〜『里菜と竜兄ちゃん』シリーズ おまけのおまけ〜 ********** 本作は異世界ファンタジー『イルファーラン物語』の後日譚『里菜と竜兄ちゃん』シリーズの、 さらに後日譚の、さらにおまけですが、単体でも独立した作品として読めます。 ********** |
雪子《ゆきこ》の消息を聞いたのは、東京に春の雪が降った日のことだった。 まるで、その名にちなんで、雪が彼女の消息をもたらしてくれたかのようだ。 雪子は俺の別れた元妻で、不貞の末にある日突然家を飛び出していったきり、もう二十年以上になる。 それ以来一度も会っていないし、消息も一切知れないままだった。 だが俺は、一日たりとも雪子を忘れたことがない。 俺の人生に再び雪子が儚く姿を現した、そのきっかけは、雪子の父君のご逝去だった。 雪子との離婚成立後、その実家との姻戚関係は当然解消され、付き合いも途絶えていたとはいえ、やはり父君は俺にとって、公私にわたって大恩のある方である。ひっそりと弔問の列に連なり、焼香をさせてもらったのだ。 それからしばらくして、突然、雪子の兄君が、会葬の返礼にかこつけて俺に電話をかけてきた。 あちらの家でもずっと音信不通になっていた雪子が、新聞の訃報欄を見て父の葬儀にやってきて、二十余年ぶりに再会した兄に携帯電話の番号だけを教え、引き止めるのも聞かずにそのままどこへともなく帰っていったというのだ。 実家のほうには、何年かに一度、差出人住所の無い年賀状を毎回違う消印で一方的に寄越してくるから生きているらしいことだけは分かっていたそうだが、その行方不明の妹が前触れもなく突然顔を出したので、兄君は非常に驚いたらしい。慌てていろいろと問い詰めたが、今までどこで何をしてきたか、今どこで何をしているかは一切語らず、住所や固定電話の番号も教えてはもらえなかったそうだ。 その後、兄君がその携帯番号に連絡を取っていろいろと話をしてみたところ、自分の状況については相変わらず殆ど語らぬままだったが、どういう流れでか、もしも俺にそのつもりがあればということで、兄を介して俺と連絡を取ることを了承したという。 そして今、俺と雪子は、小さなテーブルを挟んで向き合っている。俺が指定した、とあるホテルの静かなティールームである。窓の外には花曇りの下の散りはじめた桜並木が見渡たせ、ときおり、風に流れる花びらがガラスの向こうをひらひらと横切ってゆく。 華奢なティーカップの向こうに少し俯いて座る雪子は、淡い桜色のスーツを上品に着こなして、今でもやはり美しかった。 最後に会ってから二十年以上の歳月が流れ、もう六十に近いのだから、歳を取っているのは当たり前で、往時の、まるで女優のような人目を惹く美貌はさすがに衰えたが、それでも、年相応に十分に美しい。 日本人の女性で、しかもこの歳になって、このような色の服が似合う人は、あまりいないだろう。雪子はその名の通りに色が白く、髪や目の色も淡いから、こういう色が似あうのかもしれない。息子の竜は、気の毒なことに、この美人の母親には全くといっていいほど似ず、無骨な俺とそっくりに生まれついてしまったが、髪と目が茶色っぽいところだけは母親ゆずりなのだと今になって気づく。そう、それと顔の輪郭もやや母親に似て、俺に比べて顎が細いから、竜は俺より少しは涼しげに、今風に見える。全く似ていないと思った母子も、改めて見れば少しは似ているのだ。 そういえば、雪子は、竜の宮参りの時にもこんな色の服を着ていたのではなかったか。雪子が俺の傍らで赤ん坊の竜を抱いて微笑む一葉の写真――かつて俺の職場の机の上に飾られていて、あまりに何度も眺めたためにすっかり目に焼き付いてしまった写真が、眼裏にありありと浮かび上がる。 