ヘレン一行の直江津訪問と
保土ヶ谷英連邦墓地参拝

2001年4月13日〜4月15日


 The guests and JASJ members under the angels.


 

ヘレン一行来越のいきさつ
  (近藤 芳一)
感慨深い出会い
  (大嶽 理恵子)
ヘレンさん御一行歓迎会
  (田辺 よし江)
日豪交流会に参加して
  (佐藤 友紀)
ホームステイ受け入れ初体験!
  (今井 不二子)
ホームステイを受け入れて
  (武藤 洋子)
感動と感謝
  (阿部 寿郎)
保土ヶ谷英連邦墓地への旅行雑記  (内山 美代子)
ジェニファーの直江津・保土ヶ谷訪問記
  (ジェニファー・ガン)
  

 

ヘレン一行来越のいきさつ

近藤 芳一
Guests face the Cenotaph.
ロバートソン中佐の名前が刻まれる
平和記念公園豪州側碑を前にして

平和記念公園豪州側碑に名前が刻まれているロバートソン中佐、その息子、ジョン・ロバートソンさんから石塚会長へ直江津訪問者を伝える手紙が届いたのは2月初旬でした。今回の来訪者はロバートソン中佐のお孫さんを含む6名です---ヘレン・ロバートソン(中佐の孫)、ポール・ロバートソン(同)、ジェニファー・ギャン(同)、ルイ・アーメイ(ヘレンの夫)、アンナ・ディングリー(ヘレンのいとこ)、そしてスティーブン・ダウスト(ルイの友人)。

キャンベラに住むヘレンとルイ夫妻が、東京で勤めるルイの友人、スティーブンを訪ねる計画が今回の旅の発端でした。夫妻の旅行期間が日本での仕事と重なるロンドン在住アンナが計画に加わります。また、ロンドンからポールも来日することになり、最後に、シンガポールに住むジェニファーが姉との長い国際電話の末、同行することに決めました。

東京、京都、別所、松本を巡る旅程に直江津を加えたきっかけはヘレンの父、ジョンや伯母のマージョリーが話した平和公園開園式での経験と写真だったでしょう。さらに、祖父、ロバートソン中佐が眠る保土ヶ谷の英連邦墓地訪問は、私たちの友人で横浜在住の村松増美さんの好意的な申し出により実現したのです。

直江津での受け入れに関する打ち合わせには電子メールがおおいに威力を発揮しました。上越の私が発したメールにキャンベラのヘレンが返信し、それにまたロンドンのアンナや横浜の村松さんがコメントを加える、と言う具合です。同時に、上越でも日豪協会第二部会及び英語学習会参加者によるメーリングリスト上での受け入れ会議が進行し、各場面での役割分担とホストファミリー、それに上越からの保土ヶ谷訪問が決まりました。距離と時間を楽々と超越するメールの有用性には驚くばかりです。

しかし、いくら打ち合わせがメールでできても、実際に会って話をすることに勝るものはありません。メール上では「お客様」でしたが、実際に会って「友人」に変わりました。私たちの友人が新たにキャンベラ、シンガポール、カナダ、そしてロンドンにできたのです。「友人が住む国を訪問する旅ほど楽しいものはない」と、常々言っている私にとってはまた、訪れる場所が増えました。元捕虜から数えて第三世代の直江津訪問がこれからも続きますよう、また、彼らを受け入れ、世界にたくさんの友人を作り、その友人を再訪する若い世代の会員が増えることを切に希望しつつ、私の拙文を終わります。 

 

感慨深い出会い

大嶽 理恵子

今回のヘレン一行の直江津訪問には個人的に特に感慨深いものがあります。と言いますのは、彼らの伯母(ロバートソン中佐の娘)のマージョリーとは1995年の直江津訪問以来親しい友人関係にあり、これまでに2度シドニーの彼女の家に泊めていただいたことがあります。

1度目は1996年に日豪協会のメンバーと一緒の訪問の折り、2度目は髄膜炎を患って体が不自由になった彼女の見舞いに行った2000年春です。

筆まめで、リューマチの持病があるとは思えない細かな筆跡の彼女の手紙は私にとって英語の良いお手本でした。そんな彼女の手紙がぷっつり途絶えた1999年、心配していた私に彼女の娘のジュリー(ヘレン達のいとこ)からe-mail(電子メール)が来て、病気を知りました。

