テーマ:国際交流ボランティアに語学は必要か?


1.国際交流ボランティアに語学は必要か?
2.国際交流の実例
3.国際交流ボランティアは語学のできる人だけのものか?
4.国際交流ボランティアの成果
5.国際交流の失敗例


1.国際交流ボランティアに語学は必要か?
●上越日豪協会設立準備会での山本先生の講演
私の所属する上越日豪協会は1996年に発足しました。その設立準備会に上越教育大学の山本友和先生をお招きし、オーストラリアとの交流について語っていただきました。先生の講演は大変手厳しく、これから協会を設立しようとする私たちに冷や水を浴びせるような内容でした。

曰わく、国際交流は大変である。日本人と付き合うのと同じように考えてはならない。オーストラリア人と日本人では、話す言葉が違う。習慣、宗教が違う。そういう人たちとうまく付き合っていくのは至難の業である、と。

山本先生の言われるとおり、国際交流には、楽しいことがありますが、困難なことも多いようです。交流していく上で、まず遭遇するのは言葉の問題でしょう。また、習慣や考え方の違いも問題になります。

本日、私は言葉の問題を中心に据えてお話したいと思います。なぜなら、国際交流をする上で言葉は基本的かつ必須だと考えるからです。
まず、皆さんのご意見をお聞きしましょう。国際交流ボランティアに語学は必要でしょうか。語学は必要であると言う方は手を挙げて下さい。理由は。必要ではないと言う方は。理由は。

●「語学不要論」への反論
私はこのボランティアアカデミーを受講する前まで、国際交流に語学は必須だと考えました。しかし、今はそれも条件による、と思うようになりました。例えば、前回、川室さんの事例のように、日本に永住する外国人妻と接するときは日本語で話すのがよいでしょう。「内なる国際化」のためには日本語で交流するのは正しい姿勢だと思います。

一方、「外に向かう国際化」の場合はどうでしょうか。やはり語学は必須だと考えます。私たち上越日豪協会はオーストラリアから来た人たちを受け入れるときもあれば、こちらから出かけて受け入れてもらうときもあります。また、同じ人、または家族と長い間交流します。このような環境においてはやはり英語の知識は不可欠です。

「語学不要論」を唱える方はよくこのようなことを言われます。同じ人間だから情熱があれば通じる、とか、ジェスチャー等の非言語要素でなんとかなると。

私たちが生きていく上で空気や水が不可欠なように、ボランティア活動においても情熱は不可欠です。また、言葉は食事と同じくらい重要なものです。情熱と言葉は車の両輪で、どちらか一方があれば事足りるというものではありません。

例えば、「世界から原爆を無くしたい」と思い続けていさえすれば原爆はなくなるのでしょうか。答は否です。情熱は大変重要ですが、それ以上に大切なのは実際に言葉を発し、相手にこちらの意図を分からせる行動を起こすことです。沈黙の情熱だけでは何も変わりませんし、何も伝わりません。相手にこちらの考えを理解させ、こちらも相手を理解し、その上でどのような行動を起こすかを考えるべきです。

ジェスチャーについて。
日本のような単一民族国家で、「暗黙の了解」を多く共有している日本人同士の間ではジェスチャーで通じる部分は多いかもしれません。しかし、日本人とアメリカ人との間ではどれだけジェスチャーで通じるのでしょうか。これから私たちは国際交流をするのです。外国の人たちに日本流のジェスチャーは通じるのか、と常に考えるべきでしょう。日本の常識は世界の非常識だと言われますが、それくらいの気持ちで臨む方が良いかもしれません。

例えば、日本人は「こっちへ来て」の意味で掌を下にして振りますが、これは英語圏では「あっちへ行け」と言うまったく逆の意味です。掌を上にしないと「こっちへ来て」の意味にはなりません。

日本人は自分のことをあらわすのに、人差し指で鼻を指します。しかし、欧米人は親指で胸を指すのが普通です。また、最近の若い人はものを指し示す時、なぜか中指を立てることがあります。これは英語圏では大変卑猥なことを意味するジェスチャーで、もしアメリカ人に向かってこれをしたら、と思うと冷や汗ものです。

