・・・そうだ、この「空気」のように・・・

◆「空気」について


 最近、何となく「空気」を意識したり、「空気」を感じたりします。以前の曼荼羅(「極端の使い方」)でも書きましたが、日本における、人間の集団や組織、そして個人をも包み込む、あの「雰囲気」や「空気」のことです。まさに物理的な”空気”のように、集団、個人を包み込み、その考え方や行動、判断、生活全般を規定するものです。

 ”よい”「空気」の場合はその組織のメンバーの動機付けを図り、やる気を引き出し、どんどん具体的な行動となります。
 しかしその反対の場合は厄介です。物理的な”空気”と同じように、見ることができないし、つかんで捨て去ることもできないものです。怒っても、嘆いても、のれんに腕押し状態です。しかもその「空気」は、その「空気」に順応しない対象や個性を「真綿で首を絞める」ようにまとわりつき、やがてその対象を窒息させることさえあります。そして実際はこの”悪い”意味での「空気」が存在することが実に多いのです。「空気」のこの一方的な性質は、不条理といってもよいでしょう。

 最近同僚が会社を辞めました。電脳法師と同じ業務を担当しながら、結構ウマが合ったのでよく話をしました。非常に真摯で色々アイデアももっている彼は、そのうち、どうも会社に来ると気持ちが落ち着かなくなる、家に帰っても眠れなくなった、というようになりました。そしてとうとう辞めてしまったのです。後にメールを送ってくれて、会社を辞めた途端、うそのように眠れるようになって元気でやっている、ということです。

 電脳法師は、直感的にその原因は「空気」であると確信しました。具体的な組織には必ずある「空気」があります。この「空気」の原因としては、例えば、その組織に固有の文化とか個人の吐き出す感情や思惑、憎しみのようなものなど、いろいろあると思います。そして人によっては、その「空気」がその人の価値観の限界を超すこともあります。いいとか悪いとかいう問題ではなく、自分がその「空気」を嫌悪するようになったら、居ても立ってもいられないのです。あの締め付けられような雰囲気や重苦しいムード、このことは日本人なら誰でも納得できるものと思います。

 「空気」は価値観でもあり、倫理でもあり、権力でもあり、思想でもあり、集団的感情でもあり、まさに何かの「引力」あるいは見方を変えれば「バイアス(ずれ)」なのです。全く「空気」とは独特な特性をもつ「時空間」です。その「空気」たるや、時々刻々変化し、何がどう変わったかも良く分からないくらいです。

 仮にその「空気」が気に入らないからといって、「空気」に対して反対や異議を唱えることは、最大の罪となってしまうのです。「村八分(むらはちぶ)」という言葉が日本にはありますが、まさに「空気」に対する反逆の結果です。個人が、どんなに人道的だからとか、合理性があるとかと考え判断し、行動する段になった時ですら、万が一その個人が帰属する組織の「空気」に反することであれば、それは最大の反逆罪となり、厳しい罰や咎(とが)めを受けることになるでしょう。特に最近この傾向が強いのではないでしょうか。

 電脳法師の個人的な経験でも、ある講習会に参加したときに、講師が盛んに「空気を読めよ」と力説していたのが、強く印象に残っています。
 今日の新聞('07.3.25朝日新聞朝刊)の教育面を読んでいたら、女子高校生が学校生活の経験を投書していました。

「人と違うことして浮かないようにすごく気を使っていた。寒い日に制服のスカートを長くしたくても、皆と同じ格好じゃないとまずいから我慢した。嫌だなって思う子を、私も無視していた。仲直りしたくても、皆で無視していると、話しかけられない。“調子がいい子”と思われたら怖いから。空気を読むことがすごく大事。」と述べています。まさに「極端の使い方」の中で書いたような、捕虜収容所のような「空気」となっているようです。
 これでは何をするのにも集中できないし、効率も上がりません。今の日本の状況は「村十分(むらじゅうぶ)」というような、窒息しそうな状況でしょう。今の子供たちはこのような「空気」の中で、生きているのです。

