国民の負託に応えた自衛隊

 オーラル・ヒストリ-「中尾時久」を回読した私は同氏の防衛という重荷とその制約に向き合う姿に感動し、ここから陸上自衛隊が未知(制約を含む)に向き合う歩みを重ね、「国民の負託に応えた自衛隊」著作に着手した。
 以下に述べる5つの活動事例を通じ、いかなる場合も所命に即応し、所命を必遂し続ける自衛隊に国民は最後の砦としての敬意と期待を持って、心からの信頼を寄せてきた。そしてそれはその時々において予期しない、想像を絶する未知への試練という形で現れ、何があってもよいように普段から備え、見事に克服することで自衛隊は成長し、国民は自衛隊をより深く理解し信頼を深め、その未知には制約・縛りも含むがその制約の一部を解除してより動きやすい環境を準備する。そして時代はさらなる規格外の未知という試練を下した。これを要するに、少しづつ足元を固めながら進む未知克服のスパイラル、という感想を持った。またそれらの抱える未知に真摯に向き合いその克服・乗り越えに全力を尽くしたことが陸上自衛隊が国民の負託に応え続けられた最大の要因と考えるに至った。従って、これからも陸上自衛隊が国民の負託に応え続けるためにはこれまでの未知を乗り越えてきた諸々を肝に銘じ、持続発展させなければならない。しかし、今、厳しさを増した防衛環境下で負託にこたえるためにはさらなる未知、残された最大の制約がある、憲法上の制約及び陸上自衛隊と予備の圧倒的不足並びに大災害と防衛の両立体制の不備である。これらの是正・解消は待ったなしであり、国民は正面から取り組まなければならない時に来ている。

 進めるにつれ、武の心ある日本人のうちいざという場合に自衛隊と共に立つであろう日本人はどれぐらいいるかわからない、というネックに気づいた。自衛官経験者以外に予備自衛官・即応予備自衛官のソースはなかったからである。これでは私ののぞみ実現は絵に描いた餅、と指摘する人がいても可笑しくない。当ホームページ希コーナーで、今の武人である自衛官と武の心ある日本人が感作を及ぼし合って、自衛官の「顧みずの心」が日本人の武の心の標準たれ、と書いているからである。
 しかし平成13年に予備自衛官補が設けられ予備自に任用され、平成30年に即応予備自衛官に予備自衛官補を任用する制度が始まり、いざことある場合に自衛官と共に立つ人が少しづつ組織化されてきたところであり、共に立つ=予備自衛官補という構図がはっきりしてきた。ならば、国民の負託に応え続ける中で予備自補をフォローする。そのことが希(のぞみ)実現に向かう王道、と思い至った。
  
1,雲仙普賢岳噴火に伴う災害派遣とその未知
 始まりは平成3年6月23日の雲仙普賢岳噴火に伴う災害派遣であった。火山の噴火による火砕流によって23名の方々が亡くなられ、県知事の要請を受け、大村の第16普通科連隊が即出動した。火砕流という言葉が一般に知られておらず、従って対処法も確立されていない《未知の本質》中で、いつ襲ってくるかわからない火砕流の危険をわが身に感じたが自衛隊は立ち止まるのではなく、その対処法を懸命に模索しつつ、自らの犠牲も顧みず、行方不明者・生存者の救出とご遺体の収容に活動した。その模索とはいち早く監視連絡通信網を構築し、退避訓練を徹底したことであった。自衛隊は九大雲仙火山地震研究所に隊員を張り付け24時間体制で噴火を監視し、赤外線の偵察監視レーダーを麓に配置し、噴火の連絡を受け、火砕流の流下の地点と方向をつかみ、それを下流の救出活動中の隊員に伝え、その到達時間を逆算して、安全地帯に退避するという対処法を編み出した。これは災害救援のみならず、後々の警戒区域の設定・縮小・解除と警戒区域内の生活・経済、災害復旧、2次災害防止等の諸活動時の安全確保に大いに貢献した(元九大雲仙普賢岳観測所長太田教授レポートより)。
 活動の効用
 隊員の身を挺した救援活動と隊員の安全追求の両立で、地域の方の安全安心の確保に貢献したが、地球よりも重い命という風潮の中で、命よりも重い使命感というものがあった、と当時の高田長崎県知事に言わしめ、国民を啓蒙し、自衛隊員の士気を高めた。また隊員の安全確保の追求が現場主義の共有で地域の安全確保及び大学・自治体の火山研究・防災研究の基盤となった真に国民の負託に応えた画期的事例であった。
 私のかかわり
  私は平成5年3月第4師団司令部幕僚長に赴任した。雲仙普賢岳災害派遣はまだ続いていた。しかし局面は復興・2次災害防止へと移行していた。折から、普賢岳から流れ下った土石流で水無川原が埋まり底上げされ、オーバーフローして島原市市街地に流下する恐れが強くなる事態となって、その流下を防ぐための大土手を築く作業を長崎県から自衛隊に要請された。衰えてはいたが未だ火砕流は発生していた。この時、第16普通科連隊長はぜひやりたい安全ですと申し出てきた、私は最悪時の有効性をしつこく確かめ、上司の許可を得て、GOを出した。この時私は第16普通科連隊の初動時に構築した監視通信連絡網の確かさと意義がよくわかり、先代連隊長(山口義弘1佐、後陸将・東方総監)の先見に敬服した。

2、阪神淡路震災災害派遣とその未知
 平成7年1月17日未明、京阪神地区をマグニチュード7.2の地震が襲い、近畿圏一円に被害が及ぶが被害の最も重い地区に関する情報が全くわからないという未曽有の大災害(死者6400人余、負傷者44000人余、被災者30万余、全半壊家屋約25万棟)が発生、被害が逐次明らかになり、中部方面隊は人命救助段階(第1期、1.17~19))は3師団主体、生活支援主倒壊家屋処理(応急復旧)従の段階(第2期、1.20~1.16)では他方面隊の応援を得て全力展開し、倒壊家屋処理(応急復旧)主の段階(第3期、3.17~4.27)では縮小して、終始その災害救助活動の核としての所命を果たし、負託に応えた。
《未知の本質》
 この時、中部方面総監部は初動に苦労した。これには自衛隊の情報入手が困難だったことがある。市街地上空のヘリ低空飛行禁止されておりヘリ偵察ができず、オートバイ把握した情報に頼らざるを得なかった。また各駐屯地から出動しょうにも、主要な道路が寸断され、交通は大渋滞でう回路情報もなく、交通統制の権限もないので部隊集中に大困難した。加えて兵庫県庁始め各市役所などが被災して指揮が混乱し、到着した部隊は自分で終結地を探さなければならなかったとい。県知事からの要請が1000時、連絡してきた県職員に対し、姫路の部隊が知事の要請と受け取るという念押しをした時刻、と遅れたこととがある。これには、知事の要請が暗黙のルールとなっていた面がある。なぜそうなったかというと、輩出した革新首長が自衛隊を忌避し、その影響で他の自治体にも自衛隊使用や自衛隊行事への参加をためらう(元河野統幕長談)傾向が広がったこと及び伊勢湾台風以来大災害が無かったことで一部の自治体で自衛隊との防災対処訓練が低調であり、国家も災害対処の基本を律する努力を怠ったこと等から自衛隊との繋がりが弱い自治体があり、そのような自治体には自衛隊側も各種行事等の案内はだすが、心情としても、待ちの姿勢を取らざるを得なかったこと等が考えられる(以上、自衛隊かく戦えり及び自衛隊の災害派遣政策の変容― 阪神・淡路大震災までの政策過程 ―)。その薄い関係性は災害対処法の未整備と合わせ対処行動を拘束する縛りであった。
活動の効用
 その1,ともあれ、それを乗り越え、自衛隊は被災者の境遇を思い、被災者同様に身を律し、疲れや睡眠不足などに打ち勝って、所命を完遂した。そのことは出動した部隊(姫路の第3特科連隊と聞く)が石を投げつけられたが、撤収に際しては住民から「自衛隊さんありがとう」と感謝とねぎらいの言葉と涙で見送られたことに明らかである。
 その2、ただでさえ難しい任務に加えて自衛隊使用のためらいという縛りも加わった中での完遂は住民の命をまもるという真に国民の負託に応えたといえる。そして大災害には、住民の命を守るためには、自衛隊が不可欠、という国民意識が大成されて、縛りは緩み 、ためらいや否定的空気は一変して、大災害対処態勢刷新の起点となった。自衛隊及び防災機関の装備は改善され、国家は災害基本法を制定し初動体制を改善し、各自治体と自衛隊の関係性は向上して、大災害に備える態勢は著しく向上された。例えば24時間体制の内閣情報集約センターが設置され、自衛隊のヘリ等からの映像情報を伝達するシステム、現場と内閣総理大臣が災害情報を瞬時に共有するシステム、が整備された。都道府県知事が派遣要請する場合に必要な手続が簡略化され、自衛隊は派遣要請を待たずとも震度5以上では関係機関に情報提供するため航空偵察を行うようになり、災害に際し、通信手段が途絶えるなど、都道府県知事等が災害派遣要請を行うことができない場合や自衛隊が実施すべき救援活動が明確な場合などにおいて、自衛隊の自主派遣の判断基準が規定されて迅速な初動活動が可能となった。また消防、警察とも広域派遣体制の整備に着手し、これらと自衛隊との協力体制も整備された。
 法の未整備と自衛隊使用ためらいの空気の齎したものへの償い
 しかし、法の未整備やためらいというこの縛りによって助かるべき人命がたくさんあったであろうという事実も肝に命ずべき事である。当時の松島悠佐中方総監の記者会見での涙は自衛隊の出動が遅かったという非難に対する言い訳や悔し涙や責任転嫁では決してない。救える命があったはず、という国家の最後の砦としての純な思いや責任感ゆえの、守る側を代表した不甲斐なさの表明であり亡くなった方々への申し訳なさの涙である、と感じた。松島総監は被災者に思いを寄せて黙々と任務を遂行する隊員たちの思いの代弁者であった。総監の人柄を知るゆえにあの時のあの涙に私心はない、とこの項を書きながら改めて、そう思った。
  
