The Furies

第2章 蒼天の鏡

解纜-2

馬車回しには、騎乗の準備が万端に整えられたシュカとモデナが、静かに乗り手を待っていた。モデナは人の手に触れられるのを拒んだらしく、騎獣舎で見た縺れた毛や汚れはそのままで、体も一回り大きく光り輝くような毛並みのシュカと並ぶと、少々見劣りがするのは否めなかった。しかし、上質な革のハーネスを付け、背中に丈夫な織物を敷かれて鐙を付けられた姿はやはり騎獣らしく堂々としており、実は騎獣に乗ったことのないユンは子供のようにわくわくと弾む気持ちを隠せない。大勢の使用人が見送りに出てきたため、少々気恥ずかしい思いをしながら慎重にモデナに跨った。馬とは全く違うその柔らかい乗り心地に戸惑いを感じる。暴れたり振り落としたりせず大人しくその背に乗せてくれたことに、ユンは安堵した。

これから登城するはずのラディエスカも共にいて、オルフェリウスに何事か余計なことを囁いて、またもや呆れたように叱責されている。

「では、定期の報告を忘れないよう。ラディ、後の事は頼む」

「ああ、分かっている。とにかく死なないように気を付けろよ」

目を細めながら口の端を上げて答えるラディエスカに、オルフェリウスはまた縁起でもないことを、と苦笑している。

「それではユン、行きましょう」

振り返ったオルフェリウスにユンは頷いて、ラディエスカに向かって頭を下げて挨拶をした。

「ユン」

呼ばれて顔を上げると、ラディエスカが真剣な面持ちで口を開いた。

「お前は強いが、自分の力を過信するな。----オルフェを頼む」

言われた言葉に、ユンはたじろいだ。己の力を過信している訳ではないが、それを戒められたことにどきりとする自分がいる。それに今、ラディエスカは自分の兄を頼むと言った。今まで見せられてきた二人の兄弟の仲はとても睦まじい。長兄であるオルフェリウスを、ラディエスカは眩しいものを見るような目で見ていることがある。そんな尊敬する大切な者の命を、ユンに守れと言っている…一介の奴隷少女であるユンに、ラディエスカは「頼む」と言った。そこに込められた気持ちは量りきれぬほど重く、深い。

「分かりました。必ずお守りし、契約を果たして戻ります」

ラディエスカはようやく表情を緩め、やや照れたように頭を掻いた。

「それでは行って参ります」

「おお!お前も気を付けろよっ」

オルフェリウスがシュカを走らせるのを追って、ユンもモデナの首の後ろにまわされたハーネスを振った。


◇ ◇ ◇


二頭の獣は力強く地面を蹴り、滑らかに疾走していく。あっという間に邸の敷地を抜け門を出た。どうやらオルフェリウスは騎獣で街を走るつもりはないらしく、中心部を迂回してアドレアを出るようだ。慣れない乗り心地と操縦にユンが戸惑っていると、いつの間にかオルフェリウスが、モデナの隣にシュカをぴたりと付けていた。

「もう少し前傾姿勢で…そう、それから呼吸をモデナに合わせてみろ…そう…」

ラディエスカの指示通りに動くと、まるでモデナと一体になったかのような心地に襲われてユンはうっとりした。馬のように体が上下に振られることもなく、温かな毛皮の下の筋肉の力強い動きが、腿に直に伝わる。周りの景色が溶けたように渾然とした色をなして自分の傍らを通り過ぎていくのを、まるで夢の中にいるようだと思った。

風がユンの頬をなぶり、黒い長い髪が巻き上げられ、興奮のせいか頬は上気して赤い。やや先行しながら後ろを振り返ったオルフェリウスは、そんなユンの姿に胸に疼きを覚え、手を当てた。初めての騎獣に心配したが、ユンは何ということもなくもう勘を掴んだようだ。

検問所を通ると、程なくサニレの森も無事に過ぎ、長い街道へと入る。シュカなら問題はないが、モデナはまだ気も荒く人に慣らしていないので、オルフェリウスは数ある街道の中から人の往来が少ない、細い街道を選んで走ることにした。本街道より遠回りになるが、騎獣の足なら時間的には本街道を馬で走るのとさして変わりはない。

時折短い休憩を交えながら何事もなく走り続け、日暮れを迎えた。

「この街道に宿はない。今日はこの辺りで野営しよう」

言われてユンはモデナを止めた。野営は慣れている。奴隷は宿になど泊まれないので、旅に出ると大抵雇い主は宿に入り、護衛のユンは外で適当に過ごすことになる。

「モデナの首にこれを付けて」

渡されたものを見ると、青い金属でできた太い輪で、取り外しができるようになっている。

「飼われてはいるが魔獣だからね。勝手に逃げたり襲ったりできないよう拘束する道具だ。実際どれだけ効力があるか分からないが、気休めに嵌めておいてくれ」

そんなものを嵌める必要はないとはっきり言えればよいのだが、ユンにもモデナが一晩大人しくしていると断言する自信はなかった。ちらりと横目でモデナの顔を伺うと、厭そうに鼻に皺を寄せている。

「…ごめん」

謝りながらそれを首に付けた。ふるっと一度首を振り、むっつりした様子のモデナの頭を、ユンは優しく撫でた。


◇ ◇ ◇


パチパチと音を立て、薪が燃えている。

「もう少しこちらに寄った方がいい」

オルフェリウスが苦笑しながら、身分を弁えて火から遠い場所に控えているユンに声を掛けた。

「…よろしいでしょうか」

おずおずとユンは焚き火に近付く。

「ユン」

改まった口調で名前を呼ばれ、ユンはオルフェリウスに視線を向けた。

「もうすぐ君は奴隷身分ではなくなる。そもそも君は罪人でもないし、奴隷であることが間違っている。卑屈になって遠ざかろうとしなくていいだろう?一々私の顔色も伺わなくていい」

ユンはしばらく黙っていた。暗闇の中で、炎が二人の顔を橙色に照らし出している。その暖かい色と温もりが、昼間には感じられなかった互いの心を近付けている気がした。

「別に卑屈になっている訳ではなく、人とは距離を置いた方が何かと都合がよいのです。確かに意味もなく蔑まれたり罵倒されたりと腹立たしいことも多いのですが、慣れれば奴隷という立場は私に都合のよいものでした。平民になるのが、返って怖いくらいです」

ユンがぽつり、ぽつりと話す言葉に、オルフェリウスは静かに耳を傾けている。

「罪人でもないし、奴隷でもない。そうおっしゃって下さいますが、本当にそうでしょうか…」

「え?」

怪訝な様子のオルフェリウスに、じっと目の前の炎を見据えたままユンは呟いた。

「リシュリューの“血の惨劇”を、私は止められたのに止められなかった。私はあの罪から生涯抜け出せない。例え奴隷に堕ちたとて、その罪が報われる訳でもない…」

ゼナス国でも知らぬ者はいない、五年前の“血の惨劇”。ユンの口からそれが出たことに、オルフェリウスは内心の驚きを押し隠しながら、慎重に聞き返した。

「“血の惨劇”の犯人は未だに不明だ。詳細も全く分からない。君は…何か知っているのか?」

ユンは笑った。それは見るものを凍らせる、壮絶な微笑みだった。

「私が犯人を知っているなら疾うの昔に屠っているに決まってるでしょう?詳細?そんなもの一切分かりません」

平坦な口調が、よりユンの中で煮え滾る怒りと悲しみを表していた。オルフェリウスはそれ以上重ねて何かを訊くこともできず、口を噤んでただユンの横顔を見詰めていた。




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