挫折の銃弾
岡森 利幸
1、卒業
駒込雅也は、長崎県佐世保市の温暖な地に育った。東シナ海を望む風光明媚な地で、観光客もその付近をよく訪れた。
父は公務員で、佐世保市役所関連の職場に長年勤めた。毎日一定の時間に出勤するような、まじめで地味な人柄だったという。一定の収入があり、五人の家族がごく普通の生活をしていた。妹と弟がいた。
近所の人が、その少年時代を思い出して話した。
「昔はきちんとあいさつをする、いい子だった」
「おかあさんがあの家を取り仕切っていました。子どもたちのことはかわいがっていて、雅也さんをマサ、マサと呼んで、甘やかしているように見えましたよ。お父さんはきつい感じで、よく雅也さんは怒られていましたよ」
家族は、カトリック教会に通う信者でもあった。雅也は、地元の教会で生後間もなく洗礼を受けた。母親が熱心な信者だったこともあり、高校まで、毎週ミサに行っていた。
高校の級友の一人は、雅也に、「お前も聖書を読めよ」と勧められたことを思い出した。
「そういうきみは、どれほど読んでいるんだ?」
「全部は読んでいないさ。おもしろそうなところだけさ」
高校では、概して「普通の子」だったという。当時の担当教諭や同級生たちは、雅也の印象をこう話した。
「温厚で、おとなしい」
「口を荒らげて怒ったことはないし、けんかもしたことがない。だいたいニコニコしていた」
その反面、印象の悪さを指摘する者もいた。
「友達付き合いは狭く、社交的ではなかった」
「駒込さんは、影が薄くて暗い。友だちは多くはなかった。消極的で自分からは話さない。独り言が多かった」
休み時間などには教室で悪魔を崇拝する儀式を好んで話していたという。
「黒ミサを話しているときの表情は暗く、真剣だった。ぼくは、不気味でかかわりたくなかった。彼は友人にはしたくないタイプだった」
卒業間際に、雅也が万引で謹慎処分を受けたことを耳にしていた同級生もいた。
「表面的にはそつなくこなすが、陰では何をやっているか分からない雰囲気があった」
数少ない友人の一人、加藤修は「自分の気持ちをあまり話さず、人付き合いは苦手だった。昔は『何々になりたい』と話していたが、最近は将来のことは話さなくなった」
加藤は雅也の小学校時代からの友人で、将棋や釣りの仲間だった。9年前の結婚式では、「口下手のあいつが緊張しながらも、一生懸命お祝いの言葉を述べてくれましたよ」というほど、雅也は「無二の親友だった」という。また、今年(2007年)の正月には子どもがお年玉をもらい「やさしい男だった」と話す。
「今年の1月から8月くらいまで東京に行っていました。私の祖母が3月に亡くなったとき、葬儀には間に合わなかったのですが、わざわざ東京から来てくれました」
雅也は1989年に地元の工業高校を卒業した後、岐阜県の家電量販店に就職するとともに、同じ県内の夜間短期大学に入学した。家電量販店は、学費を稼ぐための一時的な職場のつもりだった。卒業するまでの2年間の辛抱という気持ちがあった。
「マサ、岐阜へ行くんだってな。岐阜はここと比べたら大都会かもしれないな。都会暮らしもいいが、ホームシックになるなよ」
「帰りたくなっても、ここからは遠いから、簡単には帰れそうもない。どこか遠くへ行きたいという思いもあってね、ハハハ」
「就職先は、商売をやっているところだろ。工業高校を出て、畑違いのところへいくわけか」
「扱っている商品はすべて工業製品だから、関係なくもない」
「自分の学んだことが、少しも活かされないようなら、むなしいね」
「でも、何とかなると思うんだ。とりあえず学費を稼ぐためだから、そこがだめでも、働くところは他にいくらでもあるさ」
「仕事というのは単純ではなくて、実際に仕事をしてみなければ分からないようなことがいっぱいあって大変だとおやじがいっていたが……」
級友たちと、期待と不安の入り混じった、そんな会話を交わしたことも、ほとんど忘れた思い出になった。
雅也が通った高校は進学校ではなかったから、級友たちの中には、家業を継ぐもの、あるいは地元で職を見つけたり、学校の紹介で近隣県に進出してきた有力な大企業に採用されたりするものが多くいた。それぞれ着実な一歩を踏み出していた。
高校時代から雅也には、就職に対して迷いがあった。学校を出れば、社会で働くことになるが、何をして働いて行けばいいのかわからなかった。特に希望の職種があるわけではなかった。級友には、あえて将来の希望を口に出したが、自分の好みや憧れを言っただけで、その職種が自分に合うのかどうかの確かな信念や根拠があるわけではなかった。そんな話は常にふらついていた。今自分は何でもできるという自信とともに、自分にぴったりの職種や職場があるだろうかという不安があった。世間では、対人関係でつまずいて辞める人も多いと聞いていたが、具体的に、対人関係の問題とはどんなことか想像もできず、わずらわしいことだと思っていた。
短期大学に進学することで、就職の問題は先延ばしすることができた。それを卒業するときに自分の本業に就ければいいと考えた。短期大学であっても、卒業すれば、就職に少しは有利になって収入が確保され、社会的な地位も高まる――そんな漠然とした思いをもった。状況によっては四年制の大学に編入することも可能かも知れないという期待もあった。中学・高校でも、勉強は好きではなかったが、そこそこの学力があったから、教師や両親の勧めで、進学することにしたのだ。受験勉強では、何の役にも立ちそうもない、しょうもない知識ばかりを頭に詰め込むことに抵抗を覚えながら、気の進まないまま、机に向っていた。
入試では、第一志望の大学に落ちた。雅也はその大学に入りたかったから、落胆した。岐阜の短期大学は第二志望でパスしたのだが、落胆を引きずっていた雅也にはレベルが低いと感じられた。それでも、両親は進学を喜び、入学金や学費を両親が出してくれることになった。雅也は両親の期待の大きさについては感じずに……。
都会には、憧れがあった。一人で見知らぬ町を旅するように心細さと不安の中で、都会なら、自分のやりたいことをみつける可能性が無限大にあると思った。
大学の近くにあったアパートの一室を借り、大学と家電量販店の職場とアパートの三角形を行き来する生活に入った。親元を離れての一人暮らし。掃除洗濯、食事の用意や片付け、風呂に、ゴミ出しを一人でしなければならいわずらわしさは覚悟の上だったが、そこには自由があるはずだった。親の仕送りだけでは生活費がまかなえないという経済的制約があったけれど、妹、弟の養育のために、家では生活費に余裕がないことがわかっていたし、このときには親には頼りたくないという意地のようなものがあったから、もっと仕送りしてくれとはいいたくなかった。
奨学金をもらう方法も考えられたが、雅也の学力では奨学金がもらえないことが分かった。でも、金ならば、仕事して稼げばいいことで、親からは最低限度の仕送りだけでよいと思った。