あの頃より歳をとった雪子が、同じ色の服を着て、その年代なりの落ち着いた美しさを湛えて、今、俺の前にいる。 胸元には控えめなネックレス、清楚な薄化粧。 雪子のことだ、今日に限らずいつでも身綺麗にしているのだろうが、今日は俺に会うために装ってくれたのだと思うと、今となってさえ、何か嬉しいような気持ちがした。 雪子は、今は何をしているのだろうか。どんなふうに暮らしを立てているのだろうか。実家の兄君の話によると、再婚はしていないそうなのだが……。 それでも、特に高価なものではなさそうだがきちんと手入れされたスーツを着て、髪もきちんとセットされ、まあ健康そうで、少なくとも病み衰えてはおらず、食うにも事欠いているとか生活が荒んでいる様子には見えないことに、俺はとりあえず安堵した。が、なぜ俺が今さら雪子の健康や暮らし向きの心配をしているのか、考えてみたらよく分からないような気もした。 「元気か?」 何を話していいか分からず、ぽつりと問うと、雪子は薄く微笑んだ。溶けかけた淡雪のような、儚く透き通る笑みだった。 「ええ。それなりに。あなた……宏毅《ひろき》さんは?」 「ああ、まあ、年相応にあちこち不調はあるが、騙し騙し、なんとかやっているよ」 「そう……。お互い、もう歳ですものね」 「ああ」 俺はなんだか不思議な思いで、もう一度まじまじと雪子を見た。 俺たちが別れたとき、俺はまだ四十代の初めで、雪子はまだ三十代だった。あれから長い時が経ったようにも、すべてがついこの間のことだったようにも思える。今では二人とも、還暦前後だ。 かつて共にあった俺たちが、二十数年もの間、別々に歩んできた、その歳月の長さを、改めて噛みしめる。 まさかこんなことになるなんて、あの頃は、夢にも思ったことがなかった。俺は妻を愛していたし、家庭に満足していたし、自分たちは多忙な中にも仲の良い幸せな夫婦であり家族だと、信じきっていた。ずっと手を取りあって共に歩み、力をあわせて子供を育てあげ、やがては息子の竜が可愛い嫁さんをもらってきて、可愛い孫が生まれ、俺たちは今度は祖父母として赤ん坊の宮参りに付き添うのだと――赤ん坊を抱いて幸せそうに微笑む若夫婦の後ろに立って一緒に記念写真に収まるのだと、なんの疑いもなく信じていた。 が、雪子は前触れもなくある日突然俺の人生から忽然と消え失せ、俺がいつまでもその痛手から立ち直れずにいるうちに、いつのまにか竜との関係もこじれていて、あげく竜は、俺に背いて家を出た。 こんなことになるなんて、どうして想像し得ただろう。 今さらのように、失ったものの重さが胸に迫った。 俺はどこで何を間違えたのだろうか。どんな過ちの結果として、このように、家族とともに生きられる人生を失ってしまったのだろうか。 俺の父は、激しやすい人だった。しかも戦前の男だから家長然とふんぞり返って、それこそ、気に入らないことがあるとちゃぶ台をひっくり返すような人だった。子供に対しては非常に厳格で、俺は何度も殴られたし、俺だけでなく、母に手を上げるところも見たことがある。今思えばそれなりに立派な面もあるにはあったが、妻子に対するあのような横暴は俺には許容しがたく、長じて俺は、自分はけっしてあのような夫に、父親にだけはなるまいと、固く思うようになった。俺は、民主主義の時代にふさわしい、もの分かりの良い良き夫、良き父になるのだと心に誓っていたし、実際に、そうなったつもりでいた。 俺は雪子や竜に手を上げたことは一度もないし、特に雪子に対しては、声を荒らげたことさえなかったはずだ。 そういえば、俺と雪子は、一度も喧嘩をしたことがない。