3、カンボジアPKO派遣とその未知
派遣の経緯
 
クエートを併合したイラクの制裁のための湾岸戦争後に停戦決議違反を繰り返すイラク制裁が国連安保理で否決されたアメリカ政府は有志連合でイラクを討つため同調国を募った。湾岸諸国から大量の原油を購入していた日本に対して、同盟国として戦費の拠出と共同行動を求めた。日本は90億ドルの資金拠出だけで済ました。クエート解放後、クウェートは参戦国などに対して感謝決議をしワシントンポストに感謝広告を掲載したが、その後も追加して130億ドルに上る協力を行なった日本はその対象に入らなかった。また、凱旋パレードでのシュワルツコフ大将による演説においても、多国籍軍に参加した28カ国の駐米大使を壇上に上げたうえで「28の同盟国とその他の国」に対する感謝の意が述べられた。日本は壇上に呼ばれなかった。人的貢献が無かったとして、アメリカを中心とした多国籍軍の参加国から「金だけ出す姿勢」を非難されたわけである。日本には人的貢献がなければ評価されないとの意識が形成され、日本政府は国連平和維持活動(PKO)への参加を可能にするPKO協力法を成立させ、最初の派遣国としてカンボジアが浮上した。
 《未知の本質》
 社会党や共産党は派遣には賛成だが自衛隊の派遣には猛反対であった。心ある人は現実から遊離した空論と感じていた。当時は派遣される中方総監部の装備部長であり1ケ大隊が数か月間外国に派遣され、行動する兵站の重みと難しさを分かり過ぎるほどわかる立場にいた。しかも難しいのは6.15PKO協力法が国会で成立し、8.11準備に関する長官指示が発出され、9.2国連から正式要請を受け、9.8派遣に関する政令の閣議決定、9.11部隊編成、9.17以降出国という目まぐるしい展開で、準備期間が少ない中で、陸自始まって以来しかも始めて国連PKOの枠組みの下の外国派遣という経験も無ければ事前知識もない(未知の本質その1)中で、編成・装備、人選、国内とは全く異なる環境下の作業・生活関連器資材の確保、港湾・空港の確保に始まる1ケ大隊の後方兵站等のすべてを間に合わせなければならなかった。しかも自衛隊をPKO派遣に反対する活動は激しく、それと共にマスコミは自衛隊の先行準備はシビリアンコントロール逸脱として鵜の目鷹の目で見張っていた。おりしも某新聞社が桂支処において行っていたUNTAC仕様とするための自衛隊車両の白色塗装を空中撮影したそれらしい視点の記事を載せた。国家の将来施策(政治)の足を引っ張るドジリや間に合わせるための勇み足は禁物であった。かといっておとなしく待っていては間に合わないのは自明であった。(未知の本質その2)陸上自衛隊は陸幕以下中方総監部・各級部隊が一体となってこれに防衛産業も加わって、難問をひとつづつクリアして、例えば現地の水質に適合した浄水器を確保する等準備を進めた。
 カンボジアPKOは自衛隊からは施設大隊(施設科部隊)及び停戦監視要員が派遣された。同時に、自衛隊以外からは文民警察要員及び選挙監視要員が派遣された。
 施設大隊は道路構築や橋の補修等、給水、物品輸送等を担任し、2次にわたり派遣された。第1次カンボジア派遣施設大隊は第4施設団(大久保)を基幹に9.11編成し、同大隊は9月17日以降カンボジアに出国。10月28日作業着手、翌年4月まで作業を担任した。第2次施設大隊は第3施設団を基幹に1993.3.8編成、3.29以降出国、4.8指揮転移、9月まで作業を担任し、26日解組。タケオを宿営地とした。施設大隊は軽装備で武器使用は正当防衛緊急避難以外は認められなかった。ボランテアの活動家及び文民警察が襲撃され,死亡したが、国家として派遣者の命を守ることについて、全く無策《未知の本質その3》であることを露呈した。また選挙が近づくにつれ、選挙監視要員の安全確保が課題となったが、自衛隊が彼らを守る根拠はなく、武器使用もできなかった。他国PKOに頼むには限界があった。時の陸幕長西本陸将は施設大隊の警備員や医官等を巡回させ不時の場合に正当防衛・緊急避難で対応するという、宮沢総理の意をくみ、腹をくくって苦肉の策を講じた。現場の悲痛な判断でいざという場合に国家が日本人の命を守るという責めを果たした。
活動の効用
 その1、まずは準備不足や反対活動という縛りも加わった困難な条件下で最善を尽くし、人的貢献で汗を流す国際貢献国家の仲間入りをし、施設部隊による国つくり貢献という日本モデルのPKOの道を拓いた。じごチモール、ハイチ、南スーダンと続いた。
 その2、さらに武器使用制限という縛りも加わった困難な条件下で、現場は細心の注意で紛争の芽を摘み取り、次の自衛隊ルワンダ難民救援派遣"、自衛隊ルワンダ難民救援派遣に際しては機関銃の携行が認められ、また、数度の海外派遣を経て、1998年(H10)には国際平和協力法が改正されて、武器使用が現場の上官の命令によるべきことが、2001年(H13)には「自己の管理下に入った者」(自衛隊が保護した難民や同じ場所にある他国のPKO要員などが想定される)の防衛や自衛隊の武器などを防護するための武器使用が認められる、というまともな国家へ脱皮していった。
 その3、以上の歩みは人的にも国際貢献国家という道を歩めという国民の負託に応え、成果をだし、支援された国の国民が感謝と自立の意思を表明して、日本を後押しし、日本国家が自衛隊活動の枠組みを改善するというスパイラルを産んだ。それと共に武器使用、侵略国家への道という漠とした憲法違反論に基づく自衛隊縛りや自衛隊ではなく民間人派遣論の空疎さを明らかにし、自衛隊の国際貢献行うべし、やる以上リスクはつきもの、これを克服して派遣隊員の命を守るのが国家の務めという現実論を国民世論は支持した。
 私のかかわり
 昭和36年防大に入校した私は外国に派遣される日が来るということを想像もしなかった。のでもう少し若かったら手を挙げるのに、と残念に思いつつも、これは日本と陸自の将来のために成功させねばならないと思った。内心では派遣を嫌がる隊員がいるのではないか、自衛隊が試されているのではないかと思ったが杞憂であった。隷下各部隊からなるべくもれなく参加させて方面隊挙げてこの担任を成功させるという方面総監の指示を受け、各部隊長は粛々と人選したが、嫌がるものは皆無で、選に漏れた隊員の指導に困る方が多かった、ということであった。総監の先見洞察の凄さに敬服しつつも実にシンプル明快であった隊員の使命感と先輩方が築き上げた組織風土や隊員教育に対し密かに、自信と誇りを持った次第である。
 
4,イラク人道復興支援とその未知
4-1、派遣の背景

 2001(H13).9.11のアメリカ同時多発テロを契機として、ブッシュ政権は、首謀者をアフガニスタンのビンラデン一派と断定、これを匿うタリバン政権打倒のためアフガニスタン侵攻を行い首謀者のオサマビンラデンを処刑、さらに2002年(H14)にならず者国家と断じた悪の枢軸(イラク、イラン、北朝鮮)との戦いを国家戦略とした。これを元に、アメリカ合衆国は湾岸戦争時の停戦協定に違反してイラクが大量破壊兵器を隠し持っているという疑惑を理由に、アメリカを中心とする有志国連合によるイラク戦争に2003年(H15)3月20日から踏み切った。正規軍同士の戦闘は2003年中に終了しブッシュは戦争終結を宣言したが、大量破壊兵器の発見に至らず、さらにイラク国内の治安悪化により、戦闘は続行した。サダムフセインの・アラブの盟主指向の軍事強国化と圧政及びイランイラク戦争~湾岸戦争~イラク戦争と続く戦火で民は苦しみ、国は疲弊しきっていた。
 《未知の本質》
 2003年(H15)年8月1日、イラク戦争後(実質戦闘継続中)のイラクの非戦闘地域で、積極的に人道復興支援活動・安全確保支援活動を行うことを目的とする特別別措置法(4年間の時限立法、延長可)が公布された。政府は陸上自衛隊の派遣を決定したが、PKOではなく、有志連合の枠組みの元に初めて派遣《未知の本質その1》した。また戦闘中の非戦闘地域という戦闘を意識せざるを得ない地域に初めて派遣した《未知の本質その2》。
 陸上自衛隊は2004年(H16)1月26日以降、比較的治安が安定しているとされたイラク南部の都市サマーワの宿営地を中心に「給水」「医療支援」「学校・道路の補修」の3本柱で活動し、2006年(H18)7月にムサンナー県が自ら復興するための基盤つくりという所期の目的を達し、撤収した。この間、第1次~第10次の業務群(3ケ月、500名)、第1次~5次の業務支援部隊(要員は6ケ月交代)を派遣した。「給水」は約5万3500トン(1日平均200トン、多い日で250トン以上を給水。延べ約1189万人分)「医療支援」は医官らがサマーワ総合病院を筆頭に医療機材の使用法などの医療技術の指導。(277回)。「学校等の公共施設の復旧・整備」、学校(36校)、道路(31ヵ所、延べ約80km)、診療所(66ヵ所)。「現地住民の雇用」公共施設の復旧などで1日平均700人の現地住民を雇用。
 宿営地・活動地域の全般警護は英軍、英軍撤収(勢力減)後はオランダ、オーストラリアが担当した。

