オーストラリア大使来越とMM通訳講座2003

オーストラリア大使の嬉しい来越 (上越日豪協会会報より)
ジョン・マッカーシー大使を囲む座談会(同上)
村松先生に教えられたこと (笠原 恵津子)
"There is a will, There is a way." (仲田 悦子)



オーストラリア大使の嬉しい来越

2月6日(木)7日(金)「直江津へ行ってみたい」と、ジョン・マッカーシー大使が来越されました。これは、大使とお友達で、時々協会の英語講師をしてくださる村松増美先生が、新井のゲレンデのスキーに同行される機会に、お誘いくださったら「かねて直江津の話は知っているし、秋の退役箪人の方々の訪問もあり、一度訪問したい」ということで、実現したものです。

私どもの石塚会長は、2年前から「今度の大使さんに是非直江津を見てもらいたい」と熱望していたものですからちょうどいい機会になりました。

1.2月6日18:37(はくたか16号)直江津駅着

オーストラリア国旗でお出迎えしますと、ボクステル(豪日交流基金)事務局長さんの案内で、にこやかで落ち着いた感じの大使さんが降りてこられました。

当夜宿泊のイカヤホテルで、役員が参加して11人の夕食会を開きました。終始落ち着いて風格のあるお話ぶりに触れて、楽しい夕食会になりました。大使はやや濃い昧が好みのようで、メーンデッシュの肉料理には、相当の塩と胡椒をかけでおいででびっくりしました。


2.2月7日10:00木浦市長を表敬訪問
JM meets up with Konoura
木浦上越市長を表敬訪問されるマッカーシー大使

市の庁用車のお迎えで、市長を表敬訪間なさいました。

市長からの首都キャンベラの山火事のお見舞に、「この百年間で最も深刻な火災で、500戸も焼けました」と応じられて、話がはずみました。

市長は、協会のおかげで日豪の交流が進んでありがたい。とりわけカウラ市との結びつきが深いが、秋にはカウラ市を訪れたいものと言われました。

大使は「上越市の平和公園は、オーストラリアで人々にだんだん知られてきている。これからの訪問が楽しみであり、この和解と親善の活動はとてもいい。退役軍人連盟代表も訪れたが、日本への認識の変化も活動の意義だろう」と話されました。

あと、大使はアジア5か国に住み、和食は大好き。おいしいお米とお酒、小説「雪国」の話などが話題になり、中央だけでなく地方が輝く政治が大事だと、お二人共通に強調され、今後の交流への望みを述べられて終わりました。訪問の通訳は、市役所のレイチエルさん、大使館のボクステルさんでした。

3.平和記念公園と資料展示館の記者会見で

対馬理事編集の英語版ビデオの後、ていねいに展示物を見学され、待ち構えていた記者団に囲まれての会見で、話されたのはおよそは次のことでした。

(1)過去のことをよく伝えている心のこもった施設で感動した。最も心打たれたのは、ここに残された展示物であり、藤戸円理さんの資料も心に残っている。

(2)上越の市民の活動は、両国にたいへん寄与している。今後の両国の関係を考えるとお互いに訪れる交流こそ、人間としての活動であり、それが続くよう支えたい。

(3)この収容所で起きた事柄を、後世に伝えようとすることは、歴史を正しく伝えることとして大事なことだ。

4.にぎやかな「富寿司」の歓迎昼食会

途中から村松増美先生も加わって、22名のにぎやかな歓迎昼食会になりました。お寿司も得意だとおっしやる大使さんで、気楽なワイワイの富寿司でした。

とくに森平司さん(山形県酒田収容所長95歳)の参加もあり、「私は告発する人がなかったので、助かりました。」と話されると、大使は「もう忘れますから、肩の荷をおろしてください」と、思いやりのやさしい言葉をかけておられました。


To TOP

内容のつまった「大使を囲む座談会」<概略>

・13:00〜15:00レインボーセンター3階で、参加者27名の座談会を開きました。
・大使のお話・・・30分
・高志小学校中川和代先生の3年生平和学習の実践報告・・・20分
・質疑応答、通訳:村松増美先生(同時通訳者)

