|
作者:猪股浩一さん
|
8月上旬のある日、猪股浩一さん(上越日豪協会理事)は古い未完成の油絵(4号)をシドニー郊外に住む元捕虜ジョン・クックさんあてに発送した。同時に送った猪股さんの手紙には、次のように記されている。
「この絵は、私が学徒勤労動員中、1944年にステンレス工場内で開いた校友会展に出品した作品です。私は当時19歳の学生でしたから、この絵は58年前に描いたことになります。・・・当時絵の具は貴重品、したがってできるだけ倹約して描きました。画面は、荒川橋付近から日本海を望んだもので、右岸遠方にあった軍需工場は、憲兵の目を警戒して画面から外しました。
「1942年12月10日、あなたはシンガポールから300人の戦友とともに、この風景を見ながら、不安とわずかな期待をもって荒川橋を渡りました。そのとき、この風景は厳しい冬景色で、日本海は白い牙をむき出していました。その年のまれに見る寒波の襲来と、その後の人権を無視した労働は、44年の冬にかけて、あなた方の戦友60人の命を奪いました。・・・。
「1945年8月15日に戦争は終わりましたが、私はその直前、直江津空襲のあった5月5日の二日後に遺書を残して出征し、千葉で東京湾へ上陸する敵の戦車に爆弾を抱いて飛び込む訓練に励んでいました。・・・。
「この絵は、私の遺作になるはずでありました。出征前の忘れがたい直江津風景です。しかし、この絵の風景に対するあなたの思いは、私の比ではないと推察されます。したがって、二人の思い出につながるこの絵は、あなたの手元に置いていただくのが適当と考えます。修行中で技術的にはつたなく、しかも未完の絵ですが、あなたと私のつらい思い出を結ぶ心の絵として、また、あなたの愛する子供さんやお孫さんに平和の尊さを教える絵として、ぜひお受け取りください。(後略)」
猪股さんとジョン・クックさんの交流は、1996年10月の上越日豪協会員22名の訪豪時に始まる。
猪股さんは、シドニー湾のクルーズ中、クック夫妻をスケッチしたり、クックさんの息子ジョン君に市内を案内してもらい、古い建物を描いたりした。空港へ見送りに来たクックさんは、直江津での体験を手記にまとめて送るからと約束した。
それから5年余り経た今年(2002年)の1月、猪股さんがクックさんの手記を読んだことから、二人の間に文通が始まった。その過程で、猪股さんは自作の絵を送ることを約束し、とりあえず平和公園展示館に掲げてある『虜囚の宿』掲載の画集や『メリークリスマス』の写真を送り、クックさんからは、オーストラリアのモダン・アートの画集が送られてきた。
その後、猪股さんはどの絵を送ろうかと思案したが、思いついたのは58年前に描いた未完の絵だった。7月中旬雁木通り美術館で開催された「イーゼル展」に出品されたのち、クックさんに贈られた。
添えられた手紙の最後は、次のように結ばれている。
「私は、この絵を7月中旬の同人展に出品して皆さんに紹介し、そのあと写真に撮りましたから心残りはありません。しかし、お互いの年齢から考え、あなたとふたたびお会いすることはできないだろうと思うと残念です。」
程なく届いたクックさんの礼状は、次の文章で始まっている。
「今日あなたのすばらしい絵を頂きました。あなたの心のすぐ近くにいつも存在し続けたあの絵を私に下さるとは、どうお礼申し上げたらよいのかわかりません。
「『直江津港のある荒川河口風景』は、今うちのラウンジに掛かっています。添えられたお手紙も、絵のそばに掲示し、家族や訪問者がいつでも読めるようになっています。
「私は、このような構図で描いた絵を見るのは、初めてです。絵を見た人はだれしもそれを話題にします。そして、どうしてこのような才能のある画家と知り合いになれたのかと尋ねるのです。・・・」
58年前に猪俣さんが描いた一枚の油絵が、時空を超えて直江津とシドニーを結びつけたのである。
|