 ただ、竜がどんな作り方するかは自由だけど、あたしにはあたしの作り方があるんだから、それを横から、そんなやりかたじゃだめだとか非効率だとか頭ごなしに言わないで、あたしが作るときは放っといて欲しいわけなんです! 好きにさせて欲しいわけなんです!」
「……竜は、里菜さんの肉じゃがに文句をつけるのか?」
「肉じゃがにっていうか、肉じゃがの作り方に、ですね。できたものの味に文句を言われたことはありませんよ。たまにちょっとくらい失敗して味が薄かったり濃かったりしても、竜、何も言わないもの。たぶんぜんぜん気にしてないんですよ。ていうか、きっと気づいてないですよ。食べ物の味なんて、わりとどうでもいいらしいです。だから、味じゃなくて、作り方が自分と違うのが気に入らないらしいの。自分がこれが合理的だと思ってる通りの作り方をね、あたしもしないと嫌なみたい。
 たとえばね、あたしは、肉もタマネギも炒めないんですけど、竜は、最初に肉を炒めて、色が変わったら玉ねぎを入れて、ジャガイモが新ジャガの時はジャガイモも炒めて、それから水入れて煮るの。まあ、そっちのほうがどっちかっていうと一般的な作り方だっていうのは、あたしも知ってますよ。家庭科の授業でも、そう習ったし。でも、あたしは、炒めてない、あっさりしたのが好きなの! だいたい、うちでは母もずっと昔から炒めてなくて、ずっと何も問題なかったんだから!
 それからね、タマネギの切り方も違うんです。竜はタマネギを繊維と直角に薄切りにするんですけど、あたしはくし形切りにします。竜は、この切り方には合理的な理由があって、繊維と直角に切ったほうがタマネギが肉やジャガイモに良く絡むんだからこうすべきだって言うんですけど、あたしは別に、絡んでなくてもいいの! 肉じゃがの作り方くらい別に完全無欠に合理的でなくてもいいから、そんなの好きにさせてよって言いたいです! 結局、どうやって作ったって、味なんかたいして違わないんだから! でしょ!?」

 ……なんというか。俺は黙った。何を言っていいか分からないが、それ以前に、口をはさむ隙もない。
 口をはさむ隙がないので、つい、途中から頭の半分で別のことを考えていた。……そういえば雪子は、肉じゃがのタマネギをどんなふうに切っていただろうか。記憶にない。
 いや、そもそも雪子は肉じゃがを作ったことがあっただろうか? それすら記憶にない。ずいぶん昔のことだからというのもあるが、俺はそもそも、テーブルに並んでいる料理に、たいして注意を払ったこともなかったような気がする。俺には特に食い物の好き嫌いもなく、雪子が作って並べるものを何でも気にもとめずに食べていたから、何を作ってくれたか、憶えてもいないのだ。いや、そもそも、料理は食卓につけば自然と出てくるもので、雪子がその料理を作っているのだということすら、あたりまえのこととして特に気に留めてもいなかった気がする。もしかすると、当時の俺は、雪子の指の一振りで食卓の上に突然料理が現れていても、何も気づかず食べていたのじゃないだろうか。さぞ食べさせがいのない、張り合いのない夫だったことだろう。ましてや料理の作り方について雪子と話をしたことなど、一度もない。
 それに比べれば、一緒に台所に立ち、タマネギの切り方について揉めているというこの二人は、ずいぶんとコミュニケーションの多い、親密な夫婦で、良いことだと思うが。
 ……が、いくら愛し合っていても元は赤の他人同士が台所を共有すれば、それはそれでぶつかることもあるだろう。新婚夫婦にとって、細かい生活習慣の違いというのは、しばしばかなりの大問題であるらしい。

 俺の物思いをよそに、里菜さんは一人でヒートアップしている。

「あと、あとね、海苔ご飯を食べる時の、お醤油の付け方! あたし、海苔の、お醤油を付けた方を下にしてご飯にかぶせて、それをお箸で巻くみたいにして食べてたんだけど、竜は、お醤油は必ず海苔の外側につけなきゃ駄目だって言うんです。なんでかっていうと、そのほうがご飯に海苔がよくくっついて巻きやすいし、お醤油が直接舌に触れるから少量のお醤油でも味を強く感じられて、減塩になるからって。そりゃあ、言われてみればそうかもしれないけど、あたしは今まで長年ずっと別の食べ方してて、もうクセになってるんだから、一度言われたって、また忘れていつもの食べ方しちゃうじゃないですか。そしたら、そのたびに目ざとくみつかって、毎回毎回、注意されるの! 絶対見逃してくれないの! 口うるさすぎますよね! で、そう言ったら、自分の言う事にはちゃんと理由があるんだって言うけど、そんなの、どっちだっていいじゃない!」

 ……たしかに、どうでもいいな。
 あまりのばかばかしさにめまいがした。

「しかも、竜、海苔の裏表まで煩く言うんですよ。裏と表で表面の滑らかさが違うから、ごはんとのくっつき易さが違うんだって。あたし今まで、海苔に裏表があるなんて気にしたこともなかった……。海苔なんて裏でも表でも大差ないですよね? だって、どうせお腹に入っちゃったら、どっちだって一緒じゃないですか! ねえ?」

 ……竜はそんなことを言うのか。我が息子の意外な一面を知った気がする。
 思わず呟いた。

「……細かい男だな。男の風上にもおけん」

 と、里菜さんが突然反撃に転じた。

「そんなことないです! 今どき男だから細かくちゃいけないなんてことないです! そんなの、男とか女とか、関係ないでしょう!?」

 ……しまった。今のはうっかり性差別発言だったか。近頃はいろいろと面倒だ。しかし、なぜ俺が里菜さんに怒られるハメに……?

