〜『里菜と竜兄ちゃん』シリーズ おまけ小話〜

 親父と竜兄ちゃん 


 里菜の提案で、長男・廉《れん》の初節句に父を家に招いた。
 父が我が家に来るのは、初めてではない。これまでにも何度か訪ねてきているし、さらに、こちらからも、一度、廉を連れて実家を訪ねている。
 一度は激しく対立し、ほとんど縁を切られた父と、こんな風に普通に実家付き合いできる関係になれたのも、里菜のおかげだろう。父は、里菜が可愛くてしかたがないのだ。まあ、当然だ。里菜は実際にこんなに可愛らしく気立てが良いのだから、父だろうと誰だろうと、可愛く思わないわけがない。しかも里菜は、義父である父に屈託なく懐いて、俺たちの仲を取り持とうと何くれとなく気を遣い、自分から進んで父に歩み寄る姿勢を何かにつけて示し続けているのだから、なおさらだ。自分に悪感情を示す相手に好意を持つのは難しいが、自分に慕い寄ってくる相手に好意を持つのは簡単なものだ。

 そんなわけで、父は、俺と同じであまり感情を表に出す方ではないにもかかわらず、俺の目から見れば笑えるほどあからさまに里菜にメロメロで、里菜の出す手料理ならどんなものでも相好を崩して美味そうに食べ、里菜の一挙手一投足に目を細めて、実に幸せそうである。
 俺は、親に背いて失望させた己の親不孝をずっと心苦しく思っていたから、今、父に、舅として祖父としての幸せを体験させることが出来て嬉しく、また、俺の選んだ女性である里菜を父が認め、気に入っていることがなんとなく得意で、誇らしい。なんというか、『どうだ、素晴らしい女性だろう、この素晴らしい女性は俺の妻なのだ。俺はこんな素晴らしい女性を選び、得たのだ。そして、こんな素晴らしい女性が、他ならぬこの俺を選んでくれたのだ』と、父に誇ってもいいような気がするのだ。
 父よ、里菜が俺を見る時の、この信じきった目を見ろ。俺のそばにいればすべて安心とばかりにくつろいで寄り添う様子を見ろ。里菜のこの、満ち足りた微笑を見ろ。こんなに可愛らしいこの女性は、俺の子を産んだのだ。俺の子を抱いて、こんなに満ち足りて微笑んでいるのだ。この人をこんなふうに幸せそうに微笑ませているのは、俺なのだ。俺は、こんなふうに、妻を幸せにできる男になったのだ。このような素晴らしい女性を妻に得て、大切にし、幸せな家庭を築いているのだ――。
 そんなふうに、対等な男同士として父に誇れる立場になれた気がする。
 また、それ以前に、男同士として、言い方は悪いが『いいだろう、俺の女だぞ』みたいな優越感があることも、認めざるを得まい。
 ……いや、父は妻に去られているから、その傷口に触れるようなことは、口に出しては言えないが。

 なんにせよ、父とこのような穏やかな関係が築ける日が来たとは、良いこと、嬉しいこと、ありがたいことだ。
 先日父が事前の打診もせずに一方的に送りつけてきた、このボロ屋には分不相応に立派な五月人形を飾った部屋で、俺たちは、揃って平和にお茶を飲みながら、柏餅など食べているのだ。花瓶には菖蒲の花が生けられ、里菜が父ににこにこと愛想を振りまく膝下を、廉がご機嫌で這い回ったりしているのだ。人見知りな里菜が、どういうわけか、父にはずいぶん懐いたものだ。
 里菜に言わせれば、父は、優しくて頼りがいがありそうで知的で貫禄があって押し出しの良い立派な風采の紳士で……云々で、『誰だってこんなお父さんが欲しいと憧れるような素敵なお義父さん』なんだそうだ。俺にとっては必ずしもそういう父ではなかったわけだが、里菜にとってはそうであるのなら、まあ、そういうことにしておこう。父は昔から外面の良い人だった。

