立証責任って何?
一部の否定論者は、「血液型と性格」の関係を立証する責任、つまり「立証責任」は、一方的に肯定論者の側にあると主張しています。そこで、今回は立証責任を調べてみることにしましょう。
まず、手元の百科事典(小学館『スーパー・ニッポニカ2003』DVD版)で「立証責任」で調べてみました。
■立証責任
訴訟上、裁判所が、ある事実の存否が確定できない場合に、当事者の一方に帰せられる危険または不利益。挙証責任ともいう。
■民事訴訟上■
…たとえば、貸金請求事件において、債務を弁済した事実は、被告に主張および立証責任がある。それゆえ、弁済の事実が主張され、かつ十分に証明されなければ、弁済されなかったものと判断される。要するに、請求原因を構成する事実(実体法が、権利または法律関係の成立について定めた要件を充足する事実)については、原告に主張・立証責任があり、それ以外の事実による当該権利または法律関係の不発生、変更もしくは消滅については、すべて抗弁として、被告に主張・立証責任がある。
〈内田武吉〉
■刑事訴訟上■
刑事訴訟では被告人は有罪とされるまでは無罪と推定される。被告人が特定の犯罪について有罪であることを厳格な証拠で合理的な疑いを超える確信を裁判官に得させる程度まで立証する責任(実質的挙証責任)は、検察官がこれを負担する。すなわち、証拠調べの結果、要証事実が存否不明なときは、「疑わしきは被告人の利益に」という原則に従う。…
〈内田一郎〉
否定論者が言うのは、たぶん民事訴訟上のことなのでしょう。「血液型と性格」には、別に刑事責任はありませんからね(笑)。となると、こんな解釈でいいのでしょう、たぶん。
請求原因を構成する事実(「血液型と性格」は関係ある、と心理学が定めた要件を充足する事実)については、原告(=肯定論者)に主張・立証責任があり、それ以外の事実による(心理学のルールに基づく)関係の不発生、変更もしくは消滅については、すべて抗弁として、被告(=否定論者)に主張・立証責任がある。
ついでに、国語事典も調べてみました(小学館『スーパー・ニッポニカ2003』DVD版)。
訴訟で、ある事実の存否を当事者の一方が立証できない場合に、判決で不利益な判断を受けることになる当事者の法律上の地位。刑事訴訟では、立証責任は原則として検察官が負うものとされる。挙証責任。
つまり、こういうことです。
「血液型と性格」の関係があるどうかは、肯定論者に主張および立証責任がある。それゆえ、関係あるという事実が主張され、かつ十分に証明されなければ、関係ないものと判断される。
ところで、民事訴訟法には、裁判の公正を保つため、「除斥」という制度があります。これは、当事者と特別の関係にある裁判官などをその事件の担当から外すことです。小学館『スーパー・ニッポニカ2003』DVD版では、
■除斥
裁判官に偏頗(へんぱ)(不公平)な裁判をするおそれのある一定の類型的な事由があるとき、その裁判官を法律上当然に職務の執行から排除する制度。裁判官が、当該事件の当事者(刑事事件の場合は、被害者や被告人)であるか、当事者に近い立場にある場合や、職務上当該事件にかかわったことがある場合などが類型化されており、民事訴訟上の事由としては、次のような六つの場合である(民事訴訟法23条)。
(1)裁判官か配偶者(だった者を含む)が当事者か、利害関係者である場合
(2)〜(6) (省略)
刑事訴訟上もほぼ同様である(刑事訴訟法20条)が、事件について検察官や司法警察員の職務を行った場合が加わっている。なお、裁判所書記官にも除斥の規定の準用がある(民事訴訟法27条、刑事訴訟法26条)。
→裁判官〈大出良知〉
同じく国語事典でも調べてみました(小学館『スーパー・ニッポニカ2003』DVD版)。
■除斥
1 (省略)
2 裁判の公正を保つため、特定の訴訟事件について、当事者と特別の関係にある裁判官、裁判所書記官などをしりぞけてその事件の担当ができないものとすること。
従って、否定論者は「当事者」and/or「利害関係者」ですから、民事訴訟法の趣旨から裁判官になる資格はないことになります。つまり、「血液型と性格」が関係があるかどうかの判断をすることはできません。では、長谷川さんのような「科学的研究を妨げるつもりもない」心理学者はどうでしょうか?