仕事には、熱中できるほどのおもしろさはなかった。あるていど忙しければ、仕事のつまらなさを忘れて仕事に取り組めたのかもしれなかったが、それほど忙しい職場でもなかった。家電量販店での仕事は、雑用と思えることばかりだった。人に指図されたことを、こなしていくだけだった。この仕事は自分には向かないという思いを入社早々持った。
大学では、特に親しい友人もできず、クラブ活動をする余裕もなく、一人で過ごすことが多かった。一学年の最初のうちは授業にきちんと出ていたが、自分のペースで勉強するのならともかく、授業形式の勉強では、おもしろくなかった。大学に入れば、もっと自由があると思った。学問を身に付け、多くの知識を得ようとする意欲も起こらず、それぞれの科目の試験をパスして単位を取るために汲々と勉強しているだけのことでは、高校と変わりなかった。
昼間は店員、夜間は大学生を両立させることは、生易しいことではないことは分かっていたつもりだった。が、次第に勉学に対する熱意が薄れ、ついつい欠席するようになった。
そんなとき、家電量販店のチェーン店で新しい店に転勤の指示が来た。転勤を拒否するわけにも行かなかった。期間契約社員の身分では、転勤を了承するか、辞めるかのどちらかの選択しかなかった。新しい店は県内にあったが、そこからは、退勤後に、大学に通うことがさらに難しくなった。
新しい店で働き、大学で夜間の授業を受けると、帰りは深夜になった。朝、目覚めても、すっきり起きられず、ぎりぎりまで寝床から起き上がれない習慣がついた。仕事で遅くなると、夜間の最初の授業には出られなくなってしまった。
大学2年のとき、必修科目を次々に落とした。欠席しがちな授業であったのに、ろくに勉強もせずに試験に臨み、落第点を取ってしまった。第1時限目に授業のあった必修科目も出席数不足で落とした。
追試ぐらいでは追いつかず、卒業が一年延びてしまうことが確実になった。今のような生活では、3年たっても卒業できるとは思えなかった。両親にさらに学費を出してくれとも言えず、退学を決意した。
退学するためには、指導教授に同意を得ておかなければならなかった。教授の研究室を訪ね、退学を伝えた。
「今学期で退学することにします」
「ん? それは惜しい。きみはもうすこし出席率をよくすれば、卒業できるよ。もう少しがんばって勉強すればいいんだ」
「勉強する意欲も金もないんです」
「そうか、しかたがないな。意欲さえあれば、満員電車の中でも勉強はできるんだが……。これからどうするんだね?」
「資格を取るために、自分で勉強したいと思います。資格を取って、いい仕事を探します」
「決意が固いのなら、私からはもう何も言わないが、退学の手続きだけはきちんとしたまえ。そうしないと、授業料が自動的に継続して引き落とされるから」
「はい」
雅也は肩の荷を降ろした気分になった。大学での授業はうんざりしていたのだし、もう大学に通わなくてもいいことになった。しかし、大学を卒業するという進路からは大きくそれてしまった。両親には、大学を中退したことをしばらくの間、黙っていた。
やがて成人式があった年の正月、両親が雅也を一時的に実家に呼び戻し、オーダーメードのスーツをあつらえてくれた。その仮縫いのとき、雅也は無表情で母に告げた。
「母ちゃん、おれ、大学を中退したよ」
母は、声も出せず、明るかった顔を、みるみる曇らせた。
2、転機
駒込雅也は、家電量販店で仕事を続けるのは不本意だったが、結局3年いた。最初は店員としての仕事だったが、接客には向いていないとされ、途中から、在庫管理、返品、下取り品の処分を任された。
「マサ、そんなところに突っ立ってないで、はよ、手伝わんか」
雅也は、身長が180センチと高かったので、つねに目立った。身長は高くても、職場での立場は常に低く、下っ端だった。職場では身長が高いことで損ばかりしていると思っていた。自分の身長の高さで得していると思うのは、満員電車の中で、人より首ひとつ分、頭を出ていられることだけだった。
仕事に熱心に打ち込む気にはなれなかった。安い金のために〈こきつかわれる〉という思いを強くした。家電量販店は、人件費を少しでも安くしようとするから、働くものにとって労働条件はやさしくない。身を削るような仕事ばかりで、アパートの自室に帰ってくると、ぐったりして何もする気がなくなった。ただ、下腹のあたりがうずいた。
〈いつかは結婚したい。できれば25歳までに……〉 ひざを抱えて眠るしかなかった。
〈下積みの、なんと長い人生なんだろう。おれの一生も、おそらく親父のように、年を取って体力も気力もなくなるまで働くことになるのだろう〉と、うんざりした気持ちにもなった。
〈おやじは、以前は元気で、うとましいほど厳格な人だったが、最近はめっきり弱くなった〉 おやじに対しては反発していた雅也だったが、社会に出てから、やや哀れむような気持ちを抱くようになった。
家電量販店では、給料がもらえるから、働いていただけのことだった。自分が働いた分の会社の利益の大半は、「ほとんど何もしていない上層部の人たち」に吸い取られてしまう仕組みになっているのを思うと、高が知れた給料のために働くことに「空しさ」を覚えた。
他人から見ると、いつもボーとしていた。仕事に身が入らないから、注意が散漫になり、自分でも信じられないミスを時々しでかした。
気に入らないことには、露骨にいやな顔をして、指図する側のものが、たじろぐこともしばしばあった。
「使いにくいやつだな」
周囲のものは、親切に仕事のやり方を教える気にならず、雅也も細かいことを聞こうともせず、結果的に自己流のやり方で進めてしまい、結局失敗を重ねていた。
「それ、みたことか。仕事のやり方を知らない、ど素人めが……」と、黙って冷笑するようになった。
車が使えれば、交通手段がより速く便利になり、大学に授業にも遅れずに、退学せずにすんだかもしれなかった。車を買い、維持するだけの金はまだなかったが、運転免許を持つことを目指した。車の免許があれば少しは就職にも有利になるだろうと思った。
〈履歴書の資格欄に、二種運転免許取得と書けるのだ。車があれば、行動半径も広がり、人ごみにまみれた公共の交通機関に制約されないですむ〉
しかし、雅也には、運転教習所での思い出は、決していいものではなかった。学科はともかく、実技の教習では、車より教官に気を使わなければならないことを知るまで、いくつものいやな思いをさせられた。ある教官は、もう言いたい放題にしゃべり、少しでもブレーキ操作が遅れたり、コースがそれたりすると、けなしまくった。でも、口の悪さとは裏腹に、終了後に教習点は案外いい点をくれた。別の教官は、ふんぞりかえり、何が不満なのか、むっつり黙り込んで、好きなようにやらせるだけ。そんな教官は、教習時間が終わるとき、講習の達成点を1点もくれないでさっさと車を降りてしまった。駒込雅也はあっけにとられながらも、〈次回には、あいつを絶対指名しない〉と怒りがこみ上げた。1点ももらえないのでは、次の実技に進めなかった。
