近世に入ってデカルト先生たちが,人間をおそるおそる神の座に据えました.ここでクルマの可能性が出てきました.一線を越えたのです.しかし神をも畏れぬクルマを作り出すためには,まだいろいろな分野での仕事の成果を待たなければなりません.

 そして産業革命.いろいろな分野での技術的成果が出てきました.製糸工場での蒸気エンジンやその制御装置などが必要から生まれました.

 単に部品を作ってそれらを組み合わせればうまく動くかというと,そうはいきません.組み合わせ方によってはとんでもない動きをすることがあります.糸を紡いだり布を織ったりする機械は,その回転のスピードはある決まったコントロールにしないと製品ができません.

 このようなものは「システム」というのですが,それらが動作するときの振舞いを調べるやり方が研究され実用化されました.そのほか各分野での科学技術的成果により人類史上画期をなすところの,農業革命に続く産業革命は大成功したのです.

 そして「人間の特性」の出番です.誰かがこの工場の片隅で動いているエンジンを見て,これを馬車につけて馬の代わりにしたら,面白いのではないか,と考える人が出てきたのです.そして蒸気エンジンで動く「馬無し馬車」というものを作り出しました.これがクルマの先駆けです.

 一旦基本的なアイデアが出ると,我も我もというのは洋の東西は問いません.またたく間にガソリンで動く自動車が生まれ,軽油で動くディーゼルエンジンのクルマが作られました.そしてそうなれば「人間の特性」からすれば誰の車が一番早いかを決めずにはおられません.最初のガソリン車ができて,数年後にはもうレースが行われたそうです.これがまた技術革新に拍車をかけました.そしてあっという間にわれわれが知っているクルマの100年の歴史となったのです.

 人間は太古の昔から,まわりの大型動物からの攻撃にさらされ何の能力も無く,力も無く悔しく思ってきたのでした.鳥のように空も飛べず,魚のように水にも潜れず,ライオンのように地上すら速く走れない.洞窟の奥に閉じこもり,大型獣が動きを止めるときを見計らって,食料を探しに行ったのでした.せめて地上をあのライオンのように速く走れたら,とどんなに思ったことでしょう.その悔しさと彼らを絶対凌いでやりたいという記憶の遺伝子がどこかに残っていたのです.

 クルマが生まれたのは,人間にとって歴史的必然であると,電脳法師は思います.・・・そしてやっとプロトタイプ(原型)ができました.

 そして一旦事が成れば,人間は例の「人間の特性」を使って,色々なことをやりだすのでした.クルマだけではなく,空の征服だってガソリン車が生まれてまもなくです.戦いともなれば,ますます人間は「特性力」を発揮し,海の中に長時間潜ることができるものを作り出し海を「征服」しました.そうなればさらに宇宙なんかなんのそので,その延長であっという間に月まで到達しました.

 クルマは人間に地上を速く走る能力をもたらしただけではありません.いろいろな分野にその影響をもたらしました.
 クルマにはだれでも欲しくなり乗ってみたくなります.「量は質を変える」という原則がありますが,万人にクルマを提供するというビジネスは,この原則の典型といってもよいものをたくさん生み出しました.

 クルマをビジネス化し,安いクルマをたくさん売り出そうとするといままでの生産の方法では効率が上がりません.そこで「生産ライン」方式の登場です.ただ一種類のクルマを大量に生産し安く売るために考えられた方式です.チャップリンの映画の,あの「流れ作業」です.

 この方式は今の現在でも標準の大量生産の方法です.人間が機械に使われるとか,ヒトが単なる部品になるとか,人間疎外だなどと分かったようなことをいいますが,しかし,クルマの魅力にはかなわないのです.それまでに産業革命で工場での分業体制にはなっていたのですが,生産ライン方式は超絶分業方式です.ネジを3本締めて次の工程へ送り,電線を束ねて結束し次へ,・・・と全体が見えなくてもよいやり方で生産が行われます.このやり方は当然全部の産業に浸透しました.そして大量消費時代となります.

 大量生産の同じクルマが巷にあふれだすと,人々はまたまた別な次元の「人間の特性」を発揮します.例えば,俺は金持ちだ,あいつは俺より金が無いはずなのに,俺と同じクルマに乗っている.これは変だ,おかしい,何とかしなければならない・・・.そこで高級車や中級車,普及車などのシリーズが開発されました.これで金持ちもそうでない人もそれなりに満足しました.