「竜はね、何をやるにも緻密で正確な人なんです! いいかげんなことはしないんです! 何をするにも理由があるんです! 口煩いこと言うのにも、毎回ちゃんと、それなりのわけが……。たとえば海苔のことは、あたしが海苔ごはんをより美味しく食べられるようにと考えてくれてのことなんです! あたしのためを思って、毎回注意してくれるんですよ!」

 そうかそうか……。文句を言いたいのか庇いたいのか、どっちだ。
 まあ、いい。俺が悪役になって里菜さんの不満の矛先が竜から逸れるなら、それもよかろう。親として、それくらいの役には立ってやろう。

「……で、今回の喧嘩の原因は、その、肉じゃがだの海苔のことなのかね?」
「ううん、違います。ていうか、別に喧嘩したわけでもないんだけど……」
「じゃあ、どうしたんだね」
「もともとは、ちょっとした、言葉の行き違いなんです。すごくばかばかしいんですけど。ほんとにばかばかしいから、笑わないでくださいね? 絶対ですよ? ね? ね?」
「分かった、分かった、笑わないから言ってみなさい」

 ……今までの話も十分ばかばかしかったと思うが、さらにばかばかしいのか……。いったいどれほどのばかばかしさだ?

「……あのね、ゆうべ、竜と一緒にテレビ見てたら、連休で行楽地が大賑わいってニュースやってて、とっても混んでる遊園地が映ったんです。で、あたしが『混んでる〜』って言ったら、竜がぱっと振り向いて、あたしを信じられないって顔でまじまじ見て、『なにっ!? このデブ!?』って。
 聞き間違いしたみたいなんですけど、もし竜が太ってたとしても、まさかあたしが突然脈絡もなくそんなこと言うわけないじゃないですか! しかも、竜、別に太ってないし。だから『聞き間違いよ〜』って笑って、テレビに映ってた遊園地のことだって説明したら、『そうか、驚いた』って気まずそうにするから、冗談で『もしかして最近太ったんじゃないかとか気にしてた?』って言ってみたら、うっかり図星だったみたいで。ほんとに気にしてたらしいんです。
 でも、竜、ほんとに別にぜんぜん太ってなんかいないんですよ? だから冗談でああ言ったのに。ほんとに気にしてそうだったら、あんなこと言わないもん。でも、竜は、自分がちょっと太ったかなと思ってたらしいんです。すごいムっとした顔されて。
『冗談よ、竜はぜんぜん太ってなんかいないじゃない!』って言ったら、『いや、少し腹に肉がついた気がする。最近忙しくて運動不足なせいだ。少し腹筋でもする』って宣言して、突然、その場で、すごい勢いで腹筋始めるんですよ!? ヘンでしょ!? すっとんきょうでしょ!? あたし、ぽかーんとしちゃって。あたしが座ってテレビ見てる隣で、そんな、バタバタされても迷惑なんだけど。
 で、『そんなに慌てて運動しなくても、竜は別にちっとも太ってないよ。それに、もし竜がこれから少しくらい太っても、あたし太ってる人、わりと好きだから大丈夫』って言ったら、ぱたっと動きが止まって、すごい目でギロっとあたしを見たんです! びっくりした! 睨んだんですよ!? 超〜怖い顔で! なぜ? あたし何も悪いこと言ってないですよね!?
 で、『……太ってるのが好きなのか?』って、急にすごくよそよそしい声で。
 答えに困って、『えっ……まあ、わりとね。でも別に太ってなきゃ嫌ってわけでもなくて、太ってるのも別に嫌いじゃないってだけだから。だから、竜は太ってなくても好きだけど、でも、もしちょっとくらい太ってもあたしはぜんぜん気にしないよ?』って言ってみたら、『俺は気にする』って言って、ますますすごい勢いで腹筋再開して、そのあと腕立て伏せとかスクワットもはじめて、いつまでもやってて、話しかけても返事してくれないの。返事どころか、こっちを見もしないの。無視ですよ、無視! なに、それ。ワケ分かんない!」

 ……たしかに『ワケ分かんない』な。というか、俺には里菜さんの話そのものが良く分からん。

「あたし、ほんとに、もしちょっとくらい太ったって痩せたって関係なく、竜が好きなのに。なんで分かってくれないのかしら。お義父さんだって、自分の好きな人が、ほんのちょっと太ったり痩せたからって、嫌いになったりします? しませんよね? 好きかどうかに脂肪の量なんか関係ないでしょ? もし太ったとか痩せたとか、そんな理由で嫌いになるなら、その人が好きだったんじゃなくて、単に、その人の痩せた体やお腹の贅肉が好きだっただけってことじゃないですか! そんなの好かれたって、ぜんぜん嬉しくないですよね〜!
 しかもね、もしあたしが、太ってる人は嫌いだとか、竜が太ったら嫌だって言ったんなら、いきなり腹筋始めるのも、まだ分かりますよ。あたしだって、竜が髪の毛長いのが好きって言えば、じゃあ伸ばしてみようかなあって思うし、ショートが好みって分かれば切ってみようかなあって思うだろうし。
 でも、そうじゃないんですよ? あたし、太ってるのが嫌いじゃなくて、もし竜が太っても好きだし、それどころか、むしろ太ってる人はわりと好きって言ったのに、なのに突然ムキになって腹筋ですよ? あたしが『太ってる人が好き』って言ったら、竜がもしあたしのこと好きだったら、じゃあ自分も太ってますます好かれようと思う方がむしろ自然なくらいじゃないですか? その逆ってことは、あたしに好かれるのが嫌ってこと? それって、あたしが、竜に長い髪が好きだって言われたとたんに髪の毛バッサリ切り落とすみたいなものでしょ? それって嫌がらせ? 超〜イミフでしょ!?」

