ニール・マクファーソンさんとオーエン・ヘロンさんの来越

ニールからの最初の連絡
日本、九州、潜竜、第24収容所(元捕虜機関誌「有刺鉄線と竹」より)
マクファーソンさん、オーウェンさん一行を住友石炭鉱業本社へ案内して (長沢 のり)
IT的出会い---ニール・マクファーソンの場合 (近藤 芳一)
それでもなぜ戦争にいくのか?(アンドレ・マラン、West Australian新聞より)



ニールからの最初の連絡

Subject: Australian inquiry
Date: Thu, 28 Jun 2001


オーストラリアよりご挨拶申し上げます。キャンベラにある戦争記念館から、私の探している情報が得られるだろうと貴協会を紹介されました。

私はニール・マクファーソンで、年齢は79歳です。1945年、私は九州・福岡のとある炭鉱で働く捕虜でした。その第24捕虜収容所の場所は定かではありませんが「せんす」だったように記憶しています。

年月を経た今、私は収容所のあった小さな村の住民と連絡を取りたいと思っています。私達は村民や一緒に働いた日本人炭鉱労働者ととても仲が良かったのです。インターネットを通して、その地域の英語のわかる方と連絡が取れればとてもうれしく思います。

村には鉄道が走り、炭鉱本部が丘の上にありました。大きなホールがあり、そこでランプを支給されたのです。また炭鉱へはトロッコに乗って30度の傾斜を持つトンネルで下りました。

収容所には250人の捕虜がいました――オーストラリア人、イギリス人、そしてアメリカ人が数名。1945年9月14日、私達はその村から列車で長崎へ撤退したのです。

私の依頼に協力していただけることを願ってやみません。

ニール・マクファーソン

(和訳:内山 美代子)

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日本、九州、潜竜、第24収容所容
(元捕虜機関誌「有刺鉄線と竹」より)

1944年12月15日、545人のリバーバレーロード収容所からのオーストラリア人捕虜はシンガポール港で阿波丸に乗船した。捕虜は全て死の鉄道のA 軍の生還者だった。11日後、焼け焦げのデッキの下に補強板を当てた船は、ボクシング・デイに日本に向けて出航した。1945年1月15日捕虜は雪の積もった真冬の北九州の門司海岸によろよろと上陸した。34人のアメリカ人を含め150人は、北九州の潜竜に向かった。

日本人鉱夫による数日間の訓練の後、捕虜は住友の経営する炭鉱の労働に適していると判断された。タイメン鉄道の恐怖や死、病気、不潔な環境そして虐待に比べれば、第24捕虜収容所の環境は5つ星のホテルのように素晴らしかった。小屋は居心地が良くて暖かく、そのうちの12の小屋は風通しが良かった。警備員のつまらない「いじめ」はともかく、地下の狭苦しい危険な環境での長時間労働を維持するには不十分な食料ではあったが、士気は高かった。我々が一緒に働いた日本人鉱夫は、危険な環境下でいかに生き残るかを捕虜に教えてくれた。他の労働地区と違って、懲罰は加えられなかった。戦争が終結に近づくにつれ、日本人鉱夫の弁当は捕虜の弁当よりも少なくなっていった。1945年8月16日、我々は整列させられ、「終戦の命令が出された。」と告げられた。やがて、捕虜は収容所を引き継いだ。アメリカ軍からは配給が投下され、おかげでその後の5週間が楽しい思い出となった。近くの田舎へハイキングをしたり、農家の招待で家を訪ねたり、少ない食料を分けてもらったり、捕虜がかわるがわるやってきてはアメリカ軍の飛行機からの配給品を分けたりした、これら全てのことは楽しい思い出となった。

56年後、私はあの村に戻りたいと切望し、当時の5週間の思い出が再燃したのだ。オーエン・ヘロンは私の親友で、もう一人のパイオニアである。ジャワで捕虜になったときは二人とも19歳であり、同じ収容所にいたのだ。その彼も、村に戻りたいという願いを抱いていたのであった。だが、問題が立ちはだかっていた。私は潜竜が九州のどこにあるのか探し出せなかった。何ヶ月も探し続けたが、日本領事館への手紙は無視され、オーストラリア戦争博物館は九州の捕虜収容所について何の記録も持っていなかった。日本の当局へのEメールをしたが成果はなかったが、ついに私は日豪協会理事の近藤芳一氏にたどり着くことができた。近藤氏は福岡在住のウエス・インヤードに連絡を取ってくれた。ウエス氏はここ何年かそこの捕虜収容所の調査をしているのだ。そう、ウエス氏は他の26の九州の収容所の詳細と共に第24収容所の名簿を持っていたのである。今、この詳細はオーストラリア戦争記念館に渡されている。収容所は「せんどりゅう」ではなく「潜竜」という江迎町の郊外の村にあった。それからEメールが私達3人の間で始まった。