何かで言い争いになったことさえない。俺たちは仲の良い夫婦だったはずなのだ。 それなのに、何がいけなかったのだろう。 揺れ惑う胸の内を押し隠して、ただ、訊ねた。――こんなことを訊くべきなのかどうか分からなかったが、どうにも気がかりで、訊かずにはいられなかった。 「……生活には困っていないか?」 「ええ、ありがとう。余裕があるとはいえないけれど、女一人、なんとか食べてゆくくらいはできてます」 では、やはり、一人なのか。 家を出るきっかけとなった男とはそのまま別れたそうだと、あちらの実家を介して聞いている。それでも実家には一度も帰らなかったそうだが、それからずっと一人だったのだろうか。それとも、一度は誰かと暮らして、何らかの事情で再び一人になったのだろうか。女一人で、自力で働いて生きてきたのだろうか。 俺と別れるまで雪子は一度も外で働いたことがなく、性格的にも自活するような女だとは思っていなかったが、必要に迫られれば案外生きていけるものなのだろうか。思えばもともと学業成績は優秀で、頭は良いはずだった。ただ世間知らずだっただけで、いざとなれば一人で世間を渡る才覚も獲得出来たのだろう。俺が雪子を失ってだらしなく打ちひしがれている間に、雪子はきっと、強くなったのだ。 穏やかに微笑む雪子の面差しに、あの頃には無かった強靭な美しさがあるような気がして、俺はつい、ぽつりと言った。 「雪子、お前な……、綺麗になった」 雪子は虚をつかれたように一瞬目を見張り、それから、ひそやかな泣き笑いのような顔をした。 「……そういうこと、もっと前に言って欲しかったわ。私がまだあなたの妻だった時に」 ……俺はその頃、そういうことを雪子に言わなかったのだろうか。まさか。そんなはずがない。あんなに美しかった雪子に、美しいと言わなかったはずなど。 だが、そう……、言わなかったのかもしれない。俺はいつも雪子を自分にはもったいないほど美しいと思っていたが、それを雪子にちゃんと伝えたことは無かったのかもしれない。 その言葉だけではない。俺は、そういえば、いつもいろんなことを雪子に伝えないままでいた。自分の気持ちを雪子に伝えようとしていなかった。言葉にしなくても何もかも分かってもらえるものと、甘えていたのだと思う。 なぜ、そんなふうに思っていたのだろう。妻であるからには一心同体で、何もかも言わなくても分かってもらえるものと思い込んでいたのかもしれないが、それまで別々に生きてきたのに妻となった瞬間に俺の考えていることがすべて分かるようになるわけなど、なかろう。なぜそんなあたりまえのことに気づかなかったのだろうか。 ……たぶん、わざと気づかないようにしていたのだ。きっと、忙しさにまぎれて、妻と自分の問題に向きあうのが面倒だったから。 そうして多忙を口実に逃げ続けているうちに、本当は仕事より何より大切だった妻を、俺は失ってしまったのだ。いつの間にか取り返しの付かないほどに妻を傷つけ、そのしっぺ返しに己も手酷く傷ついて。 胸にこみ上げる思いのすべてを込めて、せいいっぱいの言葉を紡いだ。 「そうだな。すまなかった。――あの頃のことは、いろいろと」 「いいえ、あなたは何一つ悪いことなんてなさってないもの。私こそ……。私は本当に取り返しの付かないことを……。私、本当に馬鹿でした。あなたには、何て詫びても……」 雪子は俯いて、ふいに小さな肩を震わせた。 「あなたに、ずっと謝りたかったの。あの時のこと。今日はそのために会ってもらったの。私は本当に酷いことをしました。謝ったって絶対に許されない、許されてはならないことを……。それでも、あなたに詫びたくて。