 ……ああ、なるほど。チョォ〜イミフというのが何語かは分からんが、だんだん話が見えてきた。
 いや、その、『太ってる人が好き』が、マズかったんだろう。
 俺にはその時の竜の心の動きが手に取るように見える気がするんだが。
 ひとつには、里菜さんの『もし太っても好きだ』というフォローが裏目に出て、やっぱり自分は里菜さんに太ったと思われているのだと思い込んだのだろう。あれにはそういう、いじけた、ひがんだところがあるからな。

 そして、もうひとつ。俺に対する嫉妬と対抗心だ。
 そう思うと、竜のおとなげの無さがおかしくなって、つい、にやりとしてしまった。
 そうか、里菜さんには分かっていないんだな。
 あなたが『太った人が好き』と言ったとき、竜の頭に浮かんだのは俺の顔だよ、たぶん。

 竜の頭の中では、俺はどうやら、里菜さんを巡っての仮想ライバルなのだ。
 もちろん、俺と里菜さんが実際にどうかなるなどとは竜も思ってもみないだろうが、ただ、里菜さんに、自分が俺より劣っていると思われたくないという対抗意識があるんだろう。自分のほうが俺より優っているということを、里菜さんに誇示したいのだ。
 そして、やつが俺に優っている点は、肉体的な若さと、それに由来する腕力、体力だけだ。
 自分で言うのもなんだが、俺には金もあるし、社会的地位や名声もある。だが、竜には何もない。金もなければ、学歴も大学中退だ。俺が持ってなくてやつが持っているものは、俺より若い肉体だけなのだ。だからたぶん、やつはそこにプライドを賭けているのだ。なにしろ、やつには、それしか俺に対抗できるものがないんだから。
 そこへもってきて、その点について他ならぬ里菜さんにケチをつけられたと思ったら、それはムキにもなるだろう。
 ……そのへんの心の動きが、俺には非常に良く分かる気がするのだが、里菜さんには全く意味不明な行動にしか見えなかったらしい。まあ、たしかに非論理的だし、理不尽ではあるが……。男のプライドとはかくもばかばかしいものなのだ。分かってやってくれ。

 そんなことなど何も分かっていない里菜さんは、一生懸命、見当違いな熱弁をふるっている。

「だいたい、ほんのちょっと、ほ〜んのちょっとくらいお腹に贅肉ついてたって、別にいいじゃないですか、ねえ? だからどうってこともないんだから。そりゃあ、健康に悪いほど太り過ぎはどうかと思うけど、ちょっとくらいのお腹の脂肪はイザという時のための備蓄ですよ! もし急に食糧危機が来た時には、その脂肪を消費して生き延びるんですよ! そのための皮下脂肪です! だから、ちょっとくらい貯めといたほうがいいんです!! 世の中、何があるか分からないじゃないですか。この平和な飽食の時代が、いつまでも続くとは限らないんですよ!? 突然の氷河期再来とか宇宙人の襲来とかで人類が滅びそうになった時、生き残るのはきっと太ってる人ですよ! デブが人類を救うかもしれないんですよ!?」

 ……いや、そうそう都合よくはいかないんじゃないだろうか……。特に、宇宙人と腹の肉は、全く関係ないだろう。どうやって腹の肉で宇宙人を撃退するんだ?
 ……と思いつつ、思わず自分の突き出た腹を見下ろした。
 分かってはいたが、あらためて見ると、ずいぶん腹が出たものだ。これでも学生時代は柔道でならしたものなのだが、多忙からくる不摂生と寄る年波には勝てず、このざまだ。俺も少々なんとかしたほうがいいと、つねづね思ってはいたのだが、多忙を言い訳に、見て見ぬふりをし続けてきた。医者の不養生とはこのことだ。

 まあ、そんなことはどうでもいい。
 今の問題は、里菜さんと竜の夫婦仲だ。

「里菜さん、それは焼き餅を焼いているんだよ。相手はたぶん、私だ」

 笑いながら教えてやると、里菜さんはぽかんとした。

「……お義父さん? なんでお義父さん?」
「あのな、里菜さんが『太っている人』と言ったとき、竜はたぶん、私を思い浮かべたんだ。ほら、この腹だからな」

 俺は自分の腹を指さしてみせた。……いや、だが、この腹は本気でなんとかせねばならん。まあ、そのうちに、な。
 里菜さんは俺の腹をつくづくしみじみと眺めながら、まだ腑に落ちない顔をしている。

「えっ、だって、お義父さんなのに? 他の男の人とかだったらまだ分かるけど、よりによってお義父さん相手に焼き餅焼く必要なんか、なくないですか?」
「いや、たしかにないんだが……。竜は、勝手に私と張り合ってるつもりなんだ。たぶんな。それに、必要のあるなしの問題じゃないんだよ。そんなことは関係ないんだ。それが悋気持ちというものなんだ」
「はぁ……」

 里菜さんは、分かったような分からないような返事をした。たぶん、分かっていないのだろう。
 分からなくていいんだ。それが分からないということは、里菜さんは悋気持ちではないということだろう。悋気持ちの気持ちは、悋気持ちでないものには分かるまい。
 里菜さんが悋気持ちでないのは、幸いなことだ。竜にとっても、里菜さんにとっても。
 悋気などというのは、無益なものだ。過ぎた悋気は、相手を困らせるだけではなく、自分自身をも苦しめる。己が身を焼く悋気の炎など、知らずにすむのなら、そのほうが幸せだ。
 だが、竜はたぶん悋気持ちだぞ。里菜さん、気をつけろ。悋気持ちは理不尽だからな。