一時は命も危なかった様子。奇しくもお父さんのロバートソン中佐と同じ髄膜炎。しかし医学の進歩した現在は当時とは状況が違います。それ以降私とジュリーは彼女の容態について頻繁にメールを交換するようになりました。

マージョリーは刺繍と料理が得意で家族思い、良妻賢母を地でいったような人ですので、体が思うように動かず、目や耳も不自由な状態はイライラするばかりでした。快復もはかばかしくなく鬱状態になりがちな彼女を元気づけるために、「春休みに会いに行きます!」とメールを送りました。

At Kakushin-ji Temple.
覚真寺の碑について
説明を受ける来訪者

その後少しずつですが、快復して手紙も書けるようになりました。ヘレン達に会うのは今回が初めてですが、これまでに何度かマージョリーの手紙の中で触れられていたことがあるので、私にとっては全く初対面という感じがしませんでした。

ヘレンが機会があってケンブリッジで法律を学んだこと。昨年春にカナダ人のルイと結婚して、一旦はカナダに住んだあと、カナダ大使館に勤めるルイの転勤で3年間キャンベラに住むことになり嬉しいということ。昨年のクリスマスには翌日のボクシングデイに、ハーバーブリッジに上ったあと家に来てくれたこと。等々

ヘレンの父ジョンには2度、母のジルには1度お会いしました。ロバートソン中佐が直江津で亡くなったとき、ジョンはまだ1歳半でしたが、成長してとても優秀でオックスフォードに学び、家族の誇りだったとマージョリーが言っていました。

保土ヶ谷の英連邦墓地へは1度行ってみたいと思っていましたので、今回はよい機会でした。 横浜の外人墓地とは異なり、カウラの墓地(公園)を思い出させる、とても明るくて広々としたところで、オーストラリアの区画にはユーカリの大木が茂り、都会にあるとは信じられない静けさでした。

直江津捕虜収容所の元捕虜の第3世代が初めて直江津と保土ヶ谷を訪れたことは、若い世代に引き継がれたと言う点で記念すべきことだと思います。

ジュリーに取りあえずヘレン一行の前半、歓迎会等の様子をメールで送りましたら、即返事があって、彼女はマージョリーにすぐ電話して私のメールを読んできかせたということです。

13日のヘレンとジェニファーの様子は知らせましたが、その日ポールがどのような反応をしていたかお気づきだった方はお知らせいただけますか。
 

  


ヘレンさん御一行歓迎会

田辺 よし江

4月13日6:00pmよりセンチュリーイカヤホテルで ヘレンさん御一行の歓迎会が開かれました。思いもかけず多数の出席希望者があり、全部で39名という歓迎振りで ヘレンさん達も驚かれたという事です。

at welcome party

歓迎会にて
挨拶をする石塚会長夫妻

司会者内山さんのネイティヴと聞き紛うほどの流暢な英語で開会が宣されました。続いて石塚会長の挨拶。恒例の洋子夫人の通訳。洋子さんの英語が発せられた途端、私の隣に座っていた若い佐藤さんから思わず、
「すご〜い」
という声が漏れたのが印象的でした。続いてポールさんと近藤さんによる乾杯。いづれも我等日豪協会の活動が、若い孫の代にまで引き継がれてきた事を喜ぶものでした。

御一行6名とホームステイ受け入れ者の挨拶に続いて、八木さんからロバートソン中佐の人となりの説明があり、ミューディーさんの“Vale Lt.−Col.Andrew E.Robertson”“さらば アンドルー・E・ロバートソン中佐”(英訳八木弘)の詩が孫のヘレンさんにより朗読されました。ヘレンさんは涙していましたが、それは不幸を悲しむというより祖父の立派さ、それを語り継いでいる我々に対する感激の涙だと私は感じました。

会は山賀さんのハーモニカ 中川さんのバイオリンという素晴らしい伴奏でWalting Matilda(ウォルチング・マチルダ)とさくらさくらが合唱され、名実ともに心が交わったところで終盤を迎えました。この度は司会の内山さん、中川さんから趣向を凝らした、心の篭った歓迎会となるよう周到に御準備頂き、記念すべき歓迎会がもてた事を心より感謝申し上げます。

 

日豪交流会に参加して

佐藤 友紀

"Think globally, act locally"(「地球規模で物を考え、地域社会で活動する」)とはいうものの、実際にそれをするのはけっこう難しいものです。 でも今回出席させていただいた交流会では、その実践を目の当たりにしたような気がします。