許してくださらなくていいから、ううん、許さないで欲しいけど、詫びたくて。……私、勝手ね」 雪子は俯いたまま、すいと目を逸らし、床を見つめている。その眼差しが潤んで揺れている。 雪子、泣かないでくれ。こんなところで愁嘆場を演じるわけにもいくまい。 ……たぶん、このために俺は、雪子との再会にあたって、あえて人目のある場所を選んだのだ。人目があればお互い醜態をさらさずにすむだろうと。……いや、俺が雪子に醜態を見せずにすむだろうと。 ずっと、自分は父とは違うと思っていたが、俺もたぶん、本来は激しやすい質なのだ。自分の中に、あんなに嫌った父の激しやすさと同じ激しさを見て取っていたからこそ、俺はそれを意図して押さえ込んだ。自分の中の激情を意志の力でずっと胸の奥底に押さえ込み続けて長年穏やかさの仮面を被り続けているうちに、いつのまにかそれが本来の自分であるかのように自分でも錯覚しかけるほどになり、自分の中に激情があることさえ常には忘れかけていたが、こと雪子に関しては、俺の中に、まだ、激しく滾る熱が潜んで、胸の奥底でずっと燻り続けている。 雪子は、あまりにも突然に俺の前から消えすぎた。ある朝、ごく普通に『いってらっしゃい』と俺を仕事に送り出した後、帰ってきたら、忽然と消え失せていた。そんなふうに、ふいに跡形もなく姿を消してしまったから、俺の中の愛も怒りも憎しみも、あらゆる情動がぶつける相手を失って、まだ生々しく熱いままに、ただ、封印されるしかなかった。自然に消えるのを待たずに無理やり胸の奥深く埋められた炎が、それゆえに、その奥深い場所で、未だひっそりと燃え続けているのだ。 その炎が、送り込まれた風にふいに煽られて燃え上がったならば、俺は何をするか分からない――それが怖かった。 そんな時、人目があればみっともないことはしないですむだろうと、俺は、穏やかなさざめきに満ちた明るい午後のティールームを再会の場所に選んだのだ。 俺は、自分がみっともなく泣いて雪子に縋ったり、あるいは逆上して詰め寄ったり掴みかかったりといったそんな醜態を、自分で見たくなかったし、雪子に見られたくなかった。大人らしく、穏やかに振舞いたかった。俺たちは、そうするべきだ。そうしよう、雪子。 宥めるように、穏やかに告げた。 「もう、いい。……過ぎたことだ」 確かに雪子は愚かだったのだろう。雪子の無思慮な軽はずみが俺を絶望の底に突き落とし、雪子も一時の戯れの代償に多くのものを失った。 だが、俺も愚かだったのだ。雪子を愚かな行為に追いやったのは俺自身の愚かさだったのかもしれない。 妻を怒鳴ったり殴ったりしたことがないからと、俺は自分が良い夫、望ましい夫であるつもりでいたが、今にして思えば、俺は、たぶん、声を荒らげなかった代わりに、雪子と本音でぶつかり合うことをしなかったのだ。雪子に自分の心の中を見せることをせず、雪子の心をも、見ようとしなかったのだ。 雪子は、俺のいない間に走り書きの書き置き一枚残して家を飛び出していった後、離婚調停さえ弁護士を間に立てて一度も俺と顔を合わせることなく済ませたが、調停の前に、一通だけ、俺に手紙を寄越した。その頃、俺はまだ当然怒り狂っていたから、手紙に書いてあった内容などろくに頭に入らず、一応読むだけは読んだ手紙も怒りに任せて引き裂いてしまったが、今になって、その手紙に書かれていた言葉の一つを、急に思い出した。当時は、進んで不貞を働いた女の自分勝手な自己正当化としか思えず、怒りしか感じなかったその言葉が、今なら理解できる。雪子は、俺の心が見えなかったと、書いたのだ。俺の心を遠く感じていた、と。俺をもっと近くに感じたかったのだ、と。 