 電脳法師は、改めてこの現代日本に厳然と存在するこの「空気」というものを考えてみたい思います。そして昔、山本七平著「『空気』の研究」読んだ事を思い出し、さっそく本箱をひっくり返して捜し出しました。蔵書印を見ると1977年10月22日となっていました(30年も前だったのだ・・・)。「日本人とユダヤ人」等の著者でもある山本七平のこの本は、非常に有名で、日本文化論の一角を占めています。戦艦大和の無謀な出撃のくだりなどは、日本人として全く納得させられるのは、何とも妙な感じです。まるで現代と何も変わっていないのです。

 しかし電脳法師の基本的認識は、この「空気」自体は本質的に善でも悪でもない、と思います。これは日本文化の基本であり、そしてわれわれの先人達は、高い次元での問題解決や表現方法、最大効果を狙う方法などを心得ていたと思います。禅宗などでは「不立文字(ふりゅうもんじ)」といって、真理は心で悟るものであり、文字(言葉)では現わせないといいます。伝統的な水墨画や日本画では、モチーフ(主題)以上に、省略と空間に対し特別な意味を考えます。能では全部は舞台に出すことなく、観る者がその本来あるべきものをイメージします。能舞台を、ある「空気」が支配するのです。そして言語でも、本来言葉の持っている不完全性、機能不備性を補うものとしての「空気」の発明だと思うのです。日本の伝統的なコミュニケーションの中に、言葉は必要以上にしゃべるものではなく、かえって少ない言葉、場合によっては沈黙がふさわしいということもあり、互いの理解や認識が増し益々関係が強くなることがあります。(この空気を用いた認識の仕方は、その要因には色々あると思いますが、いずれまた考えてみたいと思います)

 電脳法師が関心のある「知識創造理論」の分野で「暗黙知」というものがあります。かえって非言語的な状況の中での思索や行動が、本質へのアプローチが深まる場合があります。そして知識創造を促進させる要因のひとつに「場作り」というものがあります。この「場」というのは、つまり「空気」と言い換えてもほとんど同じでしょう。「空気」と言語と非言語、表出知と暗黙知、テーマと背景などは、日本文化の基層です。

 よく

「あの一件で一夜にして空気が変わっていた」
「あの言葉を言った途端、皆のやる気を引出す空気をかもし出した」
「あの人があの発言をしたら職場の空気が悪くなった」
などは日常的に聞かれます。そうです、空気を変えるには大したことは要らないのです。わずかな力で効果が大きい、こんな有効な手段は他にはありません。例えば、日本人が皆で力を出して難局に当たるときは、必ずこの「空気」が顔を出します。幕末・維新、戦中そして終戦・復興など、先人の踏んだ道のまわりには何らかの「空気」があるのです。急成長・バブル崩壊などの浮かれた「空気」もありますし、また”個性””自由””自分探し”などの「空気」も時代により、ある時代のある地域を覆いつくします。この空気をうまく使う人間や組織は、必ず何かの権力を手にすることでしょう。

 本屋の新書コーナーで「『関係の空気』『場の空気』」(2006年・講談社新書、冷泉彰彦著)という本がありました。著者によると、日本語はこの「空気」とともに機能する意思伝達手段です。「関係の空気」とは二人の間の空気であり、「場の空気」とは三人以上いる場合の空気であるとのこと、もちろん山本七平の「『空気』の研究」も引いています。敬語や「ため口」、そしてあの、みのもんたの人気の秘密もこの日本語と「空気」との関係で明らかになる。そして日本語は「空気」との相関においてその効果を生み出す「高性能言語」であるとの指摘は、なかなか面白いと思いました。そして日本語の変化の速さや略語・造語の多様性が「空気」を発生させ、日本語の高性能を維持しているとします。

