・・・そうだ、この「品質」のように・・・

◆「設計とレビュー」(技報投稿記事、2002年)

  何年か前に、当時勤務していた会社の技術情報誌にのせた文があります。この時は、本当によい製品を作り上げるにはどうしたらよいか、という課題のために書きました。他の「みすず曼荼羅」のテーマと重複するようなところもありますが、特に子供たちは、是非、読んでみてください。(以下本文)

設計とレビューについて

 

1.はじめに

  「人間の弱み」には次のようなものがあるといわれる.
   (1)人間は気まぐれである
   (2)人間は怠け者である
   (3)人間は不注意である
   (4)人間は根気がない
   (5)人間は単調を嫌う
   (6)人間はのろまである
   (7)人間は論理的思考が弱い
   (8)人間は何をするか分からない

  このような人間が何かを作るとすれば,さぞかし頼りないことであると思ってしまう.
しかし一方,われわれの祖先は太古の昔から,失敗しつつ何かを作り上げながら,滅びもせずに歩んできたことも事実である.これはどういうことなのか,このように「いい加減な」人間がどうして今のような文明を築けたか,大いに興味があるところである.
  品質というものが昨今重要視され,製品作りやシステム作りの基本的な考え方となりつつある.ISO9001などで代表される管理手法はこの集大成の一つであろう.ここでは「設計」と「品質」および「レビュー,review」という側面から,われわれを取り囲む状況に迫ってみようと思う.さらに筆者の個人的な経験と思いを込めてアプローチしたいと思う.

2.品質とレビューへの意識

  人類は太古の昔から,意識するしないにかかわらず「品質」については悩まされてきた.旧石器時代人や新石器時代人は,作った石器が切れない,すぐに折れてしまう,加工がしづらい,など今の我々と同じ悩みを持ったに違いない.そしてこれは直ちに,収穫に反映し生活にかかわったであろう.そしてとにかく何とかしなくてはならない,と思ったはずである.これはまさに「品質」と「レビュー」の萌芽といえる.「レビュー」とは作ったときの見方(ビュー,view)を,再検討しよう,批判しようということである.
  では品質の実現とレビューは,どのように行われてきたのだろうか.前述のように石器時代は,自分自身によるセルフチェックself checkであろう.すなわち作った後直ちに使ってみればその結果は一目瞭然,結果が最悪なら次回の製作は必死に注意したはずだし,結果がよければ更に良くするにはどうするか,工夫したであろう.次の時代は富が集約され権力者が現れて,組織的に分業体制になり,専門技術を持った集団による製造プロセスで品質を保証した.品質の「形式」ができてきたのである.
  そして現代では,科学に基づく論理的な管理による品質の保証といわれる.具体的には,形式的あるいは公式的「証拠」に基づく保証となる.つまり客観的な,特に文書による証拠(evidence)による品質の立証が重要となるのである.

  例えばISO9001がこの方式の典型である.ISO9001では決まり文句がある.
   (1)「あなたの仕事は何ですか(責任)」
   (2)「どこにそれは書かれていますか(文書化)」
   (3)「書かれたとおりにやってみてください(実行)」
   (4)「やった証拠はどこにありますか(記録)」
   (5)「それを見せてください(証明)」

3.人間の特性と常識

  前述の「人間の弱み」は,これは「人間の人間たる所以のものである」と筆者は思う.この特性自体は特に価値観はなく,状況により,時と場合により,プラスの価値にもマイナスの価値にもなると思う.しかしこの特性が,例えばプログラム開発の場で発揮されると困ったことになる.抽象度の高い作業なので,集中と精密さと,注意深さと,理論性と,合理性とそして迅速さも求められるのである.ほとんど逆の特性が人間には必要とされる.
  筆者の経験ではプログラム開発に関しては,「人は1つの原因・要因のもとで,10のバリエーションで,100のバグを出す」という感じである.だから1つバグが見つかったら,その裏には100ぐらいの似たようなバグがある位のつもりでプログラムを検証,レビューしたほうがよいと思われる(本当はコンピュータ技術が人間に追いついていないだけの話であるのだが,コンピュータを作るのも人間であるから,やむを得ないとあきらめる).
  また筆者が,上記の「人間の弱さ」の定義にもう一つ加えたいと思うのは,

