遂にというか、驚いたというか、肯定論者の主張の一部を裏付ける本(?)が心理学者から出版されました。それがこの本です!
出版社名でわかるように、この本はちゃんとした学術書です。また、血液型と性格については肯定・否定のどちらもしていません、念のため。
まずは、血液型は心理学では「タブー」であるということについてです。
佐藤[達哉氏] まあ、怒りというとボクの場合は、血液型性格判断の研究を某誌に投稿したときのことがありますね。レフリーがわけの分からないことを書いてきて、さらにけしからんことに、データがついているからダメだと言ってきて。某誌の他の論文にはデータのついているのがあるのにさ。それなのにオレらのだけ(笑)ダメだっていうわけ(と自分には思えた)。
今の大学生が興味を持つようなことを卒論で取り扱おうとしても、なかなか認めてもらえないことが多い。
「超能力は存在するか」なんてことはとにかくタブーなのである。
いわゆる血液型性格判断についても同様である。やってはいけない。
血液型性格判断ブームの研究については近年事情が変わってきたが、タブーとなるテーマであることは変わりがない。
……
心理学は実証的学問なんだから、仮説をたてて検証させればすむことなのに、頭からテーマを押さえ込むようなやり方はなくしてほしいものだと思う。
実はこれはおかしいのです。「超能力は存在するか」という(否定的な)研究と「超能力の実在を信ずる」ことは全く別のことなはずです。従って、理屈上は超能力の研究をやっても全く問題ないことになります。しかし、実際にはできません(笑・じゃないかもしれませんね…)。血液型は「非科学的」ではないのですが、一般の心理学者に「非科学的」と思われているので、同様の扱いになっているようです。(^^;;
それは、「非科学的」なものは「頭から信じない」という明治的啓蒙主義の悪影響なのです!
井沢元彦さん(B型)の『逆説の日本史1』の59ページにはこんな記述があります。福翁自伝の中の有名なエピソードですが、
反骨精神旺盛な福沢少年は、「神様の名のある御札を踏んだらどうだと思って」「踏んでみた」。
ところが、「何ともない」。そして、今度は叔父の家の稲荷の社の中の、ご神体の石を引っぱり出し、変わりの石を入れておくというイタズラをする。
これは、明らかに迷信を打破しようとする勇気ある行為でしょう。なにしろ、江戸時代には「種痘をすれば牛になる」といったような迷信があったそうですから(『逆説の日本史1』より)。引用を続けましょう。
福沢諭吉という人、実は私も尊敬している。特に「独立の精神」という言葉が好きだ。明治の思想家としては、もちろん偉大な人物である。(中略)「福沢先生」以外に「先生」はいない、などと神格化して、批判はしないなどという態度をとるならば、それは「天は人の上に人を作らず」と言った福沢精神を、逆に踏みにじることになるだろう。そこで遠慮なく批判させて頂く。福沢の最大の罪は、彼以後、宗教的なものを「初めから馬鹿にして信じない」ことが、知識人の条件のようになってしまったことである。たとえば、怨霊、呪詛、あるいは神、悪魔、それに宗教−こういったものを科学の対象からはずすことが正しい、そのように知識人に思わせたことである。言うまでもなく、これは真の科学的態度とは言えない。確かに、「御神体」も「御札」も、物質として見れば、タダの「石」であり「紙」であるかもしれない。しかし、そこにわれわれは何かを感じるのである。感じるからこそ、それを拝んだり尊んだりするのだ。
そして、その何かを感じること(「臨存感」)が事実として存在する以上、ではその正体は何なのか、それを論理的な方法で追求するのが科学である、その「臨存感」が現実に存在することの証明として、たとえ福沢諭吉でも「母親の写真」(単なる印画紙)は踏めないだろうと続きます。