4月に私とオーエンはそれぞれの息子をつれてタイの“クワイエット・ライオン・ツアー”に参加する前に、日本で8日間滞在することにした。私たちは東京で4日間滞在し、横浜の戦争墓地を訪ねることにした。そこには第24収容所でなくなった3人のオーストラリア人が埋葬されているのだ。それから列車で悪名高き捕虜収容所のあった直江津の平和公園を訪れることにした。近藤芳一氏は一晩、私たちを受け入れてくれることになっている。直江津から京都経由で福岡へ行く予定だ。私達はアメリカ人の友人ウエス・インジャードのゲストとなり、福岡とは反対長崎県にある潜竜捕虜収容所跡地へ行く予定である。

第24収容所で亡くなった3人のオーストラリア人は、過酷な長い船旅のために上陸後すぐに亡くなった。名前はR バンク中佐(認識番号QX 8060)とJ.Aマクナブ中佐、(同NX 30302)とO.V スキナー軍曹である。この3人の兵士の遺族で、私達が横浜の戦争墓地を訪れる時に、この人達のお墓の写真を撮ってもらいたい方は、3月6日までにご連絡ください。

ここに第24収容所から生還したと判明した114人のオーストラリア人のリストがある。駆逐艦パース乗組員:Charlie Goodchap, Frank Barnstable, Max Cowden,Victoria, 2/12 大隊 Bob Davis, 2/19大隊:Fred Asserである。これ以外の生存者をご存知ですか?どうぞ私の調査を利用してください。調査には280人の収容者名、収容所でのグループの写真、収容所内建物配置等があり、さらに日本訪問に際して得られるであろう詳細な事柄も連絡する予定である。

ニール

(和訳:内山 美代子)
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マクファーソンさん、オーウェンさん一行を
住友石炭鉱業本社へ案内して

長沢 のり

2OO2年4月12日のオーストラリア元捕虜のマクファーソンさん、オーウェンさん達の住友石炭鉱業本社訪問に就きましては、はじめ会社側に拒否の姿勢もありましたが、石塚会長が彼らの訪日仲介者として、「訪日の目的は会社への抗議ではなく、60年前一緒に働いた鉱夫たちにお礼を言いたいこと、また現在の会社の人達に昔の事を知って貰いたいため」と、粘り強く交渉されてやっと実現されたものでした。

私も元捕虜、会社の幹部双方ともに初対面ですので、どうなることかと不安だったのですが、その日、会社側は1951年に撮影された、炭坑の坑口や坑内の写真などをコピーし、オーストラリアに駐在していたという通訳の方(石炭事業部課長)まで同席して、元捕虜を待っていて下さいました。

現在、日本には一箇所の炭坑もなく、必要な石炭はオーストラリアから輸入しているということもあつて、マクファーソンさん達が話す、私には分からない「石炭堀り」の用語も、その方とはすらすらと会話がはずんでいました。当時、1メートル余りの低い天井の坑内で、1日10時間も働くことはつらかったけれども、鉱夫仲間が仕事のコツを教えてくれたり、危険を知らせてくれたり、大きな
落盤事故のあつた時には、かすかな地鳴りの音でいち早く自分達を鉱外に逃がしてくれた。それがなければ、今ここに私達は居ないとマクファーソンさんが言われた時、皆さんの目が潤みました。

そして驚くべきことには、会社の方々が野尻徳美さんという現在9O歳の元仲間の方を見つけ出して下さり、17日の現地での歓迎会にお招きしてあると言われました。

その日は盛大に歓迎会が江迎町で行われる筈です。時空を超え、恩讐を越えて和解の時が流れますように心から祈りました。

さて、住友石炭鉱業会社訪問に至るまでについて説明しますが、話は少しややこしく、炭坑は長崎県佐世保市の北にある江迎(えむかえ)という所にあつた潜龍(せんりゆう)炭坑、その当時の住友石炭鉱業株式会社が所有していた炭坑です。

