キャサリン・トムソンさんと

 上越日豪協会

    


以下の文は、上越日豪協会会員である阿部寿郎が、近藤芳一さんの「ささやかな国際交流のぺえじ」に寄稿したものです。この文は、オセアニア英語研究会編「オセアニア研究」第12号(オセアニア出版社)より転載しました。(2000年6月)

私はその後、この原稿を自分で英訳し、上記「ささやかな・・・」の英語版に寄稿しました。なお、英訳が一応できあがった段階で、キャサリン・トムソンさんにその原稿をお送りして、英文等をチェックしていただきました。それとともに、上越日豪協会へ宛てたメッセージをいただきましたので、次に紹介します。キャサリンさんのご好意に心から感謝いたします。 (2001年2月)

私は上越を訪問したときに、この訪問は私の人生に大きな意味を持つ経験の一つになると思っていました。私は平和記念公園を訪れるだけのつもりで直江津に着いたのですが、それどころか上越日豪協会の方々と新しく友達になることができました。
皆様は直江津捕虜収容所の歴史を、勇気を持ってしっかりと見据えておられます。平和記念像を建て、資料館を建設し、多くの人々を啓発して、私どもの二つの国の間の過去の傷を癒すべく渾身の努力を尽くしておられる皆様に、私は強い感銘を受けています。私どもの友情が末永く続くことを心から希望いたします。
キャサリン・トムソン(2001年2月)

Contents

●はじめに

1 上越日豪協会のあらまし

2 キャシーさんの直江津訪問

3 オーストラリアから、愛と感謝を込めて

4 オーストラリア演劇と日豪文化交流

5 「真珠を拾うもの」雑感

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※上越日豪協会の歴史及び活動については、このホームページの他の項目をご覧ください。

 
 
 
 
 
 
 
 

 

はじめに

オーストラリアの劇作家 Katherine Thomson さんの戯曲 "Diving for Pearls" が、この4月にオセアニア出版社からオーストラリア演劇叢書第3巻 として、佐和田敬司訳「真珠を拾うもの」のタイトルで出版された。(1)

1999年の1月、上越市直江津でのキャサリンさん(以下キャシーさんと呼ばせていただく)との偶然の出会いまで、オーストラリア演劇には全く興味も関心もなかった私にとって、彼女の代表作の翻訳、出版は待ちに待った嬉しいニュースであった。早速購入して佐和田先生の名訳に敬服しつつ読了したが、キャシーさんのイメージや思い出が重なって、感慨ひとしおであった。


        
Currency Press版 "Diving for Pearls" の著者紹介の写真から

略歴:オーストラリアNSW州ウロンゴン出身。マコーリー大学英文科卒。1969年から劇壇で活躍、多くの芝居に出演した。1980年代から戯曲の執筆を始め、「ダーリングハーストの夜」「真珠を拾うもの」「バーメイド」「ナヴィゲイテング」など多くの作品がある。なかでも1991年にメルボルンで初演された「真珠を拾うもの」は、90年代のオーストラリア演劇を代表する戯曲の一つとして高い評価を受けている。オーストラリアの高校における「国語」の教材としても取り上げられている。(オセアニア出版社発行 佐和田敬司訳「真珠を拾うもの」P186『作品解説《作者について》』から)


太平洋戦争当時、日本国内各地の91か所に捕虜収容所があったことをご存知だろうか。そのうちの一つが直江津捕虜収容所である。太平洋戦争の開始直後の1942年(昭和17年)シンガポ−ルで降伏した連合軍捕虜の一部は、いわゆる軍需工場の労働要員として日本へ移送された。(2) 直江津捕虜収容所にはオーストラリア兵300名が12月に収容された。当時直江津には信越化学工業や日本ステンレスのような大工場があり、彼らは厳しい労働と食料不足、寒さなどの過酷な収容所生活を強いられ、その年から翌年の冬にかけて60名が死亡した。戦後行われた戦争裁判で、当時の捕虜収容所に勤務していた軍人2名と警備員6名が、戦犯として死刑になった。(3)  そしてこの収容所生活を生き抜き、故国オーストラリアへ帰国した240人のオーストラリア兵の一人がキャシーさんの叔父Sgt. Kevin B. Timbs(ケビン・テイムズ)さんだったのである。
 