私も面白い体験をしたことがあります。かなり前のことですが、アメリカの高校生グループが日本にやってきて、夏休みに地元の高校生グループと親善交流をしたことがありました。なぜか私も参加し、たまたま1日だけ彼らと一緒にいたのです。キャンプを一緒にやったのですが、夜になって恒例の肝試し大会をすることになりました。皆さんも知っているように、一部男子グループが幽霊に扮して女子グループを驚かすというあれです(笑)。高校生にもなれば、男女共に幽霊を信じている人はほとんどいないはずです。しかし、当然というか、日本の女子高生グループはキャーキャー騒いで大変なことになっていました(笑)。一部の気の弱い子は泣き叫ばんばかり…。しかし、アメリカの高校生は男女とも全くなんともありません。私だって少しは怖かった(笑)のですから、アメリカの高校生もちょっとぐらいは騒ぐだろうと予想していました。しかし、私の予想は見事に外れ、全員がなんともなくニコニコしています。「幽霊」は業を煮やし、おどかしをエスカーレートさせたのですが、アメリカ人グループはそれでも全く平気です。最後には、「幽霊」をからかうグループも出てくる始末…。日本人グループは困ったに違いありません。
つまり、こういうことです。ほとんどのアメリカ人は、幽霊はいないと信じている。しかし、ほとんどの日本人は、幽霊はいないとような気がしたにしても、本当はいると信じているのです。この国際交流キャンプは、日米の宗教観の違いあまりもに鮮やかに浮かび上がらせたのでした。
山本七平さんの本にも同じような話があります。日本人とユダヤ人がある遺跡の発掘をしたそうです。しかし、そこは戦場だか墓場だったらしく、人骨がバラバラ出てきた。しょうがないので人骨も掘り出したのですが、ユダヤ人はなんともなかったのに対し、日本人は全員高熱を発して寝込んでしまったのだそうです。人骨は単なる物質ですから、超自然的存在である霊魂なんかが宿っているはずもありません。ですから、科学的に考えると、単なる人骨という物質から、人間が何らの影響を受けるはずがない、ということになります。しかし、実際に日本人は「霊魂」の影響(?)を受けて寝込んでしまいました。私も「霊魂」なんて信じていませんが、それでも人骨の発掘なんかまっぴらご免です。つまり、私も結果として「霊魂」は信じていることになるわけです…(笑)。
なぜ、こんなおかしなことになってしまったのでしょうか? 井沢さんの言葉を借りると、人骨にわれわれは「何か」を感じるのです。明治的啓蒙主義では、それは「ないこと」にされてしまいました。「その正体は何なのか、それを論理的な方法で追求するのが科学」だなんていう疑問をちょっとでも感じたら、それは「非科学的」ということになってしまったのです。こんなおかしなことはありません!
別な本からも引用しておきます(山本七平『「空気」の研究』)。
物質から何らかの心理的・宗教的影響をうける、言いかえれば物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態、この状態への指摘とそれへの抵抗は、『福翁自伝』にもでてくる。しかし彼は、否彼のみならず明治の啓蒙家たちは、「石ころは物質に過ぎない。この物質を拝むことは迷信であり、野蛮である。文明開化の科学的態度とはそれを否定棄却すること、そのため啓蒙的科学的教育をすべきだ、そしてそれで十分だ」と考えても、「日本人が、なぜ、物質の背後に何かが臨存すると考えるのか、またなぜ何か臨在すると感じて身体的影響を受けるのか。まずそれを解明すべきだ」とは考えなかった。まして、彼の目から見れば、開化もせず科学的でもなかったであろう"野蛮"な民族−たとえばセム族−の中に、臨在感を徹底的に拒否し罪悪視する民族がなぜ存在するのか、といった点は、はじめから見逃していた。無理もない。彼にとっては、西欧化的啓蒙がすべてであり、彼のみでなく明治のすべてに、先進国的学習はあっても、「探求」の余裕はなかったのである。従って、この態度は、啓蒙的といえるが科学的とは言いがたい。従って、その後の人びとは、何らかの臨在を感じても、感じたといえば「頭が古い」ことになるから感じても感じていないことにし、感じないふりをすることを科学的と考えて現在に至っている。このことは、超能力ブームのときに、非常に面白い形で出てきた。
