白馬岳6人遭難の不可解                                   岡森利幸   2012/7/8

                                                                  R1-2012/7/10

以下は、新聞記事の引用・要約。

毎日新聞朝刊2012/5/6 一面、社会

白馬岳で倒れていた6人の死亡が確認された。軽装を吹雪が襲う。春山一転氷点下に、装備判断が難しい時期だった。

毎日新聞朝刊2012/5/8 社会

白馬岳遭難の遺留品を回収した。ザックに冬山用ズボンなど用意、約15キロあった。6人で使用したと見られ、発見時に遺体に巻きついていたツェルト1点も回収した。

私は若い頃、装備や服装もいいかげんで、体力もないくせに、単独で、日が暮れて真っ暗になった中で道なき道をたどって奥秩父の金峰山(2599m)の無人小屋を目指したり、土砂降りの雨の中を甲斐駒ケ岳(2965m)に登ったりした無謀なハイカーだったから、ベテラン登山家たちの遭難について語る資格はまるでないことはわかっているし、気後れしてしまうのだが、この遭難については考察してみたい。この遭難には謎が多すぎるのだ。山に関しては、彼らは無謀な私よりすっと判断力もあり、装備もしっかりしていたはずなのに……。

 

白馬岳(2932m)で6人のベテランがそろいもそろって凍死してしまうとは、彼ら自身にとっても「想定外」のことだったろう。

状況を整理してみよう。

遭難した6人は、北九州市の医師ら60代と70代の男性パーティ。登山経験は、中には5年程度の浅い人もいたが、ほとんどベテランという人たちだった。九州から長野県に来て、5月3日から2泊3日という登山計画だった。5月3日、標高1850メートル付近の栂池ヒュッテに到着し、泊まった。5月4日の午前5時過ぎに出発し、12時間(通常7〜8時間の行程らしい)後の午後5時に白馬岳山頂付近の山小屋到着の予定で、白馬岳を目指した。

天候は、出発時、青空が見えていた。午後になると、付近で雨が降り出した。みぞれ混じりの雨から、やがて風速20メートル、吹雪になり、氷点下2〜3度にもなった。

彼らは白馬岳山頂付近の山小屋にたどりつけなかった。翌日の5日午前8時に別のパーティが発見・通報したときには、その約2km手前の、小蓮華山(2769m)の山頂付近の稜線上で、5人がツェルトに包まってかたまり、もう一人は50メートルほど離れたところで雪面の上に倒れ、全身が凍り付いていた。地元の医師によって、低体温症による死亡と診断された。

発見されたときの彼らの服装は、夏山用のシャツに、ゴアテックス製の雨具を着用していた。ザックの中には、羽毛ジャケットや冬山用ズボンが、使われないままに残っていた。

 

私が疑問に思う、おもな謎を列挙すると、

@悪天候をなぜ軽視したか

A6人は、年齢的に体力が落ちている。次の山小屋にたどり着くのがむずかしいのならば、なぜ近くの山小屋に引き返すなりして、安全なところで待たなかったか。(大池山荘が一番近そうだ。)

B発見されたとき、軽装だったのはなぜか。15キロの重いリュックを背負っていた。それには冬山用の服装が入っていた。なぜ着替えなかったか

Cなぜ、凍死する危険の高い尾根筋でビバーグしたのか。そんなところでビバークしたら、体温がどんどん下がってしまう。その危険性になぜ気づかなかったか。

 

当初、報道では、彼らが天候悪化の中で軽装で登山を強行したことが伝えられた。春は、時期的に変わりやすい天候で、日差しが強く、暑いぐらいの状況から、雪を降りしきるような極寒の世界にいっきに変化することもあると解説していた。メディアが解説するような内容のことならば、彼らほどのベテランならば、充分に知っていたはずだ。

彼らの登山計画に無理があったとは思えないが、天候の変化に対応できず、体力的についていけなかったことが推測される。たまたま、中の一人の体調が悪くなったのだろうか。

ザックの重さ15キロというのは、相当重い。肩に食い込む重さだ。その昔、私が勤労青年だった頃、ゴールデンウィークの連休(遭難した彼らとちょうど同じ季節)を利用し、職場の仲間と上高地から槍ヶ岳(3180m)を目指したことがある。仲間と相談して寄せ集めた登山装備品やキャンプ用品やらを持っていくことになったが、私が持っていた小さなザックではとても入りきらず、大きなザックを借りて、それらを詰め込んだ。ザックは15キロほどの重さになったと思う。しかし、私はその重さに()上げ、上高地からほんのすこし上がったところのキャンプ地まで歩いただけでギブアップしてしまい、仲間にずいぶん迷惑をかけた苦い思い出がある。