1.上越日豪協会のあらまし

上越日豪協会(JASJ= Japan Australia Society of Joetsu )の前身は「直江津捕虜収容所の平和友好記念像を建てる会」(略称「建てる会」)であり、1994年(平成6年)8月に設立された。会の目的は、・捕虜収容所跡地に平和記念公園を造成 ・平和記念像の建立 ・記念式典の挙行 ・記念誌の発行 などであり、このための経費として2,500万円を目標とした市民からの募金活動を行う、というものであった。上越市からの全面的なバックアップを受け、マスコミにも大きく取り上げられたが、事業の推進に当たっては様々な困難や問題が生じ、関係者の苦労と努力は筆舌には尽くしがたいものがあった。私は1995年(平成7年)3月に公立中学校長を定年退職したので、会のメンバーとして実際の活動に関わったのはそれ以後である。

1995年10月8日、収容所跡地に造成された平和記念公園に、当年88歳の Mr. Jack Mudie (ミューデイ氏)ほか5人の元捕虜の方々とそのご家族や亡くなった捕虜の方々のご家族総計32名、日本側法務死者遺族、駐日オーストラリア大使、外務省大洋州課長その他多くの関係者をお招きして、感動と和解の記念式典が行われた。(参加者約500人)さわやかな秋空のもと、死者追悼碑の除幕、そして天に舞う2体の天女の平和友好記念像の除幕が行われたのである。(4)

建てる会はその目的を達成して翌96年に解散し、同年、オーストラリアと日本の相互理解、交流、友好を目的とする上越日豪協会が発足した。(5) 以後、日本からのオーストラリア訪問、オーストラリアからの関係者の訪問受け入れ、8月15日の「平和の集い」、講演会の開催、平和記念公園の整備と充実などに精力的に取り組んできた。
 

2. キャシーさんの直江津訪問

1998年12月のクリスマス前、上越日豪協会宛てに、95年の記念式典に参加された元捕虜の一人J・クックさんから「99年1月20日にキャサリン・トムソンさんが直江津を訪問するのでよろしく」との紹介と依頼のEメールが届いた。1月始めに本人からの自己紹介と訪問依頼のEメールも届いた。予定では一晩だけの滞在で、翌21日には東京へ出発とのことであった。数人の理事が集まってその対応を協議したが、メールの中でのキャシーさんの自己紹介とともに、収容所での深い心の傷に未だに苦しんでいるケビン叔父になんとか力になってやりたいという彼女の心情が察せられ、協会としてできるだけのことをしてお迎えしようということになった。以下に99年4月1日発行の上越日豪協会会報第8号に寄稿した私の紹介記事を転載する。 
 

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キャシーさんは元オーストラリア兵捕虜のケビン・テイムズさんの姪に当たります。オーストラリアでは中堅の劇作家として、テレビや演劇界で活躍中です。1月に札幌で開催された日本劇作家大会にゲストとして招待され、8日に来日しました。なお彼女の日本訪問は今回が初めてだそうです。札幌の大会では、日本で初めて翻訳された彼女の代表作 "Diving for Pearls" (邦題『真珠を拾うもの』)がリーデイング上演されました。このときの上演台本が、横浜にある「オセアニア出版社」から「オーストラリア演劇叢書」第3巻として、今年中に出版される予定だそうです。

キャシーさんの叔父ケビンさんは、現在シドニー近郊のウーロンゴンという町に住んでいて、奥さんと3人の息子さんたちがいます。 ケビンさんは戦争が終わってオーストラリアに帰国後、炭坑夫や製鉄所工員として働きましたが、生来の頑固な性格もあって直江津捕虜収容所での苦しい経験を家族にも誰にも話すことがありませんでした。しかし姪のキャシーさんとは気が合って、いろいろ話したりすることが多かったそうです。そして1976年、キャシーさんの21歳の誕生日に、初めて彼はあの苦しかった直江津捕虜収容所での経験と、それがどのような影響を自分に与えたかということをキャシーさんに話したそうです。それ以後、彼は自分の家族の誰よりもキャシーさんに、あの苦しかった経験や思いを話しました。

1995年10月の直江津平和記念公園での記念式典参加にケビンさんも誘われたのですが、奥さんが病気だったこともあって断りました。その後キャシーさんは彼に直江津訪問を勧め、時期はいつでも良いし旅費も負担するし自分もいっしょに行ってもよいとまで言って勧めたのですが、気持ちは変わりませんでした。ところが数年前からケビンさんは前立腺ガンで苦しみ、死期が近いことを悟りました。そして、この度のキャシーさんの日本への旅行に際して、ケビンさんはキャシーさんに、自分の代わりに直江津を訪問してほしいと頼んだのです。(以下略) 
 