私は今回初めて、日豪交流会でどのようなことが行われているのか教えていただきました。 オーストラリアの人となぜ交流があるのか、直江津の捕虜収容所にいた人たちはどのような想いで過していたのか、そして亡くなってしまったのか、 上越に住んでいながらもそのようなことを私は全く知りませんでした。 当日、お忙しい時間を割いてオーストラリアからロバートソンさんのお孫さんたち6名の方々がいらっしゃったことでオーストラリアという国が身近に感じられました。そして、争いによって命を落とされた方々や捕虜として自分の自由もないまま亡くなってしまった方々が他人としてではなく、 同じ人間として、悔やまれました。

今私たちは平和な毎日が当たり前のように暮らしていますが、これがずっと続いていくように自分にできることからしていきたいです。外国語を手段としてコミュニケーションがより図れるように、さっそく始めようと考えています。大学の友達にもここで学んだことを伝えたいと思います。今回は学生ということで配慮していただいて本当にありがとうございました。

 

ホームステイ受け入れ初体験!

今井 不二子

外国人を迎えるなんて、我が家始まって以来のビッグニュースです。
「お母さん、大丈夫?」
と子供達が言います。

日頃から一度ホームステイを受け入れて見たいと、あこがれてはいたものの、いざその日が近づいて来たらだんだん不安になって来ました。食べ物は?畳の部屋に布団?それとも洋間にベッド?頼りにしていた娘も帰れなくなり、洋子さんに泊まって貰う事にしました。キクノさんは朝5時に来てくれると言います。

They watch the video of JASJ at the Museum.
展示館で上越日豪協会の
ビデオを見る来訪者達

13日の午後直江津駅で、どきどきしながらアンナさんを迎えました。日本語ぺらぺらで気さくな可愛い人でほっとしました。平和公園などを案内し、センチュリー・イカヤで歓迎会を済ませ、高田の花見会場を一回りしてから、我が家へ来てもらいました。

今朝、淡路島を発って来たと言うアンナさんはかなりお疲れの様子だったので、お茶を一杯飲んだ後じきに布団で休んで貰いました。

私が翌朝5時に起きたら洋子さんも起きてくれました。間もなくキクノさんも自転車で来てくれて朝食作りです。

外国でホームステイを経験した人達は朝食なんか「コーンフレイクにミルクがあればいいのよ」と簡単に言いますが、私はたった一回の食事ですから、出来るだけの事をしてあげたいのです。でも若者向きの料理が苦手で、ましてや外国人!

料理好きの友人に相談して決めたメニューで、私はパンを焼き、自家製のレタスとフルーツ入りのサラダを作りました。キクノさんはかぼちゃのポタージュを作り、洋子さんはチーズときゅうりの生ハム巻きを作ってくれました。そしてデザートには友人からの差し入れのりんごのワイン煮と何とか朝食が出来上がりました。

なかなか起きないアンナさんをようやく起こして、女ばかり4人で楽しく美味しく食事をしました。

夕べ仕事で遅かった主人は、外国人は苦手のようでいつのまにかどこかへ消えていました。

アンナさんにも喜んで頂き、やっと話がはずみかけた所で、名残惜しくも帰りの時間です。

貴重な体験ができました。皆さんお世話様でした。  

 


ホームステイを受け入れて

武藤 洋子

「武藤さんホームステイしない?」
と近藤さんに言われ、私がオーストラリアヘ行くのかと思ったら、ホスト役だった。

「こんにちは」
といって我が家に現れた外国人は、話のテンポや内容が外国人離れしており、土産のメイプルシロップを手渡す時に、
「お口に合うかどうか分かりませんが」
と挨拶をしたのには驚き、わが息子よりお見事と感心。木造の居間ではカナダを思い出すといい、畳に布団はベッドより日本的で嬉しいという好青年。時節も丁度よく花見に行った。
「サクラ、ぼんぼり、屋台、城?どれもこれも凄い。こんな凄いの見たことない」
と喜んでくれた。缶ビールと焼き鳥で夜桜を楽しみ、ラーメンにも挑戦したいと意気込んだが、残念にもチャンスなし。

シャワーのあと日付が変更するまで喋った。得意の母国語で。

朝食は何でも大丈夫と言ったが、納豆は駄目で
「卵豆腐は茶碗蒸と同じですね」
といって、箸を上手を使って御飯を食べた。我が家の回りは田圃で静かなことと天気もよく山脈が大変気にいって、自然は心が安らぐと喜んでくれた。