オーストラリアの元捕虜マクファーソンさんとオーウェンさん達が忘れ得ぬ「潜龍」を訪ねたいと、「キュウシュウのセンデュウ」という僅かな記憶をたよりに日本外務省や大使館に所在を問い合わせましたが、なしのつぶてでした。

それでも諦めきれず上越市にある「上越日豪協会」の近藤芳一さんに連絡したところ、石塚会長がはじめて動いて下さったと言うわけです。上越日豪協会には近藤芳一さんという英語とパソコンの達人がおられ、たちどころに九州の捕虜収容所の調査をしておられるウェス・インヤードさんにアクセスされました。インヤードさんはすぐにマクファーソンさんと連絡を取り合って、ようやく今回の訪日の日程が出来上がったと言うわけです,石塚会長も事前に江迎町まで行かれて、迎える側の準備についてアドヴァイスをなされたと伺いました。

At British Commonwealth War Cemetery
保土ヶ谷・英連邦墓地にて(左から)
ニール、田村さん、長沢さん、笹本さん、オーエン

会社訪問の翌日は、横浜在住の私共が横浜(英連邦墓地)や鎌倉などをご案内しました。その後ご一行4人は直江津に招かれ、収容所跡地に造られた平和公園のモニュメントや資料館を見学、翌日新幹線で福岡へ向かい、大宰府のインヤードさんの家に石塚さんも含めた5人が泊まり、翌17日朝インヤードさんのボックスカーで江迎町に行かれた筈です。その強行日程には驚かされますが、石塚さん、近藤さんとインヤードさんの連携プレイとボランティア精神なくしては、到底実現は不可能でありました。


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IT的出会い---ニール・マクファーソンの場合

近藤 芳一

4月15日正午、私は内山さん、高岡から駆けつけたデビッドと一緒に直江津駅に着いた。ニール一行を出迎えるためだ。初対面ではあるが、まるでそんな気がしない。思い返せば、もう10ヶ月もメール交換をしていたのだ。

2001年6月、パースに住むニール・マクファーソンさんからメールが届いた。太平洋戦争中、九州の炭鉱で働いていた彼は、そこを再訪したい希望を持っていた。しかし、57年前のことではニールの記憶も定かでない。日本の在豪公館を含む各地の施設に炭鉱について問い合わせたが徒労に終わる。最終的に、キャンベラにある戦争記念館が、上越日豪協会なら何らかの情報を提供してくれるかもしれない、と当協会を紹介したのだそうだ。戦争記念館に紹介されるとは、当協会も有名になったものだ。嬉しい。

当初、私はニールがいた炭鉱や捕虜収容所を特定するのは不可能だと考えた。なぜなら、多くの炭鉱が散在する九州では、たくさんの捕虜が採掘作業のために送り込まれ、彼等を収容する場所も多かったからである。しかし、つてはある。インターネットを通して知り合い、お互いのホームページにリンクを張るアメリカ人を知っている。太宰府に住み、九州地方の捕虜収容所を研究し、ホームページで発表しているウェス・インヤードだ。さっそく、彼にニールを紹介した。

幸運なことに、ウェスはニールの名前を記した名簿を持っていた。そこから、彼が働いた炭鉱や捕虜収容所が判明したのだ。不可能と思われていたことが、そうでなくなる。ネットワークの力は本当に凄い、と実感した事例だ。

At the Peace Memorial Park
平和公園にて(4月15日)

lT的出会いが直江津駅で現実の出会いになった。やはり、面と向かって話をするのは楽しい。しかし、10か月間のメール交換に較べれば、24時間足らずの上越滞在はあまりにも短い。その時間を補うには、今度はパースで再会するしかないのかもしれない。それはそれで楽しいことである。パースは初めての地ではあるが、すでに友人がいるのだ。友人を訪ねる旅に勝るものはなし、は私の持論である。

今回の二ール一行の旅へは日豪協会ネットワークによる力強い支援があった。保土ヶ谷の英連邦墓地へは横浜の笹本さん、田村さん、長沢さんが同行されたし、九州ではウエスが出迎え、江迎町主催行事の通訳として、広島から小林さんが駆けつけてくださった。この強力なネットワークは今後の活動でも大いに力を発揮するであろうし、第二、第三のニールが現れることを期待し、またこのネットワークがフルに活躍できる機会があれば、と切望している。

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それでもなぜ戦争に行くのか?
(The West Australian新聞より)

アンドレ・マラン

Why?