 4-2、活動の特徴
 4-2-1 もっと厳しい場に備えた武力使用上の試み
 もっと厳しい場という次に向かっての新しい試みが三つある。
 第1に目を見開いて戦闘のにおいをかいでいる。イラク国内に進攻した有志連合の米軍の占領(戦闘)状態が実質的に続いている中での比較的安全な非戦闘地域での活動であるが、参加隊員は武装勢力との衝突から戦闘に巻き込まれる恐れ、を本音として感じざるを得ない状況下にあった、であろう。任務遂行上の武器使用が認められた今、ことある場合に国家から派遣されたものの命を自衛隊が守らねばならない、そのための武装集団としての本能(感性)を鋭敏にし、問われる覚悟やスキルを磨いて、未知を乗り越えようとしたであろう。
 実際、陸自宿営地に対する迫撃砲・ロケット弾の攻撃が計14回(各1発?3発程度)計22発発生。2004年10月22日から2005年7月4日まで4回連続して各1発ずつのロケット弾が宿営地内に着弾した。うち2004年10月31日の攻撃は、宿営地西側に置かれた荷物用コンテナを貫通した。当時の隊員の宿舎はテントであったが、陸上自衛隊は隊員の安全強化のため砲弾を通さないコンクリート宿舎を築造した。2005年6月23日 - サマーワ郊外で陸自車両に対する路肩爆弾(IED)による攻撃(車両が破損)を受けた。空自は米兵をバグダッド空輸の際、地上から携帯ミサイルで狙われた。陸自と同じくムサンナー県で治安維持活動を行っていたオランダ軍は武装勢力などと衝突し、2004年5月10日 - サマーワ中心部で警備中に手榴弾の攻撃があり、オランダ軍兵士1人が死亡、1人が重傷を負った。2004年8月14日 - サマーワ近郊のルメイサで、パトロール中の車両にロケット弾の攻撃があり、オランダ軍兵士1人が死亡、5人が重傷を負い、武装勢力側のイラク人2人も死亡した。その他パトロール隊などへの攻撃に加え、オランダ軍の宿営地に対しても陸自と同様の攻撃が継続して発生した。
 陸自は迫やロケットの弾先の被害は受けたが、直接武装勢力と衝突し戦闘に巻き込まれたことはなかった。各群長の体験談によればもちろん任務完遂は当然のこととして、最大の関心は戦闘に巻き込まれないことにあった(イラク自衛隊の真実)と思われる。沢山の実弾射撃訓練で自信に満ちた隊員がいて、駐屯地の車両の一糸乱れぬ整頓や隊員の敬礼等部隊の威容を保持し、また夜間残業する共用作業室・隊員居室などの耐弾性を強化して隊員の安心環境を作り乗じる隙を与えなかった。さらには発射された迫やロケット弾の着弾地や発射位置にすぐに警護の外国軍と駆け付け、連続弾を抑制し、武装勢力の増長を防いだ。また公道走行時は米軍のように有無を言わせず一般の交通をストップするようなことはせず手を振り笑顔を見せながら流れを捌き、もう一方の手は見えぬところで引き金に指をかける等しなやかな強さを持ち、常に一人一人が作業現場への行き帰り等日常の細かい変化に注意し、また部族長や警護の英軍・豪軍とのコンタクトを緊密にとり、意思疎通を良くし、彼らの影響力を発揮し易く情報が入りやすくしたことなどで衝突の芽を事前に摘んだ。同時に、イラクの戦場全体にも注意を向けて、武装集団としての戦の臭覚を研ぎ澄まし、群長から一隊員に至るまで共有するという貴重な体験を積んだ。
 4-2-2 日米同盟の深化
 日米同盟の重視を鮮明にする新しい試みである。アメリカ主導によるイラク戦後の復興への参加はアメリカとの同盟を深化させるという政府の次をにらんだ手であったろう。日本政府は大量破壊兵器はなかったが動揺する諸国軍のなかでアメリカを支持し続け、最後まで支援をやりきって、英国、オランダ、オーストラリアと足並みを揃え撤収し、同盟諸国からの普通の国家としての信頼を固めた。その背景には膨張をつづけ、今や南シナ海、東シナ海をわが海として太平洋をアメリカと2分しようとまで広言する中国、尖閣の領有を公然と主張し、その野心を隠さない中国の脅威対処に日米同盟の深化特に双方向性をたかめることは喫緊のテーマであって、その実現を図る重要な機会としたい、と日本政府はとらえ踏み込んだに違いない。
 4-2-3 指揮官を選ぶ基準
 第1の試みと絡むが復興支援群長に普通科、一名を除き、の連隊長経験の適任者を当てるという試みである。日本ならではの施設科による国つくり貢献という日本モデルの道を進み続けるなら指揮官は施設科の適任者が良いに決まっている。しかし、非戦闘地域といいながら、武装勢力は存在し、状況が激変し武力衝突から戦闘に巻き込まれる恐れはゼロではない。そこに至らない努力は当然としてもそうなった場合に派遣された隊員や日本人を守るのは自衛隊しかいない。将来的にはもっと厳しい状況の国際貢献の場だってあり得るだろう。日本ならではの国際貢献スタイルは維持しつつも、隊員等の命をまもらなければならない。その重さに耐えつつ、覚悟とスキルを積み重ねなければならない、イラク人道復興支援群長の人選基準にはそのような試みがあると感じる。
 4-3 活動の効用
 その1、2005年(H17)同年1月上旬に地元紙アッサマワが現地のムサンナ州の住民1000人を対象アンケート調査を行った。それによると、陸上自衛隊派遣延長についての支持が78%、不支持は13%であった。また、自衛隊の活動に対して不満と答えた人は約3割おり、その主な理由を「事業が小規模」とあげた人が半数近く上るなど、大規模な都市整備などの活動が望まれていた。
 その2、イラク人道復興支援活動も国民の負託に応え、国民の期待はさらに膨らみ国際平和協力活動を自衛隊の本来任務に位置付けた。従来は付随的な業務とされていたが、2007年(H19)に我が国の防衛や公共の秩序の維持といった任務に並ぶ自衛隊の本来任務に位置づけられた。(自衛隊法3条)

5、東日本大震災災害派遣とその未知
《未知の本質》
2011年(H23)3月11日に最大震度7の東北地方の太平洋沖地震が発生し、未曽有の大津波、火災などによる大規模震災《未知の本質その1の1》が発生した。またこの地震に伴い福島第一原子力発電所は津波により1 - 5号機で全交流電源を喪失し、ために原子炉を冷却できなくなり、1号炉・2号炉・3号炉で炉心溶融(メルトダウン)が発生、大量の放射性物質の漏洩を伴う国家が経験したことのない重大な原子力事故に発展した《未知の本質その2》
 5-1 大規模震災災害派遣とその未知
 地震発災と同時に東北方面隊は即ヘリ偵察を行い、リアルタイムで映像伝送しこれをもとに官邸は、県知事からの自衛隊指揮官への出動要請も踏まえ、大規模震災災害派遣命令を発出、陸海空自衛隊は出動し、10万人態勢で救助に当たった。人的被害の発生は東北地方を中心に12都道府県で2万2000人余の死者(震災関連死を含む)・行方不明者であった。災害の種類・規模と即応上、未知の領域にあった。自衛隊は統合任務部隊を編成、東北方面総監が陸海空部隊を指揮した。陸上自衛隊として最初の陸海空の統合任務部隊であり、統合運用の面でも未知の領域にあった《未知の本質その1の2》。派遣された自衛隊の部隊の規模は、ピーク時、陸上、海上、航空自衛隊の総数で、人員約107,000 名、航空機 541 機、艦艇 59 隻となった。活動として、人命救助1万9,286名(全体の約7割)、御遺体収容9,505体(全体の約6割)、物資輸送1万3,906トン、給水支援3万2,985トン(最大約200か所)、給食支援500万5,484食(最大約100か所)、入浴支援109万2,526名。その他、航空機による情報収集、消火活動、人員及び物資輸送、医療支援、道路啓開、がれき除去、防疫支援、ヘリコプター映像伝達による官邸及び報道機関等への情報提供、自衛隊施設における避難民受入れ、慰問演奏、政府調査団等の輸送支援等を行った。
 隊員は過酷な状況に身を置き、最初の72時間が人命救助の鍵と不眠不休で当たった。事後も行方不明者捜索・遺体収容・被災者の生活支援、応急復旧、復興支援へと、すべては被災者のためにを合言葉に、各機関と連携し、全期間を通じて多岐にわたり献身的に活動し、その任務を果たした。

5-2、原子力災害派遣とその未知
 5-2-1、概要
 原子力災害派遣命令を受け、陸上自衛隊の中央特殊武器防護隊 及びヘリ団の大型ヘり2機、海上自衛隊及び航空自衛隊の消防車(10名、12台・40名)等が出動し、原子炉冷却のための放水(3月17日、福島第一原発への空中放水約30トン、17日~21日に地上放水約340トン)放射線や放射性物質の測定の実施・支援などを行った。指揮官は中央即応司令官であった。この派遣は平成11年の原子力災害対策特別措置を定めた同制度創設以来、自衛隊の役割はオフサイト(発電所外での放射能測定など)、を超える、従って寝耳に水といってもよい過酷な未知の領域《未知の本質その2》であった。

5-2-2、3号機への地上給水(隊長岩隈Ⅰ佐談、ブログ「2チャンネル金曜プレステー自衛隊だけが撮った0311に思う」より)

 原子炉のメルトダウンを防ぐ為、緊急の予防措置として兎に角炉心に給水しなければならない。できなければ大変なことになる。現地対策本部では自衛隊の給水タンク車を即効の手として目をつけ、やってくれるか?と要請した。日本が駄目になるかもしれない緊急時、誰かが何かをしなければならない状況だ。すぐに打つ手は見つからない、誰も前に出ない状況では自衛隊が行動するしかない。しかもこの状況で部隊としては中央特殊武器防護隊しかいないと覚悟を決めた。核や生物・化学兵器に対応するための専門部隊である、中央特殊武器防護隊ではあるが、原発事故に直接対処することを想定した訓練は、行っていなかった。当時の防衛省の原子力災害対処計画では、自衛隊の任務は「オフサイト」、つまり、原発の敷地外での住民の避難誘導や、放射線量の測定とされていたからだ。しかし、史上最悪レベルの事故を前に、そんなことは言っておれなくなった。この日以降、自衛隊は、前例のない原発事故への直接対処という未知に立ち向かうことになった。岩熊一佐はその先頭を走った。
  隊長は自らが陣頭に立ち、給水トレーラー2台を率い、指揮官車に敢えてジープを使いー給水隊員と同じリスクを背負って隊員を同行した。
 到着して給水作業にかかろうとした午前11時1分、3号機が水素爆発。吹き飛び大破する給水タンク車と指揮官車のジープ。降下する大きなコンクリート片、ジープはひとたまりもない。給水車の下に逃げ込む4名。ジープの隊長とドライバーは動きようがない。隊長以外は皆負傷した。ジープは大破、4人とも、命に別状はなかった。
 その収容・離脱にかかわる現場での臨機の処置も遅疑逡巡することなく陣頭で行った。あの時自分が指揮官として行っていて良かった、(若し行かなければ)一生後悔したことでしょうと語る。
  当初から自衛隊はどこでも活動する覚悟で偵察車4両を使い全域に放射線斥候を出した。従って飯館の高い値も勿論掌握済み、それに基づいて行動した由。現地対策本部にも報告済みであったという。自衛官が身を張って得たデータは自衛隊の行動の為ではあったが、それだけではないはず。住民の避難に活かされたのであろうか?
 中央特殊防護隊隊舎エントランスに掲示された手紙
 2012.3.13中央特殊防護隊長を訪れた際、見かけた手紙には東日本大震災の派遣活動を励ますため某女子大教授がゼミの学生を連れ千羽鶴を届けに来たが、メルトダウン、どれくらい危険か、よくわからない中に、一番先に注水に駆け付けられたことを初めて知ってその勇気・使命感に感動した。そして当たり前の安全、日本の平和の陰に命がけの人がいるということに気づき自衛隊への感謝と尊敬の念で一杯です、という意が書いてあった。自衛隊が命懸けで使命を果たした姿が国民の感動を呼び、この手紙となり、それがまた自衛官の心の支え、励みになる。そういう響き合いに清々しい気持ちになった。
 