私が、ある雑誌に「いわゆる超能力は存在しない」と記したところ、「お前がそんな科学盲従の男とは思わなかった」といった投書がきた。超能力なるものを感じても感じていないことにすること、いわば「福沢的啓蒙主義」をこの人は科学と考え、それに反発しているのである。従って、多くの人のいう科学とは、実は、明治的啓蒙主義のことなのである。しかし啓蒙主義とは、一定の水準に"民度"を高めるという受験勉強型速成主義で、「かく考えるべし」の強制ではあっても、探求解明による超克ではない。従って、否定されたものは逆に強く潜在してしまう。そのため、現在もなお、潜在する無言の臨在感に最終的決定権を奪われながら、どうもできないのである。
解説は不要でしょうから省略します。
では、次に…。
渡邊[芳之氏] そんなことだから、血液型性格判断のデータが統計的に有意★50だったりするとアタフタするんだよ。
★50 一部の心理学者が統計的手法で血液型性格判断を否定しようとしたため、血液型性格判断賛成陣営も統計を勉強し始め、最近では実際に有意差の出る(つまり血液型と性格に関連があるという)データを提出しはじめている。また、彼らは心理学の統計の用法の問題点(サンプリングの問題点等)も理解するようになり、(血液型性格判断を批判している)心理学という学問のあり方に対してかなりまっとうな批判も出るようになってきた。これらのことに対し、最初のうちは積極的に批判の論陣を張っていた心理学者たちの多くは沈黙している。
また、心理学者は一般的に統計に弱い(失礼!)という点については、次のような記述があります。
尾見[康博氏] 統計に強い人は崇めたてまつれらるわけですよね。…心理学科や心理学専攻は文学部系統に所属することは多いから、数学受験せずに数学が嫌いで大学に入っているわけだし。まあ、そういう人が頻度的に多いわけね、きっと。有意かもしんない、そういう意味では(笑)。
残念ながら、学会誌のレフリーのレベルでも、そういうことは少なくない(?)ようです。
佐藤[達哉氏] ぼくは、某達心理学研究(笑)という学術誌の常任編集委員をしてたことがあるんだけれども、共分散構造分析が使われ始めた頃は、使っている人が使い方というか内容を間違えてることがあった。たとえば実際に測定した変数と構成概念の間の矢印の方向っていうのか因果の方向っていうのか、それを全く理解してないで逆に考えている人がいたりしたわけですよ。…論文で言ってることが全然分からない。…
渡邊[芳之氏] そんなの落とせば良かったのに(笑)。
佐藤[達哉氏] ホントは落としたかったけど、他の2人のレフリーがほとんど手放し状態でホメてるのよ(笑)。本来なら2人が「採択」と言っていればそのまま掲載されてしまうのだけれども、それだけは勘弁してほしかったので、「修正再審査」にして、書き直してもらった。そして、再投稿されて再提出された論文を読んだら、他のレフリーもすごく分かりやすくなったって言ってきた。「それまでは自分の共分散構造分析の理解力が足りないんだって思ってました」みたいなことを言っているのよ、他のレフリーが。これゃダメだと思ったよ。
尾見[康博氏] つまり、学会誌のレフリーのレベルでも、ソフト使って流行の統計分析が行われていれば、認めてしまうってことですか?