 ……認めざるをえないが、竜の悋気持ちは、俺に似たのだろうな。
 俺は長年自分で気づかず過ごしていたが、実はひどい悋気持ちであったらしい。
 それに気づいたのは、相手が去っていった後だった。そこに居もしない人の過去の過ちに悋気を起こしても、ぶつける対象もないのだから、ますます苦しいばかりだ。一生苦しむのかと思っていたが、さすがに年を取ったのか、最近ではそんな気持ちも多少は薄れてきた気もするが。さすがに二十何年も苦しみ続ければ、もう十分ということだろう。自分の愚かさの罪も、おおかたは償い終えたということか。

 里菜さんは、分からないなりに納得したらしい。

「そっかあ……。なんだ、焼き餅なんだ……」

 一人でうんうんと頷いて、うっすらと微笑んでいる。
 なんだ、満足気じゃないか。これで一件落着か?
 どうやら、肉じゃがだの海苔だののことは、本当はどうでもいいのだな。別に、具体的に大きな不満があるわけではないのだ。
 ただ、里菜さんは、何かちょっと面白くないことがあっても自分がそれを竜に言えないという、そのこと自体が、ほんの少しだけ不満なのだ。『言いたいこと』自体は、どうでもいいようなささやかなことばかりなのだろう。それでも、それを相手に言えないでいること自体、自分が我慢していると考えること自体が、そこはかとなくストレスである、というわけだ。
 だが、里菜さんが竜に不満を伝えられない理由は、疲れて帰ってくる竜に精神的な負担をかけたくないという、竜に対する思いやりであり、竜となるべく和やかな団欒の時間をともに過ごししたいという、罪のない、素朴であどけない願いなのだ。
 要するに里菜さんは、竜をあまりにも大事に思いすぎているために、竜をほんの少しでも傷つけたり疲れさせたりしたくないし、竜があまりにも好きすぎて、竜の機嫌を少しでも損ねるのが怖いのだ。可愛いじゃないか。いじらしいじゃないか。夫思いの、良い妻じゃないか。こんな気立ての良い娘さんにこんなに想われて、竜は幸せものだな。
 あいつは、その幸せに、ちゃんと気づいているのか?
 ……気づいてはいるのだろうな。ただ、その気持を、ちゃんと里菜さんに伝えることができているのかは、甚だ怪しい。そこが問題だ。だが、まあ、それについては、俺も人のことは言えないな。
 それでも、二人がうまくいくために、俺に何かできるなら、親として、できるだけのことはしてやりたいものだ。こんなふうに愚痴だか惚気だか分からんような話につきあって、それで里菜さんの気が晴れるなら、お安い御用だ。

 ……と思ったら、しばらく満足に浸っていた里菜さんが、はたと何かに気づいた顔で口を開いた。

「あ、でも……」

 まだ言いたいことが残っているらしい。ああ、そうだ、この際、ついでに全部言っておけ。せっかくの機会だ。

「でもね、焼き餅は分かったけど、焼き餅焼いたからって、なんでそこで腹筋始めるわけですか? それってやっぱりヘンじゃないですか? 脈絡がなさすぎません? 斜め上すぎて、しあさってのほうに行っちゃってません? 今回の件だけじゃないんですよ。竜って、ときどき、ていうかしょっちゅう、何考えてるか分からないんです」

 俺は返事に困った。確かに、焼き餅から腹筋運動という流れは、普通に考えれば支離滅裂だ。

「ああ、まあ、夫婦といえども別人だからなあ」
「そりゃあそうだけど、竜のは、ちょっと、そういうレベルじゃないんです! だって、竜って、変人じゃないですか?」

 ……否定はできなかった。里菜さんもやっぱりそう思っていたのか。思わず苦笑した。
 里菜さんは構わず続ける。

「まあ、そこも含めて好きになったんですけど、でも、やっぱり時々、ついていけないなって思うの。だって、あまりにも意味不明なんですもん。
 あのね、竜がどんなふうに変かっていうと、たとえば、3と2っていう数字を見せて、これを計算して答えを出してくださいって言ったら、普通はきっと3+2で5とか、3×2で6とか、ちょっと変わった人でも3−2で1とか言うでしょ? もっと変わった人でも、せいぜい、3÷2で1.5とか2−3でマイナス1っていう程度でしょ? それが竜の場合は、無言で延々と長考した後、いきなり174585.591とか、何かワケの分からない数字を言う感じ?
 竜の中ではね、それって、何度も足したり引いたり掛けたり割ったり、あと、ルートとか二乗とかシータとかパイとか、なんかいろいろな公式とか使って、ちゃんと計算して出した数字なのかもしれないけど、それを説明してくれないから、傍目にはなんでその数字になるのかさっぱり理解できないし、算定式が分からないから、次にどんな条件でどんな答えを出すかの予測もできないんです。インプットとアウトプットに関連性が見られないんです。思考の途中経過がブラックボックスなんです! そんな感じで、物事に対する反応が、ときどき突拍子も無くて、ついていけないときがあるの……」

 俺には里菜さんの今の説明も十分突拍子もなくてついていけなく思えるんだが。まあ、言いたいことはだいたい分かった……と思う。確かに竜には、そういう、唐突な、素っ頓狂なところがある。しかし、この二人、やっぱり似たもの夫婦なんじゃないだろうか。主に、『ちょっと変』という点で……。
 などと言うわけにもいかないから、とりあえず適当に請け合った。

