以前この曼荼羅で藤原正彦の本「国家の品格」(PHP新書)を取り上げたが、同じ著者の「祖国とは国語」(新潮社文庫)には、現在の日本は危機的状況であり、国家レベルから個人レベルまで一刻の猶予も許さない状況であるという。
そしてこの原因が、小学校における国語教育の質および量の大幅な減少であるということだ。その一方で小学校からの英語教育の導入や株式取引の真似事を教えるなど、亡国の兆しと断ずる。
藤原正彦は言う。
@国語はすべての知的活動の基礎である。
A国語は理論的思考力を育てる。
B国語は情緒を培う。
C祖国は国語である。
日本の教育の「プロ」達は一体どうしてしまったのだ、と藤原正彦は、20年間も悲痛な叫びを上げている。
全く同感である。電脳法師は前に、新規開発の関係で、障害者への教育を実施している短期大学を訪問したことがあった。色々なことを知ったのであるが、その中で今も非常に印象に残っている説明がある。若年での視覚障害者と聴覚障害者とでは、知的発達に差があるということだ。結論から言うと、年令が若くして聴覚障害者となった者ほど、知的発達は遅れるということである。知的機能つまり論理的思考機能、能力は、言語により構築されるのだ。言語機能が弱い場合、知的発達は視覚障害者より遅れるという。われわれが日常的に考えたりするときは、確かかに言葉で行っており、もし言葉が無ければ、何もしていないに等しい。言語機能が確立しなければ、それ以上の文化機能は望めない。これは経験的に分かることだ。
以前テレビが大手自動車会社のN社へ、英語についての取材をしていた。責任者はいう。業務においてまず第一に重要なことは、正しく問題をつかみ、それをどのように解決するか、という基礎能力である。論理的な問題定義と、その問題解決の道筋がまず必須で、これができなければ、いかに英語ができようとも全く無意味である。日本語で十分問題構造と解決戦略が構築されていればまずそれでよいのである。たとえ英語ができなくても、プロの通訳者がいくらでもおり、彼らに翻訳、通訳部分は任せればいいのだ。逆に中途半端に英語ができることで、肝心な論理部分が空疎になるなど、本末転倒であり、論外である、ということだ。第一に重要なことは、藤原正彦が言うように、母国語でしっかり問題を把握しかつ解決する論理を組み立てることである。
子供に無理して英語を覚えさせても、何のメリットも無いことは明らかである。せいぜい家に火をつける結果になるだけである(奈良県田原本町の高校生の事件、直接のきっかけは英語の点数が知られることを恐れた)。
そして今や各分野におけるプロ(プロフェッショナル、専門家)による事件や事故が多発している。
2005年4月25日のJR福知山線脱線事故では、運転手が時刻表の遅れを取り戻そうとして、超過禁止速度を相当オーバーしてカーブに入ったために、脱線・転覆・マンションへの激突、クラッシュとなり、運転手を含め107人が亡くなった。営業運転、つまりプロが正規な手順に従い安全を保障しながら決められた時間内に客を決められた駅に届ける、という契約遂行の中で、全く想定外のことが発生した。運転手は日常的に運転に関する習熟度が低く、度々内規違反のオーバーランなどを繰り返し、そのために特別訓練を受けることがあった。事故当日も、前の駅でオーバーランを起こし、そしてこれを必死で取り戻そうと、指示速度以上の速度で事故地点のカーブに侵入した。運転手は、オーバーランの不手際でまた特別訓練を受けることを忌諱(きい、いみきらう)していたという。
プロによる営業運転の最重要課題はなんと言っても乗客の安全である。乗客は電車の運転など知るべくも無く、異常があってもどうしようもないのだ。そのために乗車賃という「委任料」をだして、安全、快適、高速移動などを保障してもらうのである。そのプロが「契約違反」するようでは話にならない。これは一運転手ばかりではなく、もちろんJR西日本全体の問題であることは明らかだ。しかし、鉄道というプロが、いろいろな原因で劣化しているのである。
電脳法師にとっては、技術分野のプロの劣化は、見過ごしにできない。最近ますます設計ミス、手順ミスなどでの「システムのプロ」達による事故が多い。
一級建築士Aによる耐震強度不正の設計があった。ある程度の技術者であれば、どのようなことをすればどのような結果をもたらすか、くらい直ちに予測できる。それを、あえて専門的な領域という”密室”での犯罪を犯したのである。
