大伴家持の国意識の形成
始めに
前稿で「官人として国家を肌で感じた家持は大君に武を以て尽くす顧みずの心を新しい天皇と(天皇が治める)国家という新しい器へ、注ぎ分けた。この時代に海行かばが作られたことに、私はそういう意味を見出す。」と書いた。顧みずの心を天皇と国家に注ぎ分けるまでになった家持の(天皇観と)国(註)意識を掘り下げたい。
註:以下本稿では特に断らない限り国という言葉を律令制を取り入れた新しい国という意味で使用する。
家持は天武皇統の皇子聖武天皇の陸奥の国に出金を賀す詔に大感激して、「海行かば」以下の歌群を歌った。新しい国を作り、その国を天照皇大神を祖とする「天皇」として統治始めた天武皇統を神(の業)の如しと畏敬し、「天皇」に尽くす、武門の役割果たす、覚悟を愈々強くした。同時に官人として、歌人としてその国の形を実感した家持は新しい「天皇」に尽くすことは(天皇が治める)国の発展に尽くすことと自覚して、天皇を尊崇し国を貴び国を護る精神を確立した。東大寺大仏開眼法養は家持の国の実感の高まりを沸点に到らしめ、国を貴び国を護る精神を益々高揚し、天武皇統を神と讃える迄に到らせた。
1、詔に応える歌群に見る家持の国意識
天平21年(749)2月には陸奥の国に産出した金が献上され、聖武天皇はこれで大仏が出来ると喜び詔を宣し(4月1日)、家持は大感激して詔に応える歌群を国司の任地富山で読んだ(5月10日~13日並びに潤5月23日及び8月)。
1-1 歌群の特長
これらの歌群には2つの特長がある。①皇祖以来の天皇の統治を神の様だと讃えていることと②神の様な統治で作り上げてきた 国の形(国柄:くにがらやくにから:後述)への意識の高まりである。それは国を貴び国を護る、精神といえる。何故なら家持の中で、天皇の神のような統治への眼差しに匹敵するぐらいに(天皇が統治する)国への眼差しが濃くなっていた、からである。だから天皇に尊崇・畏敬して尽くし奉ることは国に対して尽くすこと。尽くすことは国を貴び、護ることである。作歌をこの時期に集中させたことに、単なる形式としての天皇賛歌ではない、根本で天皇と国の意識の分化、即ち国意識の高まりがある、と私は考える。
その1、天皇の神のような統治
其の1陸奥の国に出金を賀す詔に応えるための歌(以下「応詔歌」)(5月12日)(18-4094)
詔で天皇が大伴の祖が「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめのどにはしなじ」と尽くしてくれた。この志を忘れずに、と述べられたことに応えて「海行かば」を歌った。その「海行かば」を中心に据え、「葦原の 瑞穂の国を天下り 知らしめしける天皇(すめらぎ)の神の命の 御代重ね 天の日嗣(ひつぎ)と 知らし来る 君の御代御代」と天皇について①葦原の 瑞穂の国を統治する、②天の日嗣(ひつぎ)、という畏敬の念の表示から始めている。
其の2 直前の歌ー「霍公鳥を聞きて作る歌」 ( 5月10日、18-4089)
己が愛しむほととぎすの鳴き声を聞くという風雅を楽しむ心を歌うのに「高御座(たかみくら) 天の日継と 天皇(すめろき)の 神の命(みこと)の 聞こし食(を)す 国のまほろに 」と天の日継である天皇が神のごとくに統治する優れている国だから(風雅が楽しめる)、と歌いだしている。
其の3 直後の歌ー「吉野行幸の予歌」( 「応詔歌」の作歌の翌日の13日、18-4098)
身は越中にいるにもかかわらず、聖武天皇が大仏落成の暁には吉野行幸をされ、それにお供して、天皇が見られる景色を共に見て歌う、君臣唱和を願い、その日のために予め作歌した。その歌い出しは「高御座(たかみくら) 天の日嗣(ひつぎ)と 天の下 知らしめしける 皇祖(すめろき)の 神の命の 畏(かしこ)くも 始め給ひて 貴(たふと)くも 定め給へる み吉野の」である。吉野の宮を歌うのに天の日嗣(ひつぎ)として神のような統治をされてきた 皇祖(すめろき)が始め給ひ定め給へた み吉野と 興している。大伴の祖の歴代天皇特に天武・持統天応との関わりが念頭にあることは言うまでもない。
其の4 さらに直後の歌―「橘の歌」(18-4111)併せて「短歌」(18-4112)(閏5月23日)
気分の高まりの中でこの頃に橘だけを歌う、ちょっと異質な感じの歌である。何故か、その深意は何か。天皇の神のような統治をずっと思っていた家持はその神のような統治を最も近くで補けた左大臣橘諸兄に思いが及んだ。歌い出しは「かけまくもあやに恐(かしこ)し皇親祖(すめろき)の神の大御代に田道間(たじま)守常世に渡り八矛(やほこ:沢山の枝)参出来(まいでこ)し時」で長歌の歌意は垂仁天皇の御代田道間(たじま)守は常世の国に行ってたちばなを持ち帰った。そのたちばなは不老不死の薬、葉は常に緑、花も実もきれいで、実は美味しく、神代の昔から、このたちばなを時じく(永遠)の香の木の実と名付けてきたらしい。
