天皇への礼儀                                            岡森利幸   2012/3/22

                                                                  R1-2012/3/28

以下は、新聞記事の引用・要約。

毎日新聞朝刊2011/9/15 総合面

陛下撮影の指摘で、平山議員が釈明、「陛下にカメラは向けてはいない」

毎日新聞朝刊2012/2/29 総合面

自民改憲原案、「天皇は元首」を明記。

読売新聞朝刊2012/3/22 政治面

政府は、天皇・皇后両陛下がご退席になる際に参列者が着席していたことについて、自民党の高市早苗衆議員の質問主意書に答えて、「宮内庁とともに協議した上で参列者を着席とすることにした」との答弁書を決定した。政府によると、昨年以降の10行事では7行事で参列者は着席していた。

上記、第1と第3の記事から、教訓のようなものが読み取れる。それは次の二つである。

@ 天皇をケータイで写真を撮ってはいけない

A 天皇がご退席するときは、参列者全員、立ち上がっていなければならない

 

つまり近年、人々の間で天皇陛下への敬意が示されていない行為があることに、主に自由民主党議員たちが「眉をひそめている」のだ。「日の丸」や「君が代」を国民に押し付けたりしたのも、その流れにあって、法的にも礼儀を徹底させという、天皇制強化のための魂胆だったのだろう。

自民党が憲法改定の原案として出した「天皇は日本国の元首である」ことの明記には、賛否両論が強く沸き起こりそうだ。これには、異論が出るだろう。政治的に何の権限をもたないはずの天皇に「国家元首という責任ある地位」を与えていいものだろうか、という疑問が、私の脳裏にもわきあがる。天皇が日本国元首として国際会議にしゃしゃり出て、他の外国の元首と対等に渡り合い、政治的な会話を交わすことになるのだろうか、と想像してしまう。ともあれ、元首となれば、その発言には国際的にも国内的にも、政治的な重みがずしりと加わる。しかし、天皇は何ら責任を負うわけではない。先の戦争でも、軍を統帥する最高指揮者であったはずの天皇が何ら責任を負わなかった。いわば、「すべて軍部が勝手にやったこと」にしてしまったから、わだかまりがいつまでも残るのだ。

そもそも天皇家は、宗教色の強い家系で、宮中で祭祀を執り行うことを本業とし、天照大神を皇祖神として神の血筋を引くというような神話を作り上げ、万世一系という究極の世襲でそれを継いで来た。その間、政治的なことは摂政や将軍などに任せっきりだった。日本が世襲的な人物を体制のトップに据えるならば、世界の人々から民主的な国家としての存在が疑われたりもするだろう。他国の世襲にとやかく言えなくなるし、政教分離の原則に反することにもなりそうだ。

現行憲法では、天皇は「天皇という役職」を持った「ただの人」と解されるだろう。日本国を象徴するという「天皇」の肩書き以外、何も持たないわけだ。そのただの人が、外国から大統領など国を代表するような最重要人物を国賓としてもてなす主催者を演じている現状がある。その際、元首ぐらいの肩書きがないと、肩身が狭いようだ。

政治的に何の影響力を持たない「ただの人」を特別扱いして敬意を払ったりするのは、現行の憲法がうたっている、人はみな平等であるという精神に反することだろう。憲法は、貴族階級の存在も認めていない。

しかし、憲法を改定して天皇を元首であることにすれば、そんな矛盾が解消されることは確かだ。つまり、天皇は日本の象徴であり、かつ「最高に偉い人」だと定義してしまえば、ケータイでお写真を撮ったり、ご退席する際に着席しているような、礼儀をわきまえない「不敬なやから」は、ありえないことになるわけだ。天皇自身も、謁見の際、にこやかに笑っているだけでなく、自分を「日のいずるところの天子」だとか言い張って、外国からの国賓やVIPと対等に話しができるようになれそうだ。なぜ最高に偉いのか、という説明は抜きにして……。

ちなみに、集英社版『イミダス2000』の付録「2000年ワールドアトラス」では、日本を説明する項目の中で、元首=天皇明仁、と明記していた。(その後年の版の「ワードアトラス」では、削られた。)

 

 

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