最初に対面したときの挨拶の仕方が悪かったのだろうか、と思い当たっても、駒込雅也は、高い授業料を払っているのだし、こちらはお客さまなのだから、ぺこぺこと頭を下げたりもしたくなかった。こびへつらうようなことはしたくなかった。しかし、教官にとって、教習者は運転の下手な「ど素人」であり、教えてあげる生徒にすぎない。教官は、教習所に雇われている従業員であっても、一つの車の中では「最高指導者」なのだから、高慢ちきな態度の若造には教える気がしないのだろう。
雅也には、横柄な態度の教官ばかりが目に付いた。この教習所には、ろくな教官がいないことに、嘆くというより、内心腹を立てた。教官たちはそれを敏感に感じとるようだった。数カ月して、教官の教え方に我慢がならなくなり、毎回支払う金も乏しくなったから、その教習所を止めた。一つの教習所を途中で止めると、また一からやり直しになるのだが……。
次の自動車教習所でも、似たり寄ったりの教官に出会ったが、教習費用が惜しかったから、さすがに我慢を重ね、何とか免許取得までこぎつけた。最終実技試験では、だれにも文句を言わせないほどの運転技術を見せてやった。ようやく運転免許が交付された。教官にいじめられながらも、自分の実力で免許をとったという自信がわいてきた。一つの資格が取れたことでうれしかった。
けれど、運転免許を持っていることだけでは、昨今では当たり前のことであり、就職に有利になることはほとんどなかった。
運転免許を得たことを機に、電気店を辞め、名古屋へ行った。名古屋で看護助手の仕事に就いた。医療に関心が向いた。看護助手は、資格を必要としないかわり、給料は安い。仕事の内容も、病院で看護師が医療行為をする以外の比較的単純な、いわば、雑用的なものだ。雅也にとって、きつい仕事ではないのだが、楽しい仕事でもなかった。給料が安いことが一番の問題だった。これを一生続けていくわけには行かなかった。
名古屋は暑さと寒さの差が大きい、喧騒の大都会だった。都会の空気、水、そして人々、雅也にとって、どうしてもなじめなかった。空気の汚れは、鼻がつまったり黒いものが出てきたりすることから、よく分かった。都会では、体も汚れ易い。風呂に入らないと、そのうち体が腐ってしまいそうだった。水道の水は、清浄さがまるでなく、そのまま飲む気にはなれなかった。お湯を沸かしてお茶にして飲んだ。
都会では、圧倒的な存在感をもって、多くのビルが垂直に聳え立っていた。その中で、多くの人がうごめいていることが外からではうかがい知れないような不気味さがあった。夜になれば、冷たい光を放つ人工的な明かりが外にも満ちあふれていた。
そして、都会には、耳をふさぎたくなるような喧騒があった。買い物で商店に入れば、聴きたくもないような音楽を押し付け、早口で、いいことづくめの宣伝文句を連ねていた。道路からは、びゅんびゅん走る車のエンジン音やタイヤのノイズ。ここに住む人は静寂が嫌いらしい。聞きたくもないラジオならばスイッチを切ればいいが、街中の騒音を切るスイッチはなかった。落ち着いて食事のできる店も少なかった。
都会に住む人々はほとんど黙々と歩き、電車やバスの中ではそっぽをむいて、携帯電話の小さな画面に見入り、あるいは上の空でイヤホンの音を聞き、そばを通る他人のことには無関心を決め込んでいた。
雅也が仕事から帰ってきて、ワンルーム・マンション(本来のマンションの意味とは程遠いシロモノ)の締め切った窓、低い天井の狭い空間の中でも、やっと一息つく思いをもった。
一人暮らしで、食事も不規則になっていたから、体が健康なことが雅也の取柄の一つだったが、冬の寒さにふるえ、風邪を引きやすくなった。病気で寝込むと、〈人知れず、このまま死んでしまうのではないか〉という思いにも駆られた。
夏の暑さには、ばてた。エアコンの聞かないアパートの一室は、いたたまれないほど暑さがよどんだ。万年床の布団の上で、裸で寝ていても、暑さでよく眠れない夜が続いた。
名古屋での看護助手の仕事は3年ほどで辞めた。1995年に通信教育の放送大学で発達教育の勉強を始めた。
25歳のとき、東京に移った。都内の病院で同じ看護助手の仕事に就いた。病院の関係者は、
「アルバイトで週五日、朝の八時から夕方四時まで、シーツを敷いたり、患者さんの移送をする仕事でした。時給は九百円以下だったと思います。特に問題を起こした記録はないので、自己都合で退職したはずです」と話す。
車の運転免許とともにどうしても取りたいと思っていたのは、船舶の免許だった。釣り船を操舵し、沖に出て魚を釣ることが、一つの夢だった。ようやく小型船舶の免許も取った。
資格を取るためには、看護助手は、都合のよい職業だった。看護助手自体には、資格は要らない。アルバイトまたはパートとして雇われ、時給制で、月一回まとめて銀行に振り込まれた。社会保険も雇用保険もないから、手取りは時給分がほとんど丸々もらえた。時給は、都道府県がそれぞれ定める最低賃金よりましという程度で、生活するのがやっとのレベルで、遊ぶための余裕はなかった。余暇は、資格を取るための勉強をして過ごした。自分が働くことで世の中のためになり、わずかながらも自分に金が得られた。
資格を得ることは、自信につながった。勉強の成果が着実に現れた。〈これでよい仕事が得られるはず〉だった。自分の可能性が広がることで、ひとつ資格を得たなら、また次の資格を目指した。でも、自分に合うような仕事は見つけられずに、日々を送っていた。
都内の病院での看護助手を辞めてから、新たな職を探した。ハローワークに何度も足を運び、求人先の面接を何度も受けた。しかし、これといった職は見つからなかった。〈ここでもいいかというレベル〉の職種で面接を受けても、ことごとく不採用になった。不採用になる理由が分からなかった。他人の目から見た自分がどのような姿であったのか想像できなかった。
〈自分の態度が傲慢だったか……。就職できないなんて、こんなはずはない〉
雅也は、〈わずかな金を得ることのために、自分は実につまらないことをしていたし、これからもそれが続くかもしれない〉と思った。
〈自分のしたいことはなんだろう。金さえ得られれば、何でもいいのだろうか。とりあえず生活できればいいのだろうか〉
〈自分に合った、何かおもしろい仕事はないものだろうか? 自分には何ができるのだろうか〉
何でもできるという自信と、〈ひょっとして何もできないのかもしれない〉という不安が付きまとった。
雇用保険もなく、収入がまったくない生活を数カ月していたら、わずかな蓄えがすぐ底をついた。