最近の設計などでは、レビューということが行われており、専門化の誤りを正す仕組みもあるが、これが機能するためには、この仕組みに対する共通の理解と公平さ、公正さ、開示性が必要である。しかし、Aの場合には取引上の優先関係や個人的な欲望などが入り込み、技術的正当性はもとより、公正や公平といったモラルが隅に追いやられたのである。
技術者にまず必要なことは、常識common senseであり、良識Bon Sensである(電脳法師)。
例えば、S社のエレベータ事故では機械部分(メカニカル部分、ハードウエア)の不具合もあるようだが、しかし、直接にはソフトウエア、つまりコンピュータのプログラムの設計ミスによることが、いろいろな証言から明らかになっている。ドアが閉まったの確認(検出)してから、上昇なりの動作を行うのだが、しかしここで上昇を開始して0.25秒以内に「開」ボタンを押すと、動ごきだしたにもかかわらず、ドアは開いてしまうという。
これは明らかに論理ミス(通常バグと呼ばれる)であり、早急に修正されるべきものである。考えてみれば直ぐに分かるはずだが、各エレベータのボタンは人間が押すわけなので、何かエレベータの動作に同期して押すなどは全く考えられない。人間はいつでも、長く押したり、短く押したり、何回も同じボタンを押したり、関係の無いボタンを押したりと、とくかく気まぐれ的にいろんなことをやらかすのだ。
これに対応する機能を専門的には「バカよけ(Fool Proof)」という。言葉は悪いが、「どんな馬鹿がどんなことをしても安全な仕組み」ということだ。電脳法師は、自動車の一定速制御(オートクルーズ制御)の開発というのがあった。やはり人間の意志が直接、しかもあらゆる状況でスイッチが入力されるのだ。スイッチは勝手に押すことができる。矛盾するような押し方もある。あるいは同時に2つ以上押されることもある。非常に短時間しか押されないときもある・・・。
このような場合の予め原則・ルールを決め、かつ各スイッチの有効性、あるいは無効性を確実に識別しなければならない。簡単なようではあるが、人間が関与しないようなシステム(例えばエンジンのアイドリング制御)と比較して、このスイッチの矛盾の無い情報の確定には結構苦労するものである。一つの入力信号を確定するのに、何十行というプログラムを書くことも、しばしばである。
このために、システムへの取り組み方(システム・アプローチ)がさまざま考えられている。意識している対象や環境を、どのような構造的関係でとらえるか、どのような機能的関係でとらえるか、あるいはどのような時系列事象関係でとらえるか、などいろいろなアプローチが考えだされている。基本的には時間・空間的な認識を基礎にしたものである。しかし、人間の気まぐれや間違い、勘違い、能力、認識の低さは、それらの網のはるか上を行くので、これら人間の気まぐれ性を上回る力量と覚悟が必要である。
S社エレベータの事故の例では、説明を聞く限りでは、基本的なシステム状態や動きの検証・確認(つまり設計の詰め)が不十分であり、また他のブレーキなどの不具合なども重なり、不幸な事故がおきたものと推測される。具体的には、どんなアプローチ方法でもよいから、現在の制御状態の完全な情報での把握・確定、また現在の状態から次の状態へ変わること(これを遷移という)に対しても完全な情報による状態遷移を行うべきだ。もちろんすべての故障が発生した状況下にも対応できる論理を構築すれば良いのだ。
この事故の別な側面を電脳法師的にみると、高校生が「エレベータに乗るプロ」であったなら、と残念な思いもする。もし彼が、自転車に乗ったままエレベータに乗り、そして自転車に乗ったまま降りようとしなかったなら、もしかしたら事故に遭う事も無かった可能性もあるのではないか、と思われる。すなわち、普通に自転車から降りて、自転車を押しながら自分の足で立って、エレベータに乗っていたならば、異常に早く気がつき更に自転車を放り出してでも、危険回避行動が取れたかもしれない。またドアとエレベータの床の間に挟まれたようであるが、もしかしたら直ぐに異常に気づき、身を伏せて自転車を楯(たて)にして、自分が挟(はさ)まれる事を防ぐことができたかもしれないのだ。「プロ」は基本に忠実でなければならない。まことに残念である。