 しかし、まあ、嫁と孫とに囲まれて上機嫌な父の、この、目尻の下がりっぷりはどうだ。かつては眉間の縦皺一つで声を荒らげる必要さえなく俺を威圧したあの父が、これではまるっきり、ただの好々爺だ。
 そう思うと、何か複雑なものがある。
 廉を抱き上げて目を細めている父の、あの温顔。僻むわけではないが、俺が子供の頃には、あんな甘い顔を見せてもらったことは一度もないような気がするのだが。
 よく、世間で、孫は子供とは違うと、孫には子供とはまた別の格別な可愛さがあると言うが、確かにそれは本当であるらしい。孫とはそんなに可愛いものなのか。
 父は、五月人形と巨大な鯉のぼりだけではあきたらず、今日もまた、まだほんの赤ん坊の廉のために知育玩具や幼児教育用教材を抱えきれないほど持ってきたが、これは別に早期教育について煩く言おうというわけではなく、俺と同じで不調法な人間なので、子供に買ってやる『良いもの』といったらそれくらいしか思いつかなかったのだろう。が、産婦人科の医師だけあって、赤ん坊の扱いは手馴れたものだ。持参した玩具で巧みに廉をあやしつつ、廉に物心がつく再来年あたりのクリスマスには付けひげを付けてサンタ姿でプレゼントを持参しようなどと、里菜と二人でほのぼのと盛り上がっている。まず勝手口からこっそり入って、台所で里菜が用意した衣装に着替えた上で玄関に回って……と、すでに段取りまで決まりつつあるようだ。
 ……正気か、親父? 孫可愛さに頭が沸いたんじゃないか?

 そんな穏やかな光景を眺めながら、俺は、ひそかに感慨にふける。
 俺は、青春の一時期、この男を、自分では明確にそれと意識しないまま、殺したいほど憎んでいたのではなかったか。

 母が去ってからしばらくの間、俺は、どうやら、心のどこかが少しばかりおかしくなっていたらしい。まあ思春期にはよくあるようなちょっと鬱屈した精神状態の一種だったと思うのだが、それは、二十歳過ぎのある時期まで続いていたように思う。
 その頃の俺には、自分の心がこの世界ではなくどこか別の次元にでもあるかのように遠く感じられていた。表面的には普通に笑ったりしゃべったりして普通に生活していたはずだが、それは上っ面の仮面で、本当の自分はここには居ないというように感じていた。表面的な情動はあっても、本当の感情の大半は自分でも手の届かない、とても深いところにあって、自分とは別の存在であるかのようだった。
 あの頃、俺の感情は、分厚く張った氷の下に潜む得体の知れない巨大な生き物みたいだった。俺の心は氷の平原のように固く凍りついて動かず、その下に潜む見知らぬ獣の存在はうっすらと感じ取れるが、それがどのような姿をしているのか自分にも分からない。時々、氷面近くに浮かび上がってくる黒い巨体の影が氷越しにおぼろに見えるが、それは分厚い氷を割って地上に姿を現すことはなく、すぐにまた深く潜って、無意識の深みに沈み込んでゆく。
 今思えば、あの巨大な黒い獣は、たぶん、父に殺意を抱いていた。もしも何かのきっかけで水面の氷が割れていたら、何が起こっていたか分からない。

 今、にこにこと孫をあやしているこの老人は、俺には厳しい父だったのだ。俺に手を上げたことは一度も無く、声を荒らげることさえ滅多になかったが、それでも、俺の上に厳然と君臨していた。

 昔気質のドッグトレーナーの中には、力の強い大型犬に対しては、子犬のうちに足腰立たなくなるほど痛めつけて、自分の方が強いのだと思い知らせておくという方法を取る人もいたらしい。そうすると、その後、こちらが上に立つものとして振舞い続ける限り、その犬は、成犬になっても、実は自分の方が既に強くなっているということに気づかないまま、人に従い続ける。
 父が俺にしたことは、それに似ているように思う。身体的な暴力を振るわれたことこそ無いが、父は俺を精神的に打ちのめし、徹底的に支配した。
 今にして思えば、むしろ暴力を振るわれていれば、俺はきっと、もっと早くに父の支配下から逃れるチャンスを得られていたのじゃないか。
 父は大柄な男で、学生時代は柔道の選手だったそうだが、俺が高校生を出る頃にはもう俺の方が少しだけ背が高かったし、たぶん力も強かった。だから、もし暴力を振るわれていたら、俺は父を返り討ちにするかして、自分のほうが腕力的にはすでに強いのだということに気づき、それによって、父の精神的な支配を跳ねのける自信も得ていたかも知れない。が、父は賢明にもそうしなかったから、俺は、子供の頃のまま、『強い父』という幻に従い続けてた。

