句集*風紋


  俳誌掲載/角川「俳句」2019年6月号から抜粋

                 (上製本函入・丸背)
440☆BOXの読者(このページをご覧になった方)へ「風紋」謹呈
 ご希望者はお届先(住所・氏名)をご記入のうえ郵便切手300円(送料代)を同封されて
下記宛お申し込みください。
  〒870-0891 大分市荏隈町1-14-6 渕野陽鳥

  

     句 集 ☆ 風 紋

  < 序 >





















 金魚*絢子の作品

 
  野 中 亮 介(のなかりょうすけ)略歴
 昭和33年3月30日福岡生。現在も在住。
 昭和53年 「馬酔木」入門。水原秋櫻子に師事。秋櫻子没後は林翔、千代田葛彦、
        杉山岳陽らの指導を仰ぐ。また、藤田湘子より多くの教示をうける。
 昭和62年 「馬酔木」同人。
 平成7年  第10回俳句研究賞・馬酔木賞受賞。
 平成8年  福岡市文学賞受賞。
 平成9年  『風の木』上梓。同著にて第21回俳人協会新人賞受賞。
 平成13年 「馬酔木」の僚誌として「花鶏(あとり)」を創刊主宰する。
 平成24年 倉田紘文理事の後任として公益社団法人俳人協会理事に就任。
 平成26年 読売新聞西部版「よみうり西部俳壇」選者に就任。
 ◇倉田紘文先生のご指名により『現代俳句大辞典』(三省堂)の「倉田紘文」の項
  目、「蕗」の 項目を執筆。
 ◇平成23年、24年には俳人協会新人賞の選考委員を委嘱される。また平成23、
  24、25年度の俳句大賞の選考委員を委嘱される。
 令和3年 句集『つむぎうた』第60回俳人協会賞受賞。
 ◇所属団体学会など
  公益法人俳人協会(前理事)、日本現代詩歌文学館(評議員)、福岡市総合図書
  館(資料委員)、日本近代文学会、 俳文学会、 九州大学日本語文学会、日本文
  芸協会など。
 ◇著書
  句集『風の木』(単著 角川書店)・ 鑑賞読本『俳句こころ遊び』(単著 実業之日
  本社)・『俳句実作入門講座』(共著 角川書店)・『鑑賞 女性俳句の世界』(共著
  角川学芸出版)・『林翔の100句を読む』(共著 飯塚書店)など
 ◇本業 歯科医師(福岡市中央区谷にて開業)
 ◇資格 歯学博士(専門:口腔外科)、博士(比較文学)



 

  俳句雑誌「花鶏」 2020年5.6月号<句集・風紋>特集


 抜粋:「花鶏」2020年5.6月号 44頁.

   

  ときがめ書房 通信第九号 /令和2年9月発行

     ときがめ書房古里叢書に代えて 句集『風紋』 渕野 陽鳥著

 まず、倉田紘文氏のこと。彼は庶民的な俳人の顔を持つが、実際は非常に分かり
にくい俳人であったと思う。いや、早く生まれ過ぎたのかもしれない。飯田龍太氏
の「声ある言葉たち」から、

     高き木の高きを吹きて春の風 倉田紘文
  詩の志とは、ひと眼を忘れて、まず、おのれに忠実になることが第一義。こと
 の大小でも深浅でもなく、把握した内容を水増ししないで、正確に言い止めるこ
 と。
  この句。喬木(たかぎ)を仰ぎ見て、視線に従った詩情の確かさがそれである。
 潤(ほと)ひそめて中天にさゆらぐ木の芽のかがやきは、いわば正直の余慶。
            (『秀句の風姿』飯田龍太著昭62富士見書房刊)

 今日風に言えばドローンに積んだカメラ目線とでもいうのだろうか。それとも服
部土芳(『三冊子』、『蕉翁文集』、『蕉翁句集』著)の「むめちるや糸の光の匂い 土芳」
の「見込み」ての世界だろうか。いずれにしても非凡である。
 この非凡へのアプローチは「いのちのリズム」(大岡信著 平成4河出書房新社刊)から、
  リズムの観念は、私の中ではいつも「宇宙のリズム」という観念とともにある
 ように思われる。そしてそれは、ただちに、「生命現象」という語と結びつく。
 そして、ここでいう「生命現象」とは、単に有機物にのみ見られるものではなく、
 水や空気、鉱物においてさえ見出される一種の宇宙的共振・共滅の謂いだ。
    ・・・中略・・・

