・・・そうだ、この「品格」のように・・・

◆「藤原正彦」を読む・・・電脳法師のアメリカ考(2


 「国家の品格」(藤原正彦著、新潮社2005)という本があります。電脳法師にとっては、久しぶりに我が意を得たりという本です。

 著者は、お茶の水女子大学理学部教授で、数学者であり、専門は数論。旧満州生まれ、作家新田次郎、藤原ていの次男です。またアメリカやイギリスでの教職の経験も多く、インドなどにもたびたび訪れ、日本と欧米等との比較文化論には詳しいようです。最近よくメディアに顔を出します。どっか「いなかのとっつぁん」という感じですが、なかなかの論客です。「ゆとり教育」には、亡国の兆しがあると、鋭い批判を加えています。

 この「国家の品格」を手に取ったとき、何をどのように述べるのか、大いに関心がありました。というのは、電脳法師は、現代の日本での、犯罪多発や家庭崩壊、教育の崩壊の問題をはじめとして、幅広い分野でのモラルハザード(倫理的破綻)があり、さまざまな意味で明らかに荒廃していると感じているので、それらに対する藤原正彦の考え方を聞いてみたいと思いました。

 読み出してすぐに、鋭い分析がありました。藤原正彦の基本的な現状認識および分析は、日本だけではなくアメリカやイギリス、フランスなど先進国のすべてが、実は、家庭や教育、治安などが荒廃状態であるとのことです。

 そしてその本質的な原因が「西欧的な論理」と「近代的合理精神」の破綻、限界である、と断じています。

 これは技術屋たる電脳法師にとっては、看過できない問題です。というのは、現代の科学技術は、デカルトやニュートン以来の「西欧的な論理」と「近代的合理精神」のうえに成り立っているからです。論理や合理主義の権化的な、数学者の著者が、その論理の力に対して疑念を持ち始めたのでした。


 電脳法師の世界史の知識では、これら「西欧的な論理」と「近代的合理精神」、つまりデカルトのいう良識(bon sens)によって、東アジアやイスラムなどにも圧倒的に劣ったあのヨーロッパの中世の時代から、脱出することができました。デカルトの、例の、「Cogito, ergo sum.(コギト・エルゴ・スム)」(我思うゆえに我在り)により、(善悪を)判断し、(この世界を)認識するという近代的な自我を確立しました。この良識はすべての人間(とはいってもヨーロッパ人)に平等に生まれつき相等しく備わっている、としました。

 良識をてこにして、デカルトやニュートンたちが数学や実証的な自然科学を確立し、そしてその結果としての産業革命を起こしました。そしてあっという間に科学技術や思想、哲学で全世界を支配するにいたりました。大航海時代を通じて、帝国主義や植民地主義という「理論化された」システムで世界を席巻しつくしたのでした。

 しかし、その繁栄の要因である「西欧的な論理」と「近代的合理精神」そのものにこそ、必然的に人間社会に破綻を生じせしめるという要因を内在している、と藤原正彦はいいます。

 今やこの「西欧的な論理」と「近代的合理精神」のシステムもあちこちに強度疲労を起こし、欧米の先進国での、あらゆる分野で荒廃状態となっている。今から思えばあの「ソ連崩壊」も実は、これが原因だったといいます。藤原正彦によると、共産主義が「美しい論理が通っている」という点では、植民地主義や帝国主義と同一である、とします。

 この考え方は、電脳法師もアメリカとソ連は同じ”ヨーロッパ”の「鬼っ子」で、それぞれ右と左の過激派である、と認識しているので、つじつまが合い納得できます。

 更に藤原正彦は、共産主義に勝利したはずの「資本主義」「市場原理」にも、破綻の影が近づいている、市場の自由な競争に任せれば、”神の見えざる手に導かれて”自ずから調和するという「論理」自体がそもそも誤りであるといいます。


 ではなぜ「西欧的な論理」と「近代的合理精神」が、人間の社会に対して必然的に破綻をもたらすのか、という点について、藤原正彦の主張を聞いてみましょう。論理だけでは世界が破綻する理由は、4つあるといいます(作表は電脳法師)。

  4つの理由 説明 採るべき道
1 「論理の限界」  論理を通してみても、それが本質を突いているかどうかは、判定できない。正しいと思ってやっていることが、実は誤り、短慮だった、ということがよくある。アメリカでは、小学生に株式投資を教えている。日本では、小学生に英語を教えている。一見よいように見えるが、その実、子供たちをダメにしている。  幼いうちには「読み書き算盤」つまり基礎能力を学ぶべきこと。それ以外の余計なことを学ぶ必要なし。

 藤原は小学生に株式投資を教えるような論理を張っている者を「○○に付ける薬は無い」と断じる。

2 「最も重要なことは論理では説明できない」 「論理は世界をカバーしない」。
 数学には「不完全性定理(ゲーデルが1931年に証明)」というものがあり、どんなにすぐれた公理系(自明の真理、定理)があっても、真偽を判断できない命題(真偽の判断対象となる定理や問題)が存在する、というもので哲学などにも大きな影響を与えた。