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当日12時56分直江津駅着の電車でキャシーさんが到着、石塚会長夫妻他理事等数名が駅に出迎えた。会長宅でしばらく休憩、雑談の後、吹雪の舞う平和記念公園と覚真寺(6)を訪問した。覚真寺では前住職の義理の娘さんから当時のことや捕虜の様子を話していただき、大変感動的であった。その後直江津駅前のホテルで、日豪協会有志の人達によるキャシーさんを囲んでの歓迎夕食会を持った。前述の上越日豪協会会報の中から、歓迎夕食会での石塚会長の挨拶を一部紹介する。

「J・クックさんからEメールが届き、あなたが来てくださることを知ったときは、大変嬉しく思いました。あなたの叔父さんは、捕虜当時のお話を、家族にではなく、姪のあなたによく話されたそうですね。私も当時はベトナムで捕虜になっていたから、叔父さんの気持ちも少し分かります。戦争は本当にこりごりです。ご承知のように60名のオーストラリア兵がここで亡くなり、8名の日本の警備員が戦後処刑されました。捕虜収容所跡地のあの記念像や銘板(7) が平和を望む市民や遺族、元捕虜の方々、そして行政の協力によって建てられたことを、ぜひ叔父さんにお伝えください。」(以下略)

夕食会終了後、拙宅に案内し、お風呂、布団など日本の家庭での一夜を楽しんでいただいた。翌朝9時過ぎには直江津駅から東京へ出発された。



 
平和記念公園にて

 
キャサリンさん
(左)

  
 

歓迎夕食会にて

   
 

歓迎夕食会にて

 
 
石塚正一会長の挨拶, 右は洋子夫人

             



 

3.オーストラリアから、愛と感謝を込めて

   ― キャシーさんのEメール紹介 ―
 

上越日豪協会の皆様へ (8) 
999年2月1日

キャサリン・トムソン(阿部寿郎抄訳)

(前略)皆様が私をかくも暖かく迎えていただいたこと、大変なご苦労をいただいたこと、そして過去の事実を認め、よりよい未来を実現しようとする英知と決断に心から敬意を表し、御礼申し上げます。帰国してから私は、この度の日本への旅行についていろいろな人に話しましたが、人々が最も興味と関心を持ったのは、直江津での私の経験でした。短い間でしたけれども、それは私にとって忘れることのできない強烈な印象でした。

昨日(1月31日)私は、頂いたすべての資料を持ってウーロンゴンに住むケビン叔父を訪ねましたが、かなり具合が悪いようでした。前にもお伝えしましたが、彼は前立腺ガンで、多分先は長くないようなのです。ともかく私は、現在の「直江津」の人達はある意味では、現在の私どもオーストラリア人が原住民であるアボリジニーたちに起こったことを見ていると同じように、直江津の過去すなわち直江津捕虜収容所で起こったことを見ている、と彼に説明しました。どういうことかというと、苦痛の伴う真実は忘れ去られてはならず、またそれを記憶しつづけることによってこそ人々の心に和解をもたらすことができる、ということなのです。私は、過去のあの時代の傷を癒すためのあなた方の決断と努力を、しっかりと彼に分かってもらえたと確信しています。そして、あなた方が記念館を作りたいと言っていたこと、そして収容所のことについて書かれた本が学校に備えられている、と話したとき、彼は大変喜んでいました。(中略)

しかし叔父にとって、そして私や私の友達にとっても最も感動したことは、次のことでした。それは、叔父が頭の上に水の入ったバケツをのせて、雪の中で一晩中立っていたのを覚えていた人がいたということです。彼がそのようにして人々に記憶されていたということ、そして彼を見たというその女性が後年になって平和友好記念像を建てる運動に力を尽くしたということは、彼にとって大変重大な意味を持っていると思います。(中略)

とにかく、記念像や平和記念公園の建設と本(「太平洋にかける橋」)(9) の出版に尽くされたあなた方のこれまでの努力、そしてこの度の訪問で私を温かく迎えていただいたことが、叔父の心の中にあった忌わしい記憶の亡霊を鎮めてくれたように思います。叔父は、あなた方が平和友好記念公園を作り、過去の歴史をしっかりと見つめることによって二度と戦争を起こさないようにするために最大の努力をしていることを信じています。・・・彼は、お土産の扇子に書かれた言葉に大変感動していました。もちろん私は、あなた方がどんなに私を歓待してくれたか、どんなに大らかな暖かい気持ちで私に接してくれたかを彼に話したことは、言うまでもありません。(中略)