 そういえば、父が、俺には自分が昔やっていた柔道ではなく剣道を習わせたのは、実は、俺が成長したら自分より強くなるかもしれないと心配したからじゃないか? 同じスポーツをやっていたら、段位などで、はっきりと優劣が知れてしまう。きっと父は、自分の優位を保つための用意周到な陰謀として、俺には違うスポーツをやらせたのだ。親父、卑怯なり。

 まあ、柔道をやっていようといまいと、今は俺の方が明らかに父より強い。というか、今思えば、俺が一時期ムキになって身体を鍛えていたのは、心の底に、父に打ち勝ちたいというひそかな願望があってのことだったのかもしれない。
 が、俺が父に勝つ自信を付けた時、父は既に、リングを降りていた。
 父はもう、打ち倒さねばならぬ抑圧者ではなく、労らねばならぬ老人になってしまったのだ。
 挑戦者が力をつける前に引退しておけば、一生勝ち逃げだ。
 そう考えると釈然としない思いもあるが、でも、この穏やかな光景を見ていると、それでいいような気もする。
 父と息子というのは、そういうものなのかもしれない。


 はしゃぎ疲れた廉が寝入った後、里菜が改めて食卓に料理を並べ、父が持参した酒を出してきた。
 今回、父は、何を思ってか一升瓶を持参したのだ。
 俺は実家にいた頃、父が酒を飲むところを見たおぼえがない。が、飲めないわけではなかったらしい。ただ、いつ緊急のお産や手術が入るか分からないからと、休日でさえ滅多に酒は飲まなかったのだ。今は信頼できる協力者を得て、自分の休みの日には産院を任せられるようになったから、やっと休日くらいは安心して酒を飲めるようになったのだろう。将来的には、週のうちの自分の診察曜日を体力に応じて徐々に減らして、ゆるやかに第一線から退いてゆく予定だと言う。父の産院の後継問題については俺も内心で責任を感じていたので、ことが円滑に運んでいるようで、ほっとしている。

 日本酒を持参されても、我が家には日本酒用の酒器などという気の利いたものはないから、里菜が食器棚の奥からワイングラスを出してきた。
 ワイングラスで日本酒……。まあ、湯呑やコップで飲むよりは、しゃれているかもしれない。

 グラスを手にふと父を見やると、父は複雑な顔で、食卓の足元に寝そべるミュシカを眺めていた。
 ああ、やっぱり、ミュシカはベスに似てるんだ。
 ベスは、俺が子供の頃に飼っていた犬だ。父が、俺の『情操教育』のためにと、買ってきたらしい。俺はとても可愛がっていたのだが、母が出奔してしばらく経った頃、一番様子がおかしかった時期の父が、突然、動物など飼っていると受験勉強の妨げになると言い出し、人にやってしまったのだ。俺が一時期父を恨んでいた原因の、一番大きな一つだ。
 ベスは血統書付きのコリーで、ミュシカはたぶんゴールデンの血が入ったミックスと、犬種も毛色も顔立ちも違うが、俺にはなんとなく、ミュシカがベスに似ているように思えていた。父も今、ミュシカにベスの面影を見ているのではないか。

 案の定、じっとミュシカを眺めていた父が、唐突に、ぽつりと言った。
「そういえばなあ、竜。前から一度言おうと思っていたんだが……。昔のことだが、ベスのこと、悪かったな」
「いや……」
 俺は曖昧に言葉を濁した。

 当時、父は、もし貰い手が見つからなければベスを保健所にやるとまで言っていたのだが、実際には、ベスは保健所にやられたわけではない。運良く父の知人が貰ってくれて、ベスは新しい飼い主に可愛がられて幸せな犬生を全うしたはずだ。その人からは、その家の家族に囲まれたベスの写真入りの年賀状も貰った。家族の名前が連なる中にベスの名前も一緒に印刷されており、ベスを皆で可愛がっている、ベスを家族の一員に迎えることができてとても幸せだ、ベスをくれてありがとうと書き添えてあった。
 そんなふうに、結果的にベスが幸せだったからといって、いったん飼った犬を自分たちの勝手な都合で処分しようとした父の所業が許されるわけではないと思うが、その時、父に抵抗しきれず、ベスを父から守れなかった俺も悪い。
 あの時、もしもベスが、可愛がってくれる他所の家にではなく保健所に行くことになっていたとしても、父の言いなりだったあの頃の俺に、それが止められただろうか。許されないのは、俺も同じだ。