「……まあ、場数を踏めば、そのうち予測がつくようになるさ」
「え〜、そうでしょうか……。ねえ、お義父さん、竜って、昔っから、そうでした?」

 また一瞬、言葉に詰まった。たしかにそんなところもあったかもしれんが、俺は、昔、竜がまだ家にいた頃も、そこまで竜のことをちゃんと見ていなかったような気がする。なにしろ、もしかするとまともに会話さえしていなかったかもしれない。
 一人親である自分は息子の竜のことを誰よりも知っていると思い込んでいたが、良く考えてみたら、たぶん俺は、竜のことを、ろくに知りもしなかったのだ。それなのに、誰よりも知っていると、すべて理解していると、勝手に思い込んでいたから、息子が何を考えているか知るための努力をする必要があるとすら、思っていなかった。
 俺は、俺とは違う一人の人間としての竜をではなく、自分の思い込みの中の自分の息子像だけを見ていたのかも知れない。

 ……が、しかし。それでも、竜が俺から見ても多少唐突な性格であったことは、やはり否定できまい。

「さあなあ……。そういえばそんなところもあったかもしれんなあ……」
「やっぱり? ねえ、竜って、子供の頃、どんな子でした? 竜の子供の頃の話とか聞きたいなあ。竜、ほとんど何も話してくれないんです。聞いても教えてくれないの。ていうか、何聞いても『ああ』とか『いや……』とか『さあ』とか『忘れた』とかしか返事してくれないから、いつまでたっても話が先に進まないの。だからあたし、あたしと出会う前の竜のことって、未だにほとんど知らないんですよ。それって、ちょっと寂しくないですか? ……あ、ちょっと待って。ケータイ鳴ってる!」

 里菜さんはバッグからがさごそと携帯を取り出しながら、部屋の反対の隅に立って行った。
 たぶん、竜なのだろう。
 何しろこういう事情だから何を話しているか気になるが、本人がわざわざ離れたところに行って通話している以上、聞き耳を立てるわけにもいかないだろう。
 ごく短いやりとりのあと、里菜さんはにこにこ笑いながら戻ってきた。

「やっぱり竜でした。さっきメール送っといたから。もうこっちに向かってるって。今日の出先はここに近いから、すぐ着くと思います」
「そうか。怒ってなかったか?」
「あはは〜、竜は怒りませんよ〜。あたしが何したって、一度も怒られたことないもん!」

 ……そうか、そうか。家出してきたのか惚気にきたのか、どっちだ。
 里菜さんは、心なしかうきうきしている。もうすぐ竜に会えるのが嬉しくてたまらないという風だ。

「ごめんなさい、迎えに来たらその足ですぐ帰るそうだから、ちょっと荷物片付けちゃいますね〜」

 そう言うと、いそいそと、廉が取り散らかした後を片付け、テーブルを拭き、慣れた様子で大荷物をまとめはじめる。電話でどんなやりとりがあったのか知らないが、迎えにきた竜の機嫌を心配しているそぶりもない。のんきなものだ。これが家出してきた人間か?

「お義父さん、今日は本当にありがとうございました。あのね、ほんとは、家出は半分くらい口実で、お義父さんに廉を見せに来たかったんです。だって、五月の初節句以来、会ってないでしょう? お義父さんは忙しくて、そんなにしょっちゅううちに来られないし、竜にはずっと、今度実家に連れてってよって頼んでるんだけど、竜も忙しいし、なんだかんだ言って、なかなか連れてきてくれないし……。赤ちゃんは毎日どんどん大きくなるのに、これじゃ、お義父さんが見ないあいだに、廉が大きくなっちゃう! 廉がじぃじの顔、忘れちゃう! だから、廉をじぃじに会わせてあげたかったんです。今の廉は、今しかいないんだもの。赤ちゃんの廉は、今しか見られないんですよ?」

 そうかそうか、嬉しいことを言ってくれるじゃないか。可愛い嫁だ。良い嫁だ。ありがたいことだ。実際、赤ん坊の成長は早いからな。数ヶ月も見ないと、あっというまに育ってしまう。

「だから、お義父さん、今度また、うちのほうにも遊びにきてくださいね。で、その時には、絶対、竜が小さいころの話を聞かせてくださいね。どんなイタズラして怒られたとか、どんな失敗したとか。そしたら、あたし、竜をからかえるから!」

 ……そうか、からかうのか。それは、竜が話したがらないはずだ。もし里菜さんに思い出話をする機会があっても、アレと、アレと、アレだけは、竜のために黙っておいてやろう。武士の情けだ。

 そんな会話を交わしているうちに、目を覚ました廉が、隣室で機嫌よく甲高い奇声を上げ始めた。あの子は寝起きに泣かないのか。普段からこうなのだろうか。寝付きだけでなく、寝起きも良いのだな。
 里菜さんが慌てて廉を抱き上げにゆく。短時間ながらぐっすり眠って元気が回復したらしい廉は、いきなり絶好調で、きゃっきゃと笑いながら手当たりしだいに物を放り投げ、金切り声をあげて大はしゃぎだ。元気が良いのは良いことだが、さすがに耳がキンキンしてきたぞ……。職業柄、乳幼児の金切り声には慣れているのだが、さすが我が孫、超音波砲も超弩級だ。いや、なかなか末頼もしい。……ぐはぁ! 顎への頭突きの威力もなかなかだッ!