 世の中には上手がいます.売るほうも「特性」を発揮します.コピーはこうです.「今年の新型車はこれです.あなたのクルマはもう古いです.この新型車を買えばこれでみんなに差をつけられます」.おなじクルマでも毎年のようにモデルをかえていくやり方あの「モデルチェンジ」です.このやり方のために,本来はその使用限度が来るまで使われるはずの道具が,なんとまだピカピカのうちに捨てられて,次の新型車を求めていくのです.この発明された「モデルチェンジ」ビジネスは,クルマだけではなく,やはり全分野に普及しています.

 クルマは「標準化」という面からも大きな影響を与えたと思います.現在どこの国で作られたクルマを買ってきて,クルマに乗り込み動かせないということはありません.操作系の仕掛けは,みんな同じなのです.国によりハンドルの右左はありますが,ABC(アクセル・ブレーキ・クラッチ)ペダルの位置が違うことは,まずありません.シフトギヤの位置もみんな同じです.その他さまざまなところでクルマは標準化されているのです.これは色んなところに影響を与えました.この標準化という「思想」を守らない製品や方式は,大概は滅びます.だから先に仲間を作って,標準化してしまえばよい(デファクト・スタンダード)ということで,色んな分野で各企業がしのぎを削っているのです.

 クルマに関して「人間の特性」に直接起因することでの負の現象としては,交通事故があります.現在日本では,犠牲者は年間8,000人以下くらいでしょうが,これは大変な数です.自然災害で不幸にも数人の犠牲者が出たら,大騒ぎになるでしょう.人質や拉致問題でも国家レベルで大騒ぎになります.

 しかし交通事故はそうではありません.日常化しすぎてしまい,緊張感が無いのです.人間の特性に「人間は忘れやすい」を追加する必要があります.クルマに関しては,昔よくいわれた「交通戦争」という最前線に依然としているのです.クルマという弾に当たりいつ倒れるか分かりません.その逆になることもありえます.この状況は今でも何ら変わっていません.
 犠牲者は何と残念なことでしょう.

 昔から戦いはありました.・・・戦いのための物資を積んだ荷車がぎしぎしと進みます,それを引く馬も叫び声を上げながら咸陽橋の上を行きます,出征する兵の腰には弓や矢が備わっています.家族や恋人は,行かないでくれと追いすがります.その悲痛な声は雲の上まで届きます.そして必ず戦いに倒れる者がいます.上にあげたのように・・・.

 あるデータによると,その地域で全てのクルマの走行距離の和が100Kmになると重大事故が発生し,10Kmで比較的軽度な事故が発生するということです.「人間の特性」は,クルマの運転に関してはむしろ悪い要素となるでしょう.これは確率論です.なぜでしょうか.

 確かにクルマはある種の能力は増大させるけれど,人間の全ての能力をまんべんなく増大するわけではありません.目で見たり耳で聞いたりする情報収集能力は元のままであり,その情報を分析し判断するの情報処理能力は元の人間と同じなのです.ここがクルマを運転するときの,一つの本質があると思います.

 例えば時速100Km/hで走行中,思いきりブレーキを踏んだら,クルマはどう振舞うかは誰も分かりません.たとえ技術者でも,まっすぐ止まるか,右に曲がってとまるか,左に曲がって止まるか,あるいは転倒するか,全く想像できません.その時の全ての情報があれば演算して解析して見せるという技術者がいるかもしれないが,それはある時間,ある場所での特別な解である.クルマは移動するのでどんどん状況は変化しそれをリアルタイムで挙動を解析することは困難です.人間はそこで経験則を持ち出す.ある程度は対処できるだろうが,見通しのきかない未知の状態にはどう対処すべきか全く分からない.

 つまり人間とクルマとの組み合わせは,システム的に見て「非常にバランスの悪い能力の増大」の仕方です.つまり手足は強いが頭がそれに追いつかないということです.決して運転者の理性が足りないということや知能活動が低いということではなく,車の性能が強力すぎるのです.だいたい1トン以上のものの振舞いを正確に感じて事前に動きを制御することなど,できないことです.

 そして「人間の本質」という理性や知識・常識を「ゆらす」ものがあります.いくら人間が注意しても,確率的にトラブルが発生してもおかしくはないのです.

 また,150年程前の人々と今の人ではそのエネルギー消費量がけた違いに違います.このことは誰もあまり気にも留めないでしょう.しかしクルマを運転するということは,莫大なエネルギーを使います.それはすべて地球に蓄積された過去の資産です.江戸時代後期の日本では,約3000万人が外部との貿易も無い状況で,自足していました.エネルギー源は,薪や炭です.これでやってきたのです.何と「スローな生活」でしょうか.