この長歌は橘を歌うことで、敏達天皇から数えて5代葛城王が天平8年(736)に橘の姓を賜って臣下に降り、今は左大臣を務めている橘諸兄を思っている。諸兄の補佐宜しきを得て天皇の神のような統治が橘のように永遠に輝くように、という願いを籠めている。橘姓を賜る時、聖武天皇は「橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉(とこは)の樹」(6-1009)と歌われた。これを念頭において、短歌「橘は花にも実にも見つれどもいや時じく(永遠に)になほ見が欲し(18-4112)」と歌った。橘 諸兄(たちばな の もろえ)は、敏達天皇の後裔で、大宰帥・栗駒王の孫、同美努王の子で葛城王(葛木王)。母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。臣籍降下して母方の名を許され橘宿禰のち橘朝臣姓となる。藤原4兄弟の急逝により次期大臣の資格を有する大納言に抜擢され、翌天平10年(738年)に正三位・右大臣に任ぜられ、太政官の中心的存在となり、活躍する。官位は正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。
其の5 後の歌ー「侍宴応詔の予歌」 天平勝宝3年(751)8月家持(34歳、19-4254)
時機は遅れるが内容的に関連が大きいと考えるのでこの歌も群に入れた。上京の途次に興に依り、京に居ます大君を思い、歌を献上したいと願って、(大仏開眼法要?の)宴の歌を予め詠む。陸奥国出金の瑞兆から発想した。この瑞兆は大君の統治よろしき証であり、事なき御代を貴び、君臣唱和で君臣相和す国柄(くにがら)を願いつつ、武人の血を引き継ぐものの自覚として掃いて言向け腕拱く御代の貴さに思いを馳せている。
歌い出しは「秋津(あきづ)島 大和の国を 天雲に 磐船(いはふね)浮かべ 艫(とも)に舳(へ)に 真櫂(かい)繁貫(しじぬ)き い漕ぎつつ 国見し為(せ)して 天降(あまも)り座(ま)し 掃(はら)ひ言向け 千代累(かさ)ね いや嗣継(つぎつぎ)に 知らしける 天の日嗣(ひつぎ)と 神ながら わご大君の 天の下 治め賜へば 」である。皇祖は大和に磐船に乗って天降られ、千代累(かさ)ねて いや嗣継に統治された。天の日嗣(ひつぎ)の天皇として神のように統治された。この大和磐船伝承は記紀には無く、大伴に伝わる伝承を敢えて歌っているようだ。その統治は・・と始まる。
その2 「国を貴び、国を護る精神」の確立
これらの歌群特に「海行かば」、で家持は「国を貴び、国を護る精神」を確立した。
其の1 大君を民族の纏まりや国の成り立ち・発展の、体で例えれば、背骨のような
尊崇の態度の例として⓵⃣わご大君の 諸人を 誘ひたまひ 良き事を始めたまひて(応詔歌)②⃣神の命(みこと)の 聞こし食(を)す 国のまほろに(霍公鳥を聞きて作る歌)③⃣-1物部(もののふ)の 八十伴の緒を 撫で賜ひ 四方の人をも 惠み賜へば 古昔(いにしへ)ゆ 無かりし瑞(しるし) 度まねく ③⃣-2手拱(てむだ)きて 事
其の2 国柄(くにがら(註1)やくにから(註2))を貴び愛しく思った。
「 食(は)す国は栄えむものと 神ながら 思ほしめして もののふの 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人も 女童(おみなわらわ)も其(し)が願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば」(応詔歌)と神話時代以来連綿と続く皇統の神のような大君を戴き、君臣(民)相和し、農耕民族としての田植えなどの共同作業を通じ培った部民相和す 国柄(くにがら(註1))を貴び愛しく思った。
家持は天武皇統の神統治への尊崇の深化に伴い、唐に倣った律令制の中央集権国家という国が国のあり様は変わっても連綿と続く一系の皇統の天皇を戴き天皇を背骨とする日本固有の国柄(くにがら・くにから)は微動だにしない、という思いを込めてあたらしい国を思っている。従って応詔歌第3段海行かばを大君に尽くすことは(神統治で成し遂げた)新しい国に尽くすこととして歌った。前稿を受け、本稿冒頭で私が新しい天皇と国という新しい器に注ぎ分けた、と書いたのはここを言いたかったからである。
其の3 神のような統治と讃えた背景にある皇親政治と統治機構(律令の法と制度)を最も宜しと考えていた。
藤原の私を押さえる意味で、皇親を恃む気持ちが強く、橘諸兄を慕う気持ちも強かった。諸兄は天平8年(736)に橘の姓を賜って臣下に降った敏達天皇から数えて5代葛城王のことである。翌年天然痘で太政官の要藤原4兄弟が揃って死亡したため、急遽大納言を拝命、天平10年右大臣となり政権を担当し、皇親政治をスタートさせた。天皇の信篤く、そのご左大臣、正1位となった。律令制については後述。
其の4 国を護る気概を示した。
後の作歌でもより明らかになる御代の永遠の繁栄を願い大君にまつろわぬものをうち、外敵に備えるということあらば弓矢を手に取って立つ、御門の守り我をおきてひとはあらじと大伴の護る気概(応詔歌、諭族歌20-4465)を示した。大君を護ることは(神統治で成しとげた新しい)国を護ることであった。
