屈折の凶器

           岡森 利幸 2009/9/10

 

小学校一年の3学期に山久保竜一・少年は転校した。父の東京への転勤に伴い、神奈川県平塚市から東京の府中市に引っ越したのだ。

少年は学校のテストの成績はそこそこによくて、勉強はできるのに、おとなしく目立たない児童だった。一人っ子で愛情深い母広子に育てられていた。父は、仕事に忙しく、子育てにはほとんど無関心で、時折、竜一の言動を叱咤して父の存在を示そうとするだけだった。少年は手のかからない子どもとして、成長していくが、時折、食べ物に関して好き嫌いを示して、嫌いなものは頑として食べようとしない強情さを見せた。

そんなとき、父の罵倒の声が響いた。

「竜一、食え、食ってみろってんだ。食ってみねえと、味もわからんぞ!」

それでも、竜一はその「高級な料理」に箸をつけようとしなかった。

「バシッ」

ときおり、父の平手打ちが飛んだ。

広子がヒステリックに叫ぶ、「何をするのよ、この酔っ払い!」

父母は30代半ばで結婚し、ようやく母が30代ぎりぎりに産んだ子が竜一だった。第二子はできなかった。母は父が酔って帰るのを嫌っていた。特に0時を過ぎたら、玄関の鍵をかけ、家に入れようとしなかった。仕方なく、父は駐車スペースに置かれていた車に入り込み、そこで寝てしまうことがあった。

父は、仕事にかこつけて、実家のある平塚市に戻ってしばらく暮らすことがあった。府中に越してまもなく、夫婦の間のミゾが決定的に深まり、父が平塚市に長く滞在するようになると、実質的に別居状態になった。竜一はほとんど母一人に育てられたようなものだった。

竜一自身、父が特に嫌いなわけでなく、夏休みに父の実家に預けられるような形で、祖父母と共に過ごしたりした。

 

小さいころから外で遊ばない子どもだった。同じ年代の子どもが近所にいても、自分から遊ぼうとしないし、かれらと接触があっても、結局、かれらから、「遊んでも、つまらない少年」とされ、遠ざけられていた。母親の知人によると、

「竜ちゃんは手先が器用な子で、工作をしたり絵を描いたりするのが好きでした。でも、広子さんは、そういうのは嫌いで、見つけると止めさせていたようです。ピアノもバイオリンを習わせたのも、竜ちゃんの長所を生かすためだったようです。所謂、教育ママというタイプの人です」

母は、少年が幼児のときにはピアノを、小学生になってからはバイオリンを少年に習わせた。高価なバイオリンを子どもに買い与えていた。これには特に嫌がりもせず練習を続けた結果、バイオリンを弾きこなせるようになった。

 

少年は新しい小学校になじめず、一人でいることが多かった。小学三年と四年で同じクラスで一緒だった松下(たもつ)が、竜一の数少ない友達の一人だった。

松下保は、陰気で口数の少ない竜一を弟分のように、声をかけて一緒に行動することが時々あった。竜一からは、ほとんど声をかけることはなかった。

ある日、クラスの朝礼で、先生が竜一をなじった。

「山久保君、今朝のあいさつ運動に出ませんでしたね? 当番だったから、早めに登校しなければなりませんでした。この次は、忘れずに出てください」

竜一は、返事もせず、先生をにらみつけるように、じっとしていた。近くの席に座っていた松下保は、竜一の煮えたぎるような怒りを感じた。竜一くんは当番を忘れたのではなく、〈あいさつなんか、どうでもいいじゃん〉と考え、わざと出なかったのだろうと推測した。

竜一は不思議な少年だった。話すテンポが遅く、頭の回転がよくないように思えるのに、テストの点数をのぞき見ると、常に自分よりいいのだ。音楽室で、バイオリンが弾けることを伝え聞いた先生が、竜一に学校に保管されていたバイオリンを竜一に渡して、みんなの前で弾かせてみせたことがあった。そのとき、竜一が弾いた曲のうまさよりも、陰気な竜一が生き生きして弾いていることに意外性をみた。

 

先生は竜一の母、広子を学校に呼び出した。先生自身が家庭訪問する代わりに来てもらった。広子は50代の上級階級の婦人といった身なりで、先生の前に現われた。先生は、一瞬、母の代わりに祖母が来たのかと思った。

「竜一の母、広子と申します」

「担当教諭の田所です。今日、お越し願ったのは、竜一くんの個性を理解したいと思ったからで、特に問題があったからではありません。でも、通知表には書きにくいところもありますし……」

「近ごろ通知表には、子どもの性格をけなすような表記はしないそうですね。騒がしい子どもには『活発』と、反抗的な子どもには『自立した』という表現に言い換えて通知しているとか……」

先生は、見透かされた気がして、一瞬ひるんだが、本題にはいることにした。

「お母さん、竜一くんは、ふだん家庭では何をしていますか」

「テレビゲームをしたり、テレビのアニメを見たりですが……」

「近所の子どもと遊んだりしませんか」

「しません。小学生が遊ぶような公園は近くにありませんし、遊ぶような友だちがいないようです」

「小学生になれば、行動範囲が広くなって、どこでも自転車で行ったりするでしょ。宿題を多くは与えてはいませんし、勉強はほどほどにして、今のうちに遊ばせたらどうですか」