 黙っていると、父が続けた。
「ベスのことだけじゃなく、あの頃のことは、いろいろと、悪かった」

 今さら父の口からそんな言葉を聞くとは思わなかった。
 が、俺はもう、何もかもを父のせいにする気はなかった。今さら自分の過去の痛みを父のせいにするのは、自分がまだ父に支配されていると言うようなものだと思うのだ。
 子供の頃、父が俺にどんな仕打ちをし、俺の人格形成にどんな影響を及ぼしたのであろうと、俺が今、今の俺であることは、父の責任ではなく俺自身の責任だ。
 俺の主権は、俺にある。故に、俺の心の中で起こったすべてのことに最終的に責任を持つのは俺自身だ。俺の感じた心の痛みの責任も、その痛みが他ならぬ俺自身の心の裡にあるものであれば、父にではなく、俺にある。
 俺の人格形成に父が与えた影響の大きさを否定はしないが、最終的に俺がこのような俺になったのは、俺自身の責任だ。このような俺であることを、俺が自分で選びとってきたのだ。そして、その、自分で選んでこうなった今の俺を、里菜が愛してくれている。ならば、俺は、今の俺を作った要因のすべてを、否定はすまい。
 だから、記憶に甦った古い痛みのすべてを飲み込んで、ただ頷いた。
「ああ」

 父は、何が見えるというわけでもなかろうにじっとグラスを覗き込みながら言った。
「俺はなあ、竜、母親を無くしたお前が、俺から見てもいろいろと考え方が偏ったお袋や、年寄りのお手伝いさんに不憫がられて甘やかされて、駄目な人間になってしまうんじゃないかと心配だったんだ。だから、俺が責任持って厳しくして、真っ当な人間に育てなければと思った。だが、あの頃の俺は、今思うと、ちょっと、どうかしていた。いろいろと、行き過ぎもあったと思う。済まなかった」
「ああ……、うん」

 まあ、確かにあの頃は、父も、母に去られたショックで、ちょっと普通じゃなかったんだろう。普通じゃない時というのは、自分は普通じゃないと言う自覚があまり無い場合もあるだろう。酔っぱらいが自分は酔っていないというようなものだ。俺もたまに、他人から変だと言われるが、自分のどこが変なのかよく分からないことも多々ある。
 思えば、父からの干渉や締め付けが急に厳しくなったのは、母が去った後のことだった。それまでも、厳しい父ではあったが、多忙だったので、自分が直接子供と接することは少なかった気がする。俺はもっぱら母と二人だけの世界にいて、父はその二人の世界の上に厳然と君臨してはいたが、常に母が間に入っていて、俺からは少し遠い存在だった。そんなふうである間は、俺たちの間もそれなりにうまくいっていたように思う。父は厳格だったが公正だったし、俺は子供心に父を尊敬していた。
 間に入ってくれていた母がいなくなってから、いろいろと事態が悪化したのだ。
 思えば、あの一時期の父は、少々――いや、かなり横暴で理不尽だった。だが、俺は子供だったのでうっかりそれに気づかず、父に叱られるのは自分が悪いからだと勘違いしてしまったのだが。
 何しろ、それまで父はどんな時でも正しかったし、周りの誰もが父を立派な人だと言っていたし、その頃でも、俺への接し方以外は何もかも立派で正しい人のままだったから、その立派な父が俺を駄目だと言うのなら俺は本当に駄目なのだろうと、父に認めてもらえないのは自分にいけないところがあるからだろうと、俺はうっかり勘違いしたまま、父に従ってしまったのだ。

 そんなあの頃の個々の事例について言いたい事は多々あれど、父がせっかくこうして自分から和解を申し出ているのだ。ここは一つ、一括して水に、いや、酒に流そう。
 俺は一息にグラスの残りを呷った。
 今思えば、あの頃の父の心は母に去られた絶望の海で溺れそうになっていて、溺れる人が目の前の板切れに縋りつくように、手近な俺に縋りついたのではないか。そして、溺れかけた人にしがみつかれた俺は、身動き出来ずに一緒に溺れそうになって、ふたりしてアップアップしていたのではなかったか。
 だが、俺はなんとかそこを脱出して今も生きているし、父もまた、生きている。二人とも、生還したのだ。そうして今、二人で酒を飲んでいるのだ。めでたいことではないか。

