1944年12月15日、545人のリバーバレーロード収容所からのオーストラリア人捕虜はシンガポール港で阿波丸に乗船した。捕虜は全て死の鉄道のA
軍の生還者だった。11日後、焼け焦げのデッキの下に補強板を当てた船は、ボクシング・デイに日本に向けて出航した。1945年1月15日捕虜は雪の積もった真冬の北九州の門司海岸によろよろと上陸した。34人のアメリカ人を含め150人は、北九州の潜竜に向かった。
日本人鉱夫による数日間の訓練の後、捕虜は住友の経営する炭鉱の労働に適していると判断された。タイメン鉄道の恐怖や死、病気、不潔な環境そして虐待に比べれば、第24捕虜収容所の環境は5つ星のホテルのように素晴らしかった。小屋は居心地が良くて暖かく、そのうちの12の小屋は風通しが良かった。警備員のつまらない「いじめ」はともかく、地下の狭苦しい危険な環境での長時間労働を維持するには不十分な食料ではあったが、士気は高かった。我々が一緒に働いた日本人鉱夫は、危険な環境下でいかに生き残るかを捕虜に教えてくれた。他の労働地区と違って、懲罰は加えられなかった。戦争が終結に近づくにつれ、日本人鉱夫の弁当は捕虜の弁当よりも少なくなっていった。1945年8月16日、我々は整列させられ、「終戦の命令が出された。」と告げられた。やがて、捕虜は収容所を引き継いだ。アメリカ軍からは配給が投下され、おかげでその後の5週間が楽しい思い出となった。近くの田舎へハイキングをしたり、農家の招待で家を訪ねたり、少ない食料を分けてもらったり、捕虜がかわるがわるやってきてはアメリカ軍の飛行機からの配給品を分けたりした、これら全てのことは楽しい思い出となった。
56年後、私はあの村に戻りたいと切望し、当時の5週間の思い出が再燃したのだ。オーエン・ヘロンは私の親友で、もう一人のパイオニアである。ジャワで捕虜になったときは二人とも19歳であり、同じ収容所にいたのだ。その彼も、村に戻りたいという願いを抱いていたのであった。だが、問題が立ちはだかっていた。私は潜竜が九州のどこにあるのか探し出せなかった。何ヶ月も探し続けたが、日本領事館への手紙は無視され、オーストラリア戦争博物館は九州の捕虜収容所について何の記録も持っていなかった。日本の当局へのEメールをしたが成果はなかったが、ついに私は日豪協会理事の近藤芳一氏にたどり着くことができた。近藤氏は福岡在住のウエス・インヤードに連絡を取ってくれた。ウエス氏はここ何年かそこの捕虜収容所の調査をしているのだ。そう、ウエス氏は他の26の九州の収容所の詳細と共に第24収容所の名簿を持っていたのである。今、この詳細はオーストラリア戦争記念館に渡されている。収容所は「せんどりゅう」ではなく「潜竜」という江迎町の郊外の村にあった。それからEメールが私達3人の間で始まった。
4月に私とオーエンはそれぞれの息子をつれてタイの“クワイエット・ライオン・ツアー”に参加する前に、日本で8日間滞在することにした。私たちは東京で4日間滞在し、横浜の戦争墓地を訪ねることにした。そこには第24収容所でなくなった3人のオーストラリア人が埋葬されているのだ。それから列車で悪名高き捕虜収容所のあった直江津の平和公園を訪れることにした。近藤芳一氏は一晩、私たちを受け入れてくれることになっている。直江津から京都経由で福岡へ行く予定だ。私達はアメリカ人の友人ウエス・インジャードのゲストとなり、福岡とは反対長崎県にある潜竜捕虜収容所跡地へ行く予定である。
第24収容所で亡くなった3人のオーストラリア人は、過酷な長い船旅のために上陸後すぐに亡くなった。名前はR
バンク中佐(認識番号QX 8060)とJ.Aマクナブ中佐、(同NX
30302)とO.V スキナー軍曹である。この3人の兵士の遺族で、私達が横浜の戦争墓地を訪れる時に、この人達のお墓の写真を撮ってもらいたい方は、3月6日までにご連絡ください。
ここに第24収容所から生還したと判明した114人のオーストラリア人のリストがある。駆逐艦パース乗組員:Charlie
Goodchap, Frank Barnstable, Max Cowden,Victoria,
2/12 大隊 Bob Davis, 2/19大隊:Fred
Asserである。これ以外の生存者をご存知ですか?どうぞ私の調査を利用してください。調査には280人の収容者名、収容所でのグループの写真、収容所内建物配置等があり、さらに日本訪問に際して得られるであろう詳細な事柄も連絡する予定である。
ニール
(和訳:内山 美代子)
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