雅也は眠れない日が続き、疲れ果てた。食事もさらに不規則になった。満足に食べられず、ひもじさが募ってきた。次の仕事を探す気力も金もなくなり、東京のアパートに一室に閉じこもるようになった。名古屋以上に都会的な東京の街を歩くのは、雅也には大きなストレスとなった。
家賃を滞納、光熱費、電話、水道代の支払いも滞ってきた。消費者金融から借りようとしたが、無職の一人暮らしで、返す当てがなく、信用もないとなると、大して借りることはできなかった。
大家が、何度催促しても家賃を支払わない、支払えなくなった雅也に、業を煮やして、実家に連絡した。
もう電話も使えなくなっていた。手紙を書いて雅也と連絡を取った末、両親が、東京に出てくることになった。家賃など滞納した分の清算と引越しを手伝うためだった。
雅也の部屋に来てみると、電気も止められた暗い部屋に、足の踏み場もないごみの中で、やせこけ、目だけが光った雅也の姿があった。伸ばし放題の髪の毛、ひげ……。
「マサ?」
あ然として、それ以上声が出なかった。
3、興味
両親は、山で道に迷い、遭難した登山者を救出するかのように、雅也を家につれて帰り、家の離れに雅也を住まわせた。消費者金融から借りていた金も全部清算した。そのための費用は、母が公務員の父の名義での生命保険を解約するなどして工面した。
気力をなくし、家に引きこもりがちの雅也に、神経症を疑った両親は、市内にある神経科の病院に雅也を連れて行ったりもした。
実家にもどったことで、支払いの督促もなくなり、衣食住の心配がなくなってから、徐々に体力と気力が回復してきたように見えた。
水泳も、体力の回復にはよいとされ、スポーツクラブ『ムーンリバー』に通うことを両親が許してくれた。雅也は、水泳が好きで、地区の水泳大会で入賞したことがあった。
両親は、定職に就きたいという雅也に職業訓練を勧めた。両親にも、雅也を定職に就かせたいという思いがあった。
1999年に県立の高等技術専門校に入った。雅也が選んだのは溶接科だった。入学前の面接で、当時の教員の話。
「彼は『地元で働きたい。溶接の技術を身につければ、造船所などで働けると思うので』と話していました。
まじめなタイプでした。ペーパーテストはよくできて、常にベスト3には入っていたと思います。クラスでも年齢は一番上だったと思いますが、浮いているわけでもなく、若いやつらとも話していました」
しかし、造船所で働けるというのは、現実的には小さい可能性でしかなかった。造船業は、隣国の韓国に主役の座を奪われてから久しく、斜陽傾向にあった。
駒込はこの頃に、危険物取扱者、ガス・アーク溶接技術者、クレーン運転技能者、玉掛け技能者の資格や免許を取得した。
近所の女性には、「おばちゃん、職訓に行ってトラックの荷造りの資格取ったよ」と嬉しそうに話していた。
資格試験をパスすることは、誰でもうれしい。それがすぐに役に立たなくても、自分に自信が持てる。
高等技術専門校を卒業した後、雅也は、念願の市内の会社に就職した。しかし、溶接の技術や取得した資格とは無関係の水産会社だった。干物加工の工場だった。会社の経営者は、「欠勤などはせず、重労働も淡々とこなしていた」と印象を語った。だが、七カ月ほどで、雅也は「いろいろやりたいことがある」と言って、退職した。
その9カ月後の2001年8月には、市内の病院(自宅近くの内科医院)で看護助手として働き始めた。その関係者は「まじめそうで優しい感じだったので採用した。本人は『何でもできる』と売り込んでいた」と言った。
「老人の患者が多いので、身体を抱えたり、オムツを替えたり、食事の世話と言った仕事です。アルバイトで週五日から六日、朝の8時から12時過ぎまでの時間帯です。実際の仕事ぶりは『可もなく不可もない』ものでした。だが物の片付けが雑だという話も聞いた」
「職場ではおとなしく、目立たない存在でした。クリスマスの時期に、院内の電飾に使う電球の扱いが雑で上司が注意すると『じゃあ、辞めます』とあっさり半年ほどで退職しました」
その注意の一言だけが原因ではなかったはずだ。アルバイトで看護助手を長く続けるのは、雅也の本意ではなかった。雅也にとって看護助手は一時的なボランティア活動的なもの、あるいは小遣い稼ぎだった。しかし、病院を辞めてからは、なかなか職に就けなかった。特に、生業といえる職業には……。
職には就かなかったが、資格を取得する努力は続けていた。電気工事士、発破技師、ボイラー技師の資格も取った。
大手法律予備校に入学して、司法書士に資格の取得を目指したこともあった。
「ごみ収集所のことで、母親が近所ともめたとき、雅也が『母ちゃん、勉強して司法書士になってわ(私)が解決するけん』といったそうだ。20万もする教材を買ったと聞いている」と、近所の人が言い添えた。
近隣の住民の一人は、「内科医院の退職を機に、言動がおかしくなっていった」と、取材記者に話した。
知人も「このころから少しおかしくなったように思う」と語った。自宅の離れにこもりがちになるなど、人を寄せ付けない雰囲気になり、教会にも年に数えるほどしか姿を見せなくなった。
近所の人の話では、「家の前の道路の端の石垣に座って、目を吊り上げて一日中、車が通るのを見ていたり、口を開けて空を見てた」ことがあったという。
ある男性は「いつも庭で釣り具の手入れをしていた。話しかけても無視された」と振り返った。
自宅裏の離れで寝起きしていた。友人は「テレビやパソコンがあり、棚にDVDが並んでいた」と話した。
ときには、雅也は音楽を楽しんだ。スピーカーを大音量で近所にまで鳴り響かせながら……。
市役所に勤めていた父親の退職金で乗用車を買い、夕方になると外出していたこともあった。
雅也の母親と親交があったという女性は「精神的に不安定で通院していると聞いた。最近顔を合わせたときは目がつり上がっていて恐ろしかった」と話していた。
近所の人は「4、5年前、深夜2時ごろに雅也に自宅の呼び鈴を鳴らされた。玄関に出ると『トイレを貸してほしい』と言われた。
「同じことが2度ほど続いたが、その際、ドアの外では雅也の母が『この人はアナタのためによくしてくれた人よ』となだめるような呼びかけを何度もしていた。このとき、もしドアを開けていたら自分も被害にあっていたのではないか」
雅也が就職できないことで、「近所の人たちが邪魔しているせいだ」、「盗聴器をしかけられている」などと主張している話も伝わっていた。
「お前らが悪口を言うから自分は就職できない」と直接言われた住民もいた。
雅也は釣りが好きだった。
気に入っている迷彩服を着て、よく海へ釣りに出かけた。人の姿を見ると、魚は逃げてしまうものなのだ。魚に感づかれないようにするには、迷彩服が一番いい……らしい。
7、8年前から通っていたという佐世保市の釣具店で、5万円ほどのさおを買い、ジャケットなども釣り具の高級ブランドでそろえた。店長は、「道具はきっちりさせたいタイプなんだと思っていた」と語った。また、「おとなしそうな、にこにこした人。のほほんとした感じ」と、雅也の印象を語った。