 
5-2-3、空中放水(104飛行隊長の手記より)
 104飛行隊は災害待機部隊に指定されていなかったが、発災直後命令で霞目に移動し、避難者・病人の空輸等を実施していた。TVで水素爆発を知り、大変なことになった、と思った。3月14日夜、上級部隊から、直接的な活動がある旨を指示され、チェルノブイリでホウ酸を撒いたり放水した事例を研究した。3月15日、霞目に展開していた他の飛行隊に、放水についての準備指示があり、翌日の3月16日午後、放水任務に向かったが、原発上空の放射線量が高く、その日の任務は中止となった。
  その日の夜、104飛行隊に翌日の放水が命ぜられた。放射線量や水素爆発等の状況は変わらないという状態で、どのようにすれば、安全に任務を実施出来るか検討した。最終的には、放水の高度を前日よりも高めに設定するとともに、原発上空で停止して放水するのではなく、ある程度前進速度をもって放水するという計画で臨むことにした。
  当時、ヘリ群長と群の幕僚は、朝方まで必死になって、どれ位の高度・速度であれば、被ばく量がどれ位で、安全に任務を遂行できるかを細かにシミュレーションし、適切な戦闘指導(アドバイス)をしてくれ、お陰で飛行隊長もある程度の腹案をもって任務に臨むことができた。3月17日は、0400より航空機の準備を進め、万端の準備を終えて、0856霞目飛行場を離陸し、福島第一原子力発電所へ空中からの放水活動に向かい、各機2回計4回の放水任務を行った。
 万端の準備について
 空中からの放水のためのCH-47J×2機の他、原発上空の放射線量を測定するためのUH-60JA×1機、また、隊員が許容量を越えて被曝した場合速やかに病院へ搬送するための後送機としてCH-47JA×1機、更に、放水のための航空機に不具合が生じた場合のための予備機としてCH-47J×1機が地上待機という5機任務編成。また、Jビレッジには、燃料補給等のためにタンクローリーを派遣するとともに、検知・除染のための部隊が待機した。
  航空機には放射能による被曝を最小限にするため及び放射能を帯びた塵等が侵入するのを防ぐための処置を実施した。航空機の操縦士及び整備員が位置する場所には、防衛企業に急遽問い合わせて放射線を遮断する鉛の板やレアメタルのシートを取り寄せて敷き詰め、空中からの放水の際、航空機の下方の大きな開口部(通常、空中からの放水の際には、整備員が懸吊物の状態を確認したり、地上の状態を確認して放水を実施)には、アクリル板を敷き、密閉した。
  乗員は、通常の飛行服装に加えて戦闘用防護衣、防護マスク、更に、約20kg近くある鉛のスーツを装着した。更に、被曝する可能性を考慮して、任務に関係する者は、ヨウ素剤を服用した。
 飛行隊の空中からの原子力発電所への放水のための事前訓練は、実施する時間がなかった。しかし、山林火災における災害派遣や空中消火訓練等で実際に経験していたので不安はなかった。特に障害となったのは防護マスクや鉛のスーツだったと思います。
 放射線に関する教育については、飛行隊内で知識を有する者が教育を実施した。内容は、放射能に関する事項(放射能の特性や被曝量に応ずる身体への影響等)、線量計の使用方法等で、ある程度の判断基準を得る事が出来た。
 隊員の選定については、希望者を募って人選をしたのではなく、現地に派遣されている者の中から、本人の能力、意思、じ後の任務等を考慮して操縦士及び整備員を選定した。
 隊員は、目に見えない放射能ということでやや不安そうな者、国の一大事であり是非とも任務を遂行したい者等、反応は様々でした。ただ、任務についた隊員からは、色々な思いを持ちながらも、任務にまい進する気持ちをとても強く感じた。
 
 万全の態勢を取って、任務に臨んだが、必要な資材を調達したり、また、夜中に輸送したりと多数の方々が努力してくれたおかげで準備が進み、安全に任務ができた。
 
 5-2-4、放水冷却隊(陸海空自衛隊の消防車12台)の地上放水(現地指揮官で現地調整所長を兼ねていた田浦将補談、ブログ「原子力災害派遣ー原発敷地内に於ける放水冷却隊(自衛隊)員の活動を思う」より)
 安全を自ら確認して出撃を命じ、毎回スタートポイントで見送った。隊員は敬礼し、フルフェースの防護マスク越しに、目を合わせ、ガッツポーズ等をして心意気を示してくれた。この時ほど隊員が頼もしく、頭が下がる思いをしたことはない。私は心を込めて答礼した。
 放水冷却隊は中央即応集団の化学防護車に先導され、荒れた道路を1時間かけて前進、化学防護車2両が放水現場へ先行し安全点検。そののち、後方の待機場所にいる放水車が1台ずつ交代しながら前進し放水。12台がすべて終わるまで化学防護車は2時間ほど現場張り付き。安全確認後先導で帰還。瓦礫除去等あらゆる事態に備えてドーザー付き戦車2両も待機した。 
 20日には2回の出動、1回の出動に8時間かかった。極度の緊張とタイベックスーツ、鉛ベスト、マスク等着用が隊員達の体力を擦り減らし明らかに限界。にもかかわらず不満一つ漏らさず、士気高く任務遂行
 原子力災害仕様の服装・装具、タングステンシートを操縦席に張り巡らした消防車、モニタリングシステム、線量計測、放射能除染、メンタルヘルス、医者の問診、緊急警報システム等を短い期間に整え、放水冷却隊が無事に任務を完遂出来る環境を整えた。
 
 この後、より威力のある東京消防庁のスーパーボンバーで海からホースで800メートル=1号機北からくみ上げ、屈折放水塔車で連続放水、さらには超巨大ブームを有するコンクリートポンプ車へと引き継いだ。
 現地調整所設置の経緯―本当に困ったときに頼りにされた自衛隊を象徴
 現地調整所の設置は18日の原子力災害対策本部の海江田経済産業大臣(当時)及び統合対策本部の細野内閣総理大臣補佐官(当時)の指示及びそれらを合わせる形での20日の原子力災害対策本部長(菅内閣総理大臣:当時)の指示が根拠であるという。其の指示の趣旨は「現場における具体的な実施要領について現地調整所に於いて自衛隊が中心となり、関係行政機関等との間で調整の上、決定すること。」「作業の実施要領については現地に派遣されている自衛隊が現地調整所に於いて一元的に管理する事」、国難においてオフサイトの役割しかなかった自衛隊の力が本当に認められ必要とされた証左である。
 
 5-2-5、立ち入り禁止区域での活動(ブログ「自衛隊の3km圏内原子力災害派遣行動を思う」より)
 

 千葉県習志野市の空挺団と福岡県飯塚市の第2施設群は平成23年5月下旬~6月上旬、福島原発直近の3km圏内の大熊町で活動した。勿論前記両部隊を含む自衛隊は発災直後から災害派遣。原子力災害派遣は4月中旬から30Km圏内で実施し、最後に残ったのが大熊町。3km圏内は立ち入り禁止。発災74日目の自衛隊投入、ご遺体は放置され、被災現場は手つかずのまま。放射線は他地域に比べると断トツに高く高強度被曝の恐れ、水素爆発の恐れ、余震は続き大地震の恐れ、大津波の恐れ・・などなどがあった。

 しかし①両部隊は当たり前で、何事もなかったように立ち上がり、行動し任務を完遂した。②施設群、特に先遣中隊はそれが"任務"と空挺部隊に先行して当該地に進入、2日間で地震で壊れた道路を修復し、行動を助けた。
 ③空挺部隊と施設群は立ち入り禁止地域で自分たちしか行動しないからこその"真に被災地(者)の心で"の作業標準を作り、全隊員が誇り高くそれを守り、質の高い捜索活動を行った。その作業標準とは①立ち入りが許されたわずかの時間で一目で変化が分かること。②不明者や遺品も一目でここにはない、これがすべて、といえるぐらいに徹底した作業をすることなどである。④いざというときの脱出の手立て、地域(点)放射線データの入手、個人ごとの被曝管理、高い放射線を浴びての長期間(時間)行動のため交代制シフトの徹底、作業・行動時のタイベック着用厳守などを守り安全を確保した。
 指揮官の災害派遣における任務意識の中に被災者の心でー国民の負託に応える役割の実践という視点が受け継がれてきた。それが『立ち入り禁止区域だから高い完成度を追求』に結実している。また阪神淡路災害派遣出動の際、現場で先輩から指導された『被災地の方は笑って話していても心のうちは複雑だ。謙虚な心を持て。だらだらするな、飯はトラックのかげで食え・・など。』が現地に立つとすぐ頭に浮かび、若い隊員を指導する言葉となった。
 指揮官が本気で隊員の安全を思い、追求する施策や行動が隊員の安心や指揮官に対する信頼を生み、国民の負託に応える大きな仕事を生む。
 
