私のシドニー旅行日記
川上 弘
今回、上越日豪協会の力添えにより、私がこのような楽しい海外旅行ができましたことは、今までにないことでした。10月21日夜、成田を出発しました。
その前に私の自己紹介をさせていただきます。上越自動車学校へ入社し、36年間勤務し、平成9年に退職し、現在にいたっています。退職後、義理の兄(西沢宏一)に、この会への入会を勧められました。素晴らい活動をされておられる事を知り、感銘、入会させて頂きました。会員の皆様の顔ぶれや肩書を知り、ちょっと戸惑いを感じました。それは無知な私が、会員にさしていただいてもお役に立たず終わってしまうのではと思ったからでした。
子供の頃、海水浴に連れて行ってもらった時にうっすらと記憶に残っているのは、現在の平和記念公園の所が、黒い屋根と黒い外壁で東西に川に沿って長い小屋で石炭が積み込まれていたことは思い出されます。そこが捕虜収容所だったことなど子供の自分には、まして直江津まで12kmも離れている所では知る由もなかったし、悲しい事があったことも知りませんでした。平成9年に義兄に勧められ、月二回の英語教室に通わせていただきました。そこで石塚洋子さんに出会い、手助けを受けましたが、アルバイトが入ったり能力も無いと思い、休む事が多くなり何も覚えられずでした。
そこに趣味が功を奏したか、前から写真をやっていましたので、平成10年にモーロングからの訪問団が上越市に来られた時に、微力ながらお手伝いができ、それからお手伝いさせていただくようになり、何度かの行事に参加させていただき、現在にいたっています。今回の旅行の話を聞き、是非参加させていただきたいと近藤芳一さんにお願いしていました。
「今回の旅行は個々で行動して頂きます、シドニー空港からホテルまでは一緒で、後は自分で好きに行動して下さい」
と言われ不安が走りました。がそれでも行きたい気持ちでいっぱいでした。義兄がシドニーは1、2日は連れて歩けるが、と言ってくれましたが、それ以上はと、自信の無い返事でした。
締め切りが来て、参加人員五名でした。それで近藤さんから「人数が少ないのでみんなで一緒に行動します」との連絡か入り、一安心いたしました。10月11日に近藤さん宅で説明会をしていただき、早や気持ちはシドニーでした。21日が待ちどおしくなりました。翌日から準備が始まりました。子供が修学旅行に行くみたいで、自分ながら滑稽に思いながらも、初めての海外旅行の支度をしました。
出発前日には、バッグを開いてあちらの季節は春だから、どんな衣類を持って行くか、出してはまた入れるの繰り返しでした。ようやくバッグにベルトがかかったのは夜でした。出発当日、脇野田駅に全員が揃い、いよいよ旅の始まりです。車中ではシド二一での話で盛り上がり、退屈しないで成田に到着しました。
いよいよ出発時刻のアナウンスが流れ、搭乗口C84と、乗機手続を済ませ、70Bと座席番号も決まりました。(近藤さん、浅野さんからのアドバイス)いよいよ出発ゲートヘ出発。20時45分のQF−022便カンタス・オーストラリア航空出発。私は飛行機が好きで、特に離陸する時のエンジンの加速音が快適に思われるのです。2時間位で機内食が運ばれてきました、時間的には11時が過ぎていますので、眠気の中での食事で、あまりおいしくありませんでした。食事後は間もなく睡眠に入ってしまいました。目が覚めたら外が少し明るくなり、しばらくすると機内アナウンスが入り、窓の眼下は、雲間から見える別世界が現れてきました。しばらくすると、着陸態勢に入るとのアナウンスがあり、気持ちがいっそうわくわくしてきました。その時には上越日豪協会親善訪問と言う気持ちなど全くなく観光気分1OO%です。
着陸。入国手続きを済まして、空港から外のオーストラリアの地をと見渡すと見た顔がありました。ロッド・ヤイツさんが、バスで迎えに来てくれていました。あらかじめ知らされていましたが、異国で知り合いの方に迎えていただけるなんて、ちょっと心が温まる思いでした。みんなバスに乗り込み、シドニーの街へと車が進みました。テレビで見た風景が、次々と目に入ってきます。今晩はロッド氏宅でのパーティです。先ずは、食事の準備です。シドニー・フィッシュ・マーケットヘ行きました。日本では見慣れない魚が所狭しと山と並べてありました。買い込みを済ませロッド氏の家へと向かいました。(彼の家はシドニー郊外でペナントヒイルズ(Pennant
