オーストラリア訪問記 1996
キャンベラ豪日協会との交流 猪股 浩一
 
レストランの予約が6名とのことで、私も参加メンバーに加えてもらった。 

上越市と上越日豪協会が、前もって、日本大使館とキヤンベラ豪日協会に訪問の趣旨をを伝え、さらに細かい日程は、カウラのリビー・リード女史が連絡をとってれたので、スムーズに事が運んだ。 

交流会(昼食会)は、ホスト役の日本大位館の山根一等書記官と、共催したキャンベラ豪日協会の会長のあいさつとで始まった。

山根氏は建設省出身で、板倉町で仕事をしたことがあるという。会長は日本に滞在したこともあり、日本語の教師でもあるC・ライアン女史。副会長はカウラで日本庭園の植木を扱っているというJ・ホワイト氏と、沖縄出身という活発なF・ヒロコ女史であった。キャンベラ豪日協会の活動は、社会的にかなり認められているように思われた。 

交流は石塚会長があいさつで述べた訪問の趣旨にそって、記念品のやりとりから始まり、きわめて和やかに進行し、多くの助言を頂き、その目的を果たすことができた。 

その後、彼等からもキヤンベラ首長との面会に立ち合ってもらったが、彼女たちと女性の首長とはかなり親しい関係のようであった。首長からは、多忙な中、我々のために15分間の時間をさき、しかも「あなたたちの希望を必ず戦争記念館に伝える」という言葉をいただくことができた。 

キヤンベラ首長との面会は、かなり難しいことのようだが、それが実現できたことは、日本外務省初め、キャンベラ豪日協会の皆さんのお陰だと思う。

 

 
オーストラリア訪問記 1996
シドニー豪日協会との交流 猪股 浩一
 
ビルの二階にシドニー豪日協会の事務所があった。カウラの桜まつりに会長が参加して留守とのことで、上品で穏やかな感じの副会長の婦人が、事務局長という日本人の女性を紹介した。小柄で親しみ深そうな彼女は私たちにテーブルにある果物や飲み物を勧めた後、活動の概要を説明した。 

事務所は日本を紹介する芸術作品や写真などが壁面や棚などを飾り、オーストラリアの中の日本という感じがした。説明によれば、ここは「文化交流」が活動の中心だという。 

両国の経済や文化の交流が活発に行われていることは部屋の雰囲気でよく分かった。 

ドアを開けて隣の部屋を見て驚いた。二・三十人はいたろうか、日本の学生や社会人の若者たちがお互いに情報交換したり、職員からアドバイスを受けたりしていた。ここが彼等にとって安心できる場所のようだった。

 

 
オーストラリア訪問記 1996
「オーストラリア戦争記念館」での陳情 猪股 浩一
 
10日、会長と資料関係者は、直江津捕虜収容所の資料を、キャンベラ戦争記念館に展示したいという陳情のために、この戦争記念館を訪れた。この陳情訪問は、日本の外務省筋からの勧めと、我々は勿論だが、元捕虜の方々の強い希望によるものであり、これが実現できたのは、日本外務省の協力、それにキャンベラ豪日協会の援肋によるものであった。 

戦争記念館ではL・ハンナー氏(アシスタントデレクター)が我々と応対した。 

我々一行には、キヤンベラ豪日協会が紹介してくれた、戦争記念館と関係が深いという戦争問題研究家R・パイパー氏(著書オーストラリア兵士の戦争秘話、他)が同行して、我々の要望を側面から補足してくれた。私は持参した写真類を示して説明し、L・ハンナー氏の返答を待った。彼の回答は、後日改めて検討の上という前提のもとで、 
1.本館は「戦戦争記念館」なので、「平和問題」の常設展示はできない。 
2.平和問題の資料を展示するなら企画展となると思う。 
3.当記念館も平和問題の企画展を考えている。それが実現したら、あなた方が持参した資料の中から指定するから、質のよい写真のネガを送ってほしい。 
4.展示用の写真の作成などはすべて当記念館の費用で賄う。 
などであった。我々は常設展示を希望していたが、残念ながらそれは無理のようだった。しかし、戦没者の願いは平和であり、戦争記念館の趣旨とは矛盾しないというR・パイパー氏の意見に我々は期待して記念館を辞した。