其の5 臣や民は永遠の御代を願いかつ信じ、尊崇・畏敬・畏命・憧憬してこの大君に己が負へる己が名負ふ負ふ大君の任(まけ)の任(ま)く任く・・いや遠永に(吉野行幸予歌)、)と仕え奉る臣(民)としての道を説いた。大君に仕えることはその御代イクオール国に仕えることであった。
古代では大君の統治する民や土地という概念はあっても今でいう統治する国家という概念は明確ではなかった。大伴家持は作歌の時期にこの国家の意識を高まらせた。大君の統治を尊崇すればするほどその神統治の内容「国作り」への視線があつくなり、ついには神統治で成し遂げた国を貴び国に尽くす心境に到った。その国とは我が国固有の国柄(くにがら・くにから)を大元として、大君の治める土地の上に人びとが住み、これらを束ねる統治機構(律令の法と制度)を有する。御代を護ることは国を護ることと認識した。これらは今の“国家”へ発展する概念の原型としての国であり、万葉集でここまでの国史精神を歌った人は家持だけではないかと思う。この歌を通じて、読者は言葉の力で、決して上からの指導目線ではない、草莽の社会意識として、国意識と国を貴び国を護る精神を形成して行った。
2、 神歌考
2-1 神歌の流れと背景
〇宮廷歌人柿本人麻呂は天武天皇を「日並皇子挽歌」(巻2-167)で高照らす皇子と「古事記」の高光る皇子から一段と敬意を込めて表現し、持統天皇を「大王は神にしませば天雲の雷の上に庵りせるかも」(3-235)で神(のような)と読んでいる。
〇家持は人麻呂の歌の巧みと精神を受け継ぎ、万葉集第19巻に壬申の年の乱の平定(しづ)まりし以後の歌二首として「大君は神にしませば赤駒の腹這(はらば)う田居を都と成しつ」(4260、大伴御幸)。「大君は神にしませば水鳥の集(すだ)く水沼(みぬま)を都と成しつ」(4261、作者不詳)を天平勝宝4年(752)2月2日に聞いたとして、載せている。この年4月には、東大寺大仏開眼法養が行われている。この時家持は太政官の少納言、在京していたはずであるが法要には出席していない。陸奥の国の金出を賀す聖武天皇の詔と家持の応える歌群が詠まれて、3年後である。
家持の中でついに神にまで高められた天皇の統治とは何か、を考えてみたい。万葉集で神と歌われる天皇は天武・持統・文武という天武皇統に限られる。何故かは他の皇統との違いを考えれば明白である。それは律令制の中央集権国家という国作りにほかならない。柿本人麻呂は持統天皇の御代で、律令制が逐次姿を表す期待感で神と歌った。家持は律令制が普及し、国作りが成った実感で神歌を取り上げた。
2-2 天武皇統の国作りの特長
白村江の大敗以降、国作り如何を争って壬申の乱を勝ち抜いた天武天皇以降持統・文武・聖武天皇の統治の特長は以下の5つである。
① 白村江の大敗に伴う唐の侵攻の危機を政・経・軍・外交の体制の刷新により乗り越えたこと。②唐の冊封を脱し、威信を高め力を蓄え、倭国から独立国「日本」へ移行させたこと。③律令制の中央集権国家という国作りを進展・概成させたこと。④③に伴い古事記・日本紀(日本書記と風土記)が作られ我が国の歴史・文化を共有し、国土が一地方の大和から日本全土へ広がり政経軍の及ぶ範囲も広がりその程度も密となった。国力が増し民度が向上したこと。⑤国の統治者であり、皇祖神天照皇大神以来連綿と続く日嗣の皇子という「天皇」の権威を確立したこと。
以上の①~⑤の核をなすのは③の律令制の中央集権国家という国作りである。この進展と共に、他の3つ(①②⑤)が制度あるいは法の体系下に位置付けられ、或いは拡張され成果となった(④)。
2-3 律令制の中央集権国家という国作りと家持の国意識
2-3-1 国家施策と国の意識
文武天皇の即位(697年8月)の宣命(国語の文体で書かれた詔書)に「現‘御神(あきつみかみ)と大八嶋国知らしめす天皇」と天皇の立場を表現している。天照皇大神の後裔であり代理として、この世に姿を表した神として(の立場に立って)国土を統治するという意であるが、間もなく大宝律令を大宝元年 (701) 制定し律令制の中央集権国家を誕生させた。続日本紀には正月の朝賀の儀の様子を「文物の儀、是に備れり」と述べている。神のような統治の対象は全国の統治機構の整備で皇土・皇民から国(国家概念の明確化と共に、皇土・皇民+統治機構)へ比重が移って行く。また中断していた遣唐使を派遣(702)し、初めて国の名を「日本」と号した。そして750年頃までに天武天皇が構想した諸々は持統・文武天皇の代で姿を表した。この間自国意識は高まり続けた。その様子を見ておきたい。
その1 軍防
白村江の大敗の翌年664年、唐の侵攻に備え、国防体制を刷新し、対馬・壱岐・筑前に防人と烽火台をおき、筑紫に水城を築き、防人司をおく。各地に軍団を置き、防人は国が東国の壮丁を徴集派遣した。史上初めての外敵侵攻の切迫に対し自国&自国防衛意識が高まった。兵の徴収の基になる郷戸制、戸籍、租庸調制、田・畑の面積・収穫高等、田畑の区分(口分田・‥等)、武器・馬等の調査や実施等は律令制の中央集権国家の整備充実を前提とし、規模等が規制された。
その2 律令の法と制度と文化
