・・・そうだ、この「極端」のように・・・

◆極端の使い方

ものごとの本質というものは、極端な場合や通常でない場合に、かえって明確にそれをみることができる。

 これは電脳法師が、システム開発などの業務経験を通じて得られた、電脳法師の真理、経験則のひとつです。これは単に一技術分野や研究開発分野のみならず、広く一般的なものにも当てはまるのではないだろうか、というのが実感です。

 最近のシステムや製品の開発には、「品質」の実現ということが要求されます。品質とは、「安全性」「信頼性」「耐久性」「操作性」「保守性」そして「機能」「性能」などで構成される何らかの製品やサービスです。市場という共通の場での、使用者(ユーザー)との具体的な約束事項であり、また具体的に責任をとる対象です。

 各項目に対して、その目標値を明確に設定し確実に具体的にそれらを実現しなければなりません。昔のように単に”性能”が出ればよいというような訳には、全然いきません。各項目について目標値を設定し、設計し、そして実現し(試作し)、計測し、評価する、これが一般的な開発の流れです。

 ここで「信頼性」とは、各機能、性能、耐久性、安全性など各品質要素が、「時間的な経過と共にどのように変化するか」の度合いです。買ったときは性能が出ても、1年で使えなくなるようでは、ふつう製品になりません。しかし例えば自動車の場合、10年くらい使うのは当たり前であり、それ以上のこともあります。従って、前もって各品質要素をその製品寿命と同じ時間かけて確実に検証・評価しなければなりません。しかし実際そんな時間をかけていては、ビジネス、商売にならなくなります。

 そこで「極端」の登場です。「加速試験」「過負荷試験」など通常の使用条件ではありえないような状況を設定し、製品の「信頼性」を調べるのです。

 一般的には「極端」ということは、避けるべきもの、あってはならぬもの、などマイナスの面が強調されますが、極端な条件を考える、極端な状況にする、極端な使い方をしてみる、など「極端」という概念は、そのものの本質を早く、確実に浮かび上がらせる有効な考え方であると思います。


 温度耐久試験の場合、自動車部品なら一般的に、車室内に取り付ける部品システムであれば、その保証する動作温度範囲は、例えば-40℃から+85℃になります。従いこの温度を交互に何100時間か加えて、各項目の目標値以内に収まっているか評価します。実際にクルマに装着された場合には、このような条件になることはほとんどなく、場合によっては全くこのような条件になることも無く、その部品は寿命を終えることもあります。しかし、もし試験結果に不具合、不適合が生じれば、再検討や再設計となります。

 このように「加速試験」、つまり「極端」な状態を使えばより早く、より正確にその製品のもっている品質特性が現れ出るのです。自動車の一生分の時間をわずか数日間で検証、評価することができるのです。これはまた、費用の削減にもなります。

 このように製品が市場に出るまでにさまざまな試験が実施され、その製品の品質が実現、完成されていくのです。時々マスコミを騒がせるシステムの誤動作や動作不良など、重大事故となったいわゆる「欠陥商品」「欠陥システム」とよばれるものには、極端なテストや通常でない状況下での動作チェックや評価が足りない場合が多いようです。費用的、時間的な制約もあるとは思いますが、人間の安全ということを考えると残念なことです。粘り強い「品質」実現への追求で、より安全なシステムができるのです。


 ではこのような考え方を応用して、別なものに、例えば、昨今の日本の状況、われわれ日本人とはどのようなものか、などに焦点を当ててみましょう。

 最近は、事件や事故など、全くどうなってしまったのか、と思わせるような出来事が、毎日のように多発しています。昔はこのようなことは無かったのに、と思ったりもします。しかしそうではないのかもしれないな、もともと日本や日本人とはこうゆうものなのかもしれないな、とも思ったりもします。

 最近の日本の、さまざまな状況、世相そして事件、事故を鑑みるに、正しくそれらの本質が抑えられているのか、何らかの対策はできるのか、そしてこのような状況・状態で将来は大丈夫なのか、という素朴な問いかけが出てきます。このような状況を踏まえて、何がどうなのか、電脳法師的視点から分析してみましょう。

 そこで冒頭の「ものごとの本質というものは、極端な場合や通常でない場合に、かえって明確にそれをみることができる」という電脳法師の理論を使って、この疑問を解いてみようかと思います。

 この場合の「極端な条件」というのは「戦争」です。戦争は国家の、その国民の、まさに「通常でない」状態であり、「極端」な状態です。昨今、「あの戦争は何だったのか」(保阪正康、新潮文庫2005年)など過去の日本の戦争についての評価が色々でています。また電脳法師が昔から参考にしている研究資料に「失敗の本質」(戸部良一他、中公文庫1991年)があり、これはNHKの番組「ドキュメント・太平洋戦争」の原典のひとつになりました。ここに興味ある面白い比較がでています。

分類 項目 日本軍 米軍
戦略 目的 不明確 明確
戦略志向 短期決戦 長期決戦
戦略策定 帰納的(インクリメンタル) 演繹的(グランド・デザイン)
戦略オプション 狭い −統合戦略の欠如− 広い
技術体系 一点豪華主義 標準化
組織 構造 集団主義
(人的ネットワーク・プロセス)
構造主義
(システム)
統合 属人的統合
(人間関係)
システムによる統合
(タスクフォース)
学習 シングル・ループ ダブル・ループ
評価 動機・プロセス 結果