自宅近くの住民は、「数年前に父親が退職金をもらって変わった。働かず、退職金を食いつぶすようになった」と話した。別の住民は「何でも形から入り、釣り道具も高いのを使っていた。母親は『せがまれた』と困っていた」と言った。
雅也は軍事用品に興味を持った。歩兵の服装や装備品だった。ふだんから、迷彩服を好んで着ていたという。(就職の面接の時にも、迷彩服を着て来たことがあったらしい。) 装備品の中でも銃に魅せられた。
究極の狩猟道具の銃には、魅力がある。現代人にも、狩猟民族としての血が流れているのだ。武器として危険性があるのはもちろんだが……。
雅也は雑誌やインターネットでその存在を知った。軍事用品が掲載されたカタログを眺めては、銃にあこがれた。その関係の専門雑誌も発行されていた。掲載された写真で、黒光りした銃身の重量感が、なんとも言えず、たのもしく見えた。それが自分のものになれば、自分の力が無限大に増強されるように思えた。
〈これをもてば、だれにも負けない。引き金を引けば、弾丸が発射され、弾丸は小さいながら、巨大な破壊力をもってつき進む〉
雅也は銃砲店にたびたび行くようになり、実物に触れた。銃は、生き物を殺傷する能力だけでなく、心細い青年の心を強くひきつける力をもっていた。
銃をもつためには、銃砲所持許可証が必要だった。銃砲所持許可証を得るための手続きや教習は、いくつもの資格試験をパスしてきた雅也でも、簡単ではなかった。うんざりするような手続きをした。まず猟友会に入った。銃の講習会でつまらない話を聴き、射撃練習場で、実技を習得した。警察には何度も通った。やっかいな申請書を作成し、その申請書の不備を指摘されては、書き直した。精神的な病気の有無を確認するための診断書を得るのは、特に雅也にとって難関に思えたが、猟友会が紹介してくれた県外の医師のところまで足を運び、簡単な問診と、既往症なしという自己申告で、診断書を書いてもらった。
02年6月22日、銃砲所持許可証を取得した。その二週間後に、28万円で最初の散弾銃を購入した。単身自動式のベレッタ社製の銃だった。念願の銃を自分のものにできた。駒込雅也は、やっと手に入れた銃を手にもち、ためつすがめつ眺めていた。実家の自室で、蛍光灯の照明器具の下で、その新品の散弾銃は確かな重量感と、まっすぐな銃身の鉄の冷たさが、秘められた強大なパワーを感じさせた。それは黒光りし、ほれぼれするような輝きを放っていた。これは火薬の爆発力で銃弾を加速し、射程距離にあれば、一瞬のうちに破壊あるいは、大型動物でさえも倒す力を持っていた。雅也は、その強大な力を得て満足だった。思わず雅也の顔がにんまりした。
ただし、道具の類は、さらに高性能なものや高級なものに目移りしやすく、普通のものでは満足できなくなることが多い。
雅也もその銃だけでは物足りなくなって、その後に、翌年2003年2月、ウインチェスター製の散弾銃、同年6月に英国製空気銃を購入した。
雅也に銃を販売した銃砲店の店主らは「礼儀正しく、ごく普通の人という印象。そうでなければ銃を売ったりしない」、「クレー射撃会の総会でも、気を利かせてお酌をして回り、礼儀正しいと感じた」と語る。
佐世保市内に事務局を置く「佐世保中央クラブ」というクレー射撃団体に一時所属し、同年9月には、同市内であったクレー射撃大会のスキート部門で4位になった。
近くの主婦(43)は「散弾銃を持ち歩いていて怖かった」と話した。
05年4月の夕方、マサは、自慢の銃を持って家の外に出た。
〈クマか、イノシシに出くわしたら、おれが退治してやる。クマはこの九州にはもうほとんどいないといわれているから、ありえないだろうが……〉
近所に住むAさんは、銃を持ってうろつく男を見て、はっとした。それが、あの雅也だったから、さらに不安になった。
「これは、警察に知らせなければなるまい」
Aさんは近くの駐在所に110番通報した。
「もしもし、駐在所かね、わしはAだが、近所に住む駒込雅也が猟銃を持ってうろつきまわっているんだが、あんな男に銃を持たしていいだか? やつは、夜中に他人の家にトイレを借りに来たっちゅうこともあるし、精神疾患で入院したこともあるんだ。精神的にまともでない男が、銃を持っていたら、何するかわかんねえ。そんな男が猟銃を所持していいことになっているのかね? こんなやつに鉄砲持たせとるとはどういうことだ?」
対応した警官は、警察官の自分を非難するような言い方に、少々腹を立て、「お前たちにいちいち言う必要はない」と言い返した。
電話を切ってから、駐在所の警官は、それでも、「注意報告」として県警佐世保署に連絡した。
佐世保署の担当は、Aさんから詳しい話を聞いたり、駒込雅也の銃の許可証を閲覧したりして、調査した報告書をまとめた。
精神疾患で入院した病歴があったとしても、許可申請時に医師の診断書に精神疾患の記載がないので、現在は「健常者」であるとし、許可を取り消す理由がないから、問題がないと判断した。「今後小さなことでも、問題行動があれば、銃器の処分を進める」とし、様子を見ることにした。
ただし、4月13日に、駒込雅也に銃の一部の部品を預けるよう指導した。それがないと銃は使えない。それを警察に預ければ、盗難など不測の事態を避けることができる。銃を実際に使用するときにだけ、警察から出すという銃の管理を勧めることにした。
警察がそれを指導したが、その場では、駒込雅也は、「近々射撃練習するから、その後に預ける」などと言いのがれた。その後警察の方も強く指導しなかったから、結局、その指導は徹底されなかった。
4、再就職
今年(2007年)一月、雅也は東京へ出た。そのとき、スポーツクラブ「ムーンリバー」の退会手続きをし、佐賀県伊万里市の銃砲店に銃器を預けた。銃砲店の店主は、そのときのことを、
「三丁の銃と八十発の弾を預けていきました。理由は『留守にするから』ということで長期出張か何かだと思いました」と語った。
雅也は、本年で37歳となる一月の初旬、新年の抱負を胸に、その会社の北九州支社という触れ込みのビルの一室で面接を受けた。見習い3カ月以上で正社員に登用されるとの条件で、東京の職場で働くことになった。
確かに求人の宣伝文句どおりの給与制だったのだが、見習いには適用されず、実質的な手取りが惨めなほど少なかった。その割には、仕事の内容がきつかった。常に残業があり、仕事に追われていた。生活費の高い都会にいては、自由な金も時間も手にすることはできなかった。その会社は電気部品の製造をうたっていたが、実質的には人材派遣業であることがわかってきたし、3カ月をすぎても、見習い待遇のままだった。雅也はつまらない仕事でも耐える覚悟はしていたのだが、だまされたという思いを深くし、集中力を欠いた。つまらないミスを重ねた。その分、上長の語気が荒くなった。