   (9)人間は忘れやすい

ということである.ここでは,より広い意味で「人類が築いてきた知恵をも忘れる」ということである.先人は,色々苦労をしながらかずかずの知恵や真実を,それこそ命がけで,我々に残してくれた.例えば最初に毒のあるキノコを食べた人は,人類に対して大きな貢献をしたと考えられる.われわれは,安全なキノコを食するときにその功に感謝しなければならない.先人の戒めは忘れてはいけない.現代の状況は知らないが,筆者が子供の時周りの大人から「悪いことはするな」,「嘘を付くな」とはよく言われたことであり,そうでないと「お天道様が見てるぞ」または「天網恢々疎にして失わず」であり,とどのつまりは「悪事露見」である.先人のものの見方や考え方,技術,方法などにはそれなりの真実があり,特に現実的に有効であることが多い.
  このような知識を「先人の知恵」とか「常識(common sense)」「良識(bon sens)」などとよび,「証明無しの真理」として後生の人は用いてきた.要は将棋の「定石」である.これはいざというときに「デフォルト」的に使うことができ,いちいちその真理性について検証しないで使えるので効率が良く,成果も期待できるものが多い.
  抽象的な概念としての常識は,おもに欧米から来ている.例えば宗教の自由とか基本的人権の保有などは,欧米の市民生活としての「常識」である.過去の宗教戦争の人口が半減した悲惨な体験から「寛容」の精神が生まれた.宗教の自由とは彼らにとって,自明なことであり,基本的な「常識」であり,これは証明不要なのである.これらの抽象的常識も彼らが長い歴史の中で経験的に,直感的に学び取った真理である.
  われわれが設計や開発をするときは,先ずこのような「常識」をデフォルトとして持つことが肝要であろう.先ずは,設計の常識の前に,"人間"としての常識が求められる.科学的事実や自分が認識した真実には,常識にてらして謙虚でなくてはならない.あのデカルト先生も,生活の格率(行動指針)としては,

   @極端から最も遠い意見に従い国の法と習慣に服す,
   A一端決心したら志を固くして迷わぬこと,
   B運命のせいにしないで自分に打ち勝ち切り開く,

と,かの「cogito(我思う)」とは大分趣が違う.

4.「品質」が直面する問題

  設計はシステムアプローチである.例えばクルマの部品を作るような設計とは,顧客から出された要求から,見落としなく真なるものだけを受け容れ,解きやすいように分解し抜けがないか検証し要求仕様として定義する.そしてこの要求仕様から機能を同定し,さらに機能を分解し,個々の機能の要素やそれら要素間の関係を定義し,設計パラメータを抽出し,そして合理的・最適に変数や定数を決定し,それらをある目標に向かって最適にかつ適応的に動作・調整せしめるように合成する一連の作業である.この場合はほとんどシステムの定義と一致したアプローチ法になっている.
  皮相的には,設計は機能・性能の追究の感が強い.しかし本質的には,設計は単に機能・性能の追究ばかりではなく,信頼性・耐久性・安全性などいわゆる「品質」の実現というプロセスでもある.ここでいう「品質」とは,市場や社会に対する「責任」という意味として考えるべきだ.つまり,品質は,先ずは意図した使用方法としての機能・性能があり,次に外観や人に与える操作感・フィーリングがあり,更にこれらが時間と共に変化するところの「信頼性」がある.信頼性には,耐久性や保全性,バックアップなどの異常時信頼性(対人間)がある.そしてこれらは全て意図された使用方法を前提とした対応であるが,さらに「品質」になるまでには,意図しない使われ方に対する「合理的」な安全対策が求められるのである.安全性をどこまで行うかはその分野や企業の力量による.いかに市場に出すことに対し責任があるか,つまり「品質とは責任である」.
  最近,例えば電気製品を買ったとする.するとそのマニュアルの最初の2,3ページは,あれをしてはいけない,これをしてはいけないの文言が数多く並ぶ.これが市場において責任をとる一つの方法(使用における警告)である.もし「合理的」に予見できる危険に対して,その検証や確認を手抜きし,もし何らかの不具合が生じたら,設計者や企業は重大な責任を問われることになる.責任が問われない唯一の例外は,まだこの世界では,このような不具合が起きる因果関係が全く分からなかった場合のみである.従い,われわれ設計者は,十分な検証・確認をしたという証拠を厳密に紙で残すことが肝要である.
  設計は,「敵を知り己を知れば百戦し危うからず」である.戦わないで目的を達成することが最上である.だが設計の前に直面するものはまだある.

