オーラル・ヒストリー「中尾時久」回読の感想

                         R3.6.30   川道 亮介

始めに

中尾時久先輩は防大一期生は戦後の新しい武装集団の魁としての「名誉」と国防という本来重い任に加え、その任は制約だらけで、その制約を切り拓くパイオニアとしての役割も合わせ持つという「重荷」を背負ってきたと常々言われて来た。その上で、その一期生の先頭に立って「名誉ある重荷」を背負った自衛官生活を過ごされた。本書は日本の安全保障と防衛力について中尾時久先輩の関わられたオーラル・ヒストリーであると同時に同先輩がその「名誉ある重荷」を背負った魁或いはパイオニアとして意識され活動された自伝の性格も有している。従って自衛隊と自衛官かくあるべし、をくみ取ろうという意欲ある者にとって示唆に富む宝の山である。また個人的には施設科の大先輩であり、二度の陸幕勤務時にも陸幕におられ、特に最初の陸幕勤務、研究課総括班で長期見積もり、56中業、56業計を担当したがこの時、業計班杉田先輩のところに日参したことを懐かしく思い出し、大変身近に読むことが出来た。以下感じた点は沢山ありすぎて何を書くか迷ったが特に心に響いた点に絞り、感想を述べさせて頂く。

 

1、中尾先輩の到達点回顧に精いっぱいやったという自負を感じた   

防大一期生が「我々は旧陸軍とは違ったものを作る」と言われているのを目にし、耳にしてきた。そのニュアンスは旧陸軍の否定であった。中には私が旧陸軍の福島大尉を研究しているのをあからさまに否定される(退官後の)一期生もおられた。しかし、本書第6回旧軍出身者から防大出身者への世代交代のなかで、中尾先輩が防大に入った時は確かにそういう意識は強かったけどいるにつれて段々・・・。旧軍の強さは申し受けなきゃいけないという感じを持った。その結果、旧軍出身者からつなぎの一般大学出身者を経て防大一期生へと一本の太い線がずっと繋がっているという感じがする、という趣意のことを述べられている。

厳しい反軍・嫌軍思想や反・蔑自衛隊感情のただなかで開設直後の保安大(防大)に入校された一期生の心情面は想像できないほど複雑であったであろう。意識すると否とを問わず自縛の境地であったと推察する。防大卒業後も、その影響を引きずられ、名誉ある重荷を背負われて、国民が嫌う風潮にあった旧軍出身者の下で、自衛隊幹部としてスタートされた。旧軍への同化はしないと広言する一期生の言動は常に注目の的であった。中尾先輩は魁として常に旧軍とは違うを意識しつつも旧軍人の良いところは吸収する柔軟さを併せ持っていた。内外を問わず言わねばならないことは歯にきぬ着せず発言した。それを跳ね返りとはしない人徳ゆえに許された面もあったであろう。制服を着て何かをやれる立場のあるときにやっておくという(自戒9原則2項目)の信条を堅持した。特にこの信条を若手幹部の部隊勤務の時に感じた問題意識解決に結びつけた。以上を総合して、強い意志を持って創造的に時々の職に取り組み、一貫して使命に忠実に強い陸上自衛隊作りにまい進された。その際足先の感触を確かめつつ細心かつ大胆に踏み出され、成功体験を積み重ね、小から大組織にいたるまで前進・向上させて来られた。また絶えず自らを成長させ、自らに同化する周りを広げられた。これらの精一杯で旧軍の良さも吸収し、まだあるべき姿には程遠いが、未知の道を拓いた自負がこの言葉だったのであろうと思い、その深苦に深い敬慕の念を抱いた。

 