 電脳法師には,まるで「クルマ-人間」システムが太古の巨大恐竜のような気がします.強大な力で「活動」し,莫大な量のエネルギーを一方的にむさぼりつくし消費する.しかし相対的に情報処理能力は低い・・・.まるで巨大恐竜です.
 そういえば,巨大恐竜は,木に滅ぼされたのではなかったかな・・・.

 巨大恐竜は「総身(そうみ)に知恵が回らない」ので,冒頭に上げた「人間の特性」というものの「特性」をよく認識し,心して運転しなければなりません.  

車に乗った者はみんな,ワタシもアナタもカレもカノジョも,巨大恐竜なのです.

2004.7.25 電脳法師

・・・そして、このクルマのように・・・

 

・・・そうだ、このクルマのように・・・

クルマと恐竜


 あるコンピュータ科学者によると,人間には次のような「特性」があるという.

【1】  人間は,気まぐれである.
【2】  人間は,なまけものである.
【3】  人間は,不注意である.
【4】  人間は,根気がない.
【5】  人間は,単調をきらう.
【6】  人間は,のろまである.
【7】  人間は,論理的思考力が弱い.
【8】  人間は,何をするかわからない.
 本来はコンピュータを研究開発,設計するときの,基本的認識としての人間観です.コンピュータが持つべき機能として,このような人間の「悪いところ」や「弱いところ」を補い支援するということです.電脳法師も開発や設計時,この原点に返って考えたりする場合があります.

 しかしながら電脳法師はこの特性を必ずしも悪いとは思いません.あくまで人間の「特性」であり,そのときの状況(環境,コンテキスト,コンテンツ)に依存するのであって,場合により弱点になったり,別な状況では逆に強みとなるものと考えます.「特性」自体は善でも悪でもない思います.

 人間は2本の足で立つようになってから動物のように自然的な存在ではなく,何か本能から外れた部分があり,それゆえに決して何か適応しない,非妥協的なようなところができてしまいました.そのために,人間だけが文化の創造や文明の構築を行なってきています.

 身近なところでは絵や音楽などの芸術創作活動や,企業での研究開発(R&D)などはその典型的な例です.つまり従来のものを変えるときや新しいことを考えるときこそ,逆説的この非適応的な「人間の特性」がむしろ必要になる,と電脳法師は考えています.

 おそらくクルマは人類史上最も画期的な道具です.電脳法師も,毎日クルマ(自動車)を通勤に利用しています.便利には感じていても,もはや空気のように当たり前になっていています.

 しかし例えば奥只見から桧枝岐への山道などをリズムに乗って走っていると,自分がクルマと共にまわりの万物と一体化してくるような感じになります.まるでクルマ自体が意志をもち,クルマ自身が加速し減速し,左に曲がり右に曲がり,シフトアップ・シフトダウンしているようだ,と錯覚します.これは電脳法師がクルマというものにコミットメント(主体的に傾倒していること)している,という状況です.

 このような「クルマ」と「人間」との関係の原点に立ち返って考えるのも,時には面白いと思います.今回は先ほどあげた「人間の特性」とういう側面から迫ってみましょう.

 クルマの魅力はなんといっても,まずその強力さです.人間より数百から数千倍の能力があります.馬力や速度はライオンを軽く凌ぎます.200馬力のエンジンのクルマとは,単純にいえば(文学的表現では),200頭の馬が引っぱっていることになるわけです.ハンドルを握る目の前に馬が200頭・・・,想像できませんね.走るスピ−ドは軽く時速100Kmを越えます.そのボディ鋼板は象の皮膚より強く,馬よりも重いものを乗せて走ることができます.自重も1トンを越え,その破壊力はときに電柱すらなぎ倒します.

 さらにその道具は誰でも買え,年齢や多少の制限があるにせよ,誰でも利用(運転)できるのです.
 このような道具が過去にあったでしょうか.

 少なくとも中世の宗教的な雰囲気が支配する時代では,まずありえず,そんな神をも凌ぐようなことを考えるだけでも罪でした.聖書や教会の言うことを良くきいて,つつましく生きるのが「中世生活」の基本です.快楽追究,利益追求などももってのほかです.
 日本の中世でも時の権力者が牛に引かせた車はありましたが,力は無く(1牛力),権力の象徴でありしが,ときどき源氏の君をめぐる「車あらそひ」などありて,いと喧しきものなり・・・.

夕顔と牛車