言葉なしでも伝わることはあるかもしれません。しかし、私たち日本人同士でさえ、言葉不足で誤解を生じるのです。ましてや、考え方、表現の仕方が異なる外国の人たちとではなおさらではないでしょうか。

●深いつきあいをするなら必須
言葉の必要性はどれだけ深く国際交流ボランティアに関わるかによります。例えば、玄関でお決まりの挨拶をして別れるような交流であればさほど言葉は必要ではありません。決まり文句を並べるだけですみます。一方、玄関から奥座敷へ通し、ゆっくり座って話す時、言葉は不可欠です。要は皆さんがどの程度のボランティア活動を考えているかによります。

交流が深くなればなるほど、言葉は必要になります。また、摩擦も生まれるかもしれません。摩擦は大変やっかいなものであると同時にすばらしい可能性も秘めています。目から鱗が落ちるような経験をすることも少なくありません。私はこの摩擦こそ国際交流の魅力だと思います。

以降、私の体験をお話ししながら、国際交流ボランティアが直面するであろう問題点について考えてみます。


2.国際交流の実例
●平和記念公園にあるふたつの碑(考え方の違い)
まず、日豪の異なる考え方の例をお話しします。
直江津に覚真寺と言うお寺があります。戦時中、どのお寺も引き受けようとしなかったオーストラリア兵の遺灰を密かに安置し、お祈りを捧げ、大変感謝されました。その寺の一角に碑が建っており、それには先代の住職が言われたと言う言葉が刻んであります。

「死者に敵も味方もありゃせん」

よけいな説明はなくとも、これだけで充分私たちは理解できます気がします。
22一方、平和記念公園には日豪それぞれの慰霊碑があります。当初の計画ではひとつの碑に両国戦没者の銘板を埋める予定でした。なぜ別々になったのでしょうか。私は実際この件には関与しておりませんが、理由を記した元捕虜の方の手紙を読んだことがあります。

もし、日本側戦没者が兵士として戦死されたのなら同じ碑で良し。しかし、彼らは捕虜に関する国際法を無視し、そのため東京裁判で有罪を受け処刑された人たちである。故に、彼らと同じ碑で顕彰されるのは反対であると。

この例のように私たち日本人は感情的に納得できればそれでよし、とする傾向にあるようです。理由はさほど重要ではなく、論理的であることは時として無粋であるとさえ考えられます。一方、オーストラリア人は感情的なものより、論理的であることを優先します。物事が感情的であろうがなかろうが、裏にある理由が重要なのです。

同じ戦没者に対して、日豪ではまったく別の考えがあったのです。

●短期ホームステイの例(言葉が通じないストレス)
次に短期ホームステイの例をお話し、どこまで日本語のみで押し通すべきか考えてみます。

98年の4月、小中学生を含む12名のオーストラリア人が、3週間のホームステイプログラムの一環として当地を訪れました。上越ではわずか2泊3日の短い滞在で、我が家には初来日した園芸家の女性が来られました。大変話好きな女性で歓迎会から帰り寝るまでの間、彼女といろいろな話をしました。

それまでの彼女のホストファミリーはあまり英語を話さず、日本の生活、習慣も理解できぬまま10日ほどを過ごしたそうです。かなりストレスが溜まっていたのか、それを振り払うように話しに話しました。翌日の夕食には友人を招き我が家でパーティーを催しましたが、その席でもまるで機関銃のようにしゃべりまくり友人たちを驚かせました。

ホームステイの意義は、外国からの人を客としてではなく、家族の一員として受け入れ、訪問国の普通の生活を体験することにあります。「郷に入りては郷に従え」と言いますが、だからといってすべての面で日本流を相手に強要するのは酷です。まして、異なる習慣に慣れる時間もない短期滞在の時はなおさらです。

習慣が異なる外国で言葉が通じないと言うことはかなりのストレスを与え、精神を不安定な状態に陥れます。言葉のような根本的なことで、譲歩できるなら譲歩し、相手の言葉に合わせても良いのではないでしょうか。日本語ではなく外国語で会話をしたからと言って、日本のホームステイ体験が台無しになるはずはありません。相手の言葉を話すことで訪問者のストレスが少なくなり、私たちの習慣をより良く理解してもらえるのならむしろ良いことだと思います。