「まあ、飲め。杯を受けてくれるか?」
 父が一升瓶を取り上げて傾けてみせるので、空いたグラスを差し出した。
「ああ」

 酒ならさっきも注いでもらったが、これは儀式なのだと思った。強権的な父と抑圧された息子という古い不幸な関係からの訣別の儀式であり、対等な大人同士としての再会の儀式なのだと。
 だから俺も、注がれた酒に口をつけて、父に返杯した。
「親父も」

 言ってしまってから気づいたが、父を『親父』と呼ぶのは初めてだった。心の中ではたまに呼んでいた気がするが、本人の前で声に出したことは無いはずだ。
 父のことを、子供の頃は、なんの疑問もなく『お父さん』と言っていた。それが、ある頃から、父に対して呼びかけることがなくなり、どうしても呼ぶ必要があるときは、なるべく『あなた』とか、もっと険悪な状況の時は『あんた』とだけ言うようになった。
 最近ではさすがに面と向かって『あんた』などと言った覚えも無いのだが、そういえば俺は、最近、父を何と呼んでいたのだろう。なるべく呼ばないという基本は同じだったが、どうしても必要がある時は、多少のぎこちなさを堪えて『父さん』だったか? 記憶にない。

 自分に対する呼び方が変わったことに、父は気づいたのか気づかなかったのか、特に何も言わなかった。
 ただ黙って、俺の注いだ酒を飲んだ。
 特に酒が好きなわけでもないと思うが、それはそれはうまそうに、目を閉じて口に含んで味わっていた。
 これが、世間一般の多くの父子が重視するらしい、『親父と酒を飲む、息子と酒を飲む』というイベントか。
 案外悪くない。

 父も同じことを思っていたらしい。ぽつりと言った。
「なあ、竜。俺だって、お前が子供の頃には、息子が二十歳になったら一緒に酒を飲もうと、人並みに楽しみにしていたんだ。だが結局、機会が無いままだったからな。今、お前と酒が飲めて嬉しい」
「ああ。……俺も」

 確かに、俺が二十歳の頃は、俺たちは全くそんな雰囲気ではなかった。思えば、俺の反抗期は他人より少々遅かったのかもしれない。
 こんなふうに父と穏やかに酒を酌み交わせる日が来るとは、あの頃には、想像もできなかった。

 里菜は、ぽつりぽつりと言葉を交わしながら差し向かいで酒を飲む俺たちをにこにこと眺めて、「やっぱり似てるね〜」などと、楽しそうだ。
 そうだとも、似てるのは、嫌と言うほど知っている。何しろ俺は、この男に顔が似ているというだけの理由で、実の母に「一度も可愛いと思ったことがない」などと、さんざんののしられたのだから。とんだとばっちりだ。

 実家で里菜に俺の昔のアルバムを見せた時、必然的に若い頃の父の写真も見るはめになった。今の俺に、嫌というほどそっくりだった。まあ、似ているのは仕方がない。遺伝なんだから。俺もあと三十年ほどしたら、今度は、今現在の父とほぼ同じ顔になるんだろう。それも仕方がない。とりあえず、頭があまりおかしな形に禿げずに済むらしいのは助かる。体型は個人の努力で保てるが、どんな禿げ方をするかは遺伝であって、自分ではどうしようもないから。
 それに、里菜は、約三十年後の俺の予想図そのものである父の風貌が、ずいぶんと好みであるようだ。いつぞや、目をハート型にして力説していた。何しろ俺と同じ顔だから、別に特に顔が良いわけではないはずだが、全体的に堂々として風采が良いというのだ。面白くないような、ありがたいような、複雑な気分だ。

 そのうち、父が言い出した。
「ところで、竜、今さらだが……、大学の学費、返さなくてもいいぞ」

 俺は大学を中退して家を出た際、その時点までの大学の学費は将来働いて父に返済すると啖呵を切ってきた。口先だけではなく、実際に、今はまだ無理でもいつかはそうしたいと思っていて、結婚の際にも、あらためて父にそれを伝えてある。