 また辻直四郎訳『リグ・ヴェーダ賛歌』(岩波文庫)を掲げている。少し長い又引
きになるけれど、
  一 そのとき(太初において)無もなかりき、有もなかりき、空界もなかりき、
 その上の天もなかりき、何ものか発動せし、いずこに、誰の庇護の下に。深くし
 て測るべからざる水は存在せりや。
  二 そのとき、死もなかりき、不死もなかりき、夜と昼との標識(日月・星辰)
 もなかりき。かの唯一物(中性の根本原理)は、自力により風なく呼吸せり(生
 存の象徴)。これよりほかに何ものも存在せざりき。
  三 太初において、暗黒は暗黒に蔽われたりき。この一切は標識なき水波なり
 き。空虚に蔽われ発現しつつあるもの、かの唯一物は、熱の力により出生せり
 (生命の開始)。
  四 最初に意欲はかの唯一物に現ぜり。こは意(思考力)の第一の種子なりき。
 詩人ら(霊感ある聖仙たち)は熟慮して心に求め、有の親縁(起源)を無に発見
 せり。
  五 彼ら(詩人たち)の縄尺は横に張られたり。下方ありしや、上方ありしや。
 射精者(能動的男性力)ありき、能力(受動的女性力)ありき。自存力(本能、
 女性力)は下に、許容力(男性力)は上に。
  六 誰か正しく知る者ぞ、誰かここに宣言しうる者ぞ、この創造(現象界の出
 現)はいずこより生じ、いずこより[来れる]。神々はこの〔世界の]創造より
 後なり。しからば誰か〔創造者の]いずこより起こりしかを知る者ぞ。
  七 この創造はいずこより起こりしや。そは[誰によりて〕実行せられたりや、
 あるいはまたしからざりや、ーー最高天にありてこの[世界]を監視する者のみ
 実にこれを知る。あるいは彼もまた知らず。
  余計な注釈をつけ加える必要はまったくない。私はひたすら、「自力により風
 なく呼吸」するという「唯一物」を創造する。神々に先立ち、最初に「意欲」を
 みずからのうちに生じさせたものを想像する。まさに、「この創造はいずこより
 起こりしや」?最高天にある者のみが、これを知るだろう。だが、「あるいは彼
 のまた知らず」!なんという晦冥、幽暗な賛歌だろか。・・・中略・・・
  私はリズムを宇宙的な生命現象だと言った。しかし、次のことをも言っておか
 ねばならない。リズムは、私たちに知覚される限りにおいて、美的性質を持った
 快感または不快感を呼び起こすのであって、私たちに知覚されないリズムは、美
 的な性質を帯びない。
  だから、一般的にいって、たとえば諸惑星間の回転周期や奇跡の相違が太陽系
 において生み出している複雑なリズムは、私たちに美的な性質のものとして受け
 とられはしない。
  しかし、数学者にとって、ある曲線は、方程式であるか、またはみごとな物体
 であるかである、というのと同じような意味で、諸惑星が空間に描く軌跡のうち
 に、美的リズムを見出す人間が存在しても、一向に不思議ではない。直後に知覚
 されないのだが。
  すなわち、リズムの中にはきわめて主観的に感じとられるリズムがある。けれ
 ども、その主体性の中には、大きな法則への直観が必ずやともなうであろう。む
 しろその直感が、「主観」を成立させる。
  人間がリズムを創造しうる可能性ならびに根拠が、そこにある。

   (傍線は編者による)
          『提携の魔力』収載「命とリズム」(大岡信著昭62年花神社社刊行)

