国史背景認識の要約
3-1、神代における大伴の祖の尽くす心は武の心の源流である。
大伴の祖は神話・天孫降臨の頃以来の敬神崇祖のおおらかで純粋な心のまま大君を畏敬・尊崇して仕えてきた。敬神崇祖は仏教や儒教などが伝来する前から存する日本の風土が育んだ日本人固有の精神であり、神や祖を崇めるように大君に尽くす心は後の武の心の源流であった。
3-2、「海行かば」が歌われた時代における「海行かば」の顧みずの心は今の自衛官の使命感(顧みずの心)の祖(礎)型である。
大伴の祖及び家持の尽くす心・顧みずの心は神話時代から律令制の中央集権という新しい国に繫がる。その新しい国は①神話時代から連綿と続く一系の天皇を背骨として国民が相和すくにがら、②法に則り、③武が国家に直接仕えるという意味で今に続き、今の自衛官の使命感の祖(礎)型である。新しい国は、有力氏族に武をゆだねる形から武を直接国家が握る形となり、従らいの部民制から官人(武・文官)制となった。また律令制は大君(とその所有する土地や人)から天皇と(天皇が治める)国家という概念の分化を産んだ。
3-3、坂上氏の血統としての顧みずの心はいざに備え続ける心
延暦13年(794)の征夷(桓武朝2回目)で、国家は腰を据えて征夷をおこなうため総指揮官を「征夷大将軍」とした。初めて同職に就いたのは大伴弟麻呂(64歳)。軍勢は10万、征夷の実績を上げた。その時坂上田村麻呂(37歳)は4人の副使(副将軍)の一人として弟麻呂に抜擢され、信頼を得て軍を取り仕切った。ここに至ったのは坂上氏代々の血統としての顧みずの心が後を継ぐ者に活躍の舞台を用意し、武才を磨かせて、いつ来るかわからないその時に備え続けたからであった。
3-4、坂上田村麻呂の「顧みずの心」は80年前の新しい国に尽くす初心への原点回帰
新しい国になって、80年のゆるみが武官のだらしなさとなって現れた。そのだらしなさは先が読めず、責めを一身に負う決断ができないことであり、普段からここを思って武官職に向きあう真剣さが抜け落ちてしまったせいである。文官職との交差の悪い面が積もりに積もり、地道に武才を磨くことを軽んずる風潮が蔓延してしまった。その上に橘奈良麻呂の変などで真摯に尽くし直言する数少ない武材が粛清されてしまった。
3-5、田村麻呂の顧みずの心は戦う前に大勢を決めて良く勝ち、良く国を拡げた。
征夷大将軍・田村麻呂は桓武朝3回目の征討では延暦15年(796年)1月25日に陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され、10月27日に鎮守将軍も兼任すると、翌延暦16年(797年)11月5日には征夷大将軍に任じられ、東北全般の行政・軍を指揮する官職を全て合わせた。これに拠り政・軍を一元的に掌握し、陸奥出羽を大宰府と同じような機構にして、対外的にはまつろわぬ蝦夷を討伐しつつ征地の拡大を、対内的には征地の安定と奥羽2国の律令制化の推進を図ると共に蝦夷を含めた民生安定策を推進した。
3-5-1、田村麻呂が受け継いだ顧みずの心は国家100年の計「国を拡げる」の一応の区切りをつけた。
田村麻呂の顧みずの心は新しい国家100年の計【国を拡げる】へ向かう流れの中の決をつける段階に登場し、新しい国の成立から100年たって実現させた。この顧みずの心は国家に大きな区切りをつけたものであり、受けたバトンの一応のゴールへの到着であった。その後は1200年後の今の日本の融合・繁栄のシンボル(清水寺の阿弖流為・母礼慰霊祭)ここをクリックとして受け継がれている。
3-5-2、田村麻呂の顧みずの心は前人未踏の役割をも良く果たした。
田村麻呂は武と政を自分に一元化し、武を主とした政・経・民の一体化で蝦夷を平定・安定し【国を良く拡げる】ことと律令制の普及を急速に達成した。現地で武が政を主導するという前人未到の役割を果たしての国家への貢献であった。