681年10月、天武天皇は律令撰定の詔を発布。飛鳥浄御原令編纂に着手、同時期に「帝紀及び上古の諸事」整備が命じられた。大宝元年 (701) 大宝律令制定。757年、養老律令施行。統治機構は中央は2官(神祇官と太政官)・左右大臣下に8省・地方職(太宰府・左右京職・摂津職等)・兵は5衛府。地方は国・郡・里。国司は中央から派遣、郡司は旧来の国造を充てた。兵備は軍防令による。
日本の律令は、中国に学びながら、日本の実情に合わせて編纂された、ので我が国意識が強まった。中国は冊封下にある国には中国の律令に従わせ、自国での律令作成を認めなかった。従って日本が自らの律令を持つという意味は独立国であることを意味した。この自覚のもとに国柄(くにから・くにから)を保つ等独自性を発揮せんとする点に強い自国意識や外交上の政略的思惑がある。持統・文武と律令体制が整ってくると国意識はいや増した。この意識は①宮廷儀礼や宴等の興隆となり宮廷歌の発達となった。律令制が漢字を学び漢字文を書き漢詩に親しむを官人の必須教養としたこともあって歌が言い伝えの歌(古)謡から脱して個人の文学的自覚の基に歌われるようになった。自国意識の高揚と共に上層階級において漢詩文に対する日本の歌としての「和歌」が自覚され発達した(以上万葉集)。更にこの自国意識は②歴史や文化への自覚となり、修史事業へと発展し、律令国家への歩みは自国文化自覚の歩みでもあった。711年古事記3巻を太安万侶が献上。720年、舎人親王は日本紀30巻(日本書記と風土記)を献上。日本書紀は対外的に「日本」における律令国家成立を言挙げするものであり、国内的には天皇を頂点とする律令国家の誕生に当たりその歴史・文化を確認・共有するものであった。
2-3-2 国の概念の発生と家持の国意識
対外的に冊封下ではない独立した国という概念と国名が必要となった。天皇として律令制下に統治する国の概念には統治者の天皇と統治機構(中央と地方を一体化する法と制度)と民と領土がある。大和朝廷下に大王が統治した国の概念との決定的な違いは全国隅々まで行き渡る統治機構(中央と地方を一体化する法と制度)の有無であり、その他大和朝廷が治めた国とは武力・政治力の及ぶ地域の範囲や制度の精度などの面で違いがあった。この対比から国の概念が必要となった。701年制定の大宝律令の地方制で定める国を包含しそれらの上位としての国の概念も必要となった。律令制が行き渡った全域を指す国の概念も必要となった。律令制が及ばない地域に対しその同化を求め、或いは唐に対し、その侵略を許さないわが主体性(主権)を有する国の概念も必要となった。これらの概念の行き着く先が現在の”国家”であるが、当時ではこれらを包含したのが国「日本」であり、後で述べる家持の国「大日本」であった。
2-3-3 家持の国意識形成の背景
以上の国意識は家持の中に最も色濃く現れる。この国意識は歌の中に籠るが、それを形作るのは二つのバックボーンと彼への社会の刺激である。
その1 家持は最古の名門武門のいずれ氏上を嗣ぐものとして生まれた。
大伴氏には天孫降臨神話に始まり 建国以来の祖の言立て(志)を継ぐ言の官(つかさ)という意識が顕著である。連綿と続く大君そして天皇に赤き心で尽くしその御代を支えてきた、という自覚・矜持であり、その自覚・矜持は建国以来一つの皇朝を連綿と続かせ、その大君を背骨として君臣相和の国柄(くにがら)(くにから)(前述)を国の大元と保ち続けた、国史精神に立脚している。
その2 歌門に生まれた。
父旅人は万葉第三期を代表する歌人であり、太宰の帥時代に筑紫花壇を形成する。幼年期を佐保で過ごした家持は神亀3年(726)ごろ九州へ下向し、筑紫花壇の雰囲気に浸る。家持は大伴坂上郎女の歌の手ほどきをうけ、その素養を開花させた。彼女は任地大宰府で妻を亡くした旅人のもとに赴き、大伴家持、大伴書持を養育し、帰京後は、旅人没後も佐保邸に留まり、大伴氏の刀自(主婦)として、大伴氏の一族を統率し、家政を取り仕切った、と言われる。大伴稲公の姉で、旅人の異母妹。大伴家持の叔母で姑でもある。『万葉集』には、長歌・短歌合わせて84首が収録され、額田王以後最大の女性歌人である。家持は15歳で処女作と言われる「うち霧(き)らし雪は降りつつ春日に吾家(わが)への庭に鶯鳴くも」を作歌(8-1441)。柿本人麻呂に習い、漢詩を吸収し(この歌ではないが、斎藤茂吉)早熟の天才(中西進)という評がある。大和朝廷では高位者の家門、国では高級官人の家門として求められた必須の教養である漢詩や和歌にいそしむなかで、歌才は受け継がれ磨かれて、旅人・家持と開花する。特に家持の歌才は名門武門ゆえの武の心及び国史精神を濃厚に逸出させている。
その3 社会の刺激があった。
家持が内舎人から官人としての歩みを始める頃は聖武天皇の御代で律令は養老律令が撰進され、古事記・日本紀が進上され、遣唐使も30年ぶりに派遣され、唐に対比しての律令国家日本国が益々意識された。天平文化が花開き、和歌が漢詩に対し日本国固有の文化としてますます発達し、それにつれ個の文学的主張を益々うながした。この傾向は歌の巧み家持に大伴ならではの名門武門ならでは武の心及び国史精神を歌う方向へと向わせた。それが聖武天皇の詔で国作りを成し遂げた天武皇統の尊崇と(天皇が統治する)国を貴び国を護る精神の確立となった。東大寺大仏の開眼法要は官人・歌人としての国作りの実感を極まらせ、これを成し遂げた天武皇統を神として尊崇して仕え、(神統治で作り上げた)国の安泰発展に尽くす心となった。