「テメェー、またやったのかよ。いい加減、仕事のやり方を覚えてくれよ。もう、やる気がないんだろ。仕事をしているフリをしてるんだろ? 何だ、そのふくれっ面は? 不満なら、辞めちまえ」
「……」雅也には言い返す言葉もなかった。
「いい加減な仕事をしやがって……。テメェーは何でもできると思ってんだろうが、こんないい加減では、何もできないのと同じだ」と怒鳴りつけ、雅也の胸を突いた。雅也は椅子から転がり落ちた。
そこを辞めたとき、すぐに社宅から追い出されたから、行くところもなく、住所不定の生活をした。他の勤め先も決まらなかったから、雅也は8月の暑い盛り、薄汚い格好で、一人で佐世保に戻った。
でも、雅也の心は意外に明るかった。さばさばとした気持ちだった。〈東京は、おれの住むところではない。こんどこそ、地元で職を探そう〉と雅也は思った。
就職活動の合間には、資格取得の勉強と、体力づくりのため、スポーツクラブで水泳を始めることにした。「ムーンリバー」に再入会し、週4日ほどのペースで通った。両親も理解を示してくれ、「働いて稼げるようになったら、返すから」といっては、そのための金をせびっていた。
近隣住民の声として、
「(雅也は)それまではボサボサの長髪で目つきも悪く、いつもムスッとしとったのに、10月ごろから顔色が良うなって、いつもニコニコ髪もキレイにセットして、こざっぱりとして格好で、毎日のようにピカピカの新車で(スポーツクラブへ)出かけていきよった」
さらに、別の地元有力者の声として、
「あんなに豹変したのやから、やっぱり好きな女ができたとしか思えんかったね」
9月下旬、三丁めの散弾銃を約20万円で購入した。
店長の話、「上下二連(の銃身)で20万円くらいのがほしいというので、SKBを見せたら即決でした。店でもニコニコしていてね。ワンボックスの新車に乗ってきました。都会に働きに行って稼いだのかなと思ったので、『また働きに行くんですか』と聞いたら、『もう行きません』と言ってましたよ」
約三百万円の新車をローンで買った。雅也が車を購入した自動車販売店の店長は、「口数は少なめだが、スタッフとも気軽に話す良いお客さんだった」と語った。
雅也が10月に四十数万円で購入したというボートは、舳先に「天彩」と船名が描かれていた。雅也宅近くの漁港に係留されていた。
船を購入して間もない秋の一日、雅也は友人の加藤と沖に釣りに出た。
釣果は上々、互いに楽しい一日だった。二人でタイやアジを釣った。雅也の変わった様子はなかった。
11月、雅也は、防犯設備会社に採用された。試用期間を経て正社員になれるという。労働条件も悪くなかった。多くの資格を持ち、体格のいい中年男として、この仕事なら勤まるかもしれないと雅也は思った。
でも、社員の一人は「職を変わるような時期に、普通だと新車は買わない。よほど親が甘やかしているか、金に不自由のない生活なのかと想像していた」と話した。
その会社の主任は猟友会に入っていた。雅也の履歴書に一通り目を通していた主任は、
「ほほう、駒込君も、猟友会に入っていることは、狩猟の趣味をもっているわけだね。銃を持っているなら、人を撃ちたくならないか?」
と物騒な質問をしてみた。実は、かれは、猟友会の友人に同じ質問をしたことがあった。「バカタレ」と、その友人は一喝した。
入社したばかりの部下がそんな答え方をするとは思わなかったが、雅也は、「いや私は許可をもらっていますから」と答えた。
その答えに、違和感をもった。「いや、ありませんよ」と否定するのが普通だろう。許可をもらっているから何だというのか。
「独身だそうだが、彼女はいるのかね?」
「いるような、いないような……」
数日後、主任は会社の商用車で得意先まで雅也を連れて行くことにした。
「マサ、マニュアル変速の車だが、運転できるか?
「できます。マニュアル車にはしばらく乗っていませんが、できます」
「よし。頼む」
主任は車に荷物を積み込んでから、助手席に乗った。雅也が車を走らせようとすると、クラッチを踏み間違えて、いっぺんにエンストさせた。その後、変速操作する毎に、クラッチをうまく合わせられず、不快なエンジンブレーキ現象を起こした。車がギクシャクと失速と加速を繰り返した。
広い直線道路に出た。車は猛然と加速した。
「おいおい、百キロ超えてるだろ? 無茶するなよ」
主任は教習所の生徒くらい下手なのに、運転がうまいところを見せようとしたのだろうかと思った。
また、主任は、電気工事の資格を持っている雅也に、警報装置の取り付けを指示した。
「電気工事の資格を持っていたので、ケーブルの被服をむく作業を頼んだんです。すると、経験者ではしないような長さでむいたので、『資格はあるけど、現場の経験はないだろう?』といったら、『やったことはあります』と答えました。クレームの電話を受けたときに『ハハ』と笑っていたり、営業先をちゃんと回っていなかったので、社長には四、五日で「彼は無理ですよ」と伝えました」
〈ちゃらんぽらんで、いい加減すぎる。虚栄心が強く、できないのにやれると言い張る男だ〉
働き始めて11日後の朝に出勤すると社長室に呼ばれ、社長から「解雇通知」が雅也に手渡された。
〈本職の適性がないと判断し、見習期間において雇用を打ち切る〉との簡単な文面だった。
「きみには期待していたのだが、見込み違いだったようだ。退職の手続きや今日までの給与に関しては総務課に行きたまえ」
社長は、そう事務的に言い渡した。
雅也には、意外だった。仕事に慣れたら自分も働ける、まだこれからという思いがあったから、失望感が強かった。
5、計画
〈世の中が自分を拒絶するようだ。こんな社会で働く気もない。自分のしたいことをするためには、金がなければならないが、金を稼ぐこともできない。数々の資格を得たのに……。
自分の居場所がない。働くところがない。働かなければ食べていけないのがこの世界だろう。確かに、楽しみはある。その楽しみと比べると、つまらないことが多いし、その時間が長すぎる。
自分がほしかったもの、車や船を手に入れた。そして銃も手に入れた。これだけは、自分の宝だ。
大して役に立たないものまで買ってしまったかもしれない。そのために費やした金はいくらになったのだろう。借金もローンも組めなくなったし、返せない。もう親父やお袋に金を出してもらうわけにもいかないだろう。借りた金を返せないなら、手放すしかなくなる〉
〈……もうだめか。金を使ってほしいものを手に入れても、つかの間の喜びだ。金を得るために、あくせく働きたくないし、働く場も、どこにもないのでは、もうこんな生活は、もういい〉
〈でも、俺だけ死ぬのはさびしすぎる。仲間たちと一緒に死ねたらいい。みんなといっしょに行こう。そのための手段ならある。銃がある。散弾銃だが、スラグ弾を使えば、人を殺傷することができる。そのためなら役に立ちそうだ〉