3週間ほどのホームステイならいざ知らず、これが1年以上の長期滞在なら関係者のご苦労は並大抵のものではないでしょう。この場合も話し合うこと、すなわち、言葉が大切なことは短期ホームステイの時と変わらないと思います。次回のテーマはホームステイに関することですので、それを期待する事にしましょう。

●定型業務ボランティア(言葉はさほど重要ではない)
国際交流ボランティアでも決まった仕事をするのであれば、さほど言葉の必要はありません。しかし、個人的に余暇を楽しむためには、やはり言葉は必要です。

私は今年の長野オリンピックにボランティアとして参加しました。配置先は国際放送センターの外にある資格認定センターです。ここには日本の内外から集まったたくさんの語学にたんのうなボランティアがおり、プロの通訳も配置されていました。
ここでの仕事はコンピュータを利用して資格認定証を発行することです。決まり切った簡単な会話ができれば仕事には支障ありません。

まず、相手のパスポートか運転免許証を受け取り、氏名、生年月日、国籍等を手元のコンピュータで検索し、登録されているデータと照合します。問題がなければ認定証を発行し、ホログラムシールを貼り、袋に密封して渡します。尋ねる質問は決まっていますのでたいした語学力を必要とするわけではありません。

しかし、ひとたび問題が起こるとやっかいです。ごり押しをして中へ入ろうとする人や、自分を特定の放送会社へ売り込みに来る人は意外に多く、そのたびに国際放送センター内の関係者と連絡を取り対処しました。これには認定証を発行する時以上の語学力が要求されました。

さて、今回のボランティアでの一番の楽しみは世界中から集まった人たちとの雑談です。ボランティアは言うに及ばず、ジャーナリスト、カメラマンやゲストとして呼ばれる著名人、また、公式機材納入業者として海外から派遣されて来た人たちと直接お話しできるのです。資格認定作業の合間を利用して雑談に興じました。言葉が通じればこんな楽しみもあることを心に留めて下さい。


3.国際交流ボランティアは語学のできる人だけのものか?
●上越日豪協会の例(英語のできる人は少数)
これまで述べてきたように語学は必要ですが、では語学のできない人は国際交流ボランティアに参加できないのでしょうか。

私の所属する上越日豪協会の役員は約40名で、そのうち英語を話せる者は少数派です。協会の運営、催し物の企画は語学力のあるなしに関わらず役員が共同で当たります。ただ、対オーストラリアに関してはやはり語学力がものを言います。しかし、協会の催しという観点から見ると英語を話せる人は通訳という脇役、または便利屋さんを演じることが多いようです。もちろん、大変重要な脇役ですが。

96年に協会員22名でオーストラリアを訪問しました。前年の平和記念公園開園式に参加されたオーストラリアの方々とシドニーで再会するためです。参加された方の中には英語のできない方もたくさんおられ、3〜4人で通訳を務めました。

旅行2日目、日豪参加者約50名はシドニー湾クルーズを楽しみました。乗船後、挨拶をしたり、1年前の話に花が咲いたり。日本側が用意したお土産を配りましたがその間、英語の話せる者は付きっきりで通訳に当たりました。ようやく自分の時間を持て、参加者のひとりと会話を楽しんだのはクルーズも終わりに近づいた時でした。それゆえ、参加者が言われていた雨に煙る対岸の美しい風景は私の記憶になく、とにかく通訳で忙しかったクルーズというのが印象です。

夕方のパーティーでは何名かがスピーチをされました。再び、日英・英日通訳は私たちの仕事です。スピーチが終わり、各テーブルでは食事とともに話が弾みます。この時は私も自分の席で料理を楽しみましたが、時々声をかけられ別のテーブルへ出かけました。ちょっとした通訳を終えて戻って来た時には、勤勉なウエイターのためか、もう私のデザートやコーヒーはなくなっていたのです。

私たちはこの旅では通訳という脇役に徹しました。スピーチをする人が主役です。つくづく、英語を話せるというのは損なことだな、と感じた旅でもありました。この場合、語学はできない方が旅をより楽しむことができたかもしれません。