■平成16年7月13日付の自分更新日記
【思ったこと】
_40713(火)[心理]「活きる」ための心理学(7)「血液型性格判断」の論点
この中で、長谷川さんは次のように述べています。
筆者は、約一〇年前よりこの問題をとりあげてきたが(7)(8)、その主旨は、第一に、血液型人間「学」と呼ばれる俗説のデタラメな「分析」方法を批判すること、第二に、「血液型と性格」には少なくとも日常生活場面で問題になるほどの相関はないことを反例の形で示すことにあった。純粋に科学的なレベルで「血液型と性格がまったく関係ない」かどうかは私にはわからないし、この問題についての科学的研究を妨げるつもりもない。 …多くの心理学者も私とほぼ同じ態度をとっている。
しかし、長谷川さんが「ネット界屈指の論客」(平成16年7月14日付けの日記)としている渡邊芳之さんは、全く反対の主張をしているようです(性格心理学は血液型性格関連説を否定できるか〜性格心理学から見た血液型と性格の関係への疑義 『現代のエスプリ〜血液型と性格』 188〜191ページ)。
これまで何人かの心理学者が、 血液型と性格との関連を実証的方法で反証し、血液型性格関連説を否定しようとしてきた。ここで注目されるのは、彼らが血液型性格関連説を「科学的方法によって反証可能な理論」、すなわち科学的理論とみなしていることである。この点でそれを「非科学的な迷信」とみなして無視した従来の心理学者とは異なる。
しかし、論文を一読すればわかるように、彼らの多くは「血液型性格関連説は間違っている」というアプリオリな立場を持っており、それを実証するために研究を行なっていることもまた確かである。
長谷川さんの意見と、渡邊さんの意見と、どちらが正しいのかはわかりませんが、仲間(渡邊さんは心理学者です)にさえ「『血液型性格関連説は間違っている』というアプリオリな立場を持って」いると言われているのですから、心理学者に裁判官になってもらうのは、民事訴訟法の精神から判断すると全く問題がないとは言えないようです。
以上のことをまとめると、次のようになります。
結局、「立証責任」は肯定論者にあり、そのためには「血液型と性格」は関係ある、と心理学が定めた要件を充足する事実が示される必要があることになります。
では、長谷川さんはどのように述べているのでしょうか?
■平成16年7月13日付の自分更新日記
…純粋に科学的なレベルで「血液型と性格」の関係を主張しようとするならば、二、三の事例を示せば十分というわけにはいかない。「性格」の測定方法を厳密に定めたうえで、大量のデータを集める。そして、すでに指摘したように、単に有意差が出た項目だけに注目するのではなく有意差が出なかった項目をも包括するかたちで「血液型気質相関説」を構築していく必要があるだろう。
…「血液型と性格は関係がない」という作業仮説のもとに地道にデータを集め、ある性格的特徴について明らかに血液型との関係を示すようなデータが安定的に得られた時に初めてこの仮説を棄却するのである。
つまり、こういうことになります。「ある性格的特徴について明らかに血液型との関係を示すようなデータが安定的に得られた」と長谷川さんが判断すればいいことになります。
私は、多くの否定論者にこのような事実(例えばここの反論2など)を示したはずですが、どのような回答があったたのでしょうか? 実はごく一部の例外を除いては、全く回答はありませんでした!
ここで、最初の立証責任に戻りましょう。
請求原因を構成する事実(「血液型と性格」は関係ある、と心理学が定めた要件を充足する事実)については、原告(=肯定論者)に主張・立証責任があり、それ以外の事実による(心理学のルールに基づく)関係の不発生、変更もしくは消滅については、すべて抗弁として、被告(=否定論者)に主張・立証責任がある。
つまり、「血液型と性格」は関係ある、と心理学が定めた要件を示さず、そして肯定論者に返事をしない否定論者こそ立証責任を果たしていないのです!
私は、必ずしも否定論者の「立証責任」を追求しようとは思いません。でも、「立証責任」を声高に叫ぶ否定論者なら、自ら「立証責任」を果たすべきなのではないでしょうか? 皆さんはどう思いますか?
志水一夫さんの『宜保愛子イジメを斬る!!』には、疑似科学を否定する大槻さん(現在は早稲田大学名誉教授)を批判するこんな文章が掲載されています(80〜81ページ)。
さて、ご存じのように[大槻]キョージュは、もし超能力の存在が証明されたら早稲田大学の教授を退職する称して、辞表を持参し、しばしばTVや週刊誌などで見せびらかしており…
言っちゃ何だが、これ、よくある陳腐なトリックである。アメリカには、この種の宣言をしている人が少なからずいる。
ナチスのユダヤ人虐殺を立証した人[注:つまり立証責任です]には100万ドル進呈します、といった類だ。
しかし、こういう場合は、結局その人本人を納得させうるような証拠を提出するというのが条件なので、何が出てこようとも「まだまだ、そんなものは証拠の内に入らない」とさえ言っていれば、彼は賞金を払う必要はないし、それでいて世間には、いかにも彼の主張が正しくて、例えばナチスのユダヤ人虐殺には明確な証拠がないような印象を与えることができるというわけである。
しかも、すでに述べたように(「物理の基本原則に反する」ので)何があっても超能力は認めないというのだから、両方表のコインで賭をしているようなものである。
大槻さんは、血液型にも否定的です。しかし、『通販生活』などに掲載された否定の論理は、否定論者の心理学者にも(あまりにも強引だと)疑問視されているのが現状です。ヒトダマの研究で有名になった科学者らしくはないと思うんですが…。
私は超能力を信じているわけではありませんが、あまりにもヒステリックな否定論には反発を感じます。データを見ると、一般の人もそのようです。つまり、「科学真理教(?)」は説得の方法としては逆効果なのです。こんなことをしても、決して科学の進歩には貢献しないと思うんですが…。
「血液型と性格」でも、「血液型と性格がまったく関係ないかどうかはわからない」「血液型と性格の科学的研究を妨げるつもりもない」などと言う否定論者も存在します。しかし、そんな人でも「立証責任」も果たしているとは、(少なくとも私には)思えません。こんな態度は、本当に心理学の進歩に貢献するのでしょうか? 逆効果にはならないのでしょうか? 皆さんはどう思いますか?