近隣の地にいる少年時代からの仲間たちを思い浮かべながら、その連絡先を調べた。
〈それと、スポーツクラブで出会った『あの人』がいい〉
あの人とは、インストラクターをしていた26歳の女性だった。雅也は、今年の8月、佐世保市内のスポーツクラブの会員になった。スポーツは健康にいいとして、毎週のように通っていた。そこで、生徒たちによく響く声を出し、てきぱきと指導していた女性を見つけた。スタイルもよく、愛らしい顔をした、評判の女性だった。しかし、雅也と仲がよかったわけではない。逆に、彼女に雅也は「不気味な人」と思われていたのだが……。雅也は、自分の憧れの対象として見ていただけで、彼女にはつきあっているボーイフレンドもいたことも知っていた。
〈そんなことはかまわない。彼女を、おれの連れ合いにしよう。おれは、この年でまだ結婚もしていない。結婚を目標にしていた年齢も大きくすぎてしまった。いっしょに生活する金もなく、自分に合う人もいなかったし、ついて来るような人もいなかった。でも、この銃があれば、いっしょに行ける。おれは何でもできるんだ〉
雅也は、大型動物をも殺傷する能力をもつスラッグ弾をできるだけ多く購入した。散弾銃の弾2千発(約6万6000円)をまとめ買いしたしたことで、散弾と合わせると、2700発を用意した。行きつけの銃砲店の店主は、その多さにいぶかった。
「こんなに? 駒込さん、獲物は何ですか」
「畑を荒らすシカやサルを駆除することになってね。猟友会の仲間の分も用意することになったんだ」
雅也は快活に答え、クレジットカードを差し出した。もう現金など、もっていなかった。
友だち関係10人の連絡先を調べあげ、彼らの携帯電話の番号をリストアップした。
11月に雅也と路上で偶然会った高校時代の同級生もいた。「しばらくぶり」と手を上げる雅也の陽気さに驚いた。「いつでも連絡して」と携帯電話の番号を書いたメモを笑顔で渡された。「こんなやつだったかな」と違和感を覚えたという。
12日夜、雅也は、加藤修に電話して、「金曜日は時間あいとるか? 仕事が終わってから会おうか。プレゼントやるけんが来とくれ。ムーンリバーで会おう」と誘った。翌日朝にも「正面にプールの見えるいすがいっぱいあるので、楽にして待つ」など待ち合わせ場所を細かく記したメールが届き、昼にも「行けるか」と再度念を押した。
他の友人にも、それぞれの携帯電話に伝言メッセージを送った。メッセージはそれぞれ違っていた。
「お金持ちの女性と知り合い、スポーツクラブ・ムーンリバーでパーティーをすることになった。12月14日(金)午後7時から、きみも参加してね」
その一人、五十嵐竜彦は、困惑した。せっかくの誘いだが、そんなパーティーに行くのは気が進まなかった。駒込が婚約するという発表なのだろうか、それとも単なる紹介だけのことか、わからなかったし、いずれにしても、それほど親しい間柄でもない駒込が彼女のことでパーティーをするなど自分には関係がないと思った。第一、そのスポーツクラブは、自宅からの交通が不便だった。酒が出る席には、車は使えない。
朝になってその返事として直接電話してみることにした。
「14日のパーティーのことだけど、急な話で、仕事を抜け出せるかどうかも分からないんだよ。ぜひとも行かなきぁならないパーティーなんだろうか」
「パーティー? ああ、ぜひ来てよ。大事なパーティーなんだから。パーティーの後にも、お楽しみがあるっちゃん。それは来てのお楽しみ。仕事を休んだ分の時給は、おれが出すから来てよ。4時間の無料駐車券もあるし、受付でおれの名前を言えば入れるから」と駒込は、参加を強く促した。
しかし、五十嵐は、駒込のそんな秘密めかした言い方からでは、自分にとってどれほど大事なのかがよく分からなかった。彼にとって大事かもしれないが、自分には参加する義理はそれほどなく、ここは断ろうと思った。ふと思いついた口実を口にした。「このところ寒くて、風邪気味でね、仕事も休もうと思っていたぐらいだから、欠席するよ」
「ムーンリバーは暖房が効いているから、少しぐらいなら、顔を出してもいいだろう?」
駒込は食い下がって、執拗に参加を促した。五十嵐は、これ以上話すと、うそがばれそうな気がして、
「行けそうだったら、明日電話するよ」と言って電話を切った。
当日の午前9時ごろ、五十嵐は、駒込に電話し、「やはり行けない」と言うと、駒込は不機嫌そうな声に変わり、
「そこそこ稼いで、楽しく生きたほうがいいやろ。
……どうせ人間はいずれ死ぬんだから、人生面白く生きたほうがいい。もうおれ、こっちに長い間はいない。遠くに行くから。じぁな」
と駒込は言い放って、打ち切った。
同様に断った他の友人に、雅也はすてばちに言った。
「おれは大きなことができる」
「まじめに働いてもたいした人生じゃなか」
10人ほどの友人に声をかけ、結局3人に、来るという約束を取り付けた。加藤と落合と藤倉だった。
13日には、待ち合わせ場所に指定した詳細なメールを携帯電話に入れた。同日昼には「待ち合わせ場所がわかるか? 三階のギャラリー(観客席)だ」と確認の電話までした。
計画は万全でなければならなかった。
〈銃を撃つと、そのうち、警官が、それも武装した警官が駆けつけるのだろう。ターゲットの最後の一人を撃つまで邪魔されたくないけれど、やつらと銃撃戦になるかもしれない。やつらに対抗するためには、防具を万全にしよう〉
狩猟用のシャツやズボン、ブーツをはき、防弾チョッキを着た上に、迷彩柄のベスト型プロテクターに身を包んだ。
レーザー標準装置付の自動散弾銃、殺傷能力の高いスラッグ弾など2700発を用意して車に積み込んだ。
6、決行
12月14日午後4時半ごろ、雅也は、母に『就職面接に行く』と言って家を出、スポーツクラブに向かった。フロントで受付をしたとき、黒木真紀が出勤していることを確認した。今夜、彼女は、7時から8時までの水泳教室で指導者の一人として教えるはずだった。
雅也はワンボックス車の中で待機した。
加藤修は、事件当日、午後六時半ごろスポーツクラブに到着したが、フロントで「会員と一緒でないと入れない」と断られた。雅也に電話連絡し、「入れなかった」と伝えると「おかしい。もう一度フロントに言って」と促された。再度断られると、雅也がスタッフに電話を入れ、交渉した末、ようやく入館が認められた。雅也とは「三階のラウンジで待つ」ことを打ち合わせたが、加藤は中に入らず、フロント前のロビーで雅也を待った。
〈まもなく来るという雅也と一緒に入れば、文句はないだろう〉と思いながら。
午後7時前に雅也は着替えた。目出し帽を被り、上下迷彩服を着、ブーツを履いた。250発の銃騨でずっしりと重いベストをつけ、それを隠すように銀色のダウンジャケットを羽織った。鉄製のヘルメットを被り、最後に二本の銃を抱え持った。