2、統率哲学を確立して指揮官職を歴任され、旧軍とは違う強い自衛隊つくりの魁となられた。

この域に至る過程で二つの代表的な業績を残されているが、その意義はとてつもなく大きい、と感じる。一つは施設中隊長・群長・団長、師団長、方面総監と指揮官職を歴任され、一貫した三つの統率哲学「①強くあることが存立の意義でありこのための訓練の精到」、「②国民の熱烈な全面協力を得なければ任務達成はできない。このため平素から国民に役立ち、地域と共にある自衛隊を実現する地域との一体化」、「③自衛隊に入ってよかったという満足感充実感を与えられる個人の幸福」を掲げ、防大生の時の初志、旧軍とは違う武装集団作りの有言実行にまい進された。その統率哲学に魁或いはパイオニアとしての精神が込められている。①はあり方において旧軍と変わるところは全くない、②は旧軍は外征軍であり、自衛隊は国土で戦うことに加え自衛隊発足時の経緯を踏まえて、旧軍とは絶対的に異なる基本的重視事項であり、③は旧軍は兵に対する温かさが欠けていた感じがするという中尾先輩の感触に基づく。旧軍とは異なる価値観での基本的重視事項である。旧軍についてこういう価値観を耳にしたことはないので、違いを相当考えられた結果であろう。私も徴兵による従軍経験者が地獄の内務班、赤紙一枚で召集され使い捨て、2度目の召集令状が来た時日本は負けると思った等個人を大切にしないという発言を耳にしたが、私でこの位だから一期生は相当ひどい陸軍に対する悪感情を受け止められた上でのことだろう。旧軍に同化しない武装集団つくりの執念であり有限実行の“魁”精神は受け継がれ続けなければならない、と思う。

 

3、師団抜本改変にチャレンジ、挫折するも今につながる地ならしをされた

 二つ目は防衛課長時代に56中業で、師団抜本改変へチャレンジされことである。

 6137日陸上自衛隊の転換点となる画期的な「陸上自衛隊将来構想」部長会議(中尾装備部長出席)が行われたが、これは56中業挫折という地ならしによって産み出された。このことを始めて深く理解した。それに伴い中尾防衛課長(当時)の名誉ある重荷を背負った魁としての孤軍奮闘に敬意の念を篤くした。

この将来構想は兵力の絶対不足という足枷はあるものの、わが国をめぐる安全保障環境の激変・激化の今、地域別・任務別作戦基本部隊、即応予備、離島防衛構想に結実しており、その努力指向の適切性は今更私が言うまでも無く自明である。そしてそれは昭和613月の部長会議でその道筋をつけた、からであるがそこに至る、結果としての、地ならしこそ核心中の核心である。自衛隊創設期を担った旧軍出身者が達成した悲願、18萬人・13ケ師団・第7師団を除く12ケ師団均一編制は20年間誰も手をつけられなかった聖域であった。しかし管区隊から師団、方面隊への改編を経て師団は上げ底に、第一線中隊は低充足に、堕している現状をわが身をもって体感し、憂えていた中尾課長は防衛課勤務を契機に師団の抜本改変(56中業)をこの手でやらねば、と決意した。年来の宿願を果たす絶好のチャンスととらえつつも海空重視という大逆風下で自ら存在意義を主張しなければジリ貧に陥って当然という苦境と背広優越を我が国のシビリアンコントロールの第一線(現場)としてきた内局相手は気が重かったが、魁としての矜持が足を前に進ませた。そしてそれは防衛大綱の質的水準内であるという確信と共に信念となった。内局への持ち出し案は旧軍人の悲願にひびを入れずにソ連に対抗できる強い師団を作るという手品のような難業であった。中尾課長は一つでも認めればそれは全部を認めることと警戒して反対必至の内局に地に足をつけた論理と鋭い舌鋒とお惚け(ユーモア)を浴びせつつ組織を挙げて説得戦を試みた。苦戦しこれでは後に何も成就できなかったという汚名?を着せられることも頭をよぎり妥協の途もあったが、魁としての矜持がそれを押さえ、禍根を将来に残さないため、最後まで正々堂々太刀打ちした。結果はオールオワナッシングであった。だがビッグ5は同中業で研究開発線表をオーソライズした。中尾課長以下関係者が示した将来を見据えた強い師団つくりの良心は内局との間で一定の信頼関係を産み、新たな芽出しを容認する機運を共有した。また上司である旧軍関係者との間には18萬人・13ケ師団・第7師団を除く12ケ師団均一では対応できないことを悟らせ、これを脱して新たな防衛力整備構想(均一を外した地域別・任務別師団等)やむなしとする意向が次第に大勢となっていった。これらを踏まえ後に続く防衛課の後輩は新たな構想の芽出しを模索し始めた。この動きこそ、内局の防衛庁将来構想検討を受けて陸幕もタイムリーに陸上自衛隊将来構想検討に着手出来、前述の画期的な部長会議に繋がった直接要因であった。地域別任務別師団、即応予備、洋上撃破構想が尖閣島しょ防衛に今結実していることを思うとき、56中業挫折の地ならし及びビッグ5線表のオーソライズの意義は深く記憶の刻まれねばならない、と強く思う。そして出来なかったことはなかったこととせず挫折や失敗をも語った中尾時久先輩のオーラル・ヒストリーだからこれがくみ取れた、のだと思う。