「いや、遅れていて申し訳ないが、そのうち必ず返す。もう少し――いや、かなり先かもしれないが、待ってほしい」
「いらん。あそこまでは、親の責任だ。俺がお前を医大に入れたかったから入らせたんだから。そもそも、思えば俺は、一度もお前に、医者になる気はあるかとか医大に行きたいかと、きちんと聞いたことがなかった。あたりまえだと思っていたからな。その点は、まずいことをした、お前にも済まないことをしたと反省している。だから、お前の大学の学費は、俺の都合で俺が勝手に出した金だ。お前に、返す謂われはない」
「いや、俺の都合で途中で急に進路を変えて、それまでの学費を無駄にしたんだから、無駄に使わせた分は返す」
「だからあれは、俺がお前の進路希望を事前に確認しないというミスを犯したせいで発生した損失だ。いわば俺の判断ミスによる投資の失敗だ。そんなのは俺の自己責任で、お前には関係ない」

 ……関係ないわけがあるか。

「いや、俺の学費で、俺の進路だ。そもそも、もし親父が事前に医大に行きたいかと尋ねてくれていても、俺は、行きたくないとは言わなかったかもしれない。自分でも、ずっと刷り込まれてきた通り、自分は医大を目指すものだと思い込んでいて、他の進路など考えてみたこともなかったから。その後、いろいろ考えるようになって、気が変わったんだ。だから、進路の途中変更によるロスの責任は俺にある」
「何を言ってるんだ。お前に医学部に行けと言ったのは俺だし、お前の学費と言ったって、俺が自分の判断で出した俺の金だぞ」

 父の眉間に、皺が寄った。
 出た、親父の縦皺! 子供の頃から嫌と言うほど見慣れたこの縦皺の、位置だの本数だのは昔と同じだが、深さは大分深くなったようだ。

「だいたい、返すとは言うが、これが返せる状態か? 今後、返せる状態になるあてはあるのか? ないだろう。お前がそんなつまらない意地を張るせいで里菜さんに貧乏暮しをさせるつもりか? 子供もいるというのに……」

 そこに、里菜がのんきそうに口を挟んだ。
「お義父さん、大丈夫ですよ〜。いっぺんには無理でも、月賦でちょっとずつなら、きっと……。廉がもう少し大きくなったら、あたしもまた働くし」

 それを聞いた父は、ますます眉間の皺を深めた。
「お前は里菜さんにそんな苦労をかける気か?」
「えーっ、お義父さん、いまどき共働きなんて普通ですよォ?」
 里菜がまたのんきな口調で口を挟んだが、父には聞こえなかったらしい。あるいは聞こえないふりで無視したのか。あくまでも俺に向かって言いつのる。
「こんなか細い、か弱い里菜さんを働かせなきゃ暮らしを立てられないなんて、妻一人養ってゆけないなんて、お前、男として恥ずかしくないのか?」
「そんなあ、か弱いって、別に力仕事しようってわけじゃないですから」
 里菜は笑いながら言うが、父は無反応だ。……これはやっぱり、わざと聞こえないふりで、里菜の言葉を、里菜の存在を無視している。

 ああ、そうだった。うっかり忘れかけていたが、この人はこういう人だった。
 この男は、こういう事柄について、自分の人生が話題になっていてさえ、女になど発言させる必要はないと思っているのだ。そんな風だから、妻に逃げられたりするのだ。その失敗を教訓にしてか、里菜にはやたらと下手に出て、もの分かり良さそうなふりで甘い顔ばかり見せているから、里菜はただただ温厚で寛大な優しい義父だと思ってやたら懐いて、お義父さんお義父さんと甘え声を出しているが、里菜も早く気づけ。こいつは、本来、こういう男なのだ。何かにつけて、女に意見を言わせる必要などないと思っているのだ。女だけじゃなく、子供の意見も聞く必要がないと思っているのだ。この人にとって、女・子供は、人間の内に入っていないのだ。世間では温厚な人格者だと思われているこの男の、これが本性だ!
 やっぱりこの人は、今も昔も変わらない。全く、変わっていない!