睡眠を含んで12時間足らずの間だったが、カナダ・バンクーバーのこと、人達の暮らしを聞き、親近感が生まれてきた。以前お世話になったオーストラリアのホストが、
「洋子が来たことで遠い日本へ行かなくても、日本のことが分かるから嬉しい」
と言って下さったことを思い出し、この度私たちも同じようにバンクーバーを知り、楽しくなった。

英語教室で4年間もご指導を受けながら、日本語のできる人を希望するのは情けない話ですが、身の丈にあった活動で参加できました。ご配慮に感謝します。

 

感動と感謝

阿部 寿郎

13日の午後、ヘレンさんたちを直江津でお迎えし、15日の夕方、横浜、保土ヶ谷でお別れしたこの間の経験は、私の心にずしりと響く、強く深い感動の連続でした。平和公園で、お祖父さんの名前が記されている捕虜死没者の碑を前に泣き崩れるジェニファーさんとそれを支える姉のヘレンさん、ホテルでの歓迎パーテイでお祖父さんの死を悼むミューデイさんの詩を涙ながらに読むヘレンさんと彼女を支えるご主人ルイさんの姿など、私ども全ての人々の心に、深く刻まれています。

私の家は私と妻、それに息子の3人家族ですが、一階にはお客用に6畳と8畳の続きの和室があります。今回、訪問される方々がホームステイを希望していると知り、ヘレンさんご夫婦をお引き受けすることにしました。13日の夜8時過ぎ、歓迎パーテイが終わってから私の家へお連れしたのですが、ちょうど高田公園の桜が満開なので、途中、公園をぐるりと回って、車中から夜桜と沢山の花見客を楽しんでいただきました。

6年前、お父さんのジョンさんと叔母さんのマージョリーさんが平和記念公園の式典にお出でになったとき、私は偶然ながらお二人から色紙にメッセージとお名前を書いていただきました。その色紙をヘレンさんご夫婦にお見せして、その下にお二人からメッセージとお名前を書いていただきました。私にとってこの上ない貴重な記念品になりました。

お二人ともかなりお疲れのようでしたので早めにお休みになりましたが、多分、布団が短かったろうと思います。直江津駅へ行くのに我が家を8時に出発することになっていたのですが、7時までぐっすりお休みでした。でも1時間以内で、シャワー、朝食その他とすべて終えて、8時ちょっと過ぎに出発できたときには、ホッとしました。

8時41分直江津発電車でヘレンさんたちをお見送りしてから私はいったん帰宅して、11時過ぎの電車で上京しました。夕方6時に横浜のホリデイ・インのロビーで近藤さん、大嶽さん、内山さん、中川さん、そしてMM(村松増美さんの愛称)と山崎さんと落ち合い、おいしい中華料理とMMの愉快なお話やおしゃべりを楽しんだり、夜の山下公園を散歩したりしました。私のデジカメで撮ったヘレンさんたちの直江津到着から出発までの様子をプリントアウトしたものを、MMはじめ皆さんにお見せして、大変喜ばれました。

翌15日、午前中は山崎さんの案内で横浜市内を探索、観光しました。横浜港に臨む「よこはまコスモワールド」で、地上から112メートルの高さになる大観覧車に6人で乗ったのが良い思い出です。山崎さん、ありがとうございました。

午後2時頃、保土ヶ谷駅に着きました。ヘレンさんご夫婦とポールさんジェニファーさんがすでに来ていました。駅から車で10分ほどのところに、広大な公園の中に、きれいに整備された広い敷地の英連邦戦没者墓地がありました。MMの案内でロバートソン中佐のお墓へ行き、そこで私ども一同、ロバートソン中佐に心からの祈りを捧げました。そこで私が撮った数枚の写真(Eメール用の軽いものです。)を添付します。 
 

before their Grandfather's grave
ロバートソン中佐の
墓前にて
MM explains to us all.
MMが皆さんに英語で
説明されました。

MMのすばらしい説明に、私どもも深い感銘を受けました。ありがとうございました。ヘレンさんたちにとって忘れ得ない思い出となったことでしょう。お祖父さんのロバートソン中佐が生きていれば93,4歳になっているわけですが、立派に成長したお孫さんたちに、どれほど喜んでおられることかと思って涙しました。なおロバートソン中佐の奥さん、すなわちヘレンさんたちのおばあさんは、1982年に亡くなられたそうです。 

