我が心のラストン・ルイジアナ
 
私の人生に大きな影響を与えたのは1979年から80年にかけての留学体験です。その舞台となったラストンと言う町について書きます。

●大学町
ルイジアナの州都、バトンルージュからバスで4時間ほど北上したアーカンソーとの州境の近くにこの町があります。典型的な大学町で、人口は8,000人ほどですが、開講時は学生・先生が加わり18,000人に膨れ上がります。

大学からしばらく歩くとこじんまりした商店街がありました。町で唯一の書店やら、ブティック、床屋さん、レストランなどが軒を連ねます。郊外には大型のショッピングセンターがあり、毎日の買い物はこちらで済ませることがほとんどでした。

アメリカは車社会です。郊外スーパーの紙袋を抱えて歩いているのは車を持たない留学生がほとんど。しかし、歩道沿いの大きな街路樹が落とす影の中を歩くのはなかなか爽快でした。周りの住宅を眺めれば圧倒的に平屋建が多く、歩道から玄関までは広い前庭があるため、空間の広がりを感じることができます。以前、アメリカ人学生に、なぜこんなに平屋建が多いのか、と質問しました。
「土地があるのになぜわざわざ二階建にする必要があるのか」
と言う答は、実際、現地に立つと納得できるでしょう。

ひとつ奥の路へ入ると小さめの住宅が点在します。住人のほとんどは黒人。子供達は東洋人が珍しいのか、私たちの後を追いかけながら、
「チャイニーズ、チャイニーズ」
とはやし立てました。

大学の敷地は広大で、端から端まで歩くと20分ほどかかりました。緑の中に教室棟、研究棟、図書館、寮が点在し、授業に向かう小路では鳥、リスやアルマジロと言った小動物に出会うこともしばしばでした。あの人の良さそうな、と言うか「動物の良さそうな」アルマジロに触れることができたのは後にも先にもあの時だけです。

●大学での治安
アメリカは治安が悪い。学生は禁止されているにもかかわらず、寮の自室にライフルや散弾銃を隠し持っています。私も二度ほど不愉快な経験をしました。

授業後、学内郵便局で日本からの小包を受け取り、途中の学食で食事をした時です。入り口のテーブルに小包を置き、料理を取る列に加わりました。戻って来た時にはすでに小包はなくなっていたのです。まだ梱包を解いてもいなかったのに!

学内は広く、歩くのは大変。普段は自転車かローラースケートで移動しました。スケートは持ち歩けるのでよいのですが、自転車は駐輪用に作られた鋼棒にくくりつけます。しかし、盗難にあってしまいました。警察へ盗難届を出しても、こんな日常茶飯事のことに親身になってはくれません。逆に、絶対出ない、と保証されてしまう始末です。

●授業風景
アメリカでは先生も生徒もリラックスして授業にのぞみます。ガムをかみながら授業を受ける生徒は当たり前。先生もコーラでのどを潤しながら話します。

日本の授業は先生からの一方通行が主ですが、アメリカでは生徒が積極的に発言する双方向です。彼らは小さい時から自分の意見を発言し、理解させるテクニックを学んでいるようでした。

「アメリカの学生は勉強、日本は4年間の休暇」とよく言われます。とにかく読む量が多く、書く量も多い。私の大学は十週間を一学期とする四学期制でしたが、一学期の間に、例えば英語の授業では三冊の課題図書があり、読後テストを受け、感想文を書きます。また、授業の残り30分になると突然テーマを言い渡されノート用紙二枚分のエッセーを書かかされる時もありました。速い生徒は15分で書き上げ教室を出ていきますが、英語を書くこと自体不慣れな私はいつも最後まで残り、先生に「長編小説でも書いてるのか」と嫌みを言われました。帰って来たエッセーにはいつも朱書きの大きなKがありました。"awkward"、つまり「稚拙な文章」と言う意味です。英語を書くことは言うに及ばず、英語流の理詰めで話をすることができなかった私にとって「論理的展開」は新鮮であると同時に、アメリカ人の論理的思考を垣間見た貴重な体験でもありました。