 そんなこんなで、里菜さんから抱き取った廉をあやしつつ、しばし待つうちに、インターホンが鳴った。竜だ。
 一応、不満があって家出をしたということになっているのだろうに、里菜さんは、何の屈託もなさげな無邪気な様子で、スリッパをぱたぱたと鳴らし、いそいそと玄関口に飛び出してゆく。はちきれんばかりに嬉しげな様子が、留守番をしていた犬の仔のようだ。竜が腹を立てているかもしれないなどとは、露ほども思っていないらしい。たいした自信だ。自信というか、信頼か。里菜さんはさっき、竜に怒られたことがないと言っていたが、どうやら本当なのだな。疑っていたわけではないが、里菜さんのあの安心しきった様子を見るに、竜は本当にずいぶん良い夫であるらしい。
 それにしても、里菜さんは、普段から、ただ夫が家に帰ってくるというだけであんなふうに世にも嬉しげに玄関まですっ飛んで行くのだろうか。新婚当初ならいざしらず、もう子供もいるというのに。なんといじらしいことか。里菜さんのこんな様子を、竜が見ることはないわけだな。竜は、里菜さんがあんなふうに嬉しげに玄関に駆け寄っているということを、知っているのだろうか。できることなら竜にあの姿を見せてやりたいものだ。なんとも微笑ましいオシドリ夫婦じゃないか。羨ましいことだ。
 ……もしかして、新婚時代には、雪子もあんなふうにいそいそと玄関に駆けつけてくれたことが、幾度かでもあったのだろうか。もしそうだとして、俺は、その、雪子の出迎えを、どんな顔で受けていたのだろうか。雪子と、どんな言葉を交わしたろう。全く記憶にない。一応、『ただいま』くらいは言ったはずだと思うが……。
 そういえば、別に新婚時代に限らず、雪子はいつでも玄関まで俺を迎えに出て来ていたが、俺は、そんな雪子とどんな会話を交わしたか、全く覚えていないのだ。
 仄かな電灯の灯る玄関に立ち、俺の外套をしとやかに受け取る雪子の姿だけは、そういえば、今でもはっきりと目に浮かぶのだが。ドアを開け、そこに立っている雪子の姿を見るたびに、俺は、雪子はなんと美しいのだろうと思い、雪子がそこにいてくれるということが、とても嬉しかったのだが。一日の仕事を終えて雪子の待つ家に帰れたという幸福を、こんなに美しい妻が家で俺を待っていてくれたのだという満足感を、しみじみと噛み締めていたのだが。
 だが、自分が、そうやって迎えに出てくれた雪子に何と声をかけたか、そもそも何か声をかけたのか、笑顔の一つも見せてやったものかどうか、一切記憶にない。

 廉を抱いたまま里菜さんの後について玄関に出ると、ドアを開けた竜が、無言のまま、厳しい顔で里菜さんの前にぬっと立ちはだかったところだった。……おい、なんだその仏頂面は。お前の顔はただでさえ黙っていると怖く見えるんだ、せめてもっと優しい表情を作ってみせろ、このでくのぼうが。まったく、我が息子ながら、なんというでくのぼうだ。

 竜の険しい顔を見て、里菜さんは、自分が家出中だったということを、はたと思い出したらしい。
 嬉しそうな笑顔を引っ込めて、急にきまり悪げに、もじもじと立ちすくむ。
 が、竜が怖い顔をしているのを見ても、バツが悪そうなだけで、恐れた様子は全くない。怒鳴られるとか殴られるとかいう心配は全くしていないようなのは、非常に良い傾向だ。やはり、竜は、よほど日頃の行いが良いらしい。
 しかし、里菜さんは竜に何とメールを打ったんだろうか。『家出中です。お義父さんの家にいます。帰りに迎えに寄ってね』とでも? ごく短い文章だったようだから、おおかたそんなところだろうが、それで竜が不機嫌な顔のひとつもしないと思っていたとしたら、いくらなんでもお目出度い。

 竜は、廉を抱いた俺にちらりと目を走らせただけで挨拶もせず、里菜さんに向かってぶっきらぼうに「来い」と一言、奪い取るかのように、いきなり腕を掴んで玄関に引きずり下ろした。おいおい、乱暴な。
 当然バランスを崩した里菜さんが小さく「ひゃ?」と間抜けな悲鳴を上げながら倒れかかるのを、もう片腕ですかさずしっかり抱きとめて、そのまま胸に抱え込む。誰にも渡さないぞ、と言わんばかりに。
 里菜さんは、たぶん何が起こっているのか分かってもいないのだろう、何やらもごもごと混乱しながら、されるがままに抑え込まれている。
 里菜さんの背中に回された竜の腕にぎゅっと力が篭った。
 ……おいおいおい、人目も憚らす、お熱いことだな。
 でも、たぶん、これが正解なのだ。俺にはできなかったことだ。
 俺があんなふうに自分の気持ちを素直に雪子に示すことができていれば、俺と雪子も、あんなことにはならなかったのかもしれない。俺にはできなかったことが、竜にはできるらしい。いいことだ。これなら彼らは、俺たちと違って、大丈夫だろう。
 それでいいんだ。その調子で、勝手に幸せにやってくれ。
 俺は目のやり場に困って、目頭を揉みながら苦笑した。