 
 5-2-6、同盟の深化の試み
  発災後、米国は支援の用意がある旨表明、これを受けた形で同夜日本は要請。未曽有の大災害に見舞われた日本を支援するため、米軍が開始したのが「オペレーション・トモダチ」=「トモダチ作戦」だった。米軍は、統合支援部隊(JSF)を組織し、司令官に太平洋艦隊司令官のウォルシュ海軍大将を任命した。陸・海・空・海兵隊から、最大人員 20,000 名以上、原子力空母ロナルド・レーガンを含む艦船約 20 隻、航空機約 160 機が参加した。
 活動状況としては、空母は福島県沖およそ200キロの地点を通過し、三陸の沖合に展開。
 孤立地域、離島の被災地に艦載ヘリコプター等で非常食等を運んだ。沖縄の第 31 海兵機動展開部隊搭載の揚陸艦エセックス等による支援物資の輸送・提供のほか、津波で冠水し、がれきに覆われた仙台空港に沖縄駐留の海兵隊が投入され、自衛隊と連携することで、発災5日後には重機などを積んだアメリカ軍の輸送機が着陸、大きな復旧・復興の灯をともした。その後、陸軍の部隊は、JR仙石線のがれき撤去作業も行った。空軍は、空軍機による人員・物資の輸送も実施した。
 また、米軍は、海上自衛隊等と共に4月1日から 26 日までの間に3回にわたり被災地の沿岸部で行方不明者の集中捜索を行い合計 289 のご遺体を発見した。アメリカには「A friend in need is a friend indeed(困ったときの友こそ真の友)」ということわざがある。それを地で行く心強い支援であった。
 同盟深化の実感
 その1、日本国中の人が米軍に対する敬意と感謝の気持ちと共に日米安保が機能する事に限りない安堵を覚えた。また救援司令官であった ウォルシュ海軍大将はNHK放映のなかで「東日本大震災によって日米同盟は試され、両国は堂々と答えを出してみせた。アメリカが同盟国に対してどこまで支援するのか、日本がアメリカとの関係においてどれほどの地位を占めているのか、東アジアの国々ははっきりと理解したことでしょう」と発言している。
 その2、「日米共同訓練とか、戦後の日米同盟の歴史の財産があったから、今回のトモダチ作戦で、米軍と一緒に仕事をできた。お互いを更によく理解しあえた」、といえる。そのよい例がある。陸上自衛隊及び米陸上部隊が、それぞれの指揮系統に従い、共同して作戦を実施する場合における方面隊以下の指揮幕僚活動を演練し、その能力の維持・向上を図ることを目的とし、毎年、日本とハワイで1回づつ実施してきた。日本では5ヶ方面隊持ち回りで全体のレベルアップを図ってきた。発災前の2010年度に西部方面隊が行ったYS-59において、日々行った指揮官ミーテングの双方の顔ぶれがそのまま発災後仙台に揃い、気心しれた安心感があった、という。そういう意味ではイラク人道復興支援派遣も大きな意味があった、といえるであろう。
 その3,自衛隊が危険を冒して放水を行ったことを知ったアメリカ軍は、アメリカ人退避の可能性を示唆していたが、称賛のことばを寄せた。あの放水を決行したからこそ、ギリギリのところでアメリカの信頼をつなぎとめることができた、と考える識者は多い。というのはアメリカ政府は東京在住のアメリカ人9万人を退避させることを議論していたらしい。原発が制御できているのか状況が分からない中、エネルギー省はコンピューターによる放射能拡散のシミュレーションを続けていた。結果が出ていない段階で行われた会議では、万が一の場合を想定し、避難させるべきだという声が上がっていたという。しかし、 避難させて後で必要なかったとなればアメリカ人は逃げ出したと思われ、日本の信頼を失い、日米同盟の基盤が崩れてしまうというおそれを勘案して、会議では「シミュレーションの結果を待つべき」という意見が通った。その後、放射能レベルは問題ないことが確認されたとして避難は見送られた、ということである。その決定次第では米軍も従わねばならなかったであろう。その場合でも日本が本気を見せたことで同盟の本質上、アメリカ軍には自らを守る同盟国は米兵の血を流してでも援ける、という実践が迫られたであろう。在日米軍司令官(当時)であった バートン・フィールド氏は「原子炉の中で何が起きているかを誰も理解しておらず、十分な速さで情報が出てこないという、いらだちがあった。ただ、世界最悪の災害が起きたのだから、少し待つ必要はあった。 どんな理由であれ、もし、私たちが避難するなら、私は最後の1人になるつもりだった」と述べている。この試練は同盟の行く末を左右する未知という側面もあった。
 
 5-2-7、予備自衛官、即応予備自衛官召集
 制度創設以来初めて予備自衛官及び即応予備自衛官が訓練以外で招集(災害招集)された。陸上自衛隊の即応予備自衛官については、3月16日から5月12日の活動終了までに累計で2,179名が行方不明者捜索、がれき除去、生活支援等に従事した。陸上自衛隊の予備自衛官については3月16日に、海上自衛隊及び航空自衛隊の予備自衛官については4月15日に招集命令が発出され、技能公募の7名が3月23日から4月7日にかけて医療・通訳業務に従事し、技能公募を除く462名が4月26日から6月22日にかけて給食業務等の駐屯地における後方支援等を行った。
 効用
 この後の施行を経て、陸上自衛隊で自衛官経験のないものを採用する予備自衛官補が平成13年(2001年)に創設され、平成14年度(2002年度)から採用され、3年間に50日訓練を受けさせ、予備自衛官となった。平成30年に、予備自衛官補に基本特技を取得させて即応予備自衛官に任用する制度が始まった。一般公募と技能公募よりなるが予備自衛官補は民に足を置いているので、従来の予備自と違いソースは無限であり、ことある場合の自衛隊のエクスパンドのソースを広げる意味で、大きな意義がある。特に常備である陸上自衛隊15万と予備5万では絶対的に戦力が不足するが、これからはこの拡充が喫緊の課題となるであろう、と思うのでなおさらに意味があると思う。また、国民との接点がより広がるという点に注目して、自衛隊と国民の連携の新たな核に育てなければならないと、と考える。

 5-3、派遣行動の国民の評価―負託の方向
 
 内閣府は2012年(H24)年3月12日、「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」の結果を発表、「自衛隊に対して良い印象を持っている」の割合が前回調査時(2008年1月)より10.8ポイント増加して91.7%と、調査開始以来最高となった。
 自衛隊や防衛問題に関心がある割合も、前回調査比5.1ポイント増の69.8%と過去最高。関心がある理由では「大規模災害など各種事態への対応などで国民生活に密接なかかわりを持つから」が同5.4ポイント増の34.0%となった。
 自衛隊は今後どうするべき?自衛隊の規模については「今の程度でよい」が60.0%と最も多かったが、「増強した方がよい」が前回調査比10.7ポイント増の24.8%と大幅に増加した。「自衛隊が今後力を入れていくべき面」を聞くと、「災害派遣(災害の時の救援活動や緊急の患者輸送など)」(76.3%)や「国の安全の確保(外国からの侵略の防止)」(71.5%)が上位。以下、「国際平和協力活動への取り組み(国連PKOや国際緊急援助活動など)」が43.5%、「国内の治安維持」が41.7%、「不審船や武装工作員への対応」が29.5%で続いた。
 
 90%を越える国民が自衛隊を必要と認めている。この事実は重い。これには東日本大震災での救援活動が影響を与えたことは明らかである。これに安住せずさらなる試練、未知を乗り換え、国民の負託に応えられるよう自衛隊は歩み続けなければならない。

6、未知を乗り越えさせたもの

6-1、隊員の使命感
 隊員は目の前に危険が迫り自らの命が危うい局面(雲仙普賢岳救援、原子力災害時の放水、同警戒区域内の捜索)でもたじろがず粛々と命に服し、任務を果たした。このために特別な訓練や特技者を集めたわけではない(特に消防放水者は陸空海の寄せ集めの急増編成)が、いわば気分的には普段着に毛の生えた出動にもかかわらず、士気高く犠牲的精神を遺憾なく発揮した。またどのような危険が起きるかわからない不安な新しい任務(カンボジアPKO、イラク復興人道支援)で国論が分かれている中でも明快に意思を示して任務に服した。悲惨、過酷な環境下(阪神淡路、東日本大震災)でも長期間耐え続け、不平不満・弱音を吐かず、黙々と、一人でも多く援ける、すべては被災者のために、と献身し、任務を高いレベルで果たした。これを総して命令に粛々して服す、簡素明快な使命感があるから、といいたい。特にイラク人道復興支援第2代業務支援群長田浦1佐(当時)が連れて行く100名全員と酒を酌み交わし、酒席でぶった消防士論がその典型である。「我々は消防士と同じだ。火元がいかに遠かろうが、火元となった家人の日ごろの行いが悪かろうが、火事の原因がおかしかろうが、そんなことは関係ない。我々は消してくれと命じられれば、そこに消しに行くだけだ」。(イラク自衛隊の真実)

 隊員は私心を去り、任務遂行にもっぱら専心する心を国民の前に示した。これは服務の宣誓の「ことに臨んでは危険を顧みず身を以て責務の完遂に務め、以て国民の負託に応える」という自分の誓いの一生かけた実践であり、誓いを使命感にまで高めた「顧みずの心」の発現である。普段着の心がすでに高い使命感にまで高められており、個人の修養はもちろん、これをもたらしている自衛隊の組織風土の健全さ、すばらしさの表徴である。

 そして日米同盟が深化すればするほど、同盟国へも【顧みずの心】を尽くす誠が求められる。トモダチ作戦に参加し、空母「ロナルド・レーガン」に乗り組み、三陸沖に停止しての救助活動で、放射能を浴びたとして、その後身体障害のため、米海軍を除隊となり、東京電力を訴えたシモンズ氏に取材をした某記者が除隊後のみじめな気持ちを聞いたのち、「トモダチ作戦に参加したことを後悔していますか」と問うた。これに対し「答えはノーだ。もう一度あの時に戻れたとしても、同じことをするだろう。軍隊というのは、人生に大きな影響を及ぼしかねないリスクも背負うことになると承知のうえで、入隊するものだ。日本は同盟国、私に言わせれば兄弟同然だ。だからどんな状況であっても、もし同じ状況に置かれたら、同じことをするだろう。それが兵士というものだ」と答えた。
 米軍人で同盟国日本へその使命感を尽くすものがいる。自衛官もそういう状況に置かれたら同盟国アメリカにも【顧みずの心】を尽くす、と確信する。同盟の深化とはそういうことである。

6-2、指揮官の使命感と責任感
 各指揮官は目の前の自分たちに降りかかるであろう危険は十二分に承知しながらも救えるのは自分達しかいない、一刻も争う、と覚悟を決めて、出動し、任務の確実な遂行と隊員の命を守る安全策の両立に万全を尽くした(雲仙普賢岳、原子力災害空中・地上放水、警戒区域3km内捜索)。阪神淡路大震災、東日本大震災では一人でも多く救う、すべては被災者のためにという篤い思いと高い志を掲げ上下一丸となって実践、過酷な現場で隊員と行動を共にした。カンボジアPKO、イラク復興人道支援において、急な状況に即応し外国での作業・生活面すべてに必要な装備・資器材を組織を挙げて完整し、喜ばれる心のこもった質の高い作業という日本モデルを推進した。また、状況の急変特に戦闘への巻き込まれ抑止に細心の注意を払った。カンボジアPKOにおいて、状況がひっ迫した際、非武装の選挙監視員を守るため、巡回を行い、国家として派遣した日本人を守れないという不備を現場の駆け付け?正当防衛的行動で守った。
 以上から各指揮官は高い使命感と熱い心を持ち、任務に前向きで隊員思い、果たすべき任務の重さ及び隊員を死地に投じる責任の重さと投じられる隊員の命の重さを深く自覚し、任務遂行と安全両立に最善を尽くした。