ヘレンさんたちの直江津訪問、保土ヶ谷のお祖父さんのお墓参りなどで私が撮った写真の全ては、データをコピーして近藤さんにお上げしてあります。訪問についての記事はいずれ近藤さんの「ささやかな・・・」のホームページに、何枚かの写真とともにアップされると思います。なお、私の撮った写真をご覧になりたい方は、私宛てDMされれば、何らかの方法でお見せします。また、いずれ写真アルバムとして説明をつけて、平和公園の資料館に展示したいと思っています。


 

保土ヶ谷英連邦墓地への旅行雑記

内山 美代子

4月14日朝、私達、大獄、中川、内山は、直江津からのロバートソンさん一行と高田駅で合流し、一路長野へ。普通列車の一画ににわか国際交流セクションが生まれました。日米英オーストラリア語が飛び交う中、取り残された2人の日本人の女性のお客さんは私達の方をちらちら見ながら肩身が狭そうでした。

私達は、ロバートソンさん一行の短い滞在中には聞けなかったことを話したいと、積極的に話しかけました。大獄さんは、お花見期間中限定販売の切手シートを皆さんにプレゼントし、さすがに国際交流のベテランと皆をうならせました。

日豪の友情乗せて春の汽車

私は、ヘレンと話をしていましたが、見上げるとポールとルイが話をしています。
「ケンブリッジは今年のサッカーは頂いたが、ケンブリッジの調子はどうだい?」
と言ったかどうだか。でも、ケンブリッジ卒のルイとハーバード卒のポールは確かにお互いの大学自慢をしていたようです。

ふと斜め前を見ると、ステイーブと中川さんがなにやら盛り上がっていて、おばさんの私としては若さの粒が飛んでくるようでまぶしかったです。

さて、そうこうしているうちに長野に到着。ここで一旦ロバートソンさん一行とはしばしのお別れです。彼等は、松本へと観光に向かいました。私達3人は新幹線で一路東京へと急ぎます。

東京に着いてからは、阿部さんお勧めのブリジストン美術館を見学する予定だったのですが、いざ行ってみると長蛇の列。1,2時間で順番が回ってくるとは思えず、急遽予定を変更して、お目当ての元町ショッピングへと切り替えました。元町は何回来てもそのエキゾチックな雰囲気には魅了されます。そして女性としては欲しい物ばかりがそろっています。モカソフトクリームを片手に3人のお上りさんは、あちらのブテイックこちらのジュエリー屋さんと次々にのぞいていきます。そして3人ともお気に入りの物をゲット致しました。特に中川さんは、「GAP」という若者のお店で大獄さんと内山を延々と待たせ、ついに十数着もの洋服をまとめ買い!

元町の春の午後ですプラダです

さて、買い物にも満足して、山下公園に行ってみようと言うことになりました。でも、ここで一度近藤さんと連絡を取ろうとケイタイをしました。すると、なんと近藤さんも山下公園に来ているとのこと。私の勘はすぐに働いて、きっと会えるなと思いました。

案の定です。外国人の大道芸を見ている輪の向こう側に、腕組みをしてまるで子供のように純真な眼で見物している一人の男性を発見。すぐに皆で驚かそうと言うことになり、彼の後ろに回り込んで一斉に
”ワ!!!”
近藤さんはあわてず騒がずさすがにそこは大人の男です。幼稚な我々に
”ヤア”
の一言でスマートにかわします。旅は男も女も素直にさせるのでしょうか?

日本語の練習もして大道芸

at a Chinese restaurant with MM & Tomoko

横浜中華街のレストランにて

さて、いよいよMM(村松増美さん)との会食の時間です。横浜ホリデエイインのロビーで待ち合わせです。最後に息せき切って現われた山崎さんの案内で飲茶のおいしい店、ブタまんのおいしい店、周富徳の店などを紹介されながら今夜の中華料理の店へ向かいました。そこは、とても混んでいたのですが、さすがに地元ならではの裏技を使って下さったようで、並み居る待ち人を後目に、スンナリとお座敷へ案内されました。山崎さんが、飲茶を一人一人好きな物を注文するというスタイルにして下さっておかげで、皆自分の好みも満足し、はたまた他の人の好物も味わえて、しめて4,000円也という、破格のお値段でした。