「お前が好き好んで貧乏暮しをしたいなら別に止めないが、里菜さんに苦労をかけるのは許さん。お前がどうしても意地を張って俺に月々学費を返済するというのなら、俺はその分の金を、月々、小遣いとして里菜さんにやるぞ!」

 俺はむっとして、思わずがたんと椅子を蹴って立ち上がった。
「なんだと!? 里菜があんたから小遣いを貰う謂われはない!」

 父は動ぜず、グラスに口をつけたまま上目づかいに俺を睨みかえした。
「自分の意地のために里菜さんにいらん苦労をかけようとするお前が悪い。小遣いがダメなら迷惑料だ。自分の息子が不出来なせいで人さまに迷惑をかけているなら、親が責任をとって補償すべきだろう」

 ぎろりと俺を睨みあげる父。父は老いたと思ったが――もはや昔の父ではないと思ったが、老いたりといえども、その眼光に衰えはない。……むう。相手にとって不足なし! やるか、親父!?

 ……これが漫画だったら、今、中空でぶつかった俺と父の視線の真ん中に火花が散っているのが見えることだろう。

 その視線のぶつかり合いを、里菜の、なんとも脱力を誘う間延び声が遮った。
「もう、竜ってばぁ、今日はおめでたい日なんだから、そんなことで喧嘩なんかしないで? ね? せっかく仲直りしたんでしょ?」
 あまりにものんきな口調に、なんだか毒気が抜けて、俺はどすんと座りなおした。
 里菜がにこにこ笑って言う。
「それに、お義父さんもね、奥さんを働かせるのは恥ずかしいとかって、頭古いですよ〜?」

 父が、うっと絶句した。
 確かに、俺もいいかげんいろいろと古い自覚はあるが、父は確実にもう一世代古い。
 だが、俺のこの父に、ほんわか口調でずばりとそんなことを言ってのけるとは……。
 父も口を開けかけたまま石化していたが、俺も愕然とした。……里菜、恐るべし。

 父は一瞬の石化から復活して、苦笑いした。
「ははは、そうか……。そうだな。いや、里菜さんが働きたいんだとか働くのが苦にならないというのなら、別に、働いたっていいんだ。そういう時代だしな。でも、その場合、家事は全部、この竜にやらせろ。これは器用だし、一人暮らしが長かったから何でも出来るだろう。こき使ってやれ」

 なんだと。家事を分担することに異存はないが、我が家の家事分担をあんたが勝手に決めるな。

 里菜がまた、のんきに笑う。
「いやだあ、お義父さん、全部だなんて……。半分こですよ〜。ねえ、竜?」
「えっ? あ、ああ……」

 ……そうか、半分こなのか。まあ、当然だな。それもいいだろう。俺は確かに父の言うとおり一人暮らしが長かったから一通りのことは自分でできるし――というか、言っては悪いが、実は大抵のことは里菜よりうまくできると思う――、自分で言うのもなんだがマメな性分だし、別に、家事は苦にしない。

 が、実を言うと、できれば里菜には、外に働きになど出ず、家にいて欲しいのが本音だ。こんな可愛い里菜を、長時間家の外に出しておくなんて、その間、俺が里菜の姿を見られず、里菜を独り占めできないなんて、もったいないじゃないか! 里菜は、二十四時間、全部、俺だけのものなのだ。ものすごく大切だから、大事に家の中にしまっておきたいのだ!

 ……いや。というか、俺は里菜に、ゆくゆくは俺の事業に協力してほしいのだ。
 俺は将来ここで家庭犬訓練所を開くつもりで、その際、里菜にも運営に協力して欲しいと思っている。里菜は簿記の資格を持っているし、経理の他にも、受付でも犬舎の掃除でも、やることはいくらでもある。俺一人だけでは、とても無理だろう。
 さらに、ゆくゆくは里菜にもトリマーなりなんなりの資格を取ってもらって、一緒に働きたいのだ。二人で力を合わせて、ここで事業をやってゆきたいのだ。俺が勝手にそう望んでいるだけでなく、それは里菜の望みでもあって、トリマーの資格云々も里菜が自分から言い出したことで、すでにいろいろと資料を取り寄せたりして下調べをはじめているらしい。