午後7時すぎ、車を出て、裏道を通り、一階はスーパーになっている4階建ての正面玄関脇の階段を駆け上がり、二階にあるスポーツクラブのフロントの前を通り過ぎた。フロントの横のロビーには加藤がいたが、お互いに気付かず、すれちがった。雅也は加藤がそこにいるとは思っていなかったし、雅也は迷彩服などで扮装していた。加藤は異様な外国人風の男が入って来たことに驚き、雅也であることに気付かなかった。
係りの者が、あっけに取られたようにその武装した男の姿を見た。
「お客さん!」
とその背中に声をかけたが、男は無視してプールの方に走っていった。プールでは子供のクラスの水泳教室が開かれていた。一斉に、奇異の目で雅也を見つめた。
プールサイドをほぼ半周したとき、雅也は真紀さんを見つけた。周囲に子供たちは数人いた。子供は邪魔だった。追い散らすために銃を上に向けて発射した。
「バアーン、バアーン」
壁にはね返ったスラグ弾の破片が飛び散り、数人の子供たちに当たった。中にいた一人の太ももからは血が流れ始めた。
「ワー、キャー」 逃げ惑う人々が叫んだ。
彼女は子供たちを追い立てるように誘導し、事務室に逃げ込んだ。
雅也は、その集団を追いかけた。フロントの前を回りこんだとき、スポーツクラブのマネージャーらしい男ら二人が、及び腰で、行く手を阻むように立ちふさがったので、それぞれの足に向けて射撃した。
「じゃまだ、どけ」
「バアーン、バアーン」
彼らがその場に転がったので、雅也はその間をすり抜けて事務室へ向かった。そのドアを開けた。〈逃げ込むとしたら、この事務室だろう〉
室内の片隅に彼女を見つけた。彼女は体を丸めるように後ろ向きにかがんでいた。顔はほとんど見えなかったが、彼女に間違いなかった。雅也は近づいて、彼女の背に至近距離から二発撃った。念を押すように、弾を込め直してもう二発撃った。
ぴくりとも動かなくなったのを見て、事務室を出て、ホールを通った。
ばったりと出くわすように、通路に藤倉祐樹がいた。藤倉は逃げもせず、正面を向いて、制止するように手を振りながら、
「やめろ、マサ、撃つな」と叫んだ。
〈こいつ、おれが雅也であることを見抜いている。ともだちらしい。さあ、おれといっしょだ〉
雅也は、その胸を狙って撃った。一発で、藤倉は、前のめりにひざまずくように倒れた。その背中にも銃撃した。もう一発、銃を変えて散弾で撃った。
雅也は三階のギャラリーへ向かった。さらなる二人のターゲットがプールを見下ろす椅子に座っているはずだった。しかし、もうそこにはだれもいなかった。
〈あとのやつらは、どこにいる? 念を押したから、やつらはここに来ているはずだが……。プールで銃撃したことで、すぐ逃げてしまったのだろうか? どこかに隠れたか?〉
雅也は探し回ったが、もうターゲットは見つからなかった。
通りがかったラウンジの壁に取り付けられた鏡を見た。そこには、おのれの姿が映っていた。ヘルメットに目だし帽で顔を隠した長身の男……。二つの銃をもち、所々赤い血しぶきがついた銀色のコート……。
〈黒ミサの悪魔……〉と、雅也は自分の変身した姿を初めて認識した。
あちらこちらで叫んでいた声は、もう止んでいた。その代わり、遠くサイレンの音が聞こえてきた。複数のパトカーのサイレンを鳴らしていた。
〈ここでつかまるわけにはいかない。逃げよう〉
雅也は、ビルの裏口から、靴音を忍ばせて駐車場へ走った。自分の白いワンボックス車のドアを開けた。
途中の道路で、一台のパトカーとすれ違い、緊張が走った。条件反射のように、道の左側を徐行して道を譲ると、そのパトカーは現場の方へ急いで走り去った。雅也は、高校卒業間際の寒い夜、万引きしたときの苦い経験を思い出した。
〈あれは、自分がへまをしたから、見つかってしまったのだ〉
たかが一冊の本で、いやみな店主にねちねちと絞られ、態度が悪いなどと小突かれ、警察に突き出された挙句、学校にも知らされ、警察でも学校でも家でも、説教された。最も屈辱的な経験だった。
〈あれは聖書を題材にした本だった。読みたかったが……。ここで逮捕されたら、それ以上のことになるのは目に見えている〉
現場から南西約五キロ、白いワンボックス車を走らせて、たどり着いた先は、教会だった。雅也は神に祈り、神の許しを得ようと思った。近くの路上で車から降りて、教会の敷地内に入った。この教会は、少年ころ、母に連れられてよく来ていた。ここで神父から神の話をよく聞いたものだった。雅也は教会の正面ドアを開けて入ろうとしたが、鍵がかかっていた。訪れた時には、いつも開いていたのに……。閉め出された感があった。
〈神に拒絶された?〉
雅也は気落ちし、しばらく立ちすくんだ。そして教会の周囲を回りこみ、植え込みの一画に、追われる身を隠す場所を選んだ。
夜の闇の中で雅也は、長いこと座っていた。発砲の騒ぎとあわただしい逃走の興奮も、すっかり鎮まっていた。体が冷えてきてシンまで凍えそうだった。
雅也は何かを待っていた。もちろん、それは、自分を捕まえようと、あるいは射殺しようと探し回っている武装警官ではなかった。自分の窮地を救ってくれるような何かでもなかった。しかし、いつまで待っても、そんな何かが現れるはずもなかった。
〈来たのは藤倉だけだったのだろうか。あれほど念を押したのに、友だち甲斐のないやつらだ。銃声を聞いたら、だれもが逃げ出してしまうだろうが……。おれはこれから、どうする? どうすればいい? やつらを探す? どうやって? おれが町に出て彼らを探そうとすれば、その前に警官たちがおれを見つけ、武装したやつらとの銃撃戦になってしまう。とうてい勝ち目はない〉
雅也は、何度も自分に問いかけていたが、答えを出せずにいた。雅也は、寒さに震え始めた。
5時40分、〈マサよ、ここで、おまえ一人で死ね〉、雅也の耳に、そう言い聞かせるような声がした。それはだれの声だったのか。
雅也には、もうだれでもよかった。雅也は、〈わかった〉と無言で答えた。まず、迷彩柄のベスト型プロテクターを脱ぎ捨てた。もう用はなかった。銃を自分の前の地面に銃床を据えた。銃を抱きかかえるように、冷たい銃身の先を右手で握り、銃口を自分の眉間に合わせた。左手を伸ばし、引き金に指をかけた。
「バーン」
かわいた音が、闇の中に吸い込まれていった。教会の近くに住んでいた人の中には、その銃声を聞いた人が何人かいた。彼らは恐怖に震えて、各家のドアの鍵をしっかりかけた。
雅也の遺体は銃声の音から約2時間後に発見された。もう夜が白々と明けていた。 (終)
本作はフィクションである。登場人物・地域はすべて架空であり、実在した人物の性質や言動とは一致しない。
なお、『佐世保猟銃乱射事件』に関し、以下の出版物を参考にし、談話等の記述を引用した。
「毎日新聞、2007年12月15日〜18日」
「長崎新聞、2007年12月19日」
「週刊文春、2007年12月27日発行」