MMのこぼれる知識を吸収しながらアルコールも吸収しながらの楽しい夜が更けていきました。

MMの談義更けゆくチャイナタウン

食後は腹ごなしのお散歩です。夜の「港の見えるが丘公園」は話し相手が居なくてもロマンテイックなムードです。

そこで、突然ですが、MM語録です。
「紋切り型」とは何というか?それはcookie-cutter と言い、 cookie-cutter diplomacy と言うように使うと言うことでした。丁度日本語の「金太郎飴」の様な感じですね。

港の灯を眺めながら、恋人達にもちらりと視線を向けながら、知的な会話は弾んだのでした。

春灯を瞳に映す恋の人

2日目は、いよいよ今回の旅の本命である保土ヶ谷墓地への墓参の日です。しかし、ロバートソンさん一行は、午前中イースターサービスで教会へ行かれるため、集合は2時です。その間は、名tour conducter(ツアコン) 役の山崎さんが、気の抜けたわさびならぬMMのいないMM21(港未来21)を案内して下さいました。

シルクが保管してあった、赤煉瓦倉庫を見学したり、観覧車に乗ったり、横浜インターコンチネンタルの蒲鉾型のビルを見たり、シーバスの乗ったり、本当に楽しく港の雰囲気を存分に満喫した半日でした。
at MM21 without MM
MM抜きの、横浜MM21にて
山崎さん、誰の子供?

その間、山崎さんの気配り、用意周到さに全員声もなく、ひたすら感心するのみ。たとえば、写真を撮ると言えば三脚が出てき、のどが渇いたと言えばお茶が出てき、チケットが余ればもったいないと言って東の人に分けて上げ、お腹がすいたと言えば西のレストランを見つけるという具合の活躍でした。それも、極めて迅速にしかもスムーズにです。もしかして彼女は生まれながらのlogistics(まとめ役)?

やがて、2時30分、保土ヶ谷駅で全員集合。お墓に捧げるお花を買って、タクシーで一路お墓へ。余りきれいに整備され、お花も植えられているので、まるで外国に来ているようでした。

皆で一緒に、A.E.Robertson(A. E. ロバートソン)さんのお墓を捜しました。その時お墓は国別に分かれていてこんなに多くの国の人が戦没されたことを認識しました。戦争の悲惨さに胸が痛くなります。ようやくロバートソンさんのお墓を見つけました。日本のお墓と違い、墓碑には、家族の死者に対するメッセージがそれぞれの思いで表現されています。ロバートソンさんの碑は残念ながらご家族への通知がされないうちに作成されてしまったため、ご家族からのメッセージではなく「Duty Nobly Done] (「職務気高く遂行されし」)という言葉が刻まれていました。正に彼の生き方にふさわしく印象深い言葉でした。

ロバートソンさん一家がお花を供え、みんなでしばらく黙祷をしました。お孫さん達の瞳には涙が浮かんでいました。

MMからは、戦争にまつわる話が語られ、タイムスリップしたような時間を味わいました。

ユーカリの樹が、ふるさとオーストラリアの風を運んできているようでした。どうぞ安らかに!

ユーカリの木陰に眠る墓碑ありき

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ジェニファーの直江津・保土ヶ谷訪問記

(和訳:田辺 よし江)

2001年4月、私は直江津の平和記念公園を訪れる機会を得ました。私の祖父は、アンドリュー・ロバートソン中佐といい、オーストラリア軍の指揮官をしていましたが、ここにあった捕虜収容所での最初の死没者だったのです。

私の姉のヘレンと夫のルイは、日本行きをしばらく前に決めました。直江津を訪問し、友人のスティーブに会うためです。兄のポールと従妹のアンナは同行する事にしましたが、私は初め行けそうにもありませんでした。結局直前になって同行する事になり、今は日本に行けて本当に良かったと思っています。

日本へ行く前は、祖父の事を余り良く知りませんでした。祖母は祖父のことを語るのは辛かったようで、結局祖父のことは余り気にも留めずに来てしまいました。日本行きが決まった時、私は父に祖父がどんな人だったのかを聞きました。祖父が亡くなった時、父は2歳だったので記憶には残っていませんが、他の人から聞いた話を私にしてくれました。

私は、直江津捕虜収容所から帰還した、何人かの豪州兵の日記を読みました。そこでの生活は、想像を絶するものでした。そして、夫を失って、祖母や子供である父たちがどんなに苦労をしたのか、祖父がどんな体験をしたのか、この時初めて考えが及ぶようになったのです。