●直に接するボランティアと語学学習のすすめ
国際交流ボランティアは語学の知識がなくても参加できます。しかし、前にも申しましたが、国際交流の醍醐味は外国から来た人たちと直に接することにあります。交際の濃度を上げたいと思うなら語学の知識は必須ですし、私は強く語学を学ぶことをおすすめします。

語学ができないから、と後込みされている人に伝えたいのはとにかく一度、国際交流ボランティアに参加して下さい、と言うことです。おもしろくない、と感じるのであれば仕方ありませんが、少しでも交流が楽しいと感じるのならぜひ続けて下さい。ボランティア回数を重ね、交流が深くなり、異国に友達ができるようになれば、きっと自分のことを、上越のことを、この国のことを伝えたいと思うはずです。そうすれば自然に語学講座や教室に足が向くようになるでしょう。何かを相手に伝えたいと言う具体的な目標があれば言葉の上達も早いものです。

ボランティアの利点は人的ネットワークが広がる、と言うことだと思いますが、語学を学ぶために講座に参加されればそこでもネットワークが広がります。共通の目標に向かってものを学ぶとき、そこには学習者同士の共通項が存在します。年齢、性別、国籍を越えた親しい友人もできるでしょう。新しいボランティアの話も出るかもしれません。私は語学講座に通う中で人脈を作り、それを通して情報を知り、国際交流ボランティアへ入りました。

日豪協会ではそのような機会を与えるために、ふたつの英語講座を開催しています。受講生の中には私たちの会員も含まれています。彼らはこれまで国際交流を経験し、語学の必要性を実感されて講座に参加された人たちです。

また、上越日豪協会の役員で石塚洋子さんという方がおられます。毎年オーストラリアを訪問され、今年も8月に3週間のホームステイをし、つい先日も宮越市長に同行し訪豪しました。彼女は50才代で英語学習を始め、現在60代後半ですが、自分の用事は自分でこなすほどの英語力を身に付けておられます。ご主人は日豪協会の会長で、オーストラリアでは幾度となくスピーチをされました。彼は日本語で話し、奥さんが英語の通訳をされるという、熟年円満夫婦を地でいく活躍をされております。遅く語学学習を始めても、やる気次第ではものになるという良い例ではないでしょうか。


4.国際交流ボランティアの成果
●我が友、Rod Yates
 さて、私の経験から言いいますと一番語学力を必要とするのは、ボランティアの仕事をする時ではありません。ボランティアを通して知り合い、その後交流を続ける場合だと思います。これまでのオーストラリアとの交流を通して知り合い、今では友人となったRod Yatesと言うオーストラリア人についてです。

彼の父親は直江津捕虜収容所の捕虜でした。収容所時代、父親は満足な待遇も与えられなかったにもかかわらず、息子Rodには日本の良い面をたくさん伝えました。雅楽、社寺建築、焼き物、等々。教師であった父親の影響もあり、彼は小学校の美術教師になりましたが、その後、養蜂家に転じます。現在はそれに加えボブキャットと言う重機を所有して掘削・根切り業、また蜂蜜を海外に輸出する貿易商を生業にする大変多才な人物です。また、建築家でもあります。建物を自然にとけ込ませるため、敷地の斜面を利用して建物の大部分を地面に埋め込むスタイルを得意としております。また、自邸を設計し、現在ほぼひとりで建築中です。2年前に着工しましたが、工事をしながら詳細を詰めていくため完成はいつになるかわからないとのこと。私の建築士という仕事と共通する話題も多くあります。

95年、Rodは平和記念公園開園式に参加する32名のオーストラリア訪日団の一員として来日しました。東京から直江津まで案内するボランティアとして成田空港で出迎えた私と、そこで初対面の挨拶をしたのです。直江津滞在中はさほど目立つ存在ではありません。しかし、この地を去る日、他の人は上越新幹線に乗るために長岡方面のホームに向かったのに対し、彼だけは長年の夢であった飛騨高山の合掌造りを見るためひとり、富山行きの電車に乗ったのでした。