佐藤[達哉氏] 残念ながらそういうことがあった。…
渡邊[芳之氏] それをレフリーが読んでやっぱり理解できなくとも、むずかしい統計やってれば手放しで誉められるわけだ。
そして、日本の心理学者が論文を書くまでには、いろいろと難関を突破しないといけないようです。
[サンプル数の他に]もう一つ、日本の心理学者がおびえるものがある。
外国(主として欧米)の研究である。
論文の書き出しは、
「Smith (1997) によると…」
あるいは
「Brown, and Johnson (1999) のABCモデルは…」
といった形になっているとかっこいいし、安心できる。引用文献は日本語のものが多いと格好悪い。自らの論文以外は全て英語の論文を引用する、といったこともあるようだ。
さあこれで、あとは運を天に任せて、統計に詳しい人が審査者とならないことを祈りつつ投稿するのみである。
これで、心理学者がよく言う、血液型と性格は日本でしかポピュラーではない(から間違っている)、という根拠がやっと理解できたようです。つまり、理工系とは違って心理学は欧米の方が圧倒的に強いようなのです。だから、日本でしか流行っていない→間違っている、という妙な結論が(必然的に?)導き出されることになるのではないでしょうか?
まだまだありますが、このぐらいにしておきます。しかし、よくこれだけ書きにくいことを書いたものです。(^^;;
それはともかく、この『心理学論の誕生』はなかなか良い本ですから、皆さんもなるべく買ってあげましょう!(^^)
その後、反論のメールが来たので紹介しておきます。 -- H12.7.30 No.393 匿名希望さんから H12.7.30 2:271.面白いですか?
2.お気に入りのページ
3.血液型と性格の関係は?
4.メッセージ:
大変貴重なご意見をありがとうございます。ご要望ですので、順を追ってお答えすることにしたいと思います。引用文については、この項目の少し前を読んでみてください。 >
「肯定側の主張の一部を裏付ける」と書くと、まるで血液型と性格は関連してい どうもはじめから誤解されているようですね。この本は「血液型と性格」について触れているにもかかわらず、肯定・否定のどちらの態度も(少なくとも明確には)取っていません。つまり、「血液型と性格の関連性を『否定』している部分なんてどこにもない本じゃぁないですか。」 #心理学者は、いままではほとんどが否定的な態度だったのですから、そういう意味で画期的なのです。 では、私の主張と同じものはないかというと、それは匿名希望さんも引用していらっしゃる211ページの部分です。 >
この部分は、心理学者と統計という文脈であなたは引用しているわけですが、ま これは、渡邊さん自身がそう言っているわけです。ですから、「心理学者は都合が悪くなって黙ってしまう」のは事実だ、という主張の根拠の1つにはなるでしょう。そういう意味です。 >
あなたの引用の続きの部分を以下に書きましょう。 おっしゃるように、この部分は意図的に引用しませんでした。ただし、その理由は匿名希望さんとは全く逆なのです。(^^;; 渡邊さんは、従来の性格心理学の方法論(主に質問紙法)による限り、統計的に血液型と性格は「関係ある」という結論になることは認めています。しかし、渡邊さんの主張する行動主義の方法論なら「関係ない」という結論になるということです。その方法論はというと、かなり長くなるのでここでは省略します。→読みたい方はこちら #いずれにせよ、この部分は心理学内部の問題です。 また、匿名希望さんもご承知のように、現在の性格心理学の主流は行動主義でありません。あくまでも、質問紙法による性格検査が中心です。従って、私はオーソドックスに質問紙法によるデータについて反論しています。その結果、「最初のうちは積極的に批判の論陣を張っていた心理学者たちの多くは沈黙している。」ということです。 #匿名希望さんは、行動主義(行動分析学)の方なのでしょうか? もし疑問の点があれば、私にだけではなく渡邊さん自身に確認された方がいいのではないかと思われますが…。なお、メールアドレスは、『心理学論の誕生』にあります。 閑話休題。 ところで、No.386とは別な方なのでしょうか? ご要望どおりHPは訂正したのですが、特にコメントがないようなのですが…。また、別の心理学系の掲示板でも、ご要望どおりHPは訂正したのですがコメントがありません。まさか、「心理学者は都合が悪くなって黙ってしまう」ということはないのでしょうから、何らかのフィードバックがあるものと期待しています。(^^) では、よろしくお願いします。 どうもありがとうございました。 |