John & MM
講演中の大使と通訳の村松増美先生

大使の講演

「オーストラリアの国情と豪日関係」
・オーストラリアが外からどのようなチャレンジを受けているか、個人的な意見だが様々な資料から考えたことを述べます。


A.オーストラリアはどういう国か

・第一次大戦後は大英帝国の延長のようで、政治も貿易も対英国がすべてだった。第二次大戦後すっかり変わった。それは、
(1)イギリスの力が変わった
(2)戦争でオーストラリアの脆弱さを認識した。日本の軍事力、とくに厳しい爆撃に驚いた。
・その結果、次のような政策を考えてきたのだ。
(1)米国への接近の必要性…ロシアー中国の共産主義への警戒恐怖
(2)人口を増やそう…西〜東ヨーロッパ・トルコ・中国・ベトナム人の移民
(3)アジアヘの認識…ベトナム・朝鮮戦争から、日本を含めアジアヘの視点を
(4)米国との関係を深める姿勢…イラク等に対するオーストラリアの姿勢
(5)多文化主義…1945からイギリス、アイルランド他130か国の人々の移入


B.現在の問題は

(1)経済が一番の関心事…毎日の生活のことがまず先
(2)国内の議論はアイデンテテイだ…自分たちは何なんだの問い(昔風のアングロサクソン的考え、未来はアジアにあるの考え等々)
(3)気にしている見方…“自分たちは何か”より自然のままがいい!の考え。
・でも、あまりにも外国人をいれすぎた恐怖感も一部にある
・また多文化主義の成功もある。(欧州のようなトラブルなし)
・アボリジニーには60年まで差別感だったが、是正措置を多くした。


C.豪日関係について

・戦後急速に関係が接近。日本工業の燃料の供給がオーストラリアだった。
・貿易、経済の関係が重要だったが、最近は戦略的協力の重要性が大きくなったし、東アジアに対する政策が共通になっている。
・人と人との交流が顕著だ。ワーキングホリデイ、ホームステイ、小学生交流も。
・ただ慣れっこになつて、惰性的になり、貿易も新しいものがない。
・オーストラリアから日本への投資が1996年以来ない。IT、バイオ産業など対日ではぜんぜんない。
・日本は国内政治にのめり込んだようだが、新しい貿易の方向を探る必要がある。


中川和代先生の「平和学習」報告
<古城小3年生12人の学習をコンビュー夕画面を使って>


A.学習課題「世界の国にお友達をつくろう」で、次の学習を展開した。
(1)平和記念公園のなぞ
(2)日豪協会の人の話
(3)カウラ市ってどんなとこ
(4)カウラ市と上越市が仲良くなったわけ
(5)戦争が二度と起こらないために
・・・国調べ、遊び、音楽、料理、手紙出し、返事受け、返事出し等々

B.子どもの変容
・仲良しで
・戦争はだめ
・様々な人との交流
・受け身からの変化


大使との質擾応答(中心的な問題だけに限って)

Q:「白豪主義から政策転換ができた理由は何か」

A:オーストラリアでは、2000万の人口の中で、年間20万人ずつ移民を受入れてきた。130か国60万人の移民があった。不安も感じたが、アメリカのような問題も起きずに受入れてきたのだ。
日本も人口が減っているので、経済を保つには労働人口を減らされない。やがて外国人を受入れなければならないと思うが、国粋主義的な考えの人もいる日本では、受入れることができるだろうか。逆に大使さんから問題を投げ掛けられた感じであった。

16:00レインボウセンター発、新井スキー場ヘ

温泉好きな大使さんは、新井の「ゆらり館」で村松先生たちと宿泊され、翌日からオーストラリア国旗と日本国旗がひるがえる新井スキー場で、スキーを楽しまれました。

大使のスキーは、ボーゲン・クリスチャニア・パラレルととても上手で、高度な技術が必要な膳棚スロープを、スノ一ボードの間を縫って、休みなしで何回も滑ってこられました。会員も何人かご一緒しました。

ARAIでスキーを楽しむ大使、MM、JASJ会員
みんな、笑っています。

To TOP



村松先生に教えられたこと

笠原 恵津子

第二回MM通訳講座では、通訳の授業内容が日豪協会の活動に即役立つよう配慮されたものでした。前回以上により実践的で、中身の濃いものであったと思います。

しかし、私にとって最も印象深かったことは講座外の所で起きたある出来事でした。そこで拝見した村松先生の姿に「通訳の神髄」を見たような気がしたのです。

それは、2月7日(金)の直江津富寿司で行われた、豪大使歓迎昼食会でのことでした。その場には酒田捕虜収容所の元所長、森平司氏が90過ぎのご高齢にもかかわらず参加されました。森氏は大使と対面するお席に着いていましたが、ボクステルさんの通訳の元、大使に向かって戦時中の日本の事情をとつとつと語っておられました。

