府内城址 |
ぶらり 2013/5/30
府内城は1597年(慶長2年)福原直高(なおたか)により築城が始められ3年後には
一部が完成しましたが、直高の領地没収によって中断、これに代った早川長敏(な
がとし)も1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍(石田三成方)に加担して取り潰
されました。次いで翌年、竹中重利(しげとし)が入封して築城工事を再開、石垣
の築造には熊本藩の加藤清正の援助を受けるなどして1602年(慶長7年)四重の天
守閣がそびえる城郭が完成しました。続いて城下町の建設が始められ、やがて東
西約1.1q、南北約1qにおよぶ豊後最大の規模を誇る府内城下町が出来上がりま
した。
荷揚(にあげ)城とも呼ばれる府内城は、大分川の河口左岸、別府湾に接したかっ
ての「荷落ろし」(交易地)の場所に城地を定めました。荷揚城名の由来は、「落」
の字を忌み、「揚」の字に改めたといわれています。今はその面影はほとんど失
われていますが、府内城と府内城下町は内堀(現存)、中堀、外堀の三つの大きな
堀をもち、北は海に接してまさに水城ともいえる城でした。また、その美しい姿
から白雉(はくち)城と呼ばれています。
城と城下町を完成させた竹中氏は、その後長崎奉行を兼務していた重義(しげよ
し)の時に、非違をとがめられて断絶しました。代って1634年(寛永11年)、壬生
(みぶ)城(栃木県)から日根野吉明(ひねのよしあき)が入封しましたが、あとつぎ
がなく、一代で断絶しました。次いで松平(大給おぎゅう)忠昭(ただあきら)が16
58(万治元)年に新藩主として入封、以来1871年(明治4年)の廃藩置県まで、二
万余石の譜代大名として10代にわたる藩主によって府内藩政が進められまし
た。この間1743年(寛保3年)に城下におこった大火によって、天守閣を始め城の
施設が多く焼失し以後天守閣は再建されませんでした。
1871年(明治4年)11月大分県が成立、翌年城内に県庁が置かれて県政の中枢を担
う場所となりました。1921年(大正10年)に新県庁舎が竣工しましたが、戦後19
62年(昭和37年)県庁舎の移転にともない、1966年(昭和41年)には現在の大分市
文化会館が完成しました。
この年、1945年(昭和20年)の米軍の大分空襲により焼失した五つの櫓も復元(鉄
筋コンクリート製)され、往年の姿を取りもどしました。
城跡は旧状をとどめる堀、土塀、宗門櫓、人質櫓、櫓(天守台)跡が県史跡に指定
され、また城跡公園として市民の憩いの場になっています。
「府内城あんない」(大分市教育委員会)から
大 手 門 |
大手門の傍に立つ大分県道路元標
<道路元標>道路の路線の起点や終点の経過地を表示するための標識のことで、
大正9年に設置されました。明治期に設置されたものについては、里程
元標と呼ばれています。
廊 下 橋 |
松栄神社の場所は、かって山里丸と呼ばれた郭(くるわ)のあった場所です。
山里丸は、茶の湯や能、月見など諸芸能が営まれた特別の場所であり、府内城の
風格を示す貴重に史跡です。
山里丸と西の丸を結ぶ堀の上に架けられていた渡り廊下がこの廊下橋です。山里
丸と同様、他にあまり例を見ない貴重な史跡であることから、平成8年度に復元
しました。
廊下橋の規模
長さ21.7m、幅員3.4m、橋脚高4.6m、檜造り、壁は漆喰塗り、屋根は檜皮葺
きとなっています。
廊下橋全景
冠木門(かぶらぎもん)の礎石
かって西の丸と廊下橋の間には冠木門(柱の上に横木を渡した屋根のない門)
があり、この石はその冠木門の礎石です。