・・・そうだ、この漢字のように・・・
漢字と技術
電脳法師は,漢字が好きです.漢字を膨大に何語知っているとか,超絶に難解な漢字が読めるとか,一生に一度も使わないような漢字が書けるとか,そういう意味ではありません.
漢字のもつその世界観や特性空間が好きなのです.ヨーロッパ言語を深く理解するにはラテン語やギリシャ語などの世界観が必要なように,漢字を知るには古代中国の世界観や考え方を知ることが大事です.
電脳法師は以前,出張でドイツのシュトゥトガルトに行ったことがあります.クルマに乗っていると,当然ながら交通案内板があります.ドイツ語がほとんど分からなかった電脳法師には,一字一字読んでいるうちにその標識を通り過ぎてしまい,何んだこれは!と自分の不勉強を棚に上げて,憤慨したことを記憶しています.ドイツ語は日本語と同様,名詞をつなげてどんどん長い言葉ができます.慣れている者には何でもないかもしれないが,しかしまた,アルファベットの羅列はいかにも効率が悪い表現方法だな,と思ったことも事実です.
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ドイツの道路標識例 |
漢字で書けば上記の案内は,例えば「宮殿広場」くらいの意味でしょう.漢字ならば見た瞬間に理解できます.漢字表現は非常に表現効率がよく,情報圧縮率が高いといえるでしょう.しかしカタカナで「シュロスプラーツミットケーニヒスバウ」ではドイツ語の原文以上に分かりません.これは表意文字と表音文字との違いです.
日本人ならたとえ漢字の読みが知らなくても,意味は大体分かります.例えば中学生くらいなら,日本語で書かれた専門分野の専門書を初めて見ても,なんとなく何が書いてあるかが分かります.ヨーロッパ系の言語ではこうはいきません.専門用語はその語源をラテン語やギリシャ語に持つものが多く,そのものを知っていないと全く分かりません.
最近はやりの「ユビキタス・コンピューティング」などは,コンピュータに関連する用語だとはわかります.しかし「ユビキタス(ubiquitous)」はそのものを知らないと何のコンピュータ処理か,まったく意味が分からないでしょう.ユビキタスはラテン語源の言葉(ubique)で,いたるところにとか遍在してとかの意味で,要するに「いたるところでコンピュータ処理」の意味です.漢字で「遍在」なら何となく遍(あまね)くあることかな・・・とすぐに正解が出ます.
「漢字」はその名前が示すように,日本語ではありません.上古,日本に既にあった「やまとことば」に中国から伝わった字の言葉(つまり漢字)をあてはめたのでした.さらにその漢字から,ひらがなやカタカナが生まれました.仮名に対して漢字は「真名(まな)」と呼ばれました.日本語の体系の基礎ができました.
日本では表音文字のひらがなやカタカナ,表意文字の漢字を使い,表現の豊かさを磨いてきました.電脳法師はこの先人の知恵に感謝しています.普通の仮名漢字文なら,A4の紙に何かが書かれていても,ざっと斜めに見るだけでおおよその意味をとる事ができます.
しかし想像してみてください.全てひらがなやカタカナの文はこんなことはできません.また漢字ばかりの文は日本には普通にはありませんが,漢字が意味を表すからといって全文漢字では,やはりすぐには理解できにくいのです.仮名と漢字,日本人にはこの組み合わせが絶妙に表現性がよく抜群に可読性が高いのです.このような表現構造・表現機能をもつ文字体系は他の言語にはあまり無いと思います.
もっとも最近はこの仮名漢字混じり文(三重表記)にさらに英語などの外国語を混ぜる「四重表記」を取り入れた書物がでてきました(例えば光文社ペーパーバックスのシリーズ).これはもちろん横書きにしかならないのですが,日本語の即訳が並べてかかれていて,ちょっと「うるさい」感じがしてもう一工夫必要な感じです.日本語の表記はまだまだ改良・開発されるべきでしょう.
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そもそも漢字とは何か.電脳法師は昔からこの疑問が漠然とありました.学校ではせいぜい,象形文字や亀甲占いの形から派生し,それらの組み合わせとして漢字の体系があるということを,習ってきただけだと思います.
あるとき白川静(しらかわしずか)という甲骨文字の研究家の本を見てこの謎が解けました.そしてますます漢字が好きになりました.手軽に読むには「漢字百話」(中公新書)や「漢字類編」(木耳社)があります.
研究によれば,古代中国の殷(いん)や周(しゅう)では,占いや祭礼が中心の国家であり,漢字はそれらを表象する重要な概念であり記号だったのです.漢字は古代中国の世界観そのものです.古代中国では,何をするのにも占い(亀甲など)が行われました.王様がどこかに行くにも今日がよいかわるいか.隣国へ攻め入るにもそれは吉か凶か.生贄にする奴隷は50人で可か否か・・・.これらを記録するに甲骨文字があみ出され,やがて色々な概念を表す文字ができたのでした.それが漢字の元です.ありとあらゆることに占いが行われ,占いや祭祀なしでは何事も進まなかったのです.
まるで日本の企業で信仰されているISO9001などの「ぐろーばるすたんだーど」教のようです.