3 家持の国の実感
3-1 家持の国意識の原風景と国の実感
家持の国意識の原風景(兆し)
家持の国意識は内舎人時代の歌にある原風景(兆し)特に「大日本」や「大宮の内と外」が聖武天皇の詔に大刺激を受け、同天皇への尊崇の思いの激化と共により明確・具体化したもの、と考える。従って、先ず国意識の原風景(兆し)、内舎人時代の歌を概観したい。
その1 大日本意識
家持は祖父安麻呂(正三位・大納言、贈従二位)の蔭位を受け21歳(天平10年(738年)?)で正六位上に叙任され、内舎人として出仕し、高級官人としての歩みを始めた。蔭位による叙任、内舎人としての出仕は高級官人候補者としての矜持と武門の名家の氏上を継ぐ自覚を新たにさせた。内舎人は原則三位以上の公家の子弟で21歳に達したものが対象で帯刀宿衛、供奉雑使、駕行時の護衛と天皇の身辺警護にあたった。 大和朝廷成立時からあった舎人は天皇の側近に仕え、天皇と生死を共にする親衛隊のようなものであった。壬申の乱で舎人が大海人皇子に従い活躍したことはこれを示してる。しかし律令制の成立後、官人キャリアに組み込まれた。内舎人(定員90人)・大舎人(同左右各800人、計1600人)・東宮舎人(同600人)・中宮舎人(同400人)などからなる。原則的に三位以上の公卿の子弟は前述の通りで、同様に五位以上の貴族の子弟は選考の上で優れた者は内舎人となる。それ以外は大舎人・東宮舎人・中宮舎人となった。
安積皇子は天平16年(744年)閏1月11日、難波宮に行啓の際、その途中に桜井頓宮で脚気になり恭仁京に引き返すが、2日後の閏1月13日に17歳で死去した。 安積皇子は神亀5年(728年)に聖武天皇の第2皇子として生まれる。同年9月13日に皇太子の基皇子(母は光明皇后)が1歳に満たず死去したため、聖武天皇唯一の皇子であり、皇太子の最も有力な候補となった。しかし、母は卑母・・・、天平10年(738年)1月13日に藤原不比等の子である光明皇后を母に持つ阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が立太子される。唯一の男子でありながら立太子が不透明という状況であった。
天平十六年(744年)甲申。春2月に、安積皇子の薨(かむさ)りましし時に、内舎人大伴宿祢家持の作れる長歌(3-475)「懸けまくも あやにかしこし 言はまくも ゆゆしきかも わご王(おおきみ) 皇子の命 万代(よろずよ)に 食(め)したまはしし 大日本(おおやまと) 久邇の京(みやこ)は うちなびく 春さりぬれば 山辺には 花咲ををり 河瀬には 年魚子(あゆこ)さ走り いや日異(け)に 栄ゆる時に 逆言(およづれ)の 狂言(たはごと)とかも 白栲(たえ)に 舎人装ひて 和豆香山 御輿立たして ひさかたの 天知らしぬれ こいまろび ひづち泣けども せむすべも無し」
大意は皇子の永久の統治を期待して、この大日本の久邇の都は、春には、山のほとりには花が咲き、川には若鮎が泳ぎ、日一日と栄えていた。ところが考えたくもないが皇子が亡くなられ、舎人たちは泣くばかりでどうしてよいかわからない、である。
家持の悲しみの深さは選ばれて律令以前の伝統的な舎人精神で安積皇子に仕えていたことがあるようである。安積皇子のお供をし宴にも出て打ち解けた様子を伺わせる歌がある。安積親王の、左少弁藤原八束朝臣の家に宴せし日に、内舎人大伴宿祢家持の作れる歌一首「ひさかたの雨は降りしく思ふ子が宿に今夜(こよひ)は明かして行かむ」(6-1040
) 作歌時期は不明、天平15年8月16日以降に配列された歌である。
大日本という表現の根本に前述の天武天皇以降持統・文武・聖武天皇の統治の特長の認識が誰よりも深く刻み込まれていた。名門武門の跡継ぎであり高級官人候補生としての自覚や矜持とそれゆえの自学研鑽があった、からであろう。前述のように大きく5つの大きな変化があったがその中で律令制の中央集権国家という国造作りをその核心と捉えていた。これらの大変化を成し遂げた天武皇統の統治を尊崇し、国作りの進展を篤い眼差しで見つめ、我が国固有の国柄(くにがら・くにから)という大元が微動だにしていない国を実感して“大”日本と表現したと思う。本作歌で家持は国柄(くにがら・くにから(前述))を思い、大君が支配する地に国
、未だ混沌としていたであろうが、の意識を持っていた。未だ大君と大君の支配する地即ち国家とが概念として明確ではなかったであろう頃である。
その2 宮の内と外
天平18年正月、都は大雪に見舞われ、太上天皇(元正天皇)のご座所の雪かきに左大臣橘諸兄以下参上した。その際、全員歌を読めという詔が降り、記録に残っている歌に家持の歌もある。天平18年3月、家持は宮内少輔となり、同年7月越中国司に赴任するので在京最後の歌である。
詔に応えたる歌(17-3926)