Hills)駅からバスで10分位の所です)家の向いにコアラ・パークがありますので、そこを目当てに行けばよいのです。〈観光ポイントになつています)車窓から見る風景は、テレビやパンフレットで見る有名なオペラハウスが目の前に見えます。車はハーバーブリッジを渡ります。また感激です。(写真No1)車窓から目に入る物すべてが素晴らしく感じている間に到着。40分位走ったと思います。風景に気が取られ時間を忘れていました。まずはひと団楽。近藤さん、阿部さん、浅野さん、西沢さんが懐かしそうに話をされています。言葉の判らない私にも情景が伝わってきます。滞在スケジュール等を伝えました。彼も了解してくれました。
今夜は我々の来豪歓迎パーティがある予定で、名前は判りませんが、5人の方がお見えになりました。我々はうどん打ちから飴めて、なんとか出来上がりまして、みなさんから喜んで食ベていただきました。パーティも楽しく終わり、街のホテルまで送っていただき第1日が終わりました。
2日目シドニーの街の見学に連れて行ってもらいました。見る物、食べる物、全てが初めての物ばかりで、楽しいうちに夕方ロッド宅へ。今夜も歓迎パーティで5、6人の方が見えられましたが、気楽なパーティで、その夜はロッド宅で泊まり、夜が更けるまで話が続きました。
日本を出るとき、これだけの日数をどのように過ごすのだろうかと思っていましたが、あっと言う間に3日目です。今日はブルーマウンテンヘ連れていってもらう予定です。2時間位走りました。壮大な景観、切り立った渓谷、その下から沸き上がって来る霧、スリーシスターズ。ここは、岩にまつわる伝説のある所だそうです。写真を見てください。
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ブルーマウンテンのスリーシスターズ
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シドニーに帰って来たら素晴らしい夜景が見られました。オーストラリアのガイドブックにある写真と同じ景観です。日本のメーカーのネオンも見えました。
4日目、午前7:O8分発の電車でキャンベラヘ移動。電車は4時間の旅でしたが、雄大な草原を走る車窓から見る景色、これまた素晴らしい。春の若草に放牧されている牛、羊等がのどかに草を食べている大パノラマであります。少しずつ変化する風景。いくら見ていてもあきません。キャンベラ駅に11:30分到着。ホームを出ると2人の方が迎えに来て下さっていた。女性の方はカーメル・ライアンさん、男性の方には私は初対面でした。でも、おおらかで初対面と思わせないユーモアのある方で皆をよく笑わせて下さいました。午後は2人の自動車に便乗しての街の見学でした。キャンベラはシドニーよりも気候が寒く、ニセアカシヤの花、フジの花、サツキの花も咲き、日本の5月の陽気でした。オーストラリアの首都であるのに人が少ないように感じました。日本の首都は人でごった返しています。会報11号で紹介がありました奈良公園、オーストラリア戦争記念館。ここには、第2次大戦時の日本海軍エースパイロッド坂井三郎氏がかって操縦した零戦、陸軍隼戦闘機の機体及び八八式高射砲を含む、世界各国からより集めた戦闘機が展示されていました。高齢者から学生まで大勢見学に来ておられました。その他を見学、ショピング街等の案内、夜はホテルで我々一行の為に歓迎パーティを開いていただきました。
ここでも昼間に続き2人の方からお世話をしていただき、フイッシャ・(兼村)ヒ口子(ウチナー(沖縄県)民間大使)、キャンベラの方で日本語ができるマイケル・ホジキン、アン御夫婦、日本の方で金沢さん(現地で先生をされている)、森友紀子さん(学校の助手をされている)その他、名前が覚えられない方が3人。そこでも、多くのオーストラリアの方々にお会いすることが出来ましたが、皆さん、明るくユーモアを持って接して下さいます。そして時間を延長までして、話が弾み本当に楽しいパーティを開いていただき心よりお礼を申し上げたいです。