 

4、生き様の輝き

 前記23項を書きながら、生き様の輝きというべきことに気が付いた。それは初級幹部時代の部隊勤務間に抱いた問題意識に向き合い、制服を着て何かをやれる立場のあるときにやっておくという(自戒9原則2項目)の信条を堅持して、その時にしかできない且つやるべきと信じることに魁としてチャレンジ(有言実行)され、行動して使命を果たす自衛官たる己に忠実に生きる姿である。この思いで見たときに、さらに二つの輝きに心奪われた。その一つ目は、団長時に初級幹部検定をされたこと。日々の実務に追われ、自分への投資意欲どころかこのままで良いのだろうかと反問しつつもそこから抜け出せないでいた初級幹部時代の先行き不透明な多忙感。要領の良い奴は知恵を絞って脱出を試みるが、それはそれで良心がとがめたであろう。これは皆が陥るところであろう。ここに手を差し伸べなかった当時の指導者たちへの反骨としてだが断行された。ここは私の体験に照らし断然輝いている。二つ目は陸幕副長時に参事官会議に代理出席し、防衛白書からシビリアンコントロールの記述を削除するよう発言されたこと。白書へのかかわりは防衛班長時からであるがシビリアンコントロールに関する内局への不信、日本国家への不当感は自衛官の体質として皆が共有していたところであった。白書の参事官会議の場に陸幕長に代理出席を願い出て思うところを述べた、という事実は重い、と感じた。何より会議の場の記録をみて、丁々発止のやり取りが目の前に浮かび、自分の保身を第一に考える人ならば絶対に取らない行動であり、よくぞ発言された、と喝さいを叫びたい思いにとらわれた。そしてこのことに限らず、陸幕長になられたらどんなことにチャレンジされたのであろうか、見てみたかった、と思った。

 

5,輝きの余明に浴し、一期生の精神を受け継ぎ伝える

 (特に初級幹部時に)問題意識を持って職務に取り組むことと制服を着て何かをやれる立場のあるときにやっておくという(自戒9原則2項目)の信条は一期生全体に共有され、後輩に受け継がれた精神ではないか、と自分の経験を通じ思う。

 私は2施群・108施大が小倉から飯塚に移駐したご縁で、小倉会の一員に加えて頂き、源川・東・隈部さんはじめ多くの先輩方から薫陶を頂き、CGS学生としてプロ意識に目覚め始めた頃に皆が東京近辺に集まり最盛期であったので、多くのことを吸収させて頂いた。その際に、その職にあるときに何か自衛隊のためになることをやろうじゃないかという源川・東・隈部さんの篤さに触れ、やけど気味に自分も・・と思うのが常であった。その影響か、私はその職にあるときにやるべきことを着任3ケ月以内に見つけ行うようにした。東方人事1班長の時は東方の3地区の特性を踏まえた人事管理の基準案。教材班長の時は演習場内の旧弾着地の安全化事業。群長の時は遠賀川の渡河適地を調べ、遠近岸の整備作業、