6-3、陸上自衛隊の精神特質
6-3-1、大使命追求・実践の精神
 有事に即応し、敵に勝つという使命を果たすことを真摯に追求し続け、実力を不断にアップさせ、それを災害派遣や国際貢献活動に行使した。中国の潜在的脅威の増大、北朝鮮のミサイルの脅威等及び国際貢献活動の定着拡充を受け或いは阪神淡路大震災(1995年(H7)の教訓を受け、統合幕僚監部を発足(2006(H18))させて陸空海の統合運用能力を、中央即応集団を発足(H19)させ即応能力や派遣PKOの指導能力等を向上した。また陸上自衛隊演習、陸海空の統合演習を積み重ね、これに日米共同指揮所訓練をリンクさせ、日米共同指揮所訓練では毎年方面隊を変えて、双方の戦術・戦闘法を理解し合い、終には方面総監も陸幕長も統裁者ではなく、鍛えられる側のプレーヤーになりきることを目指し、大部隊運用のレベルをまじめにアップしてきた。これが大災害や国外派遣に十分通用した。

6-3-2、大災害に本気で備える利他の精神
 大災害の頻発及びその被害の甚大さは災害対処活動を著しく困難にし、広地域にわたり各種の防災対処が必須となればなるほど、自衛隊への期待は大きくなる。だからと言って陸自が前面に出るわけにはゆかない。防災対処は一義的に自治体・関係機関である。このため陸上自衛隊はこれを弁えつつ、自治体が生き自らも生きる知恵を出した。
 阪神淡路大震災の教訓を活かして大震災時の初動・情報連絡・器材更新など国挙げて災害対処態勢が改善され、陸自も自治体・各機関も多発する災害派遣を積み重ねつつノウハウを積み重ね、また隊区内災害様相研究を深め、陸自が主導して各方面隊毎或いは広域防災対処の指揮所訓練を行い、関係自治体や機関との連携を深めて広域地域の総合防災力向上に寄与してきた。これは自治体等の自衛隊活用能力を高めることが地域の防災対処能力を向上させ、それが陸自の活動をより効果的にするという利他の精神の発露であった。
 東北方面隊では前年に同規模の災害を想定したみちのくアラート2010を行ったが大震災本番につながる事前演習的効果を上げた。これらの結果、東日本大震災では即応し、10万人態勢で統合部隊を編成し、長期間派遣を継続し、大部隊運用の実力を示した。

6-3-3、国際貢献の途を拓くパイオニア精神
 カンボジアPKO、イラク復興人道支援とタイプの違う国際貢献に挑戦し、組織全力で取り組んで、無事成功させた。組織として前例のないことに次々と挑戦し、色々な種を播き苗木とし、いずれも失敗が許されない重圧をはねのけ執念をもって成木に育てた。且つ国際貢献の日本型モデルを作り上げた。

6-3-4、現場は《献身・自己犠牲、パイオニア、前向きな任務遂行と安全の両立》の精神に富み、陸自全体はこれを挙げて支える精神
 現場では、目の前に危険がせまりわが身が危い時、何が起きるかわからない状況でも目の前の被災者を救うという献身・自己犠牲の精神があった。未曽有の国難打開や国際貢献という国家の新しい役割開発に立ち向かい、その先頭に立つというパイオニア精神があった。指揮官は厳しい任務必遂行とかけがえのない隊員の命を守る、を両立した。陸全体はこれを支えるため組織の英知を集め、現場で生じるであろう任務遂行上のあらゆる困難や事故を洞察して、対策・指導を徹底した。

6-3-5、次の芽出しの精神
 イラク復興人道支援ではPKOではなく特措法で、アメリカとの同盟の深化を図った。この場合アメリカは実質戦闘中であり、非戦闘地域への派遣となった。非戦闘地域でありながら 戦闘に巻き込まれる恐れを常に考慮せざるをえず、初めて戦いのにおいのする地域での活動となった。このため、巻き込まれないために全力を挙げるが不測の事態にも備えた。同時にもっと厳しい派遣もにらんで戦いのにおいを嗅ぎ、対処本能を磨く機会とした。また東日本大震災では予備自衛官・即応予備自衛官を始めて召集した。

6-4、受け継いできた心構え或いは精神(要目)
 未知を乗り越えたもの、という命題で思案中に、ふと先人(先輩)から受け継いだがゆえになったものがありはしないかと思いつき、オーラル・ヒストリー「中尾時久」回読感想(後述)を引っ張り出して、先人(先輩)から受け継いだという点に注目したところ、題意にあう心構え或いは精神(要目)がある、ことに気づいた。
 一つは「顧みずの心」である。
 隊員は入隊に際し、服務の宣誓「ことに臨んでは危険を顧みず身を以て責務の完遂に務め、以て国民の負託に応える」ことを誓う。危険に際しても任務遂行にもっぱら専心することであるが、これは怖い不安という気持ちや功利の心をなくして夢中に命がけで任務に向き合うことを意味し、「顧みずの心」である。そしてこれは連綿と続く我が国固有の武人の心である。隊員は自分の誓いを一生かけた実践し、誓いを使命感にまで高める努力をする要がある。部隊団結の核心である指揮官(幹部)は任の重さや隊員を死地に投じる責任の重さを深く自覚し、その任に専心することと死地に投じられる隊員の命を守ることに最善を尽くすことの両立に努める要がある。これは連綿と続く武人の伴の緒たる統べるものの心がけである。
二つは、防衛の任を果たす自分ごととしての心得(覚悟)である。例えば、いつ起きるかもしれない有事に備え続け、代々引き継いで、その場に当たったものがその任を果たす、という心得。或いは「そのポストにあるときに陸自をより強くするため一つでも二つでもやるべきと信じることを果たすという、という心得。
 先日、オーラル・ヒストリー中尾時久を回読させて頂く機会があった。中尾時久先輩は防大一期生である。戦後の新しい武装集団の魁としての「名誉」と国防という本来重い任に加え、その任は制約だらけで、その制約を切り拓くパイオニアとしての役割も合わせ 持つという「重荷」を背負ってきたと常々言われて来た。その上で、その一期生の先頭に立って「名誉ある重荷」を背負った自衛官生活を過ごされた。読み終えて、自衛官生活の力点が①防衛の任の重さにどのように向き合い②その制約をどのように切り拓いたかにあると感じた。これら二つを私は表題の心構え或いは精神要目の代表例として加えたい。
 前記中尾先輩の言①について、実際私の在隊間にいろんな上司に仕えたが、それら方々の統率方針は「即応、任務必遂、精強部隊の錬成」、「国民に信頼される部隊、地域と共にある駐屯地」などという、防衛の任という重荷に関するものであった。中尾先輩は「例えば」の後者の心がけをもって陸自での各ポストに全力を尽くされた。このことに私は感動しつつも、他の先輩方からも篤い指導を受け、私もその篤さを受け継ぎ私が与えられたポストに私ならでは込めていたことを思った。
 
 三つは、仕事・任務遂行上の制約・縛り、この場合政治・行政上に絡む外的要因を指す、に向き合う心得である。
 前述中尾先輩の言②について、また中尾先輩の制約についてはものすごく実感するところであり私は縛りと表現している。軍事忌避の潮流を受け、自衛隊創設の経緯等から自衛隊は制約というか縛りに何重にも囲まれている。本文で観察したところでは、与えられた条件下で、自衛官が努力を尽くし、結果を出し、ある面では問題を提起した。それを通じて、世間は制約・縛りの不当性を理解し、その解消に動いた。従って、自衛官の真摯で地道な忍耐・献身によって、扉を開いてきた。不条理であるが、自衛官の行動は、軍事忌避の風潮等をうけた防衛無関心層心にも訴える力があるということである。このことを肝に銘じ、誠実に制約・縛りに向き合わなければならない。
 ただ有事、ことある場合は、やってみて改善という悠長は許されない。駄目だったらすべて終わりである。特にこれらの制約・縛りによって、自衛隊が力を発揮できずにことが終わってしまう、或いは自衛官が無駄に命を落とすことがあってはならない。
 
 阪神淡路大震災が示したように、制約・縛りによって、救えるはずの命が多くあったことの教訓は有事には未だ活かされていない。そう考えると、憲法9条改正、これは急がねばならない。自衛官はその不具合や変更の緊急性を誰よりも身に染みて分かるが、改正に動くべきではない立場にある。従って、今や、心ある日本人や自衛隊OBは自衛官の前面に出て自らの考えを主張すべき時、と考える。
 
 ここで挙げた3項すべてに当てはまる金言として『大いなる精神は静かに忍耐する』(フリードリッヒシラー、18世紀ドイツの詩人、思想家(1759~1805))がある。私はこの金言に接して、先人も同じことを考えているのだなと思い、自衛官が受け継ぎ伝える大きな精神、と確信した。前著のなかで中尾時久中方総監は離任式での訓示(この日をもって自衛隊を退官)の最後をこの金言で締め老兵は死なずただ消え去るのみ、後に続く者を信ず、とされておられる。また前田忠男陸上自衛隊幹部候補生学校長(当時)は同校創立60周年に当たり、この金言を同校学生に話され、そのことがNHKスペシャルで放送され全国各階層に大きな反響を与え、視聴した私も大いに感じるところがあった。
 ブログ「NHKスペシャル「60年目の自衛隊 ~現場からの報告~、大いなる精神は静かに忍耐する」に思う」より
 
 そして改めて連綿と受け継ぎ伝える心構え或いは精神(要目)は自分の経験だけではなく先人に学ぶべきとの思いを強くした。特にオーラル・ヒストリーに学ぶべし、と思う。

 オーラル・ヒストリー「中尾時久」回読の感想

6-5、今後さらに心得て拡充すべきこと
6-5-1、状況不明下でわが身が危う場面でも活動効果を挙げかつ隊員の安全を確保する施策が地域の安心・安全の確保にも役立つ
 雲仙普賢岳災害派遣の初動時自衛隊は九大雲仙火山地震研究所に隊員を張り付け24時間体制で噴火を監視し、赤外線の偵察監視レーダーを麓に配置し、噴火の連絡を受け、火砕流の流下の地点と方向をつかみ、それを下流の救出活動中の隊員に伝え、その到達時間を逆算して、安全地帯に退避するという対処法を編み出した。これは災害救援のみならず、後々の警戒区域の設定・縮小・解除と警戒区域内の生活・経済、災害復旧、2次災害防止等の諸活動時の安全確保に大いに貢献した。
 また阪神淡路大震災を契機として、震度5以上の地震で、自衛隊はすぐヘリ偵察を開始、災害状況を瞬時に把握関係部隊・自治体に連絡できるようになった。また映像伝送システム導入により、リアルタイムで官邸、自治体、上下・左右の部隊とその被害状況を目で見て共有できるようになった。
 