 これは防衛大学校において、過去の実際の作戦(ノモンハン、ミッドウェー、ガダルカナル、インパールほかの重大作戦)の分析から導き出された結果です。内容の詳細な説明は省きますが、子供たちや若い人たちにはぜひとも読んでほしいもののひとつです。

   これらをよくみると、何も戦争ばかりではなく、あらゆる日本人の集団、つまり会社・企業から学校さらには井戸端会議や同好会、そして友達関係や家庭・家族という集団にも適用できることが分かるでしょう。通常の生活などではこれらの諸特性はなかなか見えないこともありますが、”戦争”という「極端な状況」なので、かえって本質が現れたと思うのです。


 電脳法師の基本的な見方は、これらの諸特性自体はよいも悪いも無く、ただ人間の活動の各状況や段階で、その現れ方によって、欠点にもなったり長所にもなったりするものと考えます。

 しかしながら電脳法師の経験からは、例えば業務の場においては、目的や目標値を決めずにただなんとなく昨日と同じ業務をしている(目的の不明確)とか、とにかくあいつがあれだけ熱心にいっているのだからやらせてみるか(動機・プロセス)とか、あの人はよく残業をしているので仕事に熱心だ(動機・プロセス)とか、こんな不具合が出ているけれどあの上司がしていることだから何もいえないな(属人的統合)とか、あいつのいうことは正しいのは分かるけれど生意気だから絶対聞いてやるもんか(属人的統合)とか、色々問題となるようなことが多いのです。

 残業については、本来は、あくまで非定常業務であり、やむを得ざるときにしか行うべきではない、と思います。もし定常的に残業が多いということは、管理監督者の業務分担のさせ方が悪いか、計画に無理があるか、またはその担当者がその業務の担当能力に不足しているか、です。いずれにしても、これは早急に是正されるべき状況であり、残業状態に歯止めを打つ必要があります。ましてや、常時習慣的に残業をしている担当者が業務熱心だという評価は、再考の余地ありです。


 これらの日本軍の戦略、組織特性は相互に関連しあっています。ではそれの特性の”本質”は何かというと、電脳法師の考えでは、(1)客観的合理性を欠いたこと、(2)改革・改善への視点の欠如、(3)学習機能が機能しなかったこと、(4)システム的視点の不足、(5)担当者・当事者の基本的スキルの訓練不足・勉強不足、などがその本質であると思います。

 客観的な合理的思考方法を欠くという事は、致命的なことです。これは因果関係、論理というもので、AならばBであり、BならばCであり、・・・、YならばZ(結論)である、という客観的事実による論理関係を採用することです。ここでもし、BならばCである、というのは俺にとっては気に食わないから、あるいは別な思惑(おもわく)のためにBならばDである、にしてしまおう、となったら以後おかしな論理展開になります。正しい結論は望むべくもありません。

 しかし実際はこのようなことは非常に多く、事件やニュースとなって現れます。昨今マスコミを騒がせている「欠陥マンション」事件での、マンション設計の構造計算を偽造するなどは、この典型です。この偽造されたデータを検証できなかったのも、正規の手順を踏まなかったからです。相互検証、クロスチェックで専門家が作成したものを別の専門家がチェック、評価すれば、ほとんどの偽造は見抜けます。できなかったのは、この単純な因果律が機能しなかったからでしょう。個人的な何らかの「思惑(おもわく)」が入ってきたのです。単に書類上の不備だけではないのです。

 実は日本の場合、「客観的な合理性」と「属人的な組織構造」とは相反するものです。日本においては、人間関係が非常に重要な要素になってしまうのです。

 次のような例があります。捕虜収容所における日本人集団とアメリカ人集団の思考、行動パターンの違いの比較の調査結果です(「アメリカの行動原理」橋爪大三郎、PHP新書2005)。

アメリカ人捕虜
の集団
「捕虜収容所につれてこられて、最初の一日くらいはがっかりしていたが、すぐに全体でミーティングを始めた。今この状態で、戦争が終わるまで自分たちは一体どのようにして生き延びればよいか。この集団の意思決定のメカニズムをつくりましょう。リーダーはこうやって決めましょう。それぞれ役割分担を決め、選挙をして適任者を選び、またたく間に捕虜収容所の中に自治政府のようなものができてしまった」
日本人捕虜
の集団
「捕虜になった初めの一日くらいは同じようにがっかりしていたが、そのうちボスか牢名主のようなものが出てきて、威張り始める。タバコを何本か集めたから昼飯をおごれとか、ボスに従わないものには集団で暴力的制裁を加えるとか、ヤクザが支配するタコ部屋のような状態になってしまった」

 これなどは、まさに最初のあげた原則の好例でしょう。日本人ならこれらのことは、心当たりがあるはずである。またこのことはわかってはいても、その状況を改善、是正あるいは告発することに対しては、非常な勇気がいることを感じることでしょう。これらからみられることは、いまも昔もやはり、日本人の「本質」は全く変わってはいない、ということなのでしょうか。

 まだまだ日本では、色々なことがおきそうですね。

2005.11.30 電脳法師  


・・・そして、この「極端」のように・・・