今月の初めに日本の江迎町で、ニール・マクファーソンとオーエン・ヘロンが受けた歓迎の様子を見た人は誰も、2人の80歳の西オーストラリア人が特権階級の人なのか、又大物有名人なのか不思議に思ったことだろう。

ニールとオーエンはこの日のために何ヶ月も準備に費やし、二人が到着したときには市長や市議会議員を含めて大勢の人々によって盛大な拍手で迎えられた。その後、二人は公式晩餐会にゲストとして迎えられ、受け入れのホストとお土産の交換をし、大勢の人がニールとオーエンの二人とオーストラリアのために飲み交わした。

ニールとオーエンを受け入れる日本人のホストは、以前の敵に敬意を表して、待者や聖歌隊も揃えてのカトリックのミサも催してくれた。

地方紙や全国紙の取材班が大挙してこれらすべてを取材したため、翌日には二人の元捕虜の話題は日本人の新聞読者やテレビを見た何百万の人達の知るところとなった。

ファルコン在住のマクファーソン氏とケウデール在住のヘロン氏はそれぞれの息子イアン・マクファーソンとデビッド・ヘロンを伴って今回の旅をしたが、最初に日本に足を踏み入れたときの状況とは比べようもなく暖かい歓迎だったであろう。

それは1945年1月のことだった。冬のさなか、雪が積もっている海岸に病気でやせ衰えた人達がよろよろと上陸したのだ。

19歳でジャワで捕えられた時、ニールとオーエンはかの悪名高きビルマ鉄道の虐待と病気と不潔さの状況からの生還者であった。そしてその時、アメリカ人やイギリス人の捕虜と一緒に仲間のオーストラリア人と共に選ばれ、九州の住友が経営する炭鉱に捕虜として働いたのだった。

それは危険な環境の中で充分な食糧もなく、長時間の苛酷な労働を意味していた。しかしすさまじい鉄道労働の後では、捕虜にとってはそれほど苛酷なものではなかった。住んでいた小屋は暖かく居心地がよかった。そして、警備員によるつまらない「いじめ」は別にして、捕虜はかなり自由であった。

事実、一緒に働いた幾人かの日本人鉱夫は、捕虜に地下の危険で閉じ込められた状況の中で、いかに生き残っていけるかについての方法を教えてくれた。終戦が近づき、日本の戦況が悪化しはじめると、日本人鉱夫の弁当は捕虜の弁当よりも少なくなっていた。

8ヶ月間炭鉱で働いた267人の捕虜のうち、病死やその他の理由で18人が死亡したということはショッキングな数字ではあるが、この統計は日本人の捕虜よりもずっとましな数字である。

1945年8月16日、捕虜は警備員によって整列させられ戦争は終わったと告げられた。それは短い期間ではあったがマクファーソン氏にとって喜びの時の始まりであった。

捕虜はキャンプを引き継ぎ、アメリカ軍の飛行機から投下された補給物資も受け取った。田舎にハイキングに行ったり、時には招待に応じて農家を訪問して食料を分けあったりした。

数週間後、捕虜は本国へ送還された。マクファーソンは西オーストラリアへ帰国後、自分の身の上に起こったことについてはどんなに辛い事も隠さないことを決意した。

ニールとオーエンの二人はずっと親友なのだが、最近二人は九州に行こうと決めた。そしていくつかの困難を乗り越えて、息子たちと今回の訪問を実現することができた。

日本からのイーメールの中で、マクファーソン氏は日本で会ったすべての人たちが暖かく熱烈に歓迎してくれたと、述べている。

二人はまず、収容所で亡くなった3人のオーストラリア人のお墓を訪れた。日本人の受け入れ側のホストが用意した献花には西オーストラリアの野の花も入れられていた。

市民のレセプションでの話し手の中に、収容所の近くに住んでいた婦人が一人いた。

その婦人は皆の前でこう話した。戦争が終わったときには妊娠していて、栄養失調に苦しんでいたと。親切なオーストラリア人はアメリカ軍の飛行機から投下された食料をいくらか彼女に与えたのだった。「私たちはその赤ん坊にも会ったのだよ。」とマクファーソン氏は書いてきた。「彼は現在57歳になっているけれどね」。

他国の仲介人たちも含めて人々がいかに思慮深く、情深いかということを聞けば、そもそもどうして戦争など起こるのかと思うだろう。

(和訳:内山 美代子)

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