とりわけ何度も口に出したのが、当地の戦犯として亡くなった八名の方々のことでした。
「直江津には、いい通訳がいなかったから、捕虜達と充分なコミュニケーションが取れなかった。」つまり、それが相互理解を阻むことになり、八名の所員、監視員の命が奪われた原因の一つだと訴えていました。森氏自身も、酒田の所長だったにもかかわらず、刑を逃れたのは、自分に優秀な通訳がいたからと言及しておられました。

大使も、森氏の気持ちを汲み取られた様子で「もういいですよ。お気持ちはよくわかりました。」という内容の返事をしていました。それでも森氏は、繰り返し同じ内容のことを話され、通訳のボクステルさんを困惑させてしまいました。ボクステルさんも、同じ事を再度通訳すべきか考えあぐねている様子でした。その時でした、村松先生がよく通る声で「森さん、"もう肩の荷をおろしてください"と大使がおっしゃっていますよ。」と言われたのです。その言葉を理解した森氏は、安堵の表情を浮かべて、やっと目前のお膳に手をつけたのでした。

大使の英語には、直接的に「肩の荷をおろしてください。」という表現はありませんでした。それゆえ、ボクステルさんからも、その邦訳が出てこなかったのです。ところが、村松先生は、大使の森氏への気遣いの言葉を、とっさにああいう風に訳されたのです。戦後長い間、心の中に重荷をずっと抱えてきた森氏。村松先生は、これこそ森氏が一番聞きたかった言葉だとわかっていらしたのです。通訳するものは、ただの通訳機械であってはならないのだ、と言う思いを新にしました。

「真の通訳者とは、人の心の機微まで解して訳すこと。」これが、私が村松先生から教えられた一番大切なことでした。


To TOP


"There is a will, there is a way."

仲田 悦子

私の友人が、留学生活(Canada)を見送る際、手紙の一節に書き記してくれた諺です。私が通訳の勉強を始めるきっかけを与えてくれたのもこの友人です。
"意志在る所に、道は開ける"
この度、ふとしたご縁で近藤さんと知り合うことが出来、その上村松先生をご紹介頂いたのも、何故だかこの諺に全てが集約されているような気がするのです。

2月当日、佐渡島から朝少々早い時刻の出発でしたので、寝ようと思っていた船の中でも、高速バスの中でも、緊張が増すばかり。目を閉じようとすると心臓が眠りを妨げる状態で上越に向かいました。

MM's Interpretor Seminar
MM通訳講座開始直前

様々な期待を抱いて望んだ、人生初のMM通訳セミナーでは、とにかく近藤さんからの助言通り"メモ魔"になろうと必死になっていたのですが、メモをあまり取ったことのない私のノートは何やら文字とも記号ともつかない不思議な落書きで埋め尽くされる結果となってしまいました。その中でも、私が特化して記録していたものが何点かありました。

*プロ通訳者にとって必要最低限、英語力、日本語力、感受性、語彙力は満を持さなければならない。

*周囲(聞き手・語り手)への細やかな心配り
EX その人になりきる
通訳中のマナー、相手に不安感、不信感を抱かせない

*通訳者は常識人であるべし

*体験的知識を身に付ける

*英語とユーモアがあればいつしか異国間、異文化衝突も緩和される

そして、今回初めて村松先生を間近で拝見でき、その人物のすばらしさは私などが書くに足りませんが、特に一点プロフェッショナルを実感した事があります。それは、その控えめな存在感のあるオーラの出し方です。プロの通訳者は、通訳の技量だけではその責任は果たせず、立ち居振舞い、人物全てが通訳という仕事を成しているということではないでしょうか。

私は、自分の能力に基付き、プロ通訳者が最終目的ではないのですが、村松先生がおっしゃっていた通り通訳の勉強をすることで、様々な知識や出会いを増やしていけたら良いと思います。この度の講座では、暗中模索であった勉強に、課題点を見出すことが出来ました。一筋縄には決していかないですが、頑張ってやっていきたいと思います。

末筆となってしまいましたが、上越日豪協会の皆さんのその真摯な姿勢、私も真似をしていきたいです。そして、このようなすばらしい機会を与えて下さいました近藤芳一さんに心より感謝いたしております。

上越日豪協会の今後益々のご発展をお祈りいたします。

To TOP