 傍線部分へと導く術を知らないので、大岡氏に語って頂いた。どうもこれらは魂
と精霊の起源が書かれているらしい。そしてリズムとは詩のことではないだろうか。
 ここでは「主観」について書かれているが、俳句における「客観写生」の中にも
「大きな法則への直感が必ずやともなうであろう」ことも否めない。医師(科学者)
でもいらした素十先生はこのことに気づいておられたにちがいないのである。
 冒頭の「高き木の高さを吹きて春の風 紘文」にも時の移ろいの法則が「把握し
た内容を水増ししないで、正確に言い止め」られた、前述の「客観写生」の粋であ
る。しかしながら、この傾向は地味なうえに分かりにくかったので、筆者も飯田龍
太評に共感を得るまでには時間を要した。
 時に、素十先生のまえで「紅葉谷といふところより人来る 紘文」が披講された
とき紘文氏の驚きはどれほどだったか察するにあまりある。「またですか?」 と
いわれること覚悟でまた書こうと思う。
 挙句には「オ音」と「イ音」が巧みに配置されていて、能楽でシテを呼び出すと
きの掛合そのものなのである。「オ音」で神(または精霊)を呼び出し、「イ音」
で呼びかける。禰宜が神を呼出し、祝詞をささげる息遣いそのものなのである。そ
して素十先生はこの一句に対し、紘文氏に対し、或る直感と予感に撃たれたのでは
なかろうか。
 その予感どおり俳誌としては大成をした。しかしながら、一俳人としての才能が
斯くもコンパクトにまとまってしまうとは想定外だったかもしれない。これはまた
紘文氏の直感がみずからの真の作風が一般化しないだろうことを見抜いていたとも
言える。
 ところが『蕗』誌の中で、素十先生が見込まれた紘文氏の俳風は絶えず底流をな
していた。
 ここに一冊の句集「風紋」がある。先師である倉田紘文先生が<厚い信頼を寄せ
られておられた「花鶏」主宰野中亮介先生に許されて新たな俳句人生を踏み出すこ
とができました。>とあとがきに書かれているように整然とした俳句履歴である。
 これはまた紘文氏の父・倉田素直氏が中塚一碧楼門から素十門へ移られた折り目
正しい経緯を思い出させる。先師が「厚い信頼を寄せられた」俳人(野中先生)とは、
相互なる美しいリズムの共鳴が暗示されてはいないだろうか。
 再び大岡信氏の「いのちのリズム」から。生命現象について「私たちは、規則
的な間をおいて繰返しあらわれる強弱のリズムの起伏の中に、生成から昂揚へ、
昂揚から衰滅と休止へ、そしてまた生成へという、まさに生命的な道程の純粋な
連続を感知するからである。衰滅・休止なしには、新たな生成はない。この事実
の中に、「生命現象」のもっとも基本的な心理がある」
と結ばれている。
 この句集には、或る喪失から再生への細やかな心情の移ろいが「風の精霊」との
対話形式で詠まれ、新たな生成への軌跡が綴られている。

    天命と受け止められぬ落葉かな  陽鳥
    風紋のしがみつきたる薄氷     〃

 御句集から二句。これら「風の精霊」と渕野陽鳥氏の対話そのものであり、正確
に言い止められたこれらの句群は圧巻である。そして「生命現象」の真理をささえ
るのは「愛」というテーゼ。
 野中先生の序に「陽鳥俳句には季語と正面から向かい合った一元俳句が多い。
その姿勢は対峙、という強い姿勢ではなく、耳をすませて花鳥の囁きを丁寧に掬い
取るという雰囲気のものばかりである。心底優しいのだ」という一節がすべてを語
る。今ほど「風の精霊との対話(祈り)」が待たれている時代は嘗てなかったのでは
ないかと思う。人々は乱世を予感しつつ時の勢いに抗しきれないでいる。
 装幀。國枝達也氏(1979年生まれ、多摩美術大学卒業、出版社勤務を経て独立)
は多くの装幀を手掛けている。函、表紙の文字はすべてつや銀の箔押し、函の用紙
は艶消しの光沢紙にランダムな飛沫が下方に散りばめられている。帯、厚めのグラ
シン紙に金春(こんぱる)色のグラデーション(下から上へ)で帯文字の文字色は黒。
表紙、やはりグレーで函同様にランダムナな飛沫が印刷されているが書名は背のみ
で小さく14ポイント程度。格調ある出来ばえといえる。佳き茶室に着慣れた装い
で端座しているというイメージだったのかもしれない。
       (ネット環境があれば「國枝達也□装幀」でHP検索可能)
 『花鶏』5・6月号の編集後記に、「主宰のたっての希望であった渕野陽鳥氏の
「風紋」(角川書店)の特集」と記されていた。隅々まで、リズム(又は誌)の根源
なる素因を湛えた句集「風紋」の出版は、今後の俳句界の動向を菅見するとき、重
要な一石ではなかったかと拝察申し上げている。
 その来るべき時代に向けて岡井省二氏は同胞の士とともに「誌の根源」に敢然と
戦いを挑み、長谷川櫂氏は主宰誌『古志』を大谷氏に譲り作家としてのリーダーシ
ップを目指している。そして紘文氏は作家と主宰のダブルスタンスを選んだが、
2006年『水輪』以降の8年間に句集は編まれていない。
 むしろ主宰誌をはじめ様々なメディアを通して、折々に俳句界に投じた一粒の麦
が、同好の「詩心」を刺激しはじめているのかもしれない。
 最後になりましたが、句集『風紋」のご出版をお祝い申し上げます。
                           原口 章子