  次の表.1のように,現在ますます開発への圧力が強まる中では,設計が前述のプロセスを踏んだとしても,品質や価格,納期などを満足できなくなる可能性がある.

変化要因(筆者注)
@新製品開発への圧力a)新製品開発の期間の短縮化と開発の回数の増加多数の新製品開発による差別化が他を引き離す機動力になっている.例えば家電やコンピュータのモデルチェンジの速さやその多さは,消費者にも日常的である.しかしその裏では多くの品質問題が潜在しているといわれる.
b)開発コストの削減市場の価格破壊などのようにコストや価格への低下の要請は,市場,消費者,企業を巻き込み,品質とコストの最適な安定状態を知らない.
c)新技術の開発,新市場への展開市場で勝ち残るためには,常に継続的に他に対して何らかの優位なものをもつ必要がある.このためには新技術の開発が必要である.また新技術の適用先に新規市場への進出もある.この新しい空間にも品質問題が潜む.
A開発体制の変化a)熟練技術者のリタイヤによるノウハウの喪失これは重大な問題を含む.今までは,熟練者が全体を見回し品質的な問題も総合的に解決することができた.しかし開発は細分化され,そのレベルや質は今まで以上のものが要求されるようになる.業務は細分化と大規模化の開発ラッシュの渦の中で,全体が見えない.若年層の技術者は部分的にしか業務に参加しえず,全体も見えず結局全体が見渡せる者が不在の中で,品質を確保しなければならない.
b)情報技術の採用による設計・開発業務の変化慣熟(リテラシ)の問題も含むが,さらに本質をよく理解しない形式的な情報化の状況の中で,設計・開発でしばしば品質的な問題が発生する.モデル化やシミュレーションなど,設計者が本質に迫ることなく設計してしまう.
c)アウトソーシング単なる「外注」「請負」型業務ではなく,専門性の高い外部の企業に業務を任せ,品質やコストの効果をだすもので,このような企業が増加している.このような場合,組織の継ぎ目で品質問題が発生しやすい.
d)設計開発のグローバル化ある分野の開発は,A国,B国で行い,部品の製造はP国,Q国,さらに組み立てはR国でという状況である.これでは品質問題が浮上する危険性が高い.さらに別な産業ではコンピュータやネットワークを最大限に活用し,24時間体制で日米欧で時間シフトで設計を行うこともあるようだ.地域を越える,国を越える,時空を超える等,品質にとってますますリスクが増加する状況となってきている.
B消費者や市場の認識の高まりによる評価の厳しさa)品質や信頼性への関心の高まり市場が消費者指向となり,消費者の認識が高まり,危険で品質の悪いものには厳しい評価が下される.さらに品質第一の設計が求められる.
b)法的な規制,モラルの高まり品質の提供者は一層のモラルアップが必要である.

表.1 製造業を取り巻く環境の変化

  更に,大きく見れば現在は,第1次・第2次産業革命に続く新しい原理に基づく産業がこれから隆盛する過渡期であるともいわれる.これらの環境変化は単に製造業のみの問題ではなく,全ての産業においても何らかの形で変化が起きる.