これはまた同じ時代の精密な青銅器をみれば分かります.祭礼国家ですから酒が必要です.ゆえに青銅器には酒器が非常に多いのです.その青銅器にも字が刻まれていました.これを金文(きんぶん)といいます.金文も漢字の祖です.青銅器を作るために森林が破壊され,結局今のような中国になったのです.そして時代は下り秦の始皇帝の時代に文字が統一され,度量衡が決められました.
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漢字からみた古代中国の世界観とはどういうものか,「漢字類編」などから例を挙げてみてみましょう.
成人への通過儀礼に必要なのは「名」でです.その「夕」は祭肉を表し,「口」の形は祖廟に対して報告される「祝詞(のりと)」でその器の形「口(さい)」で示したものです.「口」はいわゆる「くち」ではない.
成長し一族に認められるには祖先の承認が必要でした。名は人格と同じであり,相手からの呪を受けないよう伏せられた.日本でも古代,本名は隠されました.言葉にはことだまがあり,ことあげによりことばは力になったのです.
現代の言葉は,何とその力を失い地に落ちたことでしょう.
また「真」は本字は「眞」であるが、その「ヒ」は死んだ様、下部は倒(さか)さの首、つまり顛倒した路傍の横死者のことです。
「この横死者の霊は(しんい=怒り)に満ちており,これを板屋(殯宮)に(お)き,これを道端に(うず)め,その霊を(しず)めなければならない.・・・これがである.」(「漢字百話」)
「真(眞)」とは本来このように通常でないような人間の状態を表す漢字なので,荘子(そうじ)以前の書物にはこの字はほとんど見あたらないということです.
しかし生あるものは必ず死ぬ。儒家を皮肉る荘子の哲学では,これこそが「真」である,となってしまうのです.
まさに大陸の思想だと電脳法師には思われます.荘子は古代中国の思想の中でも特異なもので,原理主義的で理想主義的です.人間を人間たらしめるには特効薬です.電脳法師の,高校時代からの基準の一つです.「無可有之郷」に植えた大木の下で逍遥として昼寝をするのは荘子的です.
「機械ある者は必ず機事あり.機事ある者は必ず機心あり.機心胸中に存せば純白備わらず・・・我(機械を)知らざるに非ず.羞(は)じて為さざるなり」
・・・これは跳ね釣瓶(はねつるべ)を使わないで井戸の横に穴を掘り,自ら甕(かめ)で水汲み畑に注いでいた者がいた.「なぜ跳ね釣瓶を使わないのか.何倍も効率が上がるのに」という問いかけをした”進歩主義者”の儒家に対して,応えた言葉です.
さらに「道」の文字の示した世界は,異族の首を切りその首を携えて行くことを意味したといいます.戦の軍の先頭に首をぶら下げて,相手を呪うための呪術であったという.何ともすさまじい世界ではないでしょうか.
日本で「道」とは,例えば「・・・道(どう)」「・・・の道(みち)」などの使い方では,「真善美」を求めるためのプロセスのようなイメージを含んでいます.「茶道」「柔道」「剣の道」「芸の道」「絵の道」・・・などは,しかし,それらの「道」のまわりには何か首が転がっているような気がして,案外本来の意義に照らすとなかなか含蓄が深いような気がするのは,電脳法師だけでしょうか.
普段見慣れている漢字でも,古代中国の世界では本来このような意味があったのです.
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「科学的」な立場をとる技術者が,事象や情報の解釈に努めて客観的になるのは当然です。しかしその姿勢は白川静の古代中国と漢字の研究のように,全てのパラダイムを含めることが必要です.とくに感情や情念のある人間が関与するシステムでは、特に操作する人間の特性を考慮する必要があります.人間の過剰適応性や非適応性などは,注意が必要です.
システム設計では,システム要素とそれらの関係を定義にし,環境要因を考慮し,システムの目的に向かって,人間のあらゆる操作を考慮しながら,合目的的に振舞いをさせなければなりません.このようなシステムアプローチの側面からは,白川静の古代中国や漢字へ分析の仕方やそのアプローチの方法論は,電脳法師にも大いに参考になります.
「技術」の意味するところは「再現性のある方法論」です.この定義には,当該方法論への安全性や信頼性の前提が了解項目として含まれていると思います.電脳法師は,技術自体が単独で存在することはありえず,技術は人間にとっての価値を生み出すための方法論の一つである,と思います.技術そのものが先行したり放置されたりする状態は,人間にとって危険なものとなります.
「このサーバ・コンピュータとネットワークシステム,アプリケーションソフトで,こんなに仕事がよくでき儲かります」
このようなキャッチコピーが多いが,本質的にコンピュータシステムだけでこのようになることはありえません.むしろ下手なコンピュータ導入は,業務をより見えなくし,業務の目的そのものが分からなくなったり,コンピュータ化で余分な業務が発生し,業務の現場が混乱します.・・・どうしたらよいかもうお分かりですね.
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・・・特に現代を生きる人間は,技術というものに対して常に懐疑的な立場にいるべきなのだ・・・と,ある日の電脳法師はこの夏の猛暑のなか,昼寝の悪夢でうなされるのでした.
2004.8.28 電脳法師
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