「そうですが、小さいころから、よその子と遊ばない子でして……」

「小さいうちは、もっと遊ばせた方がいいと思いますよ。習いものでもさせているんですか」

「バイオリンを習わせていますし、体操教室にも行かせています」

「バイオリン? 音楽に興味があることはよいことですね」

「うまく弾けるようにはなっています」

「いろんな才能があるようですが、学校ではおとなしすぎます。消極的です。もっと活発であってもいい。クラスの中で、5〜6人のグループに分けるとき、自分の好きなところに入っていいと言っても、竜一くんは、いつもどこにも入れずおろおろするばかり。自分ではとこかに入ろうとする思いがあっても、迷っていることがありました。

先日の遠足でも、竜一君は広場の隅で一人で弁当を食べていました。みんなといっしょに食べろとは強制できませんから、見ていましたが……。こういう性格の児童はたまにいます。ともかく、引きこもったりしないよう、活発に行動するように指導して行きたいですね」

「竜ちゃんは、内面では強いものをもっています。それをよい方向に出せればよいのですが……」

 

小学校の卒業文集で、竜一は、

『やさしかった友達』と題した作文を書いている。

「ぼくが友達にやさしい思いやりをあげるよう、努力しようと心にちかいました」

孤独な少年の、友だちに対する思いがつづられていた。

その卒業アルバムの将来の夢として、「すごくきれいな大きな家に住む」、「とても長生きしたい」とを書いていた。

別の小中学校の同級生によると、山久保竜一は中学生のころ、嫌なことがあると家の壁に穴を開けたり、花瓶を割ったりすることがあったという。

「学校ではおとなしかったので意外だった」

また、こう証言した同級生もいた。

「誰かに向かって暴言を吐くというのではなく、自分の中に不満とか怒りを溜め込んでいた。時にはグーで叩いていたこともありました」

その後、地元の中学を出て、高校に進んだ。

 

竜一は、高校二年半ばまで、バイオリンのレッスンを受けていた。高校二年の夏の日、母が音楽教室の講師に面会し、竜一の進路の相談をした。

「先生、いつも竜一がお世話になっております。私としては、このまま音楽を続けさせて、芸術系の大学に進ませたいと思っていますの。先生の率直なご意見をお聞かせ願いたいと思って、今日伺いました」

「実は、このところ、竜一君の上達が伸び悩んでいます。曲を間違って覚えてしまうと、なかなか直せないところは誰にでもあるんですが、竜一君の場合、ほとんど直らない。注意すると、その場では直しても、しばらくすると、また自己流の弾き方をしてしまうんですよ。ある程度、個性を出して弾くことはかまわないんですが、竜一君の場合、譜面から逸脱し、曲の本来のオリジナリティを損ねてしまう。教える側としては、いらだちを抑えなければならないところがあります。

それに、演奏に取り組む姿勢がしっかりしていないし、熱意に欠けるところがあるから、伸びないんでしょうね。上達が望めない状態では、上の学校に行っても、意味がないと思います」

「竜一は、まだ練習生だから、そうかもしれないし、音大に入れば、プロとしての自覚が芽生えるでしょうし……」

「それは楽観的過ぎますね。率直に言って、私は、バイオリンに関して技術的に竜一君が人より優れているとは思いませんし、音楽大学への入学するためには、面接する審査員が、実技だけでなく、礼儀正しさや熱意も評価の対象として見ますから、今の竜一君の技量では、総合的に入学は無理でしょう」

「音楽家になる才能はないとおっしゃるの?」

音楽講師は、いいにくそうに、一呼吸置いてから、「そうです」

「まあ……」

音楽講師は、長年の広子の望みを打ち砕くとともに、授業料だけはきちんと納めていた生徒を失った。ただし、教えにくい生徒が来なくなって、清々とした気分になった。

 

 

 

山久保竜一は、大学生になった。母のあきらめによって音楽の道に進むことはなかったが、竜一は、内心では〈音楽も悪くないな〉とは思っていたし、そのつもりでいた。高校では理数系の学科で比較的成績がよかったので、その方面へ進学するためにあわてて受験勉強に精を出した。一般にも名の知れた大学の理工学部を受験し、合格した。しかし、入学直後から、受験の緊張が緩んだせいか、府中から都心の文京区にあるキャンパスまでの通学で、ひどく混んだ電車や雑踏に恐れをなし、また、かれにとっておもしろくも何ともない大学の講義に嫌気がさし、家にこもりがちになった。