 やっと状況を把握したらしい里菜さんが、竜の腕の中で戸惑った声をあげる。

「……竜?」
「話は後で聞く」

 里菜さんの顔も見ずに硬い声で言い放った竜の視線は、今度は俺に向いていた。火を吹くような視線が。……なんだなんだ、俺が何をしたと言うんだ。
 竜は、これ以上ないほど硬い声で、「妻がご迷惑をおかけしました」などと、やたら他人行儀な挨拶をし、軽く頭を下げる一方で里菜さんをますますしっかりと抱え込んで、俺を睨みつけてきた。吹き出したくなるほどあからさまな態度だ。
 おいおい、ずいぶん子供っぽいじゃないか。事情は想像ついているんだろうから、俺に腹を立てる筋合いがないのは知っているだろうに、八つ当たりか? なんて分かりやすいやつだ。

 可笑しく思いながら、ふと思い当たった。
 そういえば、竜は、子供の頃から、あまり子供っぽかったことがないのだ。
 それは、本当に幼児だった時分は、もちろん歳相応に子供っぽかったのに違いないが、その頃の竜を、俺は、仕事にかまけてまともに見ていなかったような気がする。子供のことは全て雪子に任せっきりで、気にはかけていたのだが、そういえば、直接息子と接する機会は少なかったように思う。俺が竜と密に接するようになったのは、雪子が出て行った後からで、竜はたしか十才かそこらだった。そして、その頃から、竜はすでにずいぶん大人びた、落ち着いた子供だった――ように見えた。
 だが、考えて見れば、十才の子供が子供っぽくないなんて、変だったのだ。
 思えば、竜はただ、子供っぽい自分を自分のうちに閉じ込めてしまって、俺には見せなかっただけなのだろう。たぶん、俺にだけじゃなく、周囲のほとんど――いや、もしかするとすべての人に。
 だからきっと、竜の中には、ずっと誰の目からも隠されたまま、十才の子供が閉じ込められていたのだ。
 そして、その子供を閉じ込めた外側の殻だけが、年ごとに大きくなった――中の子供は十才のまま。
 固い殻の中に閉じ込められた子供は、誰とも接しない。誰とも接しない子供は、成長しない。だから竜の中には、ずっと、誰にも見せない子供の自分がいたんだろう。

 竜の腕の中で、里菜さんがじたばたしはじめた。

「竜、竜ってば……」

 竜の服に顔を押し付けられているから、声がくぐもっている。

「親父、廉と荷物を」

 あいかわらず片手で里菜さんを抑えつけたまま、もう片方の手を俺に差し出す竜に、廉を渡してやった。
 軽々と受け取りながらも、里菜さんを抱え込む腕は緩めない。
 そんなに抑えつけておかなくても、里菜さんは別に逃げないぞ。バカなやつだ。呆れて、諭す言葉も出ない。

「ちょっと待ってろ、荷物を取ってきてやる」
「あ、お父さん、私が取りに行きますよ〜」

 里菜さんがやっと竜の胸から顔をあげるのに成功し、脇の下をくぐって抜け出そうとじたばたしていたが、いいからいいから、と制して、荷物を取ってきてやった。里菜さんがだいたいまとめてあったから、ただ持ってくるだけだ。
 さすがに竜も里菜さんを離して――片手に廉を抱いていたから、里菜さんを離さないと手が空かない――荷物を受け取った。可愛らしいピンクの花柄のリュックが、これ以上無いほど似合わないのが、いっそ微笑ましい。

 やっと竜の腕から開放された里菜さんが、恥ずかしそうに笑って頭を下げた。
「お義父さん、今日はありがとうございました。愚痴も聞いてもらっちゃって……」
「いやいや、愚痴くらい、いつでも聞くよ。おい、竜、お前、肉じゃがだの海苔だの、そんな下らないことで里菜さんにあまりガミガミ言うんじゃないぞ。口煩い男は嫌われるぞ」

 竜がぴくりと頬を引きつらせて眉根を寄せた。

「……里菜、そんな話を親父にしたのか」
「え、やだ、お義父さん、そんなこと、どうでもいいんですよぉ。ほんと、どうでもいいことなんですってば!」

 里菜さんが慌てて、空中に漂っている俺の言葉を掻き散らそうとでも言うようにパタパタと手を振り回す。

 ああ、どうでもいいのは分かっているよ。これはサービスだよ。竜に、里菜さんが俺にした話がそんなに深刻なものじゃなく、そういう、どうでもいいようなささいで下らない愚痴だということを、早めに教えてやったんだ。竜の疑心暗鬼を早くに解消して、楽にしてやろうとおもってな。竜のためでもあるし、里菜さんのためでもあるんだ。里菜さんは竜に怒られたことがないと言っていたが、疑心暗鬼を募らせすぎたら、こいつだって危険かもしれないぞ。里菜さんにはまだ見せたことがないようだが、こいつは確実に俺の逆上癖を受け継いでいる。俺の父も、祖父も、一族代々、実は瞬間湯沸かし器だったのだ。俺が最後に沸騰したのは竜が家を出た時だったが……その歳になってもまだそんな悪癖を抑えきれるようになっていなかったとは、全く恥ずかしいことだ。抑えられるようになったつもりでいたのだが、人間、ちょっと歳をとったくらいで、そうそう変われるものではないらしい。

「えっとね、竜、ほんとにちょっとした下らない世間話なんだってば。別に竜の悪口言ってたわけじゃ……。ねえ、お義父さん?」

 助けを求めるように俺を見る里菜さんに、黙ってにやにやしてみせる。
 竜は俺のほうなど見もせず、怖い顔で里菜さんの言葉を封じる。地を這うような平板な低音で。

「話は後で聞く」

 だからお前は、なんでそういう、脅しつけるような口の利き方をするのだ。本当に口の利き方を知らんやつだ。お前のように身体がデカくていかつい奴は、普通以上に常に温顔と穏やかな物言いを心がけねばならぬのだ。俺のように。
 まあ、しょうがない。俺は職業柄、早くにそれを学ぶ必要があったが、竜は俺と違って女性や子供と接する機会が足らなかったからな。幸い里菜さんは全く気にしていないようだから、あと三十年かけてゆっくり学べ。