今のところ私からお伝えすることはこれで全部です。いずれにしても、私は叔父の心が前よりずっと穏やかになったように感じています。彼は収容所での経験を自らの心の中に受け入れたようです。例えば彼は(収容所で撮られた)集合写真の中の自分自身を見ることが出来るようになったと思っていますし、収容所の地図やそのほかのものを、彼の妻や息子達に見せることも出来るでしょう。

改めて御礼を申し上げるとともに、遅くなりましたことをお詫びいたします。

敬具  キャサリン トムソン
 
 

4.オーストラリア演劇と日豪文化交流

前述のようにキャシーさんが来日したのは、99年1月に札幌で開催された日本劇作家大会にゲストとして招待されたからということは承知していたが、日本の演劇はもちろんオーストラリアの演劇などほとんど興味、関心のなかった私にとって、札幌で何が行われたのか、そしてそれがどのような意味を持っているのか全く分からなかった。しかも直江津でのキャシーさんの滞在は短くあわただしく、キャシーさん自身もそのことを話題にするゆとりも時間もなかったと思われる。

私自身、元英語教員であったことからもオーストラリア、ニュージーランドの言語や文化、歴史に興味、関心を持っていた。キャシーさんから私へのプレゼントとしてもらったCurrency Press の1998年版カタログを見ながら、彼女の作品を含めてオーストラリアの演劇作品が日本にどのように紹介されているか知りたくなった。そこで、インターネットで検索して、「オセアニア出版社」の Website を見つけたわけである。(10) 

このサイトの中の『日豪文化交流の架け橋「フローテイング・ワールド」』の記事と舞台写真は、私にとって衝撃的であった。このような戯曲がオーストラリアで書かれ、上演されていたこと、そして日本語に翻訳されて出版されていたこと、その上1995年度の日豪交流プログラムの一つとして、9月に東京芸術劇場で上演されたことは、誠に驚きであった。その年の10月に直江津での平和記念公園の完成と記念式典が挙行されたという偶然の一致にも驚かされた。

これは「オセアニア研究」第11号 (11)所載の佐和田敬司氏の論文「キャサリン・トムソン『真珠を拾うもの』の日本上演について」を読んで知ったことだが、99年1月の札幌での日本劇作家大会にキャシーさんとともに「フローテイング・ワールド」の作者でありオーストラリア劇作家協会会長であるジョン・ロメリル氏が共に招待されていたことも驚きであった。キャシーさんの叔父テイムズさんは、ある意味では「フローテイング・ワールド」の主人公レズ・ハーデイングのイメージに重なるものであり、キャシーさんもそのことに気づいていたのではないだろうか。

また同じサイトの中の"The Japanese version of The Floating World: a cross - cultural event between Japan and Australia" と題する佐和田敬司氏の英文の論文(12)にも深い感銘を受けた。特に後半の部分の Personal Reactions as a Translator (訳者としての私的な感想)の内容は、日本とオーストラリアの相互理解、交流を進めていく上で、非常に重要な根本的な問題が提示されている。その一部を作者の許可を得て下に引用する。

・・・Nowadays, it is not too much to say that the country which Japanese most want to visit is Australia, but their understanding of the present relations between the two countries is not at all connected with past events. While the memory of the war against Japan still lingers in Australia, overwhelmingly, the Japanese people who go there have no knowledge of the shared history. In such a situation, can we really establish a true friendship between the two countries? ・・・

(現在、日本人が最も行ってみたい国はオーストラリアであると言って言い過ぎではなかろう。しかし彼らがこの二つの国の現在の関係について理解していることは、過去に起こった出来事とまったく結びついていない。オーストラリアにおいては、日本に対する戦争の記憶が、今なお人々の心に強く残っているにもかかわらず、オーストラリアを訪れる日本人の多くは、二つの国が戦った過去の歴史について何も知らない。このような状況では、日豪の真の友好関係を築き上げることはできないであろう。)

私ども上越日豪協会の活動は、まさにこのために行われているものである。日豪の相互理解を深め、真の友好関係を深めていくために、今後とも努力を続けたい。
           

5.「真珠を拾うもの」雑感

キャシーさんを通して初めて触れたオーストラリアの演劇は、日本の演劇すらほとんど興味、関心のなかった私にとって、やはり異質でとっつきにくいものであった。上演される舞台そのものも見たことがないものにとっては、至極当然であろう。しかし、作者とは偶然ながら個人的に知り合ったということ、そしてオーストラリア演劇の日本への紹介と翻訳で活躍されている佐和田敬司氏の名訳と詳しい解説のお陰でこの作品をなんとか理解できた、というのが実情である。それにしてもこの作品を読んで様々な素朴な疑問や感想を感じたが、恥を忍んでそのいくつかを記してみたい。