毎朝、朦朧とした意識の中で、聞こえてきた「大学へ行きなさい」という母親の声を無視した。大学一年のとき、取得できた単位はわずかだった。

大学二年になってからは、持ち直し、よく講義にも出て学生らしい生活を始めた。ただ、部活などはせず、よく図書館で一人で時間を過ごすことが多かったという。

その図書館では、他人が勉強しているノートを無遠慮にのぞき込むなど、奇行があったことが目撃されている。

大学四年になった夏の日、竜一は、府中駅で松下保が歩いているのを見かけた。竜一は近寄って、声をかけた。

「よう、松ちゃん、ひさしぶりだね」

「おう、竜一くんか」

二人は数分間立ち話をした。松下保は、こちらから話しかけないと話さなかった、内向的だった竜一が、明るくふるまったことに驚いた。

「これからどこへ?」

「実家だよ。広島の方に長期に転勤することになったので、自分の荷物を片付けに行くんだ」

「親離れするわけだね。ぼくはいつになるか、よくわからない……」

「あんなお母さんがいると、嫁さんが来ないぞ」と松下保は冗談めかした。

「ハハ、そうかもしれない」

「竜一くんは、大学に進学したと聞いたが、もう卒業するころだね」

「まあね……」言いにくいことがあったためか、竜一は言葉に詰まった。二人の会話はそれで終ってしまった。

「じゃあ、これで」

 

卒論の指導教授は、研究室のボス、高森研一教授だった。高森教授は、このときまだ40歳の若手教授で、電子部品の分野で頭角を現した人物だった。学生や研究員の面倒見もよい教授だった。

ようやく竜一は、卒論を自分自身納得のできるレベルに書き上げた。ただし、〈まだ、未完成のところもあるが、見てもらうためには、これでもいいだろう〉と思った。自信を持って、その論文の草稿を高森教授に提出した。

「遅かったね? 他の学生の論文は出そろっているよ。今日中に読んでおくから、明日の午後、また来たまえ」

今日中に読むのは、忙しい教授としては、負担の大きいことだったが、これまで指導してきた学生に対する思いやりだった。

翌日、約束どおり研究室で、高森教授は竜一に語り始めた。

「主旨の着眼点は悪くないが、論文としての体裁が整っていないね。まず論文の形を整えてほしいんだ」

「はい」と竜一は答えたが、〈内容はともかく、形だと?〉 竜一は、納得しないものを感じた。

「専門用語は、余計な解説も必要ないから、どんどん使うこと。そこらの一般人に読ませる論文じゃないから、専門用語でいい。君の論文では、専門用語が使いこなされていないんだ」

「はあ」

「ここのところは、定性的な表現でくくっているね? きみの主観など、人文科学ならともかく、われわれ理工学専攻の研究者にとっては、どうでもいいんだ。客観的な事実だけでいいんだ。それを示せるのは数値だが、この相関関係の強弱を示したいのなら、統計的な処理が必要だよ。しかし、統計的な処理をするためにも、これではデータが少なすぎるんじゃないか。データを取り直す必要が出てくるぞ」

「はあ」

「統計的な処理なら、鈴木くんが得意だから、相談したまえ」

統計的な処理が必要なことは、竜一にもわかっていた。研究室にいる博士課程の鈴木は、人を小ばかにするようなところがあり、竜一にとって苦手なタイプだったから、つい、話しそびれていた。

「それに、この条件はまだ仮説じゃないか。仮説の上に仮説を結論付けても意味がないよ」

「……」

「ここは説明が前後しているね。後に続く文書を読めばわかるかもしれないが、ここでは、何のことかよくわからない。小説的な技巧を論文に入れてはだめだよ」

「……」

ダメ出しされた。もう、ぼろくそなコメントが、教授の口から流れ出た。竜一は、こんな教授に論文を提出しなければならない自分の不運を感じた。

研究室にいた学生の一人は、そんなやりとりを耳にしながら、〈高森教授は、山久保竜一くんを熱心に指導しているなあ〉と思った。

研究室にいた学生たちは、竜一に対する評価として、優秀な一面もあるのだが、グループ会などで、話がかみ合わない、人の話を聞いていないようなところがあり、ときおり一方的に話したりするという、コミュニケーションがうまくない、という点で一致する。

 

竜一は留年した。問題の卒論は、直しに直した。誤字は厳しく指摘された。教授の手で、補足する文書が加えられた。最初の草稿は、見る影もなかった。〈これでは、自分の論文ではない、高森論文だ〉と竜一は、悔しい気持とあせりの気持こもごもで、何度も直した。直させられた。

高森教授の承認を得た後は、事務的な手順を経て、それはすんなりとパスした。

大学五年生になって竜一の心を悩ましたのは、もう一つ、今後の進路だった。大卒の就職活動の季節には、取りこぼした単位をとるための授業もあって、見送った。竜一は大学院に進むことを考えていた。母の経済力をあてにすれば、学費は問題なかった。社会へ出ることに不安を感じていた。こんな自分が社会で大勢の人と接触しながら、うまくやっていけるのか、自信がなかった。

竜一は、大学院に進むための準備として、学校の関係者に相談した。竜一はその理由して、

「まだ社会に出たくない」、「卒業せず、大学に残りたい」と話した。

「本学の大学院の試験を受けるにしても、推薦の