オーストラリア訪問記 1996 | |
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「レッズ」のディナーパーティー | 八木 弘 |
1788年ヨーロッパ人の入植が最初に行われたロックスの一角にあるレッズ(Reds)は、植民地時代の石造りの倉庫を改造したと思われる、古風なたたずまいのレストランである。
オペラハウスやロックスの散策を終えた日豪の人々が、その一室に集まり、6時開宴。 石塚会長はあいさつ(通訳=石塚洋子常任理事)で、「直江津捕虜収容所の悲惨な歴史を後世に語り継ぐことの意義」を強調される。 続いてジャック・ミューデイさんが歓迎のあいさつ(通訳=近藤芳一常任理事)で、「シドニーは美しい町です。But
our beauty is in our hearts. 私たちの思い出で鞄をいっぱいにしてお帰りください」と、八十九歳という年齢を感じさせない力強い声でスピーチをされる。
両氏のあいさつの間に料理のオーダーが始まっていたが、英語のメニューに和訳が添えてある心配りに、訪問者側の注文も順調に進む。前菜で「焦げ目付特選カンガルー肉」を選べるなど、いかにもオーストラリアらしい(私は、かわいらしい(?)カンガルーの姿が目に浮かんで注文する気になれなかったが。 ちなみに、ワインの代金も入れて一人当たりAus$46だった)。 食事の前にヒューズ神父の後について、フランク・ホール氏の死を悼み、祈りを捧げる。(ホール氏は、1988年に直江津捕虜収容所で亡くなった60名のオーストラリア兵に捧げる銘板を持参した元捕虜。今年8月7日に逝去) 次いで、下村省一元「建てる会」実行委員長(現「日家協会」顧問)が、昨年10月8日の平和友好記念像除幕式にオーストラリア側から遠路参加されたことに礼を述べ、故ホール氏の業績を讃えられた(通訳=柿村常任理事)。 ひととおりの儀式が終わり、それぞれのテーブルで、オーストラリア・アクセントの英語と、日本語なまりの英語が飛び交う。 私のテーブルは、日本側は猪股さんご夫妻と3人。オーストラリア側は、Mさん母子の4人。お母さんの前のご主人が直江津で亡くなったが、昨年10月の除幕式にはとても訪日する気になれなかった。その後、ミューデイさんから除幕式のビデオを見せてもらい、今回のリユニオンに参加する気持ちになったという。今日集まったオーストラリア側の中で、来越経験のない唯一の家族である。 そのせいか、初めのうちはなんとなく雰囲気が固かったが、猪股さんがMさんたちの顔をスケッチし始める頃から打ち解けてきた。あごひげを生やした好男子のRさんは、自分でも多少絵を描くと言い、芸術や文芸に関心があるらしい。私が自分では全く無知なオーストラリア文学に水を向けると、立ち所に二三の作家の名前をあげ、市内の書店名をメニューの裏にメモしてくれた。 日本式に言えば、まさに「宴たけなわ」、テーブルの間を「周遊」する人も出始めた頃、山賀昭治さんのハーモニカ伴奏で「桜Jと「荒城の月」の斉唱。続いてオーストラリア側の人々も加わって、「ワルツイング・マチルダ」の大合唱。 大声を張り上げたため、オーストラリア・ワインの酔いがいっぺんに回った私の耳に、間違いなく「Mr Yagiが閉会の(だったかお礼だったか)言葉を...」という近藤さん(?)の声が飛び込んできた。67年の生涯で予告なしにスピーチをさせられたことは、日本語でも二三度しかない。英語では、初めてである。これが素面(しらふ)であったら固辞したことであろうが、そこはワインのおかげで我ながらなめらかな(?)エンペラーズ・イングリシュが次々と飛び出し、オーストラリア側の人々がどっと笑う。ただし、いま覚えているのは"Five cups of icecream"(料理のボリュームの一例か)と、石塚会長、下村前委員長、ミューデイさんなどの固有名詞と、(これはどういうわけで述べたのか、自分でもわからないが)"Mr Inomataは、henpecked husbandであり、日夜奥さんの圧制(petticoat-government)のもとで苦しんでいる」と言ったことだけである。事実と全く正反対の事をはるばるシドニーに来て述べたことを猪股ご夫妻にあらためてお詫びし、この報告を閉じさせて頂きます。 |