・・・そうだ、この「蓮の実」のように・・・

◆冬の蓮

 

 冬の蓮は眠らない・・・。

 凍りついた池にたつ枯れた蓮の姿は不思議な存在感があります。

 講師と電脳法師は、よく行田の古代蓮(こだいはす)の公園に行きました。講師は描き、電脳法師は、写真を撮りました。

古代蓮の種子(たね)は弥生時代の地層から発見され、2000年後の今の時代に発芽しました。古代蓮はその端正な形がなんとも美しいと思います。

 蓮は、2000年の時空をその舞台にしています。この蓮は何代も続いて受け継がれているというような、例えば人間のような”やわ”な存在とは異なります。たった一個の種子そのもので、2000年近い年を経て、この現代に花を咲かせたわけです。一体どこにそんな思慮と力があるというのでしょう。


 植物は、たしかに一見、人間のように速く動けないし、考えることもできないでしょう。しかし、あの「被子植物」の対恐竜大包囲作戦を見れば、その知恵や考え方の「長く」「壮大」でかつ「的を得て」おり、そしてその想いを確実に達成させていることに驚きます。

 ギリシャのアリストテレスは、「植物は、逆立ちした人間である」といいました。これは、栄養分を摂取する人間の口に相当するのが根で一番下であり、その上に人間の胴体である幹がその上で、人間の下半身の子孫を作る器官が、植物では最も上にある花である、ということです。

 植物を含む地球上のあらゆる生物は皆、その生きる処を得てその役割に適(かな)うものと思います。植物は、この大地にしっかりと根付きそしてそれが「頭」なのです。ですから地球に適うのは当然でしょう。地面を歩く昆虫もその大地に密着しています。植物と相性がいいのは当然です。植物と昆虫はうまくやってきたのでした。そして植物の知恵とは、「大地の知恵」「地球の知恵」そして地球の成り立ちからすると「宇宙の知恵」ともいえるでしょう。

 蓮をふくむ植物たちは、その「頭」を大地に突き立てて、各種情報を報告し合い、調整し合い、目標を決め、そして次々実行しているのです。情報はどこからでもやってきます。この大気中にも実は植物が出す色々な物質があり、例えば森林浴が人間にもいい影響を与えるとかいわれます。コーヒーの「ブルーマウンテン」とは、まさに「青い山」です。森林の木々から相当な化学物質の微粒子が放出され、それが太陽光の青い成分を反射するので、青く見えるのです。この化学物質は植物がその身を守るために出すので、ある種の微生物や虫は寄り付かないのです。

 これらの植物の発散させる化学物質は、大気のさまざまな情報を含み取り込み、やがて地上に戻り、植物たちの根(つまり頭)で「分析」し「結果」を出し、また他の植物と相談するのです。そして「結論」を出し何らかの行動を起こすのだと、電脳法師は勝手に思っています。

 植物の種子たちは、このように陸、海、空そして地中のそれぞれの情報を持ちより、相談し、考え、何をするか決めるのです。植物の時間は濃縮しています。空間は密になっています。ですからゆったりとした変化や微妙な差が分かるのです。人間が瞬時や瞬間での認識、狭い空間での認識が得意なのに対し、植物は時間や空間を”蓄積する”ことが得意で、その結果長大な時間にわたる変化や、広い空間での差異を認識するのが得意なのです。地球が最近何か気温が少し暖かくなってきたなとか、海の水の味(成分)が何か少し変だなとか、がはっきりと分かるのです。

 このように人間の行動は見張られています。もしかしたら思いや考えも・・・。

 ギリシャのプラトンは「人間は、逆立ちした植物である」といいました。しかし結局、人間は「逆立ちしても」植物にはかなわないように思えます。まして人間中心主義の二元論(支配する人間と支配される自然)では、自然や環境を支配しようとするような企ては、必ず大地の反発があるでしょう。

 前号でも述べたようにデカルトは「我思う、故に我あり」といいました。しかしそのあまりに自己中心的な(つまり人間中心主義的な)考え方は、植物のそれとは異質です。次元が違います。植物からみれば、人間はなんとも不思議なものに見えるでしょう。

 人間は確かに”進歩”しました。それが全体との調和を得ているのでしょうか。まさにプラトンの定義したように、大地から浮き上がり、しかも孤立しています。互いに不信感を持ち、争い、憎みあっています。解決に知恵を借りようにも、もはや大地や地球は、我々の味方ではありません。この喪失感、切り離されたという孤独感は、より孤立へ、そして後ろめたさと復讐心。自業自得でしょうか。500万年以上昔に、アフリカの大地で二本足でしっかり立った我々の先人は、このことに気がついていたのでしょうか。

 人間の世界には、「恩人には足を向けては寝られない」という言い方があるます。しかし、その人間は、大恩人である「母なる大地」に対し足を向けるどころか、常に足の下にその大地を踏みつけているのです。そして、その結果は既に見たとおりです。

 藤原正彦は、現在の人間の状態は「西欧的な論理」と「近代的合理精神」の限界あるいは破綻した状態である、といっています。これは畢竟(ひっきょう)、換言すれば、大地から浮き上がって、孤立し、他との密接なやり取りや協調ができない人間の状態である、といえるでしょう。

 電脳法師は、先程の木と恐竜でもかきましたが、我々の祖先は蓮や木の思いが理解でき、山や大地の声が聞こえました。森羅万象との絆(きずな)が確かにあった、と思うのです。それがいつの間にか、失われてしまいました。もしかしたら、これも木の陰謀か、策略か・・・。


2006.1.31 電脳法師 

・・・そして、この「蓮の実」のように・・・