夜は気持ちのよい眠りにつけました。目覚めて外へ出ると、ホテルの中庭へ日本では見れないいろいろなきれいな小鳥が来ていて素敵でした。10時過ぎまでショピング。昨日下見をしていたお店へ直行。浅野さんからのアドバイスを受けながらお笑いの中の楽しいひとときでした、午後12時15分の電車でシドニーに戻りました。キャンペラに思いを残し去らなければなりません。また昨日のお二人が迎えに来て下さいました。昼食を済ませ、駅へ。二日間の心温まるおもてなしに、別れの寂しささえ感じました。電車が走り出しても、しばらく手を振り別れを惜しんで下さっていた姿が目に浮かびます。親切は、受けた方も、された方も気持ちが良くなければ親切とは言えないです。遠く7840km離れ言葉も習慣も異なり、また過去の問題もあった人達がこのように友情で結ばれている。本当に素晴らしい事で、このような実績を築かれた先輩諸氏に感服致します。またも思い掛けのない親切でした。ロッドさんです。打ち合わせもしていないのに、シドニーに着いたら駅に迎えに来ていらっしゃるのです。私が先に見つけたら、口に指をつけ話すなと言っているのです。皆をおどかすつもりだったのでしょう。返してあると思っていたレンタカーを返さず、我々のためにストックし、そして駅まで迎えに。またその夜は、ロッドさんの所でお世話になることに話が決まりそこへ直行。
6日目ロッドが農場があるから見せると言うことで出かけました。家から10分位の所にある
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シドニーのダウンタウンにある
クイーンビクトリアビルディング
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1町歩位の畑に果実の木が植えてあり、いろいろ夢のある説明をしてくれました。またホテルまで送ってくれました。その後2日間は街を見て歩きました。素敵な所が多くありましたが、タウンホール駅の近くにあったクイーンビクトリア・ビルデイグ。有名なショピングビルで、中も風格のある素敵なお店が並んでいます,あのような所で買い物をすると一寸リッチな気分になります。あっと言う間の1週間でした。最後の夜はロッドさんを呼んでお別れ夕食会。今回の旅行で彼に心からの接待を受けたことに皆さんも感謝されたことと思います。帰る夜7時30分ホテルを出る時にまたもロッドさんが見送りに来て下さいました。最後の最後まで心を尽くして下さったこのお礼をどのように表したらよいのか言葉のできない自分にはがゆく思われますが、この文章を通じて私の気持ちが伝われば幸いと思います。別れを惜しみながら握手で車に乗り込み、発車後もお互いが闇夜に消えるまで手を振っていました。これで我々の1週間のシド二一旅行も終わりです。思い出に持ち帰った土産はいっばいです。皆様にお会いできるときには、写真をたくさん撮影して来ましたので見ていただきます。
拙い文章ですが気持ちをくんで目を通していただければ幸いです。
10月24日
浅野 幸雄
ホテルからロッドの家まで行く日であった。まず、キングスクロス駅から電車でタウンホールへ。そこでモノレールに乗ったり街を散策した後、セントラル駅でペナントヒルズへ行く電車に乗り換えた。セントラル駅では以外に電車の接続が悪く、40分待った後、電車に乗り込んだ。13時50分発、クインスビー行き。
10分ほどで郊外に出た。春の盛りの、日本で言えば5月中旬頃の、やや強い日差しの中をジャカランダ、パームトゥリー、ユーカリを背景としたオーストラリアらしい景色を見ながら電車は進んだ。装いを凝らした小さな駅に停まる度に数人の乗客が入れ替わった。単調なリズムと窓ガラスを通す優しい光の中で、私はすっかり夢見心地になっていた。40分ほどで電車はペナントヒルズに到着した。