M4A2重ふのう橋と自走架柱橋の混合橋の全通架橋公開訓練を行い、これで行き足をつけ、河川敷を専用的に借りてホームグランド化した。中方装備部長の時は積極的環境保全策を部を挙げて検討し、条例順守という守りから攻めの策を模索した。4師団幕僚長の時は、日出生台演習場の南北方向の道路がなかったので、これを4施設大の検閲と部内工事を組み合わせて作った。兵庫地連部長の時は募集相談員の委嘱を各自治体の長と連名で行うことが全くできていなかったので、この旗を立て、自分一代で無理でも組織として続けようと部外を巻き込んで戦略を立て取り組んだ。やってみると次の部長の代ですべて出来た。

 

よろくその1、中尾先輩の到達点回顧と私の武人旅

その回顧の中の旧軍出身者からつなぎの一般大学出身者を経て防大一期生へと一本の太い線がずっと繋がっている、感じがする、というくだりの「一本の太い線の繋がり」に私の武人旅の心が感応した。

退官後、危機管理のため、八甲田山雪中行軍を成功させた福島大尉に興味を持って調べ始め、これが福島大尉だと信じられる域にたどり着き、「拓く 福島泰蔵大尉正伝」を自費出版した。そして気が付いたら彼を起点とした武人旅に移っていた。結果、福島大尉から大伴家持、次いで栗林中将に至り、彼らは「顧みずの心」で繋がっている伴の緒由縁の武人(自らの使命や任務に専心し、指揮官として部下を死地に投じる重さ、投じられる兵の命の重さを深く自覚して最善を尽くす)という見解に至った。そして今の自衛官もこの範疇に入る「顧みずの心」の持ち主である。やがて加藤清正、坂の上田村麻呂を辿り、島津義弘に至ってその「顧みずの心」の武人旅は終了した。

露軍に勝たねば、それには兵を雪から守ること、と固く決意した福島大尉は、弘前中隊長という働き場を得て、冬季戦・行動の研究調査の一環として明治351月、八甲田山雪中行軍に挑む。日清戦争・大平山の戦闘において傷ついて倒れ、収容が追いつかず、そのまま雪上に放置され、多くの兵が凍死、凍傷を負った。その只中にいた高崎15連隊第2中隊福島中尉は雪から兵を守ることが出来ていない、ここを正すべきという地に足の着いた使命感を持った。自分の命で兵を死地に投じるのだという深い自覚のもと、兵を守るためそして重い任を果たすため、準備を周到にする等最善を尽くし、極寒・吹雪・深雪下に隠された道筋を探し、彷徨を繰り返し、48時間50分の無眠・空腹・疲労行軍に堪えて無事所命を果たした。この使命に専念し、指揮官として兵を死地に投じる重い職に最善を尽くす姿は「死生を顧みず本文を尽くす」という旧陸軍野外要務令綱領の体現であり武人の心「顧みずの心」の体現であった。福島大尉は薩長閥優遇、例えば日清戦争の恩賞に不公正があり、全国民主体ではないことや士階級優先の士官学校生採用、そのために農民であった福島青年は陸軍教導団受験から始め、入団後に特に許されて陸軍士官学校を受験し合格する。しかし士官学校入校は教導団卒業後の伍長任官後であり、3年という長い日を無為に費やしたことや下士官の成り手がない魅力のない兵制などの旧陸軍の矛盾に対し、旧軍には属するが武人として生きることを誓う。その武人としての起源は軍旗の起源と考える文武天皇の御代であった。律令制の中央集権国家として大君から国家が分離して行く時に国家に初めて武で直接仕えた武人を生み出した御代であった。