最近のほとんどのエレベータの制御や自動車の制御、家庭電気製品の制御などいわゆるメカトロニクス・システム(メカニカル+エレクトロニクス)には、マイクロコンピュータ(CPU、Central Processing Unit)という小さな部品が組み込まれている。もちろんCPUだけでは動かないので、その周辺にメモリ(プログラムや各種データをもつ)や入出力(外部の状況を検出するための仕掛け、また外部装置を動かすための仕掛け)のための部品、通信のための部品など、大雑把に例えればパソコンが何台かそのシステムに入っているようなものだ(実際そのくらい機能は高い)。自動車などでは、もう10年も前から、高級乗用車では全コンピュータを数えると、大体50個近くあるといわれていたが、今でもその状況は全く変わっていない。もっとも一個一個のCPUの能力は10倍、100倍となっているので、全体の演算パワーは10年前とでは比べ物にならないくらいである。
このことは、技術革新が進んですごい、とばかりはいっていられない重要な課題や問題を含む。
人間が設計するということは、以前の曼荼羅「設計とレビュー」でも述べたように、当然誤謬(ごびゅう)を犯す。であるから、どのように事前にそれを減らすか、また出来上がったと思われるものに対して、いかに迅速に、正確に、もらさず間違いを探すか、が勝負である。そして先の例のように、ユーザーである人間がこれまた何をしでかすか、全部は予想がつかないのだ。人間が設計してそれを人間が使いことの危険度は、システムが大きくなればなるほど、増大する。本来、危険回避機能が正規に実現されていなくては、危なくてとてもそのようなエレベータやクルマには乗れない。
まして、現実には、技術的な約束事をあっという間に超越するさまざまな思惑や欲望がある。一級建築士AやJR西日本の運転手などの問題は、ほんの氷山の一角であることを忘れてはいけない。
最近、防火シャッターがいきなり下がりだしあわてて出ようとした小学生が、頭を挟まれて重体となるような事故があったが、あまりにも悲惨である。学校の防火システムの点検の連絡は、子供は何も知らされていないのだ。現在は特に危険に対する感受性が低下しているような気がする。子供に対しては、親や教師などが、何がおきるか分からない、ということをもっと強く知らせる必要がある。不幸にも人間に対しては、あまりに子供に対する犯罪が多いから、そういう風潮になってきた。世の中の危険は、人間ばかりではなくエレベータも自動車もテレビゲーム機や、ありとあらゆる人間が作ったものは危険が含まれていることを、残念ながら、教えざるを得ないのである。
「プロ」の技術者は、単に○○技術ができればそれでよし、の時代ではもはや無い。倫理観、世界観そして技術論に立脚した視点に立ち、システムに立ち向かうことがますます求められよう。倫理観の無い技術者、卑怯な(自己の専門家としての立場を利用し不正を行う)技術者は、「劣化したプロ」と呼ばれてもしかたない。とかく”ドライ”にやればうまくいく、という技術者が多い。現代とは、こうした劣化した「プロ」から身を守らなければならない時代なのだ。現代のシステムは、一旦それがもつ欠陥・故障・不具合が現れると、たちまちにして人間を傷つけ、その生命を奪うことになる。
S社のエレベータ設計者は、自分の妻や子供が乗ることを想定して、設計、検証、確認、評価を行ったのだろうか?
電脳法師の経験からは、設計の対象となるシステムや環境がもつ「闇の部分」や”ウェットな部分”に目を配らないと、恐らく人間を幸福にするようなシステムや製品はできない。これは確信である。
以上述べたように、教育、国家の文化的なレベルが劣化し、そして衣食住の基本を支えるプロ達(専門家)が劣化し、一体どこへ行こうというのだろうか。
高々60年の間に、よくもこれだけ変わったものだ、という前述の本の著者たちの言は良く分かる。基本に返るしかない。子供は子供らしく、つまり子供のプロになり、親は親としてのプロとなり、教師は教師としてのプロとなる。つまり分(ぶん)を守るということだ。われわれの先人たちは、これらのことをよく理解していた。もう、自由だ、平等だ、個性だ、グローバルスタンダードだ、・・・などのアメリカ追従はやめたほうがよい。
アメリカの真の目的こそは、「日本の劣化」なのだから。
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