まず、このような「重々しい社会問題、労働問題を扱った」作品が、なぜ「今日、90年代オーストラリア演劇を代表する戯曲の一つであるという地位を勝ち得ている」(13)のか、という疑問である。佐和田氏は解説の中でそのことに触れ、(14)日豪の演劇状況を比較しながらその理由をいくつか述べておられるが、私には充分納得できない。それよりも、このような作品がオーストラリアでは「商業ベースに乗る」作品であり、映画化されたりするということに驚きを感じた。

第2にこの作品の舞台となっている古い鉄鉱業の町と登場人物の性格付け、生き様の描写のリアルさ、巧みさへの驚きと賞賛である。「社会主義リアリズムの系譜を脈々と受け継いでいる」(15)  という点では、この作品はまさにそのものズバリであろう。登場人物の中で私は特にバーバラに興味を引かれた。佐和田氏の名訳による彼女の台詞から、かなり品の悪いオーストラリア英語をまくしたてる、バイタリテイ溢れる、個性豊かな中年女性のイメージが浮かび上がってくる。それが、具体的にどのような英語なのか原文を読んだり、実際の舞台を見たくなった。(16)

第3に、日豪文化交流の一環としての日豪演劇交流への期待である。第1の疑問と感想で述べたように大きな差がある日豪の演劇界が、90年代半ばから活発な演劇交流を行っているということは、相互理解を深める上で大きな意義があり、今後とも大いに期待される。その意味で、1995年にオーストラリアで上演された田中千禾夫の「マリアの首」その他、日本の演劇に対するオーストラリア観客の反応や感想なども知りたいものである。

(1)「真珠を拾うもの」オーストラリア演劇叢書第3巻 2000年      2月29日発行
著 者 キャサリン・トムソン 訳者 佐和田敬司 
発行所 オセアニア出版社  BACK

(2)「太平洋にかける橋 捕虜収容所の悲劇を越えて」p.111  1996年10月3日発行 
編集発行:直江津捕虜収容所の平和友好記念像を建てる会 BACK

(3)     同上 p.93、94、100 BACK

(4)     同上 p.43〜62 BACK

(5)     同上 p.197 BACK

(6)     同上 p.133〜135 覚真寺 捕虜収容所跡地の平和記念公園から徒歩約10分、上越市春日新田にある真宗大谷派の寺。収容所で亡くなったオーストラリア兵捕虜は火葬場でだびに付されたが、遺骨の引き受け手がなかった。この時、「死んだ者に、敵も味方もありゃせん」と、次々に出る死者の遺骨を引き受け、本堂に安置してくれた僧侶が、当時の住職藤戸円理師であった。 BACK

(7)    同上 p.11 銘板 オーストラリア兵元捕虜の一人が当時の戦友約150名に呼びかけて作ったもの。下記の碑文(英文)が記されている。

THIS RESERVE IS DEDICATED
TO THE MEMORY OF
LT./COL. A.ROBERTSON
COMMANDING OFFICER
2/20 AUSTRALIAN INFANTRY BATTALION
AND 59 AUSTRALIAN SOLDIERS
WHO DIED AT NAOETSU
1942-1945 
"WE WILL REMEMBER THEM"

碑文訳 
「この碑を、1942年から1945年にかけて直江津で没した、2/20オーストラリア歩兵大隊長ロバートソン中佐および59名のオーストラリア軍人の霊に捧げる。われわれはこの人たちのことを永久に忘れない。」 BACK

(8)   1999年4月1日発行 上越日豪協会会報 第8号 所載 BACK

(9)    (2)と同じ BACK

(10)   URL    http://www.bekkoame.ne.jp/ro/oceania/

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(11) オセアニア研究」第11巻 p.1〜10 1999年12月発行  編集 オセアニア英語研究会 発行所 オセアニア出版社 BACK

(12)  URL    http://www.bekkoame.ne.jp/ro/oceania/ads.HTM

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(13)   (1)と同じ p.188 BACK

(14)   同上   p.194、195 BACK

(15)   同上   p.195 BACK

(16)「真珠を拾うもの」の翻訳出版を祝して、上越日豪協会有志の人達から署名してもらった本を著者に贈呈したところ、お礼の手紙とともにCurrency Press版の英語版をいただいた。BACK