 しかし一方で著者は、「空気」の欠乏状態、つまり「日本語の窒息」が発生していることを指摘し、例えば自分の家族の体験を取り上げて分析しています。著者の一家は普段はアメリカ在住ということで、時々日本に帰国します。そんなあるとき妻と小学生の子供だけで中央線に乗って、親子で話をしていたとき、突然隣の男がいきなり「ウルセー」と怒鳴ったそうです。急いで妻が子供を連れて停車中の電車から降りて事なきを得、子供は「やっぱり日本にはヤクザがいるんだね、本当に怖かった」とのこと。著者はこう分析しています:
 まずこの男は生粋の日本人であり、ヤクザでもチンピラでもない。そしてこれは日本語の問題である。昔なら「恐れ入りますが少し静かにしていただけないでしょうか」と堂々と注意をしたものである。少し時代が下がっても「皆さんが迷惑していますけど」と主体の注意を周囲に分散したりして、関係の空気の中で問題解決が図られたというのです。そして著者は、こう結論します。この怒鳴った男は、隣の親子に穏便に注意する日本語を知らなかったのだ、と。

 現代日本の様々な閉塞感やモラルハザード、引きこもり、自殺などはこの「日本語の窒息」であるといいます。そしてこの日本語と「空気」の関係において効果のある方法を提案している:

@ちゃんとに語ること(これは重要で相手が分かってると思い込んでいると思わぬ誤解が生じる)、
A必要な敬語を使用することで「対等性」を取り戻せ(権力関係を持込む「ため口」はつかうな)、
B教育現場では「です」「ます」でのコミュニケーションを教えよ、
Cビジネス分野での日本語を見直せ、・・・などです。
 この著者の言い分は良く分かります。現代日本では家庭や学校での「関係の空気」に守られた幸福な日本語を経験できなくなっており、一方でTVなどのバラエティ番組での擬似的私的経験をしていると思いながら実は、巨大な「場の空気」という権力空間に吸い込まれている、と指摘しています。

 電脳法師も、最近(といってもここ10年くらい)のTV番組は大勢のタレントやゲストをスタジオに呼んで、人気者の司会者を配し、あるテーマで”わあわあ”話をさせるやり方が多く、何かおかしいな、何故このような番組作りが増えたのかな、安直に作れて制作費の節減なのかな、と思っていました。

 このようなTV番組も「空気」論からみるとよく分かります。多分見ている(特に帰属意識の強い日本の若い)人は、何か自分がそのTV空間(つまり「場の空気」)に参加しているつもりでいるのです。そしてTVのようなノリで、これなら自分でもやっていける、と思っていることでしょう。しかし実は「擬似空間」(しかも権力空間です)での”疑似体験”です。従い「関係の空気」と日本語を使っての、実際の例えば電車の中で騒いでいる人を注意する時のような、街中におけるビビッドな(生きいきとした)「問題解決」はできないのです。このような、日本人の心の隙間に入り込んで、その魂を腐敗あるいは脆弱化させるようなTV番組はやめるべきでしょう。

 TV空間のような権力空間は「場の空気」であり、問題解決を行なえる「関係の空気」ではありません。そしてとどのつまり、いじめのような「日本語の窒息」状態を引き起こします。地域共同体や学校などの中間的な共同体が崩壊し、個人が直接、政治や会社などの大きな権力に帰属させられている状況です。日本の伝統的なやり方では、色々な「問題解決」の言語は「関係の空気」と共に、中間的な共同体の中で養われてきました。先ほどのTV番組の変化のように、家庭などの中間的な共同体つまりコミュニティが崩壊すると個人が大きな権力と直結してしまい、現在のような社会現象が出てくるのでしょう。

 電脳法師が他の曼荼羅でも書いたように、自由だ、個性だ、といったスローガンの下で60年間やって来たのですが、結局、家庭崩壊、学級崩壊、モラルハザードなどが起きており、切れやすく、イントレランス(非寛容)的になり、いじめや引きこもり、犯罪の多発など様々な社会現象となっています。

 これには、やはりこの「空気」と日本語の問題が強く関連していると思います。教育の現場では、先ず「国語教育」が最優先だということは、「退化するプロ達」で述べたように、明らかです。しっかりとした「関係の空気」を築き、更に実際の問題解決を行なえるよう、言語と「空気」の使い方の基礎的な訓練を行なうべきでしょう。われわれの先人はそのことをよく理解していたと思います。


2007.3.31 電脳法師 

・・・そして、この「空気」のように・・・