ペナントヒルズでバスに乗り換える。ここでも40分ほどの待ち時間があった。駅前にちょっとした広場があり、その端にバス乗り場が並んでいた。ベンチでバスを待つ。これから最高の季節になるという予感を含んだ風が、駅のそばの樫の木の葉をふるわせる。遠くで鳥が鳴いている。道路を走るトラックの音が後ろから聞こえてくる。バスを待つ人たちは静かにベンチにすわっている。ゆったりと流れる時間が私を包み込み、いつまでもいつまでもこの時間が続いてほしいと心から感じた。私の感覚がオーストラリアの空気と一体になった至福の時。
そして、とうとうバスが来た。
二千年再度の訪豪
西沢 宏一
9月8日、オーストラリアから帰国して10月、再度の訪問は一寸キツい思いがありました。義弟の川上弘さんの熱望がありましたが、二人での1週間はまったく自信がありませんでした。近藤さんが、
「少人数なので君たちの面倒は見るよ」
の一言で決まりとなりました。
成田までの道中、浅野さんが行くか、行かざるか迷い、迷って今に至るというのを聞いてオヤ、マア、似た様な思いをと一寸びっくり。それも成田に着き、飛行機に乗り込んでしまえばそんなの遠いかなたへふっとんでしまった。
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シドニー到着後最初に訪れた公園から見る
ハーバーブリッジとオペラハウス
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到着日は私だけがロッドさん宅で泊まり、四人はシドニーへ引き返しました。ロッドさんと蜂駆除の仕事に二日ついてゆきました。すごい体験がありました。その内の一つ。公園の柵の杭に五、六十センチほどの見事なミツバチの集団がありました。色、艶が鮮やかで、今までの蜂とは違って見えました。煙を一寸吹きかけ、集団の一部をロッドさんがそっとすくい取る様にして私に手渡してくれました。私の右手にはびっしりと集団がまつわりつきました。ほの暖かく、その波動が心地よく、何とも言えぬ心地よさでした。その集団は持ち帰り、ロッドさんの巣箱へと誘導されました。今頃は盛夏、セッセと蜜を集めていることでしょう。
前回9月、ピクニックにドライブに市内の案内にと、大変なご親切をいただいたクックさんにロッド宅でのパーティーの時、
「また来たね。おまえはオーストラリアがそんなに好きか」
と尋ねられました。その後、キャンベラでの歓迎パーティーでの自己紹介で云いました。「貴国は雄大で、風景も良く、人々は親切で暖かくおおらか、何よりも心の豊かな人々だから」
初めはほんのチョッピリたどたどしい英語で、あとはすぐ流暢な日本語で私のスピーチは終わりました。
二度と味わうことの出来ない後先九日の素敵な旅でした。
近藤さん、お世話様でした。浅野さんにはよい言葉をいただきました。阿部先生、ホテルで、またその後にも色々有り難うございました。川上さん、よかったですね。こんなすばらしい思い出作りは二度と出来ないと思いますよ。石塚さん、後先のこと、ご配慮有り難うございました。協会の皆様、有り難うございました。
私の英会話の勉強を通じて、人生の最高の喜びである人々との出会い、それがありました。
日豪協会の皆様、オーストラリアの人々、それにつけてももう少し英会話出来たらなー。誰かがいいます。それはおまえの努力と才能の足らざるゆえんだ。解っています。承知しています。でも英語との付き合い、止める心つもりは今のところありません。皆様、何卒、今後のご指導を賜わらんことを。
シドニーの我が家に帰って
近藤 芳一
友人が住む国を訪問する旅ほど楽しいものはない。そして、その友人と語り合うことは旅の醍醐味である。そんな充実した時間をシドニーで過ごした。
10月22日朝、シドニー空港到着後、ロッドが運転するミニバスで私が「オーストラリアンホーム」と呼ぶ彼の家へ向かう。この日は私たちのためにパーティーが予定されていて、お客様が数名来ることになっていた。パーティーと言っても特に決まった開始時間があるわけでなく、また誰が、いつ来るのかさえわからない。夜行便で眠れず、睡眠不足の私は初日から初対面の人たちと会うのをおっくうに感じた。
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シドニーの我が家の真ん前はコアラパークだ。