「大宮の内にも外にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも」
家持の歌の感性上の視線は大宮の内なる大君と大君の視線の先の外なる民に向けられている。大君は尊崇対象として、大宮の外の民は国柄(くにがら)における君臣(民)相和を構成する民であり、国柄(くにから)における大君の御蔭の御代の豊かな自然とそれを享受する民である。
最初に橘諸兄が「降る雪の白髪までに大君に仕え奉れば貴くもあるか」(17-3922)と詠み、次に紀清人朝臣が「天の下すでに覆ひて降る雪の光を見れば貴くもあるか」(17-3923)と唱和する。葛井連諸会が「新しき年のはじめに豊の年しるすとならし雪の降れるは」(17-3925)と唱和する。家持が理想とする歌での君臣唱和の原風景であり、諸兄を慕う原風景であった。後に3922に追和し、「左大臣橘諸兄を寿ぐ歌」 を詠み、 橘諸兄への傾倒ぶりを表している。 天平勝宝3年(751年)、8月、京へ向かう途中で家持(34歳)、 左大臣橘卿を寿(ことほ)がむ為に、かねて作れる歌一首 巻19-4256「古昔(いにしへ)に君し三代経て仕へけりわが大主(おほぬし)は七世(ななよ)申(まを)さね」大意【これまでにも、あなたは三代を経てお仕えしてきたことです。わが大殿よ(武内宿祢のように)七代の大君に仕えて政治をお執りください。】後年因幡の国守として新年の賀を寿ぐ歌を詠むが、この原風景が17-3925である。3925の新年初めの雪は豊年の兆し、という良きことへの期待は家持の万葉集を閉じる最後の歌で良いことが重なり大君の御代が永代続きますようにとの願いに結実する。
3-2 家持の国の実感
では家持の国の実感を見て行く。
その1 応詔歌で確認した国の実感
家持は天武皇統の神のような統治を尊崇し、その尊崇の高まりとともに、神統治が目指した国を篤く注視し、成し遂げた国を実感して、国を貴び国を護る精神を確立した。
その実感とは天武皇統の神統治への尊崇の深化に伴い唐に倣った律令制の中央集権国家という国が①日本国ならではのものである。国のあり様は変わっても連綿と続く一系の皇統の天皇を戴き背骨とする日本固有の国柄(くにがら・くにから)は不変、天皇は権威は持つが権力は不保持という構造も不変である。②日本国の対外的地位と国防力の向上、国家統治機構の格段の強化及び国民の精神・文化や生活面での格段の充実・安定など国の恒久的安泰と繁栄への希望を確信した、の2点であった。
その2 外国の脅威に対するわが国を肌で感じる
家持は養老2年(718年)頃旅人の長男として生誕。10歳の頃、太宰の帥であった旅人の元へ下る。祖父安麻呂も太宰帥を経験しており、家持の太宰府での生活は60年ほど前に唐・新羅連合軍に大敗した白村江の戦いのあと唐の侵攻に備えた西海道の9国2島を管轄し、九州における外交・防衛の元締めとしての父・祖父の責任の重さや当時の非常の措置である防人・烽火台・水城・大野城の山城に触れ或いは見て、武の名門大伴の血脈をいずれ氏上として継ぐという自覚の中に唐に対するわが国を刻みこんだであろう。
家持は天平18年(746)6月越中守を命ぜられ,翌年3月30日①「二上山の賦(長歌を漢詩の賦とみたてている)」(17-3985)、②「布施の水海の賦」(17-3991)、4月27日・28日③「立山の賦」(17-4000)を作る。それぞれに反歌も添えているがここでは省略する。②③に大伴池主が和した歌をつくるが省略。越中の3景を二上山は神柄(かむから)や許多(そこば、そこに在るだけで)貴き山柄(やまから)や、皇親の裾回(み)の山の渋谷の崎の荒磯にと賛美し、布施の水海は二上山の麓の渋谷を巡り、二上山に延びるつたはどこまでも続く、と神柄二上山との相性を賛美し、立山は皇親(すめかみ)の領(うしは)きいます新川の立山、と賛美した。養老4年(720)日本書記と風土記からなる日本紀が撰上された。併せ一本で「日本」紀としたその主意、越中と同じように各地にも皇親がいます風土があり人々は愛しんでいる、それらが合わさって、日本という国である、を実感している。また郷土を愛する心が諸国を包含する国を愛する源であることも実感した。
その4 史生尾張少昨に教え諭す歌の序にみる国の実感
家持は聖武天皇の詔に応える歌群作歌の最中の天平感宝元年5月15日に左夫流という遊女に心を奪われた史生(舎人出身で地方書記官として赴任)尾張少昨に教え諭す歌(18-1406)、17日にその妻が夫君の呼ぶ使いを待たず自ら来たる時に一首(18-1410)を作る。是も国を貴び”国を護る精神の高まりの一環と考えてよいと思う。教え諭すに際し、序を設ける。この序に表題の趣きを感じるので原文について大伴家持4⃣中西進【中西進著作集29大伴家持二】に拠り(引用)、若干の私見を付け加えたい。
史生尾張少昨に教え諭す歌一首併せて短歌(序のみ)
七出の例に云はく、
三不去に云はく、 七出を犯すとも棄つるべからず。違へる者は杖1百なり。ただ、姦を犯せると悪疾とは棄つるを得といふ。
両妻の例に云はく、
詔書に云はく、
謹みて案ずるに、先の件の数条は、法を建つる基、道に化くる源なり。