問「なぜ人を殺してはいけないのか」
答「ダメなものはダメだから」(藤原正彦)
(これは「論理」ではない)

「重要なこと」「価値観」等は、是非を議論せずに親や教師が幼いうちから徹底的に教え込むこと。価値観と論理は次元の違うもの。

 例えば・・・卑怯なまねはするな。弱いものいじめはよせ。お天道様がみている。嘘つくな。盗むな。悪いことをするな・・・などそういえば電脳法師の子供のころは周りがうるさかったな。

3 「論理には出発点が必要である」  論理とは簡単には、
AならばB」「BならばC」・・・「YならばZ」の「ならば」が”論理”で、Zが「結論」となる。
 ところがこの場合の出発点の「A」は論理ではなく、あくまで”仮定””仮説”である。この仮説「A」の採り方によって、その後の論理が全く違うものになる。この「A」を決めるのはそれを選ぶ人の教養であり、視点であり、その人の世界観であり総合力である。
藤原正彦はこれを「情緒」という。
しっかりとした仮説や仮定を構築できる視点や視座の確保。
歴史、文学、芸術・・・など先人の残した「文化」の継承。

 明治人、例えば福沢諭吉、新渡戸稲造、内村鑑三、岡倉天心などは日本の古典、漢文(漢籍)そして武士道精神を身に付けていた。そのために英語、欧米のマナーなど知らなくても、尊敬を集めた。

4 「論理は長くなりえない」  数学は「真(確率:1)」か「偽(確率:0)」かですべてが決まるが、人間社会は「1」「0」で決まることはほとんど無い。

「風が吹くと桶屋が儲かる」という話では、一体どのくらいこの話の真実味があるだろうか。たぶん一兆分の一。

長い論理は採用されない代わりに、短い論理が横行するので注意すること。

「小学校で英語を勉強する。→英語がうまくなる。→国際人になる。」一見よさそうに見える。・・・しかし「論理の限界」

 確かにこれらをみると、なるほど、あのアメリカのイラク戦争中終始、大量殺戮兵器を隠し持っているというあの強弁も、このような論理だったのです。実際この情報は後日、疑惑とされています。ある目的のために、論理体系だけは見事に構築し、何かを実行すると、この場合、必ず何らかの犠牲がでます。既に直近のイラク戦争では、2,000人以上のアメリカ市民が戦死しました('05.11月現在)。しかも戦争「終了」後に戦死した兵士が「戦時中」のそれを超えました。何という、誰の、何のための論理でしょうか。


 藤原正彦は、そのアメリカの建国の大義名分、すなわち「自由」「平等」「民主主義」についても、大いなる疑問を呈しています。

 周知のように、人間は自分のあずかり知らぬところで、あずかり知らぬ親から、あずかり知らぬままに生まれます。既に本質的に「自由」ではないでしょう。”不条理”などともいわれます。そして一旦生まれれば、さまざまな法律やルール、マナー、習慣から、いろいろな基礎知識を覚えそして遵守しなければならず、何が自由だ、と叫びたくなります。

 もともと日本では伝統的に、”自由”とは「わがまま勝手」という意味で用いられ、決してよい意味ではないのです(例えば徒然草「第60段」「第187段」)。

【第187段】万の道の人、たとひ不堪なりといへども、堪能の非家の人に並ぶ時、必ず勝る事は、弛みなく慎みて軽々しくせぬと、偏へに自由なるとの等しからぬなり。 芸能・所作のみにあらず、大方の振舞・心遣ひも、愚かにして慎めるは、得の本なり。巧みにして欲しきまゝなるは、失の本なり。
【訳】どんな芸道にしても、その専門家がたとえ下手であっても、上手な素人と比べる時必ず優れることは、専門家は「心にゆるみなくつつしんで軽々しくしない」のと、一方非専門家は「ひたすら勝手気ままなこと」とが、違うのである。芸能や技術だけではなく、一般の行動や配慮も不器用であっても慎んでいるのは成功のもとである。これに反し器用で勝手気ままなのは、失敗のものである。・・・はて、どっかで聞いたような・・・)

 そしてアメリカは戦後の占領政策の中で、この日本においてこの”不吉”なる「自由」という字を、策を弄して(つまりある目的のための論理を構築して)”吉”に大転換し見事日本を弱体化しました。その”自由”は、今や日本においてますます日のあたる地位を獲得し、肩で風を切って闊歩(かっぽ)しています。


 藤原正彦はまた、トマス・ホッブスの「社会契約論」を説明します―――「各人が自己生存のために何でもする自由」は自然権というが、これでは「万人の万人に対する戦争」となり、無秩序と野蛮と混沌の世界となる。それではまずいので、この自然権たる「自由」を万人が放棄して、ある機関に委託する。この機関こそが「国家」である、というものである。つまり国家とは万人が「自由」を放棄した状態をいう、と。