私たちの交流が頻繁になったのは、先ほど話しました96年の訪豪の直前です。インターネット経由で電子メールが届いたのをきっかけに私たちのメール交換が始まりました。

96年の訪豪に際して、彼は前年受けた上越でのもてなしに報いるため、パーティーを開くレストランを確保、予約し、いかに私たちを楽しませるかに心を砕き、私たちにお土産まで用意したのです。私たちがシドニーに到着した後も自分の車で市内を夜遅くまで案内してくれました。

去年、5名でオーストラリアを訪問した際には、仕事を休み、1週間も私たちに付き合ってくれました。自ら運転主役をかい、シドニー・カウラ間片道約500キロを往復したのです。

この旅では気の向くままにいろいろな場所で道草をし、オーストラリアの広大な大地の魅力をたんのうしました。例えば、カンガルーやウォンバットがいたと言っては車を止め、動物たちを探しました。途中のスーパーで食料を調達し、川辺で火を起こしラム肉のバーベキューを楽しんだり。また、日本人はめったに行かないと言う鍾乳洞に寄り、2時間もある内部観察ツアーに参加しました。ほとんどゴーストタウンのような小さな町を訪れ、散策したこともあります。

帰国後もメールを通してお互いの国を語り、日豪の良い点悪い点を再認識しました。日豪建築論を戦わせたこともあります。オーストラリアへ移住して一緒にビジネスを立ち上げよう、と言われたこともありました。ちなみに、現在彼は日本へ蜂蜜を輸出しようと奮闘していますが、たったひとりの日本事務所員は私です。彼の蜂蜜日本輸出計画は今のところ目立った成果もないままです。しかし、私は貿易に少し関わり、いかに日本には非関税障壁が多いか、と言うことを発見し、自分の国をより良く知る機会になりました。彼と出会わなければ、また、国際交流ボランティアを経験しなければ、貿易に関係することは決してなかっただろうと思います。

私はこれまでも海外へは良く出かけました。しかし、彼との交流を通して、ガイドブックに頼る旅やパック旅行がいかにあじけないかと言うことを知りました。最近、私が行くのはもっぱらオーストラリアです。その国が持つ魅力もさることながら、私にとっての一番の魅力はそこに住む友人です。彼らに会うために出かけると言っても過言ではありません。

冒頭にお話した上教大の山本先生はオーストラリア人と友人関係になった時の挨拶は、"G'day, mate."になる、と言われましたが、今の私たちの関係はまさにそれです。皆さんも国際交流ボランティアを通してこのような、また、これ以上の経験をしてみませんか。

●HOMEPAGE PROJECT
 8月に「ささやかな国際交流のぺえじ」と言うホームページを開設しました。上越日豪協会の活動を中心にボランティアを通して知り合った方々と私の体験記を集めました。今日お話した体験についてもより詳しく触れています。

また、最近、英語版に着手しました。オーストラリアの人たちのみならず、世界の人たちに私たちの活動を知ってほしいからです。オーストラリアの学校も日本の学校も今やインターネットにアクセスできる環境はごく当たり前。なら、これを使って情報発信をするのは至極当然のことでしょう。

上越にホームステイされたモーロングの先生・生徒は当地に来て初めて、太平洋戦争中に起きた同胞の悲劇を知りました。偶然この地を訪れて知ったのです。私はこのような偶然を待つのではなく、積極的にこの事実を世界に知らせたいのです。ホームページで平和記念公園を知ったから上越を訪れました、と言う環境を作りたいと思います。

現在、ホームページの要である平和記念公園開園式の項は工事中です。この項無しでは、いわば「仏作って魂入れず」の状態だと私は思います。日本側から見た平和記念公園開園式迄のいきさつはすでに「太平洋に架ける橋」と言う本となって出版されました。私のホームページにはオーストラリア側から見た平和公園開園式の印象を置こうと計画中です。そのために今回の訪豪に際しては事前に関係者に連絡を取り、直接会って打ち合わせをしました。International collaboration、日豪共同作業です。すばらしいホームページにしたいと思います。