然らば則ち義父の道は、情の別なきことに在り、一家は財を同じくす。豈旧きを忘れ新しきを愛づる志あらめや。所以に数行の
その詞に曰はく、以下長歌(略)
この序には律令の規定(戸令)と詔書を引いている。当時戸令では離婚が許される条件を七出(無子、姦淫、夫の父母への不仕、おしゃべり、盗み、嫉妬、悪疾)と呼び、そのうち一つでも該当すれば離婚して良いきまりであった。しかし七出でもないのに妻を棄ててしまうと、少昨は七出に該当しなので、1年半の徒(禁固刑)に処せられる。次に七出に当たっていても離縁できない三不去(夫の父母の喪に3年間服した者、卑賎であっても結婚後に身分が上がった女性、結婚後に実家が亡くなった人)というきまりがあるが、七出の適用除外でもないので、離縁すると杖百(最高刑、100回笞打たれる)の刑を受けなければならない。更に両妻のきまり(重婚の禁止)があり、それを犯すと男は1年間の禁固刑、女性の方も杖で百回打って追放という罰を受けなければならない。詔書(和銅7年(714)6月28日)からは孝子・順孫・義父・節婦は生涯労働を免除という規定を引いて少昨は義父節婦を愍(あわれ)み賜ふの義父には該当しない、と述べ、これらの決まりは法を建てる基本であり、人々が道を正しく行う根本であるとして、夫婦の守るべき道三つを説いた。
天皇の詔書も律令も天皇が定めた護るべき法である。その法を家持は極めて身近に捉えている。法を生活の規範とする国という実感が役所の部下の指導に強く表れている。このように法を歌うのは家持以外には目にしない。
その5 防人歌進上及び詠歌における国の実感
家持は天平勝宝6年(754年)4月兵部少輔になり、天平勝宝7年(757年)2月難波に出張、交代して東国から筑紫に派遣される(徴集された)防人たちの監督(検校)に当たった。
律令制が機能していることに国を実感した
定員は3000人、東国の諸国の21歳から60歳の壮丁で、任期は3年、毎年1/3ずつ交代。防人に任命されると武具・装具に鋤・鍬を持参して一旦難波に集結し、1000人以上になると舟で太宰府に向け出発、本国から難波までは国司が引率し、難波から太宰府までは防人司が引率した。旅費は本国から難波までは自費で、難波から大宰府までは船で、官費支給された。家持は決められたことが軍防令通りに中央・地方の間で行われ、戸籍・租庸調などの基盤施策も確りしている、と一体化された国を実感した。この時、諸国の部領使から防人の歌を進上された。恐らく家持が指示をしたのではないかと思うが、何らかの指示が中央から諸国の国司にあり、国司・郡司・里長・戸主・個人へと伝えられ、系統を通じ、進上されたものと思う。
この命令・指示・報告の系統が機能していることに一体化された国を実感した。
民度の高さ・おおらかさに、国柄(くにがら・くにから)の素晴らしさを実感した。
家持はこれらを精査(拙劣なものを除き)し、このうち84首及び防人の歌に和する歌(長歌4首、短歌・・首)を巻20に載せている。
歌の内容上は家族との別れの辛さを歌うものが圧倒的で、使命意識を歌うものは少なく、里長への不満を言うものもあり、その心情をあるがままに歌う国柄(くにがら・くにから)の素晴らしさを実感した。
父・母・妻子との別れの辛さと共に繋がっていたいという情に心打たれ、家持は4つの長歌を歌い、その最後の長歌の結びを「わは漕ぎ出ぬと 家に告げこそ(防人を詠む(2月23日)、20-4408)」とし是に家に告げる短歌4首(20-4409~4412)を添え、全防人歌の結びとした。これは愛する人を思い心が繋がっている、という思いが任務に向かう、日本国を護る、源泉であると実感した、からであった。
その6 新年の賀を寿ぐ歌に見る国意識
天平宝字三年(759年)春正月一日、因幡国庁にして 饗(あへ)を国郡の司等に賜ふ宴の歌一首 巻20-4516(巻尾)「新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重(し)け 吉事(よごと)」
拝賀の儀式及び賀詞・賀宴のあり様に国を実感
上記は天平宝字三年(759年)正月一日、因幡の国の庁舎で、国や郡の役人の拝賀(を受ける)の儀式の後の宴の歌である。拝賀の儀式は律令の「儀制令」で定められ、本来皇太子以下諸臣が天皇に新年の賀詞を奏上する儀式であり、都では参内して直接朝拝するが、地方では遠く都の庁(天皇が拝賀を受ける大極殿)を望んで朝拝した。規定ではその後国守は天皇に代わって賀詞を受け、賀宴を設けることになっていた。題詞はその規定通りの作歌事情を表す。家持は越中の国司としても経験した。正月に都の庁初め諸国の国庁に主だったものがすべて参集し、全国同じ作法で同じ思いを込めて同時に行われる。このあり様に一体となった国を実感した。
歌意に込める国
歌の意は「新しい年の始めの 新春の今日降る雪のように ますます重なれ よいことが」であり、当時年頭の雪は吉兆とされたので、新しい年の豊穣と平安の願いを籠めている。天皇への朝拝に続く宴での歌という性格から、天皇の御代の永遠と(天皇が統治し成し遂げた新しい)国の安泰を希求するものである。廷臣という立場では天皇の御代の繁栄を寿ぎ、国守という立場では参集し宴に出席した国司や郡司たちへこの国に良いことが重なる1年にしようという呼びかけと祝福のメッセージをこめた歌である。
