行方不明者と死者との違い                                   岡森利幸   2009/9/10

                                                                    R1-2009/9/18

以下は、新聞記事の引用・要約。

毎日新聞朝刊2009/8/8 社会面

田原総一郎氏の北朝鮮に拉致された人を「外務省も生きていないことは分かっている」などと発言したことで、BPO(放送倫理・番組向上機構)審理入り決定。

毎日新聞朝刊2009/8/23 総合面

麻生首相、兵庫の豪雨被災地で、「(行方不明者の)捜索に当たっている方々がおられると思うが、ぜひ遺体が見つかるように努力していただきたい」と述べた。首相側はその後、秘書官を通じて「遺体」を「行方不明者」に訂正した。

行方不明者を「死者」と言うのは、現代社会では、はばかれることだ。「死んでいるだろう」と発言するのも、問題になる。災害時に行方不明者が出たということは、「死者」の数と足し算して被害の状況を把握すべきだが、その近親者や関係者の前では、「生存者」として扱わなければ、カドが立つ。

田原総一郎氏の場合、真実を曲げて発言するわけにはいかないのだろう。真相を究明し、真実を伝えることを旨とするのがジャーナリストだから、ウソをいうことには相当な抵抗感を持っているはずだ。

私も、「拉致された人はまだ生きているだろう」とは、あまりに白々しくて、とても言えない。見解を求められたら、田原総一郎氏と同じように述べるつもりだ。「北朝鮮に拉致された日本人の多くはとっくに死んでいるだろう」と考えるのが一番正しいはずだから。

もう何年も前に北朝鮮は、日本に生きて返された数人の拉致被害者以外はすべて死亡したと伝えてきた。北朝鮮がそれらの死因について下手な説明をしていたが、実際の死因を隠そうとしただけと考えるべきだろう。実際は、殺された可能性もあるし、自殺に追い込まれたケースもあるだろう。その下手な説明がウソだとしても、「死亡説」までウソだとは言えないだろう。

それでも、社会的に「それでも、まだ生きているかもしれない」などと発言することが求められるのでは、田原総一郎氏に同情したい気持になる。「死亡説」を述べることが規制されるなら、報道の自由や言論の自由まで、おかしくなる。

 

麻生太郎首相の場合は、彼の数多い失言の一例として報道された。確かに、「捜索に当たっている方々」は、土砂や崩壊した家屋の下に埋まった「遺体」を捜していたのだ。状況から言えば、行方不明者は「死んだもの」とみなされてもおかしくはない。「生存者を救出」しようとする作業ではなく、「遺体を収容」する作業をしていたという方が実態に合っている。

しかし、死亡が確認されるまでは、法律的にも、死んではいないのだから、「遺体」と言ってしまっては、厳密には、不正確になる。まだ、生きているかもしれないという望みを捨てていない遺族たち、いや、「行方不明者」の親族たちに対して配慮が足りなかったことになる。麻生首相がデリカシーに欠けると公然と批判される典型的な例だ。「遺体」と言ってしまっては、気を落とさせるし、中には怒りだす人もいるかもしれない。その体を見て死亡を確認するまでは、「生きている」と思いたいのだ。

しかし、遺族や被害者の親族に、「生きているかもしれない」という微かな望みを持たせた方がいいのだろうか。

それは事実を知ること(悲報)を先送りしているだけだろう。一定の時間が過ぎれば、関係者は現実と向き合うことも必要だろう。そんな彼らに微かな望みを持たせ続けたいのなら、被災者や被害者の体を捜索しないことだ。

 

 

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