5.国際交流の失敗例
皆さんのアンケートを見ましたら、国際交流の失敗例を紹介して、というものがありましたので失敗談をふたつほど。両方とも96年に会員22名で訪豪したときに起こりました。ただ、今現在、私はどれも大した失敗とは思ってはいません。

●遅刻!
これは結構冷や汗ものの失敗です。

シドニーからカウラへ向かうバスの旅でした。普通の旅行では添乗員か現地駐在ガイドが付くのが常ですが、私たちの旅はそうではありません。添乗員も、ガイドもいません。いるのは運転手と私たちだけ。何故そんな旅なのかと言えば、私がそのように計画したからです。

さて、予定ではシドニー・カウラ間を4時間かけて直行でした。朝8時に出発して到着時間は午後2時ですから、持ち時間は6時間もある。この2時間を無駄にするのは忍びない。自由な旅の常として予定変更は付き物、と言うことでまず、私は運転手に途中のブルーマウンテンへ寄ることを提案し、道草を食いました。これで1時間使いました。

つぎに、
「昼食は道路際にあるマクドナルドでいいだろう」
と言う運転手を口説いて途中の町のオージーレストランで食事することにしました。結果的にはこれが裏目となりました。小さな町で22名を収容し、なおかつ、大型バスの駐車場を備えているレストランはなかなかありません。ようやく見つけて昼食を済ませ、レストランを出たのはすでに到着予定時間2時少し前。そこからどう急いでもゆうに1時間以上は掛かります。結果的に1時間半もオーバーしてカウラに到着しました。

到着時間に遅れたくらいなら大したことではありません。問題は到着直後にカウラ市長への表敬訪問が組まれていたのです。こともあろうにカウラ市長を1時間半も待たせてしまったのです。

市長は優しく対応してくれましたが、私の心には少し引っかかるものがありました。しかし、晩餐会での席上、元カウラ日本庭園責任者の奥様にこの話をしたところ、
「ここはオーストラリアなのよ。30分や1時間の遅刻なんか何でもないわよ」
と慰めて下さいました。が、私たちの遅刻は1時間半だったのですから、やはり…です。

●運転手とのトラブル
今度はこの時の運転手とのトラブルです。

訪豪前の旅行会社との打ち合わせでは、何度もしつこいくらい予定の確認をしたのですが、やはり漏れはありました。カウラ到着後、ホテルから晩餐会への移動もシドニーから乗ってきたバスを使う予定でしたが、連絡が運転手には届いていなかったのです。

私たちはカウラ市長との面会を終え、ホテルに戻りました。運転手に6時半に日本文化センターでの晩餐会へ向けここを出発することを伝えるため、私はバスに乗り込みました。運転手はバスの中を掃除中で、予定を告げると突然怒りだしました。曰く、今日の勤務はもう終わりだと。英語圏の人たちは契約に対しては大変厳しいです。当人は今日の仕事は終わりのつもりで掃除までしているのに、私はもう一往復ある、と言ったのです。カウラには公共交通機関はありません。このバスが利用できなければ晩餐会へも行けません。私はひたすら、旅行会社には予定を伝えてあったこと、運転手に連絡が伝わらなかったのは彼らの問題でこちらの手落ちではないことを主張しました。私はただ、"Please"を繰り返すばかりです。バスの入り口ステップにいる私と、バス中頃の座席で掃除ブラシを持って立っている運転手の間で気まずい沈黙が流れました。時間にすればほんの30秒位でしょうが、私には30分にも感じました。最終的に、彼は"OK"を言ってくれました。

この話を参加者の皆さんにしたところ、皆さんは気を利かせて、全員でお金を出し合い100$をチップとして運転手に渡しました。

私は、お金で解決するのはどうか、とも思いましたが、皆さんのお気持ちには大変感謝しました。しかし、問題は日豪旅行社の連絡不徹底ですから、現地駐在員には大いに抗議しました。オーストラリア出国間際まで交渉をし、私たちが運転手に支払った100$を返還する、と言う約束を取り付け私は機上の人となったのです。これが日本で起きたことなら私もそこまではしないのですが、英語圏では普段より権利意識が強くなる傾向にありました。

長い間、とりとめのない話を聞いていただきましてありがとうございました。