概念として大君から国家が分かれてゆくときに大伴家持は部民を掌理して武を委任され行使する立場から国家機構(大君の朝廷ではなく)に仕える武人(指揮官)として生き、その傍ら歌人としても生きた。その歌が「海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍、大君の背にこそ死なめ、顧みはせず」である。この歌を私は家持が大伴の祖が大君のために営々と続けてきた武の使命を果たした営みや戦いが終わるたびに、水漬く屍、草生す屍を目の前にして、部民を死地に投じてきたその任の重さと投じられた兵の命の重さを思い、次戦う時はきっと・・・と誓ったという言い伝えを思い、家持自身も武門の後継者として、忠節を尽くす相手が大君から国家に変わろうと、その尽くす心を引き継ぐ思いを新たにした歌、と解するものである。この「顧みずの心」は福島大尉につながる武人の心である。

今の陸上自衛官は入隊に際し、「危険を顧みず職務の遂行に務め以て国民の負託に応える」ことを宣誓し、その誓いの実行に努める。その職務遂行の態様は「雲仙普賢岳地震災害」、「阪神淡路大震災」、「東日本大震災」等の災害派遣やPKO等の国際協力活動で示されたように最後の砦として自らの危険を「顧みず」職務に専念し、国民の安心・安全を確保し、国民の感謝と自衛隊に対する信頼を自らの行為によって不動のものとした。指揮官は出動隊員の安全・安心を守るための対策に万全の手を打ち、無事故を続けている。以上から隊員が使命達成に専念し、指揮官が隊員を死地に投じる任の重さと投じられる隊員の命の重さを深く自覚して最善を尽くしていることが明白である。その点において前記二人に繋がる「顧みずの心」で繋がる武人である。

 

「顧みずの心」は日本人が古来から受け継ぎ、連綿と続く武の心の標準(の一つ)といってよいのではないか、と思い至った。それはブログ旅で東日本大震災に出動した自衛官の献身的活動により、国民の対自衛隊感情の劇的な向上や天皇陛下と自衛隊、自衛隊の地位向上、旧軍にきちんと向き合う風潮などを、炎上しない線を手探りしつつ投稿し続けた、ブログ上で肌身で感じたことによって確信に近くなった。

 

そもそも旧軍の否定や感情的な反発で、その意識もなしに、木に竹を接いでいるのではないか。記念日の訓示は何時も保安隊(自衛隊)創設時から始まり、連綿性の裏付けである国史の根っこに触れないでよいのか、という疑問を抱き、隊員に対しても自らの信じるところを100%出せないもどかしさをもって自衛官生活を過ごした私は目からうろこの心境であった。即ち、このフィルターを持つことで、旧軍人を過ちとするか受け入れるか等戦史を見る基準を遅ればせながら私の中に誰憚らず持てた。私は「顧みずの心」を自衛官へのエールとし、即応予備等を志す心ある日本人の武の心を励ましつつ、いつの日か日本人の嫌軍・忌軍の壁を取り払う良識にすることを信じて、70~80代のわが余生の一人旅を心豊かに続けたい。武人旅の終了後すぐにオーラル・ヒストリー回覧の機会に巡り合い、「一本の太い線で繋がる」に感応させて頂いて、武人旅を新たなステージへ飛躍させる覚悟が着いたところである。改めてこの機会を頂いた中尾先輩の御厚意に感謝し、オーラル・ヒストリー「中尾時久」書中の宝物に出会えた幸運に感謝申し上げる。

 

よろくその2、“地霊”に思う

私は太田市の高山彦九郎記念館を訪れたことがある。福島泰蔵が陸軍士官学校受験時の作文で、高山彦九郎についてかくありたいと書いたこと、彼が後に武人として生きようとする姿を追って、前記記念館を訪れたのだが、そこで土地ならではの地霊がいる(ある)という表現が目に焼き付いた。甚だ不遜ではあるが、中尾先輩は倒幕の魁として草莽の活動家であった高山彦九郎から魁の精神を、同じく先人で、八甲田山雪中行軍を成功させた福島泰蔵大尉から地に足の着いた使命感を知らず知らずのうちに、群馬の地霊に護られ、或いは受け継いだ人ではないかと感じた。

 

(終わり)

希:顧みずの心が日本人の武の心の標準たれ