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午後、最初に現れたのは陶芸家のボブ。2年前に初めて会ったたいへんな親日家で、自邸を三田ホテルと呼んで日本からの来訪者に開放している。彼の住むルーラと兵庫県三田市とは姉妹都市である。再会を喜び、しばし彼が話す陶芸談を聞く。
次に来たのははっぴを羽織ったラッセルと友人のモニカ。モニカはオーストリア人で、ロンドンでドイツ語を教えているときにラッセルと出会い、3ヶ月の休暇としてオーストラリアに滞在しているとのこと。彼女とは話が弾んだ。お互い共通する点--オーストラリアでは外国人であること、英語が母語でないこと、友人を訪ねる旅がいかに楽しいかを知っていること--が多いからだろう。上越市と彼女の国のリリエンフェルドとは姉妹都市であると教えると、彼女は驚き、母国に帰ったらその町を訪れましょう、と言った。
ラッセルは建築に興味があるようだ。現在、自邸を建築中とのこと。彼も世界を回る旅人である。訪問国が持つ文化とオーストラリアのそれとを常に比較し、現在のオーストラリアには満足できずにいる様子。この点ではロッドも同じで、なぜロッドが彼を招待したかわかる気がする。建築中の家を見に来なさい、と言ってくれたが、その約束は果たせずに終わった。
ブラジル音楽ディスクジョッキーのアレンとブティックを経営する彼の妻、リーが現れた。リーは身長は高くはないが大変な美人で、いつも口元にほほえみを絶やさない。こんな美人と直接言葉を交わせるなんて、と心なしか少し緊張。私たちの旅程についてアドバイスをくれた。
少し遅れて来たのは、2000年3月に父親と来日したゲールと夫のジムだ。彼女に対する私の印象はすこぶる良い。ゲールは上越滞在中に私たちが開いた覚真寺対話集会で私を大いに感激させたのだ。
「私は小さいころから父が日本で捕虜だったことを知っています。しかし、父は日本人を憎むように私を育てはしませんでした。そのことに感謝しています。」
この言葉に感激し、涙した私に、彼女は後で開かれたレセプションでにこにこしながら言った。
「ヨシが動揺するようなことはもう言わないから。」
そんなゲールと再会した。嬉しかった。
マッコーリー大学の日本語教師であったリカが来た。パラリンピックボランティアとして働く彼女は意外と古風な印象を与えるが、根は強そうだ。
最後に現れたのは、ジェニーとジョン夫妻と子供達である。パラリンピック観戦後、私たちに会いに来てくれたのだ。長男のアンソニーはずいぶんと大人になり、しっかりした口調で挨拶した。一方、次男のマイケルはあちこち駆け回り、ジェニーはその後を息を切らせて追いかける。小さい子を持つ親はどこも同じだな、と我が身を省みながらほほえんだ。
ロッド、ゲール、ジェニー、また翌日来られたクック夫妻とは上越で会って以来、半年ぶりの再会を今度はシドニーで果たした。交流を続ける意義はここにあるのだろう。お互いを良く知り、友人になる。国が違っても、言葉や習慣が違っても、まして親や自分自身がひどい体験を受けていても友人になれるのだ。ロッドは自邸を建て、こうして私たちが集い、滞在できる場所を提供してくれる。ジェニーやゲール、クック夫妻は私たちに会いに来てくれる。彼らはオーストラリアに住む私たちの家族であり、ロッドの家は私たちの家でもある。そんな人たちと会い、語り、食事をともにして、私は家に帰ってきたことを実感した。
思い出のシドニー・オーストラリア
阿部 寿郎
感動的な記念式典が平和記念公園で行われた1995年(平成7年)に、現在の上越日豪協会の前身である「直江津捕虜収容所の平和友好記念像を建てる会」(略称「建てる会」)に入会した私は、その後何回かオーストラリアへ行く機会があったにもかかわらず、その都度、病気その他様々な事情で実現できなかった。今年(2000年)の3月に12人の懐かしいオーストラリアの方々をお迎えし、今年こそはぜひオーストラリアへ行きたいと思っていた矢先に、近藤芳一さんが企画された「我流オーストラリアへの旅」を知り、喜んで参加させていただいた。10月下旬の1週間という短期間ではあったが、5人の仲間の1人としてオーストラリアのすばらしさを味わい、人々の暖かい心への感動と感謝の1週間であった。