そんなことがあったせいで、直江津に着くまでの電車の中、何となく気が重かったです。同時に平和記念公園では、どんな気持ちになるかしらと心配でした。一方、日本の人とどうやってコミュニケーションをはかればいいかという現実的な心配もありました。私の知っている日本語は「ありがとう」と「こんにちは」だけなのですから。

しかし、それは杞憂に過ぎませんでした。駅に迎えに来てくれた上越日豪協会の皆さんは、とても上手に英語を話されたからです。親しみを込めて、「直江津へようこそ!」と温かく歓迎してくれましたのです。一緒にアフタヌーンティーを楽しんだ後、平和記念公園を訪ねました。私たちは、展示館で平和記念公園が出来たいきさつを紹介したビデオを見ましたが、日本語のナレーションを通訳してくれたのは、従妹のアンナでした。

around the Australian Cenotaph

豪州側碑を囲んで

その後、展示を見て回りましたが、感動的な経験でした。特に私は、二階にある猪股浩一氏が描いた二枚の絵に、心打たれました。次に、追悼碑に祈りを捧げましたが、その折、祖父の冥福を祈って花をご用意下さったお心遣いに、深く感謝いたします。私たち全員感動を分かち合い、そこに花を手向ける事ができた時、晴れやかな気持ちに包まれたのです。

平和と友好の像は、頭上高くそびえ、私たちに力強く訴えていました。オーストラリアと日本との間に、新しい友情を育くんで行かなければならない。過去の過ちを、二度と繰り返してはならないのだと。次に訪れたのは、覚眞寺でした。当時そこには、後に横浜に英連邦墓地が出来るまで、捕虜の遺骨が、ある僧侶によって安置されていたのです。捕虜たちの遺骨が安らかに眠れる所があったことを、本当に嬉しく思いました。

上越日豪協会の皆さんは、私達のために素晴らしい歓迎会を開いて、和風、洋風料理でもてなして下さいました。それぞれスピーチをしたり、乾杯をしたり、忘れられない夜となりました。夕食会のみならず、何と皆さんは記念品までプレゼントして下さったのです。それを見るたびに、今回の訪問を思い出すことでしょう。

私たちは、協会のメンバーのお宅に、それぞれホームステイする事になりました。日本の家庭に泊まるなんて、めったに出来ない体験です。皆さん心から歓待してくださり、私は田辺よし江さんのお宅で、その夜は他の上越日豪協会のメンバーとも語り、素敵な夜を過ごす事が出来ました。彼女の心遣いに、私のお土産で十分お礼が出来たのかしらと心配です。

at their grandfather's grave

祖父の墓石を前に

翌朝直江津を発って、その後横浜の英連邦墓地を訪れました。直江津から協会のメンバーも数人、遠路はるばる来て下さって、祖父ロバートソン中佐が眠る終の安息の地に、皆友情の絆で結ばれた思いを共にしながら、祈りを捧げました。連邦墓地はとても美しく、穏やかでした。私の祖父への思いも、いつしか安らかなものになっていました。

祖父がこのような美しい地に眠っているということは、私の慰めであります。
しかし、もっと慰めになるのは、上越日豪協会のような、日本の皆さんが、オーストラリアとの友好関係を結ぶのに、このように努力してきているという事実です。それぞれの戦没者の墓を見て、戦争のために若くして命を落とした者たちの、個々の物語に思いをはせました。カウラにも、何百という日本兵の墓がありますが、彼らにも同様にそれぞれの物語があるのです。戦争によって、尊きものが失われます。再び起こる事のないよう、私達は出来うる限りの事をしなければなりません。

旅行から帰って、私達はお互いに、どれほどこの度の旅行での体験を語り合ったことでしょう。時がたつにつれて実感してきました。上越日豪協会が記念公園を作ったご苦労、日本とオーストラリア間の友情と理解を育んで来たご苦労を。皆さんの活動は、価値のある感銘すべきものです。私は、活動に係わっていらした皆さんに、尊敬の念を禁じ得ません。

私はあと数年、シンガポールに住むことになりますが、将来オーストラリアに日本からのお客さんを、迎え入れたいと思っています。出来ればそれまでに「こんにちは」「ありがとう」の他にも、話せるようになりたいです。でも、友情と尊敬こそが、世界共通の言語ではないでしょうか。そして私は、直江津への旅行によって、皆がこの世界共通言語を、より理解するようになったと思うのです。

ジェニファー・ギャン
2001年5月