 次の世代のジョン・ロックは「国家は国民の自由で平等な契約によって作られる。人間は生まれながらにして完全な自由を持つ。人間は全て平等であり、他の誰からも制約を受けない。そして個人は自由に快楽を追求してよい、全能の神が社会に調和をもたらしてくれるのだから。」といっています。ロックはカルヴァン主義者の影響を受け、その「予定説」(救済されるか否かは、その人間の行いによるものではなく、予め神の意志で決定されている)により、最後の審判にいたるまで自分が救済されるかどうか分からないのだから、あくまで救済されると確信し、その神からの予兆をこの地上で現前させればよい、となります。

 だから、神からの義務として自分に与えられた職業を「天職」とし、精一杯努力する。そうして利益が上がれば、これは神の恩寵であり救済されるかもしれない予兆であるとし、更にその利益をますます増大させるために励み、もっと神の恩寵を確信する、という論理で経済活動が解禁されました。それまでのカトリックでは、金銭的なものは不浄なもの、不吉なものでした。これを、全く逆にしてしまったわけです。ロックやカルヴァン主義が資本主義を推し進めたといわれてます。この”論理”にも藤原正彦は、極めて鋭い疑いの目を向けています。

 そしてアダム・スミスにいたっては「個人は利己的に利潤を追求すると、神の見えざる手に導かれて社会の繁栄が達成される」といっている。まさに現代の「自由市場経済」の原理であり、自由に競争してよい、後は神が調和させるということです。ビル・ゲイツは神から祝福されているというわけです。これがアメリカの本質の一つです。


 そして前(アメリカ考(1))にあげた第3代アメリカ大統領のトマス・ジェファーソンです。こう述べているそうです。

我々は次の事実を自明と信ずる。全ての人間は平等であり、神により生存、自由そして幸福の追求など侵すべからず権利を与えられている。

 藤原正彦は、きっぱり、こんなものは単にジェファーソン個人の信仰だと、切り捨てています。また、「自由」とか「平等」などは、”神”なくしてはその実態を説明できないといいます。これこそ先程の4つの理由の表の「論理には出発点が必要である」つまり欧米の論理の出発点は、実にいい加減だということです。ロックたちの「自由」「平等」は、単にその時代の「王権神授説」を打倒したいがためのものであった、といういうことです。

 そういえば、アメリカを特徴付けるものの一つは、旧時代の宗教国家である、と誰かがいっていました。この一番新しそうに見える「自由」「平等」「民主主義」には、かえって「神がかり的な」やり方がよく似合うのではないか・・・と思います。

 すこし電脳法師的に考えてみましょう。

 実はデカルトの「Cogito, ergo sum.(コギト・エルゴ・スム)」には、頭(理性)だけで、その身体やその体が拠って立つ所の大地や地平がないのです。デカルトがこの合理的精神や論理を出したときに、この「不自由な」あるいは「不自然な」理性は、その特徴を現わしていたと思います。真の理性としての自分という人間には、体があり、それを生み出した母がおり、それら人間たちが拠って立つ所の大地があり、自分とコミュニケーションする他人もあるのです。それらを無視して、自分の理性、論理だけを頼りに、自由だ、平等だ、私が、俺が、民主主義が・・・、としたところで、その結果はおのずから明らかです。ですからこれらをおし通すには、「神」を引き合いに出して権威付けしなければならないのでしょう。

 もっとも現代においては、もはや「神がかり」は効きませんが・・・。

 アメリカが常に戦争の”正義”の大義名分をなす「民主主義」も同じで、その基本たる主権在民には、条件があります。つまり「国民が成熟した判断をすることができる」ことです。この矛盾は電脳法師にも良く分かります。三人寄れば【文殊の智慧】ではなくて、三人寄れば【烏合の衆】、というのが実感でしょう。

 エーリッヒ・フロムは、自由と民主主義のワイマール時代のドイツで、ヒトラーが台頭した理由を「自由からの逃走」のなかで次のように挙げています。

自由とは面倒なものである。始終あれこれ自分で考え、多くの選択肢の中から一つを選ぶという作業をしなければならないからである。これが嵩じると次第に誰かに物事を決めてもらいたくなる。これが独裁者につながる。
  けだし名言でしょう。記録フィルムなどで、現代からみても、ヒトラーの世論の誘導や当時最新技術だったラジオをあえて使った全国放送での演説、その雄弁術、演説も例えば間の採り方や身振り手振りも実にうまいものです。

 そういえば「飼いならされた若い魂は叫ぶ。外に出たいわけではないんだ。別な檻が欲しいのだ。」・・・そして「本当に恐ろしいことは、人気者の顔をしてやって来る。」と誰かいってなかったでしょうか・・・この日本で・・・。

 藤原正彦の「国家の品格」をもとに、アメリカのルーツ、思想的始点の一つを探ってみました。

 この本は、実はアメリカ論ではなく、むしろ日本論です。他にも日本の伝統的な文化の力や今後日本の世界への役割・貢献、天才の生まれる条件と日本の精神風土など、面白いテーマが多いと思います。ぜひ読んでみてはいかがでしょうか。

(「電脳法師のアメリカ考」シリーズは、いつか分かりませんがこれからも続きます)

2005.12.31 電脳法師  

・・・そして、この「品格」のように・・・