 原子力災害事態で中央特殊武器防護隊は放射能検地特殊防護車を各地に展開し収集し、そのデータをもとに、部隊は除染所を併置射して、進入・活動した。対策本部にも提供されたとのことであるが、住民の避難にこれが活用されたかは未確認であった。対策本部の放射能の全般監視警戒情報網の下で、中央特殊武器防護隊も局地(地点)警戒監視網を構成し、或いは任務上独立して特別監視・警戒網を構成して、除染所を併置して自衛隊は安全に活動すべきである。いずれの場合も住民の避難等に役立つきめ細かな情報提供は可能であろうから能力の範囲で有効活用を図るべきである。
 
 東日本大震災発生当初、津波に追われ多賀城駐屯地に逃げ込んできた被災者をどんどん入れろ、と連隊長は指示し、部隊は救助に出動した。霞目駐屯地に移り原子力災害派遣活動を行っていた(その翌日には被災原子炉への空中放水を担当した)ヘリ部隊は自らの宿泊施設を避難してきた被災者に明け渡し,携行してきた天幕に居住して活動を継続した。
 以上のように、自衛隊の活動のための措置や施設を住民や被災者のためにも活かすという視点(余裕)は、任務遂行との調和を図る精神と共に、陸自としては持ちたいと思う。
 
6-5-2、自衛官と武の心ある日本人の感応をますます高め、ことある時に自衛隊と共に立つ人の結集(組織化)を図る。
 いかなる場合も所命に即応し、所命を必遂し続ける自衛隊に国民は最後の砦としての敬意と期待を持って、心からの信頼を寄せてきた。それが武の心ある日本人(註)を多くしその中、ことある場合に自衛隊と共に立つ人を増やす。そして武の心ある人とのふれあいや感応は、雲仙普賢岳災害撤収時の高田長崎県知事の挨拶や原子力災害に出動した中央特殊防護隊を訪問した某大学教授の手紙に見るように、自衛官を奮い立たせる。そうである以上、これからもそうあらねばならない。そうあることで、「顧みずの心」が日本の武の心の標準となって欲しいと願う。

註: (武の)心ある日本人とは以下の?②③を深く理解し或いは危難に立ち向う気概を持って自衛隊の応援、支援或いは自衛官・予備自衛官・即応予備自衛官に加わり若しくは側面支援等の役割を自ら担い行動する人である。?自衛官はわが国の独立と平和を守るという崇高な使命のために身を挺する覚悟の持ち主である。②自衛官の使命感は日本人の心を源泉とし、日本人の心の安心・安寧の最後の砦である。③前述のように自衛官の使命感は地に足がついている。(既HP・希(のぞみ)コーナーの2項理解を深めた先に記念館が目指すところの全体像の註3で定義)

 今、ことある場合に自衛隊と共に立とうという人は自衛官・予備自・即応予備自の応募者・経験者以外では明確ではなく、組織化もされていない。そこに近づける存在と思えるのが自衛官未経験者である予備自衛官補である。従来の予備自衛官・即応予備自衛官は全員自衛官経験者であり、限られている。ところが予備自衛官補は民間に足を置きながら召集訓練を受け、予備自や即応予備自になる。従ってソースは極めて多い。従って、例えば予備自衛官補に、大学・専門学校生用に単位を与えたり、社会人用にキャリア形成のためのインターン(希望者再々履修あり)コースを設け、インターン枠でプールして、心ある人結集の核とし、情勢緊迫時の緊急募集などいざという場合は自衛官・予備自補に採用してはどうだろう。
 まずは絶対的に足りない陸上自衛隊と予備自・即応予備の勢力の大巾増が最優先である。
 この拡充のためにも予備自衛官補のソースは注目されなければならない。またことある場合に自衛隊と共に立とうという人を予備自衛官補を核として組織化(結集)することは自衛官と武の心ある日本人の連携策の"芽出し"としての意義がある、と考える。

6-5-3、自衛隊の教える力の民への還元
 第6-1項隊員の使命感で「顧みずの心」が高いレベルで発現されておりこれをもたらしている自衛隊の組織風土は健全でありすばらしいと書いた。ここで組織風土とは個人に及ぼす上司・教官などの教育上の直接的効果や生活指導・訓練や競技などのチーム活動実践などによる間接的効果としての感化・同化を産む組織の文化や土壌という意味で使った。その中に大きな部分を占める組織の教える力がある。前6-5-2に続いて本項を起こすに当たり、自衛隊と心ある日本人の連携を進める上で、また後述の急速募集に際しても、衛隊の教える力の民への還元が時流になるであろうと予感している。そこに至った、自衛隊の教える力が部外者にも極めて有効である、と気づかされた事例がある。そのことを紹介し、この力を民が活用し或いは民に還元する契機になればと思っている。
 その1、自衛隊の体験入隊で新入社員教育をやってもらえないか、その2、自衛隊で管理職研修をやって貰えないか、とシバタ工業株式会社柴田允喜社長から相談を受け弊社技術顧問であった私はその真意をお聞きして、私なりの事前の調査・根回しの後、前者は大久保駐屯地の第4施設団に、後者は前川原駐の陸上自衛隊幹部候補生学校に、会社から正式にお願いし、第4施設団長(当時小林将補)並びに学校長(当時前田将補とその後任の大庭将補)の大変なご好意を得て、実施して頂くことになった。

 前者(前述その1)について、1年目(H27.6.3~5、第7施設群本部管理中隊担当)は施設基礎作業(施設科隊員が基礎的に習得すべき木工・土工・植杭・連結・銃材料運搬・漕舟)のうちロープによる連結法と重材料運搬法を習い、終了後課題「所定材料の中から所要のものを選び(丸太とロープその他)を使い運搬具を作成、その上に危険物が入ったドラム缶200kgを載せて、200m安全に運搬せよ」がだされ、各グループ(8名)は長を決め、腹案を検討、翌朝総合訓練(作成し運搬の(タイムと確実性)競争)に臨んだ。2回目(H28.6.14~16、第102施設器材隊架橋中隊担当)は操舟を習い、終了後、課題「駐屯地内の池(静水)を500m安全に早く運航せよ」が出され、各グループは長を決め役割を決めて準備・補修を行い、翌朝の総合訓練(逐次発進、タイム競争)に臨んだ。
 これらを通じて感心したのは①《ドラム缶運搬具を作成運搬》各班の検討案を尊重し、対応する指導原案を数種準備し、最後まで行わせ、自主性と達成感を持たせた。メーカーの社員らしく、3ケ班とも独自色の強い運搬具を作成し運搬し習った通り安全・確実に、皆の気合を揃えて、重材料運搬をした。また作業規律や不安全な作業は見逃さずやり直させた。②《漕舟》自主性を重んじ,進度(習熟度)を見極めて(これが出来れば)次のステップに向かう。或いは(できなければ)向かわない、を明示する指導法であった。このため社員は無意識に会社の代表という意識が働いて、お互いに助け合い、より確実に、より安全作業に心がけ最高のパフォーマンスを披露した。指導陣は当初描いたもっともよいレベルの指導を行った。またチーム内の役割分担は挙手で決めた。長及び櫓手(櫓をこぐ人)は特に手をあげる勇気がいったようである。指導陣は運航を競争で行うことには慎重で、各舟にはベテランの指導陸曹1名を載せるようにしていたが、これを乗せない条件・競争させる条件を明示し、社員はならば社の名誉にかけて、と自力運航できるように問題点を改善し、指導陣は熟練度を見極め協議して、GOをだした。何にも知らなかった社員が僅か1日半で自分たちだけでボートを動かせ、しかも競争できるようになった。
③各チーム・個人のスキルの評価表(確実性と速度勘案)を張り出し、反省の資を与える等社員の真摯な努力に真摯に応えていた。

 以上を通じ、自衛隊側はこの種の教育訓練に新鮮味を感じ、部隊間の申し送りも行われて、社員の出方を読んで指導原案を準備し、わくわく感・手ごたえ感を持って指導しているのが十分に伝わった。自主性を重んじながらも不安全・不規律は見逃さなかった。やはり普段の教える力が民間人に対しても有効に適用できると感じた。民への還元という意味でも注目すべき事例と思う。シバタ社員は無意識に社の看板を背負い、メーカーらしく創意工夫してものを作り上げる喜びや皆で一致協力するチームワークの重要性を体感していた。またリーダーの責任の重さを身に染みて感じていた。これらの経験は新入社員教育の目的を大きく達成し彼らの大きな財産になると思えた。この方法は各職種科の部隊・学校でも申し出があれば対応できる余地がある、と思う。
 詳しくは下記をご覧頂きたい。
 ブログ「陸上自衛隊大久保駐屯地における体験入隊で頂いた感動の数々を思う」(2015-06-07)
 ブログ「陸上自衛隊大久保駐屯地の教育関係者がシバタ工業株式会社新入社員の体験入隊で魅せた教える力に思う」(2016-06-21)
 ブログ「陸上自衛隊大久保駐屯地の教育関係者がシバタ工業株式会社新入社員の体験入隊で魅せた教える力に思う」(2016-07-19)


 後者(前述その2)に対しては候補生がすべて卒業した閑期に行われた。1回目(H26.3.17~18)2回目(H28.2.15pm~16am)と指揮統率をテーマに行われ、各部門の執行役員が研修を受けた。特に会社の浮沈を握るような重い意志決定・決断をいかに行うか、そのための心がけ等が(暗黙の)焦点であった、自衛隊の表看板である指揮統率教育の奥深さや応用の広さを改めて感じさせられた。同校では久留米市役所の幹部研修(毎年)や熊本防衛協会の研修も行われたと聞く。民への還元が求められる時流を感じた。
詳しくは以下をご覧頂きたい。
 ブログ「陸上自衛隊幹部候補生学校におけるシバタ工業株式会社の上級管理職研修に思う」(2014-03-19)
 ブログ「陸上自衛隊幹部候補生学校におけるシバタ工業株式会社の上級管理職研修に思う」(2016-03-02)
 時あたかも、予備自衛官補の即応予備自衛官への任用が始まり、海空優先下に見過ごされてきた感のある陸上防衛力の常備と予備制度見直しが必至となるであろう情勢となってきた。自衛隊の教える力の民への還元は時代の必然となってゆくのではないか。そんな気がしてならない。

