ニールからの最初の連絡 |
日本、九州、潜竜、第24収容所(元捕虜機関誌「有刺鉄線と竹」より) |
マクファーソンさん、オーウェンさん一行を住友石炭鉱業本社へ案内して (長沢 のり) |
IT的出会い---ニール・マクファーソンの場合 (近藤 芳一) |
それでもなぜ戦争にいくのか?(アンドレ・マラン、West Australian新聞より) |
ニールからの最初の連絡Subject: Australian inquiry
(和訳:内山 美代子) |
日本、九州、潜竜、第24収容所容
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マクファーソンさん、オーウェンさん一行を
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保土ヶ谷・英連邦墓地にて(左から)
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会社訪問の翌日は、横浜在住の私共が横浜(英連邦墓地)や鎌倉などをご案内しました。その後ご一行4人は直江津に招かれ、収容所跡地に造られた平和公園のモニュメントや資料館を見学、翌日新幹線で福岡へ向かい、大宰府のインヤードさんの家に石塚さんも含めた5人が泊まり、翌17日朝インヤードさんのボックスカーで江迎町に行かれた筈です。その強行日程には驚かされますが、石塚さん、近藤さんとインヤードさんの連携プレイとボランティア精神なくしては、到底実現は不可能でありました。
IT的出会い---ニール・マクファーソンの場合近藤 芳一 4月15日正午、私は内山さん、高岡から駆けつけたデビッドと一緒に直江津駅に着いた。ニール一行を出迎えるためだ。初対面ではあるが、まるでそんな気がしない。思い返せば、もう10ヶ月もメール交換をしていたのだ。
lT的出会いが直江津駅で現実の出会いになった。やはり、面と向かって話をするのは楽しい。しかし、10か月間のメール交換に較べれば、24時間足らずの上越滞在はあまりにも短い。その時間を補うには、今度はパースで再会するしかないのかもしれない。それはそれで楽しいことである。パースは初めての地ではあるが、すでに友人がいるのだ。友人を訪ねる旅に勝るものはなし、は私の持論である。 |
それでもなぜ戦争に行くのか?
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今月の初めに日本の江迎町で、ニール・マクファーソンとオーエン・ヘロンが受けた歓迎の様子を見た人は誰も、2人の80歳の西オーストラリア人が特権階級の人なのか、又大物有名人なのか不思議に思ったことだろう。
ニールとオーエンはこの日のために何ヶ月も準備に費やし、二人が到着したときには市長や市議会議員を含めて大勢の人々によって盛大な拍手で迎えられた。その後、二人は公式晩餐会にゲストとして迎えられ、受け入れのホストとお土産の交換をし、大勢の人がニールとオーエンの二人とオーストラリアのために飲み交わした。
ニールとオーエンを受け入れる日本人のホストは、以前の敵に敬意を表して、待者や聖歌隊も揃えてのカトリックのミサも催してくれた。
地方紙や全国紙の取材班が大挙してこれらすべてを取材したため、翌日には二人の元捕虜の話題は日本人の新聞読者やテレビを見た何百万の人達の知るところとなった。
ファルコン在住のマクファーソン氏とケウデール在住のヘロン氏はそれぞれの息子イアン・マクファーソンとデビッド・ヘロンを伴って今回の旅をしたが、最初に日本に足を踏み入れたときの状況とは比べようもなく暖かい歓迎だったであろう。
それは1945年1月のことだった。冬のさなか、雪が積もっている海岸に病気でやせ衰えた人達がよろよろと上陸したのだ。
19歳でジャワで捕えられた時、ニールとオーエンはかの悪名高きビルマ鉄道の虐待と病気と不潔さの状況からの生還者であった。そしてその時、アメリカ人やイギリス人の捕虜と一緒に仲間のオーストラリア人と共に選ばれ、九州の住友が経営する炭鉱に捕虜として働いたのだった。
それは危険な環境の中で充分な食糧もなく、長時間の苛酷な労働を意味していた。しかしすさまじい鉄道労働の後では、捕虜にとってはそれほど苛酷なものではなかった。住んでいた小屋は暖かく居心地がよかった。そして、警備員によるつまらない「いじめ」は別にして、捕虜はかなり自由であった。
事実、一緒に働いた幾人かの日本人鉱夫は、捕虜に地下の危険で閉じ込められた状況の中で、いかに生き残っていけるかについての方法を教えてくれた。終戦が近づき、日本の戦況が悪化しはじめると、日本人鉱夫の弁当は捕虜の弁当よりも少なくなっていた。
8ヶ月間炭鉱で働いた267人の捕虜のうち、病死やその他の理由で18人が死亡したということはショッキングな数字ではあるが、この統計は日本人の捕虜よりもずっとましな数字である。
1945年8月16日、捕虜は警備員によって整列させられ戦争は終わったと告げられた。それは短い期間ではあったがマクファーソン氏にとって喜びの時の始まりであった。
捕虜はキャンプを引き継ぎ、アメリカ軍の飛行機から投下された補給物資も受け取った。田舎にハイキングに行ったり、時には招待に応じて農家を訪問して食料を分けあったりした。
数週間後、捕虜は本国へ送還された。マクファーソンは西オーストラリアへ帰国後、自分の身の上に起こったことについてはどんなに辛い事も隠さないことを決意した。
ニールとオーエンの二人はずっと親友なのだが、最近二人は九州に行こうと決めた。そしていくつかの困難を乗り越えて、息子たちと今回の訪問を実現することができた。
日本からのイーメールの中で、マクファーソン氏は日本で会ったすべての人たちが暖かく熱烈に歓迎してくれたと、述べている。
二人はまず、収容所で亡くなった3人のオーストラリア人のお墓を訪れた。日本人の受け入れ側のホストが用意した献花には西オーストラリアの野の花も入れられていた。
市民のレセプションでの話し手の中に、収容所の近くに住んでいた婦人が一人いた。
その婦人は皆の前でこう話した。戦争が終わったときには妊娠していて、栄養失調に苦しんでいたと。親切なオーストラリア人はアメリカ軍の飛行機から投下された食料をいくらか彼女に与えたのだった。「私たちはその赤ん坊にも会ったのだよ。」とマクファーソン氏は書いてきた。「彼は現在57歳になっているけれどね」。
他国の仲介人たちも含めて人々がいかに思慮深く、情深いかということを聞けば、そもそもどうして戦争など起こるのかと思うだろう。
(和訳:内山 美代子)