萬葉集巻尾に込めた(天皇の神統治で成し遂げた新しい)国の安泰を願う思い
なぜこの歌を万葉集の歌い納め、最後にして万葉集を閉じたのであろうか。家持を研究し始めてずっと抱いていた疑問であるがここで私見を述べたい。今までにも述べてきたが、雄略天皇の歌が巻頭、間に神歌があり、家持の歌が巻尾という展開から律令制の中央集権国家という国作りを成し遂げた天武・持統・文武天皇という天武皇統の神のような御代が永遠に続き(神のような統治で出来上がった)国が安泰でありますようにとの希求を根底に込めた。
しかし、周囲の状況はその希求を危い、と家持に思わせた。その事情を述べると。文武天皇の皇子聖武天皇の基皇子は夭折し、聖武天皇と県犬養広刀自との間に生まれた安積皇子が居たにもかかわらず聖武天皇と光明皇后(藤原光明子)の間に生まれた安部内親王が立太子(738年)した。その後安積皇子は変死を遂げ(744年)、直系の男子は途絶えてしまう。聖武天皇の譲位により皇太子安倍内親王が孝謙天皇に即位(749年)した。聖武上皇は756年5月死去し、天武天皇の皇子新田部親王の子である道祖王を皇太子とせよとの遺詔を残した。しかし翌天平勝宝9歳(757年)3月、孝謙天皇は皇太子にふさわしくない行動があるとして道祖王を廃し、自身の意向として天武天皇の皇子舎人親王の子大炊王を新たな皇太子とした。この背後には藤原仲麻呂がいた。孝謙天皇は光明皇后の病気を理由に大炊王(淳仁天皇)に譲位した(758年)。大炊王は仲麻呂の長男で故人の真従の未亡人である粟田諸姉を妻に迎え、また仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と深く結びついていた。辛うじて天武皇統が続いているとはいえ、藤原腹の皇子以外を排斥する風潮、藤原が政権中枢にあり続けるための天皇権力の利用という野望が歴然としていた。更に結婚をしない女性天皇、その後継不安は政治の不安混乱に輪をかけた。加えて左大臣橘諸兄は天皇を誹謗したとの誣告を受け、天平勝宝8年(756年)2月、驚いて致仕し、諸兄の皇親政治は崩壊した。聖武上皇薨去(756年)に伴い引き起こされた橘奈良麻呂の変はその事情を物語っている。つまるところ藤原の私に反発するクーデター未遂であった。大伴一族は大打撃を受けた。大伴は過去に遡っても藤原の私を警戒し、皇親政治を宜しとしてきた。太政大臣高市皇子の皇子で左大臣を務めた長屋王は皇親政治の重鎮として藤原と対立したがその陰謀で、長屋王の変に遭い自殺に追い込まれるが、それに先立って旅人は陰謀により?太宰の帥へと遠ざけられた。私を永遠に確実にせんとする藤原の陰謀を押さえる皇親政治の出現は期待薄であり、そうである以上、皇親を恃みにする大伴の存在と家持が関わった万葉集は藤原にとって目障り以外のなにものでもない、と家持は考えたであろう。以上を踏まえ、天武皇統が男系で続くこと、そして皇親政治も絶望的である。ならばせめて天武皇統の神統治を誤りなく伝え、(神統治で出来上がった)律令制の中央集権国家という国、自分も実感した、が安泰でさらに発展・充実するよう、間違っても後戻りしないよう願って、草莽の記録とし、後の世の公開に資するため、歌い納めとした。
結び
私は「応詔歌」が歌われたころの歌群の傾向を、天皇の神統治への尊崇を切り口にした。即ち大君(の神統治)への尊崇の度が高まれば神統治で成し遂げた国を意識し貴ぶ思いも高まる、従って大君尊崇と国を貴び国を護る精神の高まりであると捉えた。そのもとに家持が如何に国意識を抱き・実感して、新しい「天皇」と国へ顧みず尽くす心を注ぎ分けるように到ったのか、を未熟ながら展開したつもりである。意図するところを汲んで頂ければ幸甚である。
家持の神のような大君尊崇の思いの淵源は大伴の祖以来の大君・天皇観と国史観に拠っている。神武東征、雄略天皇そして今回の天武皇統の御代は国のあり様(形を)変えるという国史の大結節であった。その結節には御代の申し子的な天皇が現れ、神統治をされ、国の方向を示し成し遂げられた。長い目で見ても、国のあり様(形)が変わっても、連綿と続く一つの皇統の天皇を戴き背骨とする日本固有の国柄(くにがら・くにから)は不変であり、天皇は権威は持つが権力は不保持という構造も不変という神統治、国民もこぞって護った、も続けられた。大伴はそれらの節目で大君・天皇を支えた。大伴の血脈には国史の結節を支えその後までも見届けた生き証人としてのDNAがある。究極のところ、そのDNAが家持をして神統治が成し遂げた国を注視させその実感を確かなものにして歌わせたに違いない、という思いが強い。
萬葉集は上からの指導ではない草莽の精神を歌い、大伴家持は国史精神を歌う。ならばここ(大伴家持の国意識形成を考えること)が万葉集・大伴家持並びに歌われることによって育まれた我が国民の心情としての国史精神を理解する最緊要ポイントではないか、即ち国意識を考えることが顧みずの心の連綿性の屋台骨を考えることだ、と思いつき、得心した。