●ロッドさんのこと
今回の旅行で最もお世話になったのは Rod Yatesさんである。私ども5人のために自宅を提供し、シドニー空港への出迎えから始まってレンタカーのワゴンで様々な場所へ私どもを案内してくれたり、食事の支度から何から何まで、とにかく驚きと感謝の連続であった。
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ハイドパークにある
キャプテン・クック像
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私どももロッドさんや私たちを歓迎するために来られたお客さんたちのために、西沢料理長を中心に、うどんやライスカレー作りなどに大奮闘であった。日本から持参した西沢商店秘伝のたれと、豪州産の小麦粉で作ったうどんは絶妙なハーモニーでこの上なく美味であった。
ロッドさんの家は話には聞いていたが家の中にドイツの名車メッサーシュミットが鎮座していたり、キッチンの床を3,40センチもあるトカゲが走り回ったりしていて、さすがに想像以上だった。でもそれだけに気楽で、楽しく過ごすことができたことを感謝している。
●クックさん宅でのホームステイ
ご主人のジョンさんは95年の記念式典に奥さんのテリーさんと息子のジョンさんの3人で来日されている。その後私はEメール等で文通しているので、旅行前にEメールで今回の旅行中にお会いできるかどうか尋ねたところ、1晩泊まりで家へいらっしゃいというご招待をいただいた。その日は近藤さんたちはブルーマウンテン観光に行くことになっていたので、クックさんのお宅へは私1人でお邪魔したわけである。
クックさんのお宅はシドニー空港の近く(と言っても10km以上離れているが)の
Malabarというところにある。海岸近くの閑静な住宅街にある2階建てのきれいなお宅だった。3人の息子さんと2人の娘さんたちはすべてそれぞれ家庭を持ち、お孫さんが10数人おられるそうで、お2人が子供さんやお孫さんのことを楽しそうに話される様子が印象的であった。
クックさんとはEメールで文通しているので、どのようなパソコンを使っているのか興味があったので見せてもらったこと,しかもそれを使わせてもらって石塚洋子さんにローマ字でEメールを送ったこと、奥さんに頼んでキッチンを使わせてもらって、「大草原の小さな牛」(a
little cow in the prairie)という奇妙な名前の、私のお得意料理を作って驚かせるとともに大変喜ばれたことなどなど、楽しい思い出である。
翌日の朝7時、シドニーのセントラルステーションからキャンベラ行きの特急列車に乗っての、楽しく印象深いキャンベラへの2日間の旅と、最後の2日間、乗り放題の観光バスでのシドニー市内一人旅については、次回にお伝えしたい。(続く)
直江津の友人、来訪す
ロッド・ヤイツ
あんた方はとっても楽しい輩だ。私の家にやってきて、台所を「ひっくり返し」、うどんを料理し、写真を撮り、みんなでたくさん食べた。消化するのに1週間もかかるほど。遠出もしたが、「ブッシュ(奥地)」まで連れ出す機会はなかった。
西沢さんのように起こっていること何にでも飛びつく性格はいい。例えば、養蜂の仕事を手伝ってくれたときや、古いランドローバー(ロッドの仕事用に使うピックアップトラック)に乗ってあちこちまわったときのように。
唯一、私が困っているのは、うどんのレシピを見つけられないことだ。紙に書き留めたが、だれかが持っていってしまった。しょうがないので自分なりのやり方でうどんを打つ。弟子(西沢さんのこと)が戻ってくるまではこのままだ。
英語を勉強したり、私に日本語を教えてくれる人を何人かこちらに送って欲しい。仕事はいっぱいある。
洋子さんと2001年末までに日本語をしゃべれるようになってみせる、と約束したんだ。だから、だれか、助けて(日本語を教えて)。
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