5.レビューの必要性

  以上のような人間の特性や企業活動を取り巻く環境が急速に変化する状況で,品質の確保や保証は今や最重要課題といってよいだろう.設計レビューの最も原始的なものは,前述の如く石器時代の人のようにセルフチェックであり,これは現代でも全く有効である.
  例えば筆者は,設計が一通り終了すると,その各種のブロック図や回路図,プログラムの設計図を,壁など目に見えるところに2,3日間貼り付ける.日に設計図を晒しながら,漠然と眺め・・・ミスを見つけて愕然とし,何故だと憮然とし,直すぞと敢然とし,結局これが自分だと平然となる・・・というプロセスの中で,結構ミスやバグが修正される.この原理は,同時に自己矛盾することは考えられないが,時刻を変えることで,「昨日と違う今日の自分が,昨日の自分が設計したものをレビューする」ということであり,あえて名付ければ「時間分離型セルフチェック」とでもいえようか.一方,他の設計のレビューをすることは,クロスチェックあるいは「空間分離型レビュー」ともいえるだろう.これらは組織的レビューの基本モデルといえる.
  われわれの持つ「人間の特性」を前提にして,上記のように開発への厳しい環境の狭間での品質の実現には,組織をあげての(機能横断的)合理的なレビューが有効である.

  歴史的に,組織的設計レビューの原型はアポロ計画であるという.アポロ計画では,個人や組織,書類などの壁や不連続性を克服・突破するために,「デザインレビュー」というものが編み出された.一般に自分の責任分はベストを尽くすが,そうでない部分はIt's none of my business!(おれの知ったことか!)である.従い他と接続する部分=継ぎ目,変わり目部分で大きな落とし穴が発生する可能性がある.これを防ぐために各分野の専門家が集まり,その「危ない部分」に対して「レビュー」を行ない,国家の威信を懸けてのプロジェクトは成功した.

  一方また,「信頼性」はその定義から,時間と共に変化する特性(機能,性能,操作性など)である.この「時間的な品質」である信頼性に対応するためには,理論的に,必然的に個人はもちろん組織に蓄積された技術や知識に依存せざるを得ないのである.従って,さまざまな不具合情報などは,積極的に解析・対策され,まさにこれらが知識に相当するものとなるわけで,隠されるべきものでない.貴重な技術やノウハウを獲得できる「宝の山」と考えるべきである.

  最後に,私見ながら,恐らく「品質」という"理念"は,自由とか平等とかと同じような遙(はる)か遠くにある「ユートピア」的なものであり,従って人間の常識・良識に基づく不断の努力によってのみそれに近づき得るという「倫理的」な実践活動であろう.さもないと人間の前述のような特性からすると,少し油断をすれば,瞬(またた)く間にそれら(信頼,責任,品質・・・)は失われるのである(事例は枚挙に暇あらず).ゆえに設計やそのレビューには,最低限の「常識」「良識」の保持は重要である.単純な,科学的な認識・方法論のみでは,品質は実現できないだろう.

参考資料:(財)日科技連「信頼性技法実践講座・デザインレビュー」2000年度テキスト

  実は、当時、電脳法師が一番言いたかったことは、この最後の部分でした。これは今でも全く変わっていません。むしろ最近、ますますその感を強くします。

  日本では、明らかにこの数年の間に、相当な変化がおきてきて、「日本の劣化」「亡国総理」「泥棒国家」「学校崩壊」「家庭崩壊」「市場原理主義」「アメリカ追従」「・・・」などの文言が毎日のように並びます。

  まさに、電脳法師の予感が当たり、「製品やシステムの品質」ではなく、否(いな)、むしろ「国家の品質」「人間の品質」について議論しなければならない、ということでしょうか。


2006.3.6 電脳法師 

・・・そして、この「品質」のように・・・