その時は、何を勝手なと思い、どうして俺を近く感じたいという殊勝げな望みが不貞を働くことに繋がるのだと、その理不尽さにますます逆上するばかりだったが――今でも愚かで理不尽で自分勝手な言い分だとは思うが――、雪子にそのような不満を抱かせてしまったのは俺の不徳の成せるわざだったということが、今なら分かる。 確かに、雪子にとって、俺の心は――裸の、剥き出しの、本当の俺は、とても遠いところにあったのだろう。 なぜなら、それは、俺自身からも遠いところにあったのだから。 俺は、自分の本当の感情の多くを、自分自身でさえも見えないほど深いところに沈めていた。深く沈め、目の前から遠ざけたまま、自分でさえ、それに向き合うことをしなかった。自分自身からも遠く隔てられた心など、妻とはいえ違う人間である雪子からは、二重に遠くて当然だ。 俺は、今さらながら、深い水の中に手を差し入れて底の小石を掬い上げるかのように、心の奥底から自分の古い激情を掬い上げて掌に載せ、雪子にそっと差し出した。それは、かつては、俺が狂乱に任せて片端から叩き割った雪子の鏡台の上の化粧瓶の破片のように、触れれば手を切り血を流す鋭いガラス片だった。が、長い歳月を経るうちに、海に落ちて波に洗われたガラス片がやがて丸みを帯びるように、今では淋しい色の小石となって心の底に沈んでいる。だから、今なら凶器ではなく愛の形見として雪子に差し出すことができる。 「あの時、現場を見つけたのが竜で良かった。もしも俺だったら、たぶん、その場でお前を殺していた。お前か、相手の男か、あるいはその両方を……」 雪子は、俺の留守の間に、当時十歳だった息子の竜に間男との密会の現場を目撃され、衝動的に家を飛び出したのだ。その経験はおそらく、幼かった息子の心に大きな傷を残したことと思うが、それでも俺は、今、その場面に出くわしたのが俺ではなく竜であったことを感謝せずにはいられない。 雪子はまた泣きそうな顔をして黙っていた。泣きそうな顔も美しかった。俺には、そう見えた。 「そんなことをせずにすんで良かった」 心から告げた。 「お前が、生きていてくれてよかった。本当に良かった」 そう、生きていてくれて良かった――。たとえ俺の傍でではなくても。 テーブルの上に揃えて置かれた、年齢の刻まれた手が微かに震えている。 未だ美しさを保ち、身奇麗に装ってはいても、手指には如実に年齢が出るものだ。おそらくは、顔には出さない積年の苦労も。 ふいに、その、齢を重ねた小さな手を取り労ってやりたい、俺の手で温めて震えを止めてやりたいという衝動に駆られ、思わず手を伸ばしかけて、止めた。 今の俺には、雪子に触れる権利はない。 代わりに訊ねた。 「戻ってくる気はないか?」 「ごめんなさい」 雪子は相変わらず泣きそうな顔で、それでも目を上げてはっきりと告げ、首を横に振った。 「……そうか」 もっと何か言うべきかとも思ったが、何を言っても雪子の意思が変わることはないだろうと思われた。 隣のテーブルでは、仲睦まじそうな老夫婦が、静かに語らいながら窓の外の桜を眺めている。 俺たちもあんなふうに、穏やかに寄り添いあって、いたわり合いながら共に年老いてゆけるのだと、かつて俺は信じていたのだ。 しばらく、二人とも黙っていた。やがて俺の方から口を開いた。 「そうそう、竜が結婚したんだ。相手は、素直で可愛らしい、とても良いお嬢さんだよ。竜は、独立して一家を構えた。何度か様子を見に行ったが、とても幸せそうだったな」 「……そう。よかった」 「孫も生まれたんだ。去年の夏に。竜にそっくりな男の子だ」 「まあ……。