  

  
  抜粋:「花鶏」2020年5.6月号 47頁.

 

 河野俊一氏書簡抜粋<2023年1月4日>
 御伴侶への鎮魂の気持ちを込められた句集。心に深くしみわたりました。29ページ
「一言も」では、御伴侶の入院によって一人になった人の孤独さ、切なさが浮き上がり
ます。34ページ「守宮親子」は、一人暮らしになった渕野さんを、気にしていたわる
かのようなヤモリに、心が惹かれます。
 渕野さんの句は、また、のびやかなところが素晴らしいと思いました。56ページの
「向日葵や」のおおらかさに、ほっとさせられます。確かに向日葵は、蕾からそっと思
わせぶりに花を開かせるイメージではなく、初めから取り繕うこともなく、力いっぱい
咲いているイメージです。そこには天真爛漫なさまを感じさせられます。58ページの
「見覚えが」のユーモアも心に残ります。67ページの「大夕焼」のスケールの大きな
情景もまた。71ページの「春風や」にもおおらかさを感じます。春という季節は、少
々の物忘れなど気にさせないのどかさが漂っています。
 112ページの「コンビニに」はおもしろい句だと思いました。昔であれば、郵便局
や銭湯などに貼っていた手配写真が、今はコンビニという時代変化の面白さと、店の外
の熱気と写真の貼られた店内の冷気の対比、そしてその涼しさに居座り続ける犯人の顔
などが絡んで迫ってきます。コンビニを使う若者たちが、関心を持つか試されている状
況もそこには見えます。137ページ「花筏」も、あたかも流れる桜に心があるかのよ
うに。143ページの「腹の中」は、はっとさせられました。果実の果肉は腹の中なの
ですね。だとすれば、石榴や無花果やあけびは、まさにそれを晒しているのですね。
149ページの「切株の」は、太宰の生命的空疎感を連想させるようで面白い句だと思
いました。太宰は好き嫌いが分れる作家ですので、嫌いな人間にとっては作品そのもの
も空洞のような雰囲気で捉えられるかもしれません。

 河野俊一:日本現代詩人会・大分県詩人連盟代表・日本現代詩歌文学館評議員・
     句集『ロンサーフの夜』(土曜美術社賞)・『またあした』など)
              
参考:29ページ 一言も物言はぬ日や枇杷咲けり
    34ページ 守宮親子ひとりの暮らし覗きけり
    56ページ 向日葵や心つくろふこともなく
    58ページ 見覚えがやんまの 方にあるらしき
    67ページ 大夕焼外航船のすれちがふ
    71ページ 春風や立ち上がるたび物忘れ
   112ページ コンビニに手配の写真熱帯夜
   137ページ 花筏人影乗せて止まりけり
   143ページ 腹の内さらけだしたるれい枝かな(注:れい枝→苦瓜)
   149ページ 切株の中は空洞桜桃忌

 

  

   俳誌掲載/角川「俳句」2019年7月号から抜粋
   

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