今でも私自身、それほど重いザックを背負って山登りをしようとは思わないが、彼らにとっては重過ぎるほどではなかったはずで、充分な内容の装備を入れることで、重いリュックは心強い存在だったろう。しかし、遭難するぐらいなら、そんな荷物を背負うのは止めて(ザックなど投げ出して)、身軽な格好で次の山小屋に向かう選択肢はなかったのだろうか。

 

途中、尾根でビバークした判断はどうだったのだろうか。ツェルト1点(不時の露営に用いる軽量で小形のテント、広辞苑より。ツェルトを持っていたことだけでも、彼らが用意周到なパーティだったことがわかる)を6人で使用して、ビバークするのは最悪の状況だ。じっとしていては体が冷え込むだけだ。体温を保つためにも歩き続けて、先にある山小屋を目指すべきだった。ビバークした理由として考えられるのは、「もう動けない」と言い出した人がいたことだろう。その人のために、全員がいっしょにビバークしたと思われる。冬山でパーティがもう動けない人を置いて出発したら、確実に「見殺し」になる。それがパーティ全体の遭難につながったとなれば、リーダーとしては、動けない人を置き去りにする決断も必要だったかもしれない。命に関わるのだからリーダーの責任は重い。

「雨風がおさまるまで……」

最初はほんの一時的なビバークだったにせよ、それが寒さと疲労のために永久になってしまった。尾根に強い風雨が吹き荒れ、吹雪にもなった……。

全員が凍死した背景に、服装に問題があったことは確かだろう。というより、着替えるタイミングの判断の問題だった。山小屋を出発したときには、好天だったかもしれないが、その後に雨が降り出したとされる。ゴアテックスの雨具は、雨滴を通しにくく通気性がよいという評判の高い繊維を使用したものだが、風が強まったときはどうだろうか。少しは水分がしみこみ、体の表面が濡れた状態にならないか。さらに天候が悪化し、吹雪になったときに、冬山の服装にどうして着替えなかったのか。6人の中から、「みんな、冬山用に着替えよう」という一声がどうして出なかったのだろうか。風雨が激しすぎて、着替えられなかった状況があったのだろうか。

有識者によると、雨で肌着がぬれている状態で、氷点下の強い風に吹かれてしまうと、一気に体温が奪われ、体力も判断力も、それに伴って低下してしまうことがあるという。彼らは、吹きっさらしの稜線上にいたから、強い風をまともに受ける場所にいた。それを避けようとしたはずだが……。

〈ツェルトは、ビバークするためというより、強い風雪を避けるために使用したのだろう。彼らはようやく広げたツェルトの中に、雨具を着たまま、もぐりこんだ。水分がしみこんだ雨具であっても、それを脱ぐ気にはなれなかった。吹雪の中に、まだ雨が混じっていたのだ。ツェルトの中でも、寒かった。それはほとんど風除けには役に立たなかった。風がさらに強くなった。氷点下の風が容赦なく、疲れた体を吹き付けた。寒い、寒すぎる。スーと意識が遠のく……。ふと、1人がほかの5人の異変に気づいた。「おい! みんなしっかりしろ!」と叫んだが、それに答えるものはいなかった。聞こえるのは荒れ狂う風の音だけだった。彼らは眠ってしまったように動かない。寝息さえ聞こえてこない。「たいへんだ」――ぞっとするような恐怖感とともに、彼の脳裏に『遭難』という文字が浮かんだ。そして彼が思いついたことは、救助を求めることだった。2キロ先の山小屋に行けば、人がいる。彼はツェルトを出て、強い吹雪に翻弄されながら、重い足取りで雪面を歩いた。しかし彼も50メートル歩いたところで、うずくまった……〉という推測をすることで、私はいくつかの疑問に対して納得できる答えにたどりついた。

 

山で遭難したら、ぼろくそに言われても(メディアで報道された中には、「彼らは山を甘く見たんだ」という意味の論調が多かった)、あるいは茶化されても仕方がないところだろう。

蛇足として、〈山高きがゆえに(たっと)からず〉のパロディを一つ、

〈ザック重きがゆえに役立つものであらず〉

 

 

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