そうね、竜ももう三十を過ぎているのよね」 またしばらく黙ってから、今度は雪子が口を開いた。 「私、ずっと、竜に謝りたかったの。私ね、あの日、竜に酷いことを言ったの。あなた、竜から何か聞いてらっしゃる?」 「いや。竜は俺に、あの日のことは何も話さなかった。俺も、あいつから無理に聞き出さなかった」 「そう……。私、取り乱してしまって、たまたま居合わせただけのあの子にいろいろと心無い言葉をぶつけてしまって。何の罪もないあの子に……。あれからずっと、あの時の竜の傷付いた顔が忘れられないでいたの。竜は、今でも気にしているかしら。私を、恨んでいるかしら」 「そうだな、思春期の頃は、まあ、いろいろと思い悩むこともあっただろうが、あれももう大人だから、自分の中でそれなりに気持ちの整理がついているんじゃないかな。今はとにかく、良き伴侶と温かな家庭を得て、すっかり落ち着いているよ。……竜に、会いたいか?」 「……いいえ。会わない方がいいわ、きっと。竜が今、幸せなのなら、今さら私がもう一度心を乱す必要はないですもの」 「そうだな。俺も、そう思う。……竜の写真を持ってきた。嫁さんと孫も写っている。見るか?」 「ええ」 俺は手帳から竜と家族の写真を取り出して雪子に渡した。 そうしながら、思った。そう、俺は、雪子を失ったが、何もかもを無くしたわけではなかった。 かつて思い描いていた、そして永遠に失われたと思っていた幸せな未来は、結局、おおかた予想図の通りに実現しているじゃないか。 同居こそしていないが、竜のところに可愛い嫁は来た。夢見ていた孫も抱かせてもらった。嫁さんは屈託なく俺に親しもうとしてくれ、一度は激しくぶつかり合い決裂した竜も、温かい家庭を得た今、一人前の一家の主としてすっかり落ち着いて、俺たちは再び歩み寄りつつある。竜に家業の産婦人科医院を継いでもらうことはできなかったが、運良く他に頼もしい後継者を得て、そちらのほうもうまく収まりつつある。思えば、まずまずの晩節ではないか。……隣に雪子がいないことを除けば、ほぼ、思い描いていたとおりだ。 写真を受け取った雪子は、白いハンカチで目頭を抑えた。 「竜、立派になって……。若い頃のあなたにそっくりね」 「ああ。呆れるほど似ているな」 「それに、可愛らしいお嫁さんだこと」 「里菜さんというんだ。健やかに育ったふうな、とても気立ての良い娘さんでね。あてられるほど仲睦まじいよ。竜も、あれで案外、隅に置けないやつだ」 「まあ」 雪子はくすりと笑った。笑う姿が見られて嬉しかった。 「孫の名前は廉だ」 「そう、廉ちゃん。可愛い名前。この子、本当に竜の小さい頃にそっくりね」 「ああ、よく似ているだろう。でも、眉は里菜さんに似ているな。顎の線は少しお前に似ているような気もするぞ」 「まあ……」 雪子は目を潤ませたまま微笑んだ。 「竜は、幸せなのね」 「ああ、とても幸せそうだ」 「よかった、本当によかった……。ねえ、お願いがあるの。もしもこの先、あなたが必要だと思うことがあったら、あなたから竜に、私が謝っていたと、あの時言った酷い言葉は全部心にもないことばかリだったのだと、どうか伝えてください。もし、竜のためにそうすることが必要だと思う時がきたら」 「分かった。そうしよう。……念のため、竜の連絡先、いるか?」 「いいえ、いいわ。連絡先を貰ったら、会いに行きたくなってしまうかもしれないから」 雪子はひっそりと微笑んだ。 「そうか。じゃあ、渡さないから、また何か事情があってどうしても必要になることがあったら、お前の実家を通してでも、連絡してくれ」 「はい」 「その写真は、持っていくといい」 「ええ、ありがとう」 雪子が写真を大切そうに手帳に挟むのを見守りながら、ついでのように言ってみた。 