 言わずもがなのことだが、里菜さんを安心させるために、一応、助言しておいてやった。

「優しく聞けよ」
「分かってる」

 竜はぶすっと応える。
 ……だからその仏頂面とむっつり声がいかんのだ。まったく。
 まあ、里菜さんは、慣れっこなのか鈍感なのか、全く気にしていないようだ。竜も、口調はアレだが行いは良いのだろう。家事も良く手伝っているようだし、今も当たり前のように荷物を全部持ってやっている。ぶっきらぼうを気にしないでくれる奥さんで良かったな、竜よ。お前にはお前の良いところがある。里菜さんは、仏頂面や無愛想を乗り越えて、その良いところを分かってくれているのだろう。貴重な理解者だ、大事にしろよ。

「里菜さんがこんなことをしてみたのには、ちゃんと理由があるんだからな。里菜さんを責める前に自分の胸に手を当てて、よく考えてみろ。そして里菜さんの言い分を、よぅく聞くんだぞ」
「言われなくても分かってる! 里菜を責める気は無い! お邪魔しました!」

 最後だけ妙に礼儀正しく言い放って、しゃちほこばった礼をすると、竜は「里菜、帰るぞ」と一言、里菜さんを引き立てるように帰っていった。里菜さんのリュックと自分の荷物をまとめて肩に引っ掛け、片腕で軽々と廉を抱き、もう片方の手で里菜さんの腕をがっしと掴んで。
 ああいう体制の後ろ姿をどこかで見たことが――しかも頻繁に――あるような気がすると思ったら、幼い下の子を片腕に抱き、もう片方の手で、いたずら盛りの上の子がちょろちょろ走り回ろうとするのを腕を掴んで引っ立てていく母親の姿にそっくりじゃないか。思わず小さく吹き出した。
 竜の肩越しにきょとんとこちらを見ている廉に小さく手を振ると、いっしょうけんめい小さな手を振り返してくる。おお、バイバイも上手だ、上手だ。
 それに気付いた里菜さんが、竜に引っ立てられながら顔だけこちらを振り返り、済まなそうな笑顔を浮かべて小さく会釈する。そんな里菜さんを、竜はお構いなしにどんどん引っ張ってゆく。こちらは振り返りもしない。
 だから、そんなふうに引っ立てなくても、里菜さんは逃げないというのに。しっかり捕まえておかないと不安でしょうがないんだな。本当に子供っぽい。
 しかし、俺とだって久しぶりに会うのに、ろくに話をする気も無しか。せっかくだからちょっと上がって行けと誘う暇も無かったぞ。

 まあ、いい。奴のことは里菜さんに任せよう。
 竜は今、里菜さんの前でだけは、ああして、ずっと殻の中に閉じ込めてきた自分の中の子供を見せているのだな。理不尽で、焼き餅焼きで、そんな自分の感情をどう扱っていいか分からない、不器用な幼さを持て余す少年を。
 きっと里菜さんだけが、竜の中の、その少年と接することができているのだ。
 子供は、人と接することで成長するのだ。だったら、竜の中の子供は、里菜さんと接することで、これからあらためて成長することができるようになったのではないか。
 里菜さん、竜を――竜の中の十歳の子供を、廉と一緒に、二人まとめて育ててやっておくれ。それは、あなたにだけできることなんだから。あんな奴だから、時には里菜さんを困らせることもあるだろうが、里菜さん、竜を、末永くよろしく頼むよ。



 台風のように去っていった一家の後ろ姿を見送って、リビングに戻ると、テーブルの下に、さっき廉が放り投げた玩具が一つ落ちていた。荷物を取りに戻った時、うっかり見落としたらしい。家にあった古ぼけたものとは違う、真新しげなものだから、里菜さんが持参した廉の愛用品だろう。
 カラフルな玩具を拾い上げると、それを振り回していた廉の奇声が思い出された。
 仕事で乳幼児の声を聞くことは毎日とはいえ、この家の中で三十年ぶりに響いた幼児の声の、その騒々しさは、普段が静かなだけに、いささか衝撃的だった。
 やれやれ、静かになった。孫は来て良し帰って良しとはよく言ったものだ。
 苦笑しながら拾い上げた玩具をテーブルの上に載せれば、長年大人だけが静かに暮らしてきたこの殺風景な部屋の中で、その賑やかな色彩や可愛らしい造形があまりに場違いに見えて、思わずさらに笑いがこみ上げた。
 そういえば、今まで特に考えてもみなかったが、この食卓は、一人暮らしにはでかすぎるな。雪子がいたころから、特に買い換える必要もなく――というか、食卓がどんなものだろうと気にかけることもなく、ずっと使っていたものだが。
 だが、今となってみれば、たまたま小さいものに買い替えていなかったのが、ちょうどよかったかもしれない。この大きさがあれば、いつか竜たちが夫婦そろって子連れで遊びに来ても――そして、もしかすると、そういう時に連れてくる子供の数がそのうち何人か増えも、みんなで広々と食事ができるだろうから。
 今度、竜に電話でもして、言っておこう。近いうちに家族そろって遊びに来いと。この玩具は取っておいて、その時に返してやろう。いや、俺があちらを訪ねる方が先になるかもしれないが。




……終……


次のおまけ小話『エイプリルフールの約束』




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