6-6、今後の課題・提言
6-6-1、憲法9条等改正を急げ
 東日本大震災に対する自衛隊等の活動 ~災害派遣・原子力災害派遣・外国軍隊の活動の概要~参議院外交防衛委員会調査室 笹 本 浩では本文1自衛隊の活動(1)災害派遣活動のなかで、自衛隊の派遣の規模について触れ、その脚中番号4に「 平成7年1月の阪神・淡路大震災の際の自衛隊の初動については、①自衛隊の出動が遅い、少ない、②災害派遣要請が遅い場合には自主派遣をすべき、③情報の収集、伝達体制に不備がある等の指摘がなされた」と書いている。これが意味するところは理由の如何を問わず、自衛隊は結果責任を問われる立場にある、先ほどの松島総監の記者会見もそうだが、ということである。不条理だが、これも自衛官は飲み込んで、国民を守るために最善を尽くさねばならない。しかし、手足を縛られたままで、取り返しがつかない事態が起こるリスクは高い。特に防衛事態は起こって対応、結果を見てから改善、では手遅れ、である。先見洞察転ばぬ先の杖しかない。ことが終わって、自衛隊を責めても、制約で手足を縛ったことを悔やんでも、時すでに遅しである。持てる力を発揮出来ない備えの不条理、制約や縛りを一刻も早く、なくすよう、最大の縛りは憲法9条である。自衛隊の位置づけが不明確。自衛権行使は列国軍隊に比べ著しく制約。防衛出動時の自衛隊の権限が制約等々・・。また憲法に緊急事態の定めがなく、政府が憲法秩序を停止した非常措置を取れない等々・・。憲法の改正は待ったなしのところに来ている。阪神淡路大震災時の松島総監の涙を忘れてはならない。

6-6-2、陸上自衛隊・予備の定員増及び大災害と防衛の両立体制の構築を急げ
 東日本大震災に対する自衛隊等の活動~災害派遣・原子力災害派遣・外国軍隊の活動の概要~外交防衛委員会調査室 笹 本 浩【参議院】によれば、
 今回の派遣において、自衛隊の半数弱の 10 万人態勢がとられたことについて適切な規模であったと評価される一方、主たる任務である我が国の防衛との両立、態勢維持のためのローテーションの在り方、適切な態勢縮小の時期等について指摘がなされた。
 我が国の防衛との両立について問われた北澤防衛大臣は、10 万人態勢で行うのは初めて
 であるが、一方で半数が残っており、国の守りを遺漏なきように行えるようにし、後顧の憂いのない態勢をとれたとの見解を示した。
 今後、大規模な首都直下地震等が発生した場合も同様の態勢がとられることが想定され
 ることから、今回の派遣を十分に検証し、これに対処する十分な自衛隊、特に陸上自衛隊の体制を見直すべきとも指摘された。これに対して、防衛省は、昨年 12 月策定の新防衛計画大綱及び新中期防衛力整備計画等において、陸上自衛隊を中心に人員を削減するという方針が示されているが、今回の大震災への対応や複合事態への対応等を想定しなければならないなど、これまでの議論の前提が変わったとの見解を示した。その上で、現在の我が国の危機的な財政状況や震災被害の復興のための財源措置との兼ね合いを考えながら防衛省内で議論していかなければならないとしている。
 とある。
 私は以下の2点に、令和3年夏の陸自の現状とも重なる違和感を覚えた。一つ、北澤大臣は陸上自衛隊は10万人出動しているが半数は残っているので国の守りを遺漏なく行えるようにしたとの見解を示しているが、政治的発言或いはリップサービスだったのではないか。本当に現場はそうであったのか。二つ、今後の大震災等に備え、陸自の防衛体制見直すべきとの指摘をもとに、陸自削減が計画されている前提が変わっているので防衛省内で議論すべきとしている。しかし(GDP1%の枠内はそのままで)防衛省内の議論にまつといえば、(海空優先の政治方針のもとで海空新編等の人員差出元の)陸自から人員増の要求が出せるわけはない。
 重大災害と防衛の両立は優先度の高い国政という国家意思が先に示されるべきではなかったか。
 現在も陸自の現場出場の人員は減り続け、定員が18万(昭和59年)から自衛官15万1千人(平成30年)と3万人弱減っている。実質は3ケ師団相当がいなくなったに等しい。即応予備8千人をカウントすれば実質削減は2ケ師団相当になるが常備戦力としての戦力ダウンは3ケ師団相当と考えるべきであろう。
 即応予備自衛官は陸自近代化(地域任務別作戦基本部隊改編)に伴い該当師団・旅団内の基幹要員のみの普通科連隊や有事に多数設けられる後方部隊に充当する狙い等で設けられた。いわば定員減員の見返りである。この他に、予備は予備自衛官4万8千人と予備自衛官補4千2百人を合わせて5万2千2百人(定員)である。
 陸上自衛隊は我が国を守るためには最小限としていた水準の18万から3ケ師団相当が削減された常備15万とこれに組み込まれて補完する即応予備8千人並びに予備5万2千2百で守らねばならない(いずれも定員)。
 常備と予備は車の両輪であるが、わが国おいては前述のように常備の戦力は3ケ師団相当を削減して不足する上に予備も圧倒的に小さい。諸外国において予備役は現役の数倍に達することが通常である。志願制の軍隊においても予備役は現役と比べて半数から同数程度(国によっては現役を上回る員数)を維持している国が多いにもかかわらず、予備自衛官等の人数は常備自衛官の約20%と非常に少ないものとなっている。これでは①平時は司令部あるいは指揮機能のみのコア部隊への補充、②急増する後方支援(兵站)部隊の拡充・新編への人員充当、③有事の戦死・戦傷病者などの欠員補充、④有事現役(常備)が出動し不在になった駐屯地・基地の警備、そして⑤原子力発電所等重要防護対象の防護及び国民保護等急増する需要にとても対応しきれない。
 国際貢献が主要任務に格上げされ、重大災害は多発し、災害派遣の様相も救援に止まらず生活・復旧支援まで幅広く求められ、隊員の負担増は著しい。隊員の自殺者も含む事故も多いと聞く。組織運用のしわ寄せが個人に及んでいるとしたら大問題である。防衛上、脅威を顕在化させ尖閣への野心を隠さない中国への対処はまったなし、中国とリンクしたどさくさまぎれの侵攻という脅威も現実味がある。現場の自衛官の多忙感はいやましており、重大災害と防衛、しかも防衛は中国対処だけに止まらない、の両立の重圧は格段に増している。
 
 先ず陸自はかってこれで戦えるとした18万体制を回復し、予備役は陸自の倍36万ぐらいを目安としたらどうであろうか。英国・国際戦略研究所(IISS)「現役軍人数国別ランキング(2012 年)」に拠り、世界の全常備軍(A)2024万人:全予備役(B):4565万人=1:2.3(註)を一応の目安とした。前記所要の①②③を重視し、④⑤については基盤つくりに留めざるを得ないであろう。④⑤までのクリアを目指すならA:B+C(註)=1:3.2に拠り、54万を目安とする必要がある。これをたたき台に現実的議論が深まることを期待する。
 また、我が国に準軍事組織としては、海上保安庁1.3万人のみであり、民兵的な組織は(平時にはその他の職業についている民間人が、緊急的な軍事要員として短期的な軍事訓練を受けた上で戦時において召集される)は存在しない。
 註:世界の全常備軍(A):2024万人、全予備役(B):4565万人、準軍事組織(C):2087万人であり、A:Bは1:2.3、A:B+Cは3.2である。準軍事組織は、内乱の鎮圧や治安維持、国境防衛などの専門化された補完的な役割を担う
 余りにも現状に問題があり過ぎ、正直あり方の展望が持てないが、願望主体の思いつくところを書きなぐると。先ず急ぐのは持てる力の最大発揮への努力であろう。防衛出動時の退職制限が情勢緊迫ごろにも出来るようにし、過去3年(一応の線引き)以内に辞めた者で未希望者は原則即応予備自に、また3年より前に辞めた者は原則予備自へ採用する等勢力確保に努める必要がある。このため情勢緊迫に伴い、人員充足枠の撤廃、来年目標の前倒し採用等を行うと共に防衛出動時以降にはエクスパンドのため緊急募集を行わなければならない。そうなると平時と情勢緊迫・防衛出動へをつなぐエクスパンド基盤構成要素として予備自補の存在がクローズアップされてくる。
 また各方面総監から、防衛出動或いは同時発生の大災害事態等への(当該正面への)対処・(他正面への)増援等の勢力を割かぬよう、前述の準軍事組織(指揮官は自衛官、即応予備自・予備自等、民間人も一部含む)を立ち上げ、方面総監の指揮下で、特定防護対象の基地・施設の警護、国境離島の防衛、域内人心の安定(治安)、域内警戒監視、国民保護等を補完させる必要がある。
 このような願望を述べなければならないという現実こそが問題である。
 
 現場の隊員の気持ちになって、その負担を軽くし自衛官・予備自衛官・即応予備自衛官の戦力構成の全体像を確立して大巾に増やしさらに大災害と防衛を両立させる新たな体制を今すぐに構築すべし、と思う。
 
 何故ここまで深刻になったのか。いろいろ言いたいが、まずは日本流政治優先は自衛隊を縛る方に政治・行政の関心が向けられ、自衛隊を十分に機能させて、その足りないところを補い、行き過ぎをコントロールする政治・行政の在り方に関心が全く向いていないので、ゆがみが放置された、という点を挙げたい。その一因に防衛省外に陸自の応援団(真の理解者)がいなかったから、が考えられる。現今、台湾有事は日本の有事、という論調が主流になってきた。時に河野前統幕長は台湾有事になれば沖縄・鹿児島も有事になる、というのは軍事の常識、と発言した。この発言を熟読吟味すれば、海空優勢下で見過ごされてきた陸上自衛隊・予備の絶対的不足をクローズアップする陸自の応援団(真の理解者)としての発言である。漸く応援団が出現した・・。
 
 終わり

希:顧みずの心が日本人の武の心の標準たれ

希:顧みずの心が日本人の武の心の標準たれ