「家の電話番号は覚えているか?」 「ええ」 「電話番号は、変わってない。だから、もし何かで本当に困った時には、連絡してくれ。遠慮なく俺を頼ってくれ」 雪子は少し逡巡してから、淡く微笑んで頷いた。 「……ええ、ありがとう」 たぶん、雪子は、何があろうと、もう俺に連絡してくる気はないのだ。 けれど、今、はっきりと俺の申し出を拒絶しなかったのは、俺に対する思いやりだろうか。俺の許に戻る気はないが、俺に、いつか雪子が自分を頼ってくる日が来るかもしれないという淡い夢を抱いたままでいさせてくれようという……。 そして、俺は、うぬぼれてもいいだろうか。その夢が、俺にとってそうであるのと同様に、雪子にとっても密やかに甘いものであるのだと。ここではっきり拒絶の言葉を口にすることで俺との間に残された細い細い最後の繋がりを完全に絶ち切ってしまうことを、雪子もまた寂しく思ったのだと。二度と会うことはなくても、いつかまた会うことがあるかもしれないという淡く甘い夢だけは胸の奥にそっと抱いていたいと――雪子もそう思ってくれたのだと。 だが、もしそうだとしても、その夢はきっと、今ここで互いに口に出したら、儚く消えてしまうのだ。 俺たちは、お互い、いつの日か再びまみえると言う淡い夢を密かに心に抱いたまま、この先の人生を、このまま別々に生きてゆくのだろう。俺はきっと、人生最後のその夢を、手帳に挟んだ桜色の花びらのように誰にも見せることなく胸の奥にしまって、墓場の中まで大切に持ってゆくのだろう。 たとえもう二度と会うことはなくても、俺の妻は、生涯、雪子ただ一人だ。 しばらく、浅瀬を探るように注意深く無難な話題を選んで世間話をした後、俺と雪子は店を出て、まるでいつでもまた会えるごく普通の知人同士であるかのように挨拶を交わし、何気なくあっさりと別れた。 淑やかに会釈をして雪子が俺に背を向け、桜並木の下を歩み去る、その後ろ姿を見送りながら、俺は、ずっと雪子に言いたかったことを、結局また言いそびれたのに気がついた。 お前が俺のところに嫁に来てくれた時、俺は、本当に嬉しかったんだ。本当に、本当に、人生で一番、嬉しかったんだ。――今度こそ、そう言うつもりだったのに。 まあ、いい。今さら言っても、しかたのないことだ。 若い頃、当時の女性としてはすらりと背が高いほうだったはずの雪子が、今、長い足で颯爽と歩く今どきの若者たちの間に埋もれて、記憶にあるより小さく見える。人混みの中にまぎれてゆく小さな背中を見ていると、俺の背中で人波を掻き分けて雪子の行く手を開けてやりたい、押しつぶされそうな小さな肩を俺の身体で庇ってやりたいと、そんな気持ちが湧き上がったが、俺にはもう、そうすることは許されないのだ。 せめて俺の代わりに、誰かがそうして雪子を守ってくれることを、俺は祈った。あんなに小さく頼りなく見えても、雪子はああして巧みに人混みをすり抜けて一人で歩けるのだと、分かっていても祈らずにいられなかった。雪子の人生に、もうこれ以上、辛いことが何も起こらぬように。 春の風が騒いで桜の花びらが雪のように降りしきり、俺と雪子を隔ててゆく。 さしのべた指の先を花びらがすり抜けてゆくように、掌に受けた春の淡雪が見る間に溶けて消えるように、俺の人生から、雪子が再び消えてゆく。 薄甘い味のしそうな桜色の雪の中に立ち尽くし、俺は頭上の曇天を仰いだ。 雪子。俺はお前を、幸せにしたかったよ――。 ……終…… |
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