 この、二人の夢が実現したら、俺たちは、ずっと二人一緒に、この場所で働けるのだ。ミュシカとも、ずっと一緒に過ごせるのだ。忙しくはあるだろうが、外で働くよりは、子供と過ごせる時間も長いのではないか。
 その前に、開業資金を貯めるために、一時的に里菜にも外で働いてもらわなければならない期間もあるかもしれない。しばらくの間、俺と里菜は別々の場所で働くかもしれない。でもそれは、二人で一つの夢に向かう過程だ。俺たちは、二人で一つの目的のために力を合わせて頑張るのだ。二人で話し合って、そう決めたのだ。訓練所が軌道に乗れば、いつか父に金を返せる日も来るだろう。
 もちろんそれは、順調にいったとしてもだいぶ先になるだろうから、その日まで、父には元気で長生きしていてもらわないといけない。そうでないと、困る。俺が、親に返すべき金を返さない親不孝者になってしまうじゃないか。そうならないためには、父には、まだ当分、あと数十年は長生きしてもらわないといけないのだ。幸い父は、俺と同じで身体はすこぶる頑丈そうだし、あの調子では、あの眼光が衰える日など、来て欲しくても当分来そうにもない。

 それにしても、父の変わり身の早さよ。俺には妻を働かせるのは恥ずかしいことだなどと言っておいて、里菜に頭が古いと言われたとたん、家事は全部俺にやらせろときた。
 そんなに里菜の機嫌を取りたいか?
 父は、いくらなんでも里菜を猫可愛がりしすぎではないか?
 廉はしょうがない、孫なんだから。でも、里菜は俺の妻だぞ。
 里菜が義父である俺の父を敬愛し、父も里菜を可愛がってくれているのはよいこと、ありがたいことではあるが、でも、今だって、甲斐甲斐しく追加の料理を運ぶ里菜の一挙手一投足を可愛くて仕方がないという風に目を細めて見ている、その目尻が、下がりすぎだろう。鼻の下も伸びてないか?
 確かに、里菜がちょこまかとキッチンとテーブルの間を行ったり来たりする姿は、無心に餌を運ぶ小動物のようで、なんとも愛らしく、見ていて心がなごむのだ。つい笑顔になってしまうのは、親父といえども仕方ない。
 が、里菜の可愛らしさを愛でる権利は、まず第一に俺にあるのだ。それを親父が、あまりたくさん見すぎるな。俺が一番多く見るのだ。いや、誰がいくら見たって別に減るものじゃないが、でも、この可愛さは全部俺のものなのだから、あまりたくさんは分けてやりたくない。少ししか見せてやらない。

 俺は立ち上がると、キッチンから戻ってくる里菜と父の間を背中で遮るように立ちふさがった。
「里菜……」
「なぁに?」
 きょとんと俺を見上げた里菜を抱きよせると、身を屈めて額にキスをした。
 里菜はぽかんと固まっている。それは驚くだろう。唐突だったし、俺は普段、こういうことは、まず絶対にしないから――寝室の中以外では。
 だからこそ、今、あえてそれをしたのだ。
 これみよがしに里菜の肩を抱いたまま、父の方を勝ち誇った横目で見てやった。
 こんな言い方がよろしくないのは重々分かっている。分かってはいるが、今だけ、心の中でだけ、あえて言わせてもらおう。俺の女だ。

 俺の行動と目つきだけで、父には俺の考えていることが分かったのだと思う。父は顔だけでなく性格も俺にそっくりなのだから――と言うか俺のほうが父にそっくりなのか。
 父も俺と同じであまり表情の変わらない人だが、眉をほんのちょっと上げて、ニヤリと笑った。面白がっているような、少し苦いものが混じったような笑みだった。

 蚊帳の外の里菜は訳が分からず、真っ赤になってあわあわしている。驚かせて済まなかった。まさか俺が、よりにもよって人前でそんなことをするとは思わなかっただろう。実際、俺は、基本的に、人前でそういうことはしない主義だ。こういうことは、欧米などでは単なる挨拶かもしれないが、日本では、他人の見ている前ですることではないと思っているから。
 だが、親父は『他人』じゃないからいいんだ!



……終……

次のおまけ小話『じぃじのキモチ』




『イルファーラン物語』目次ページへ
『里菜と竜兄ちゃん』シリーズ目次へ
サイトトップぺージへ

このページの柏餅のカットは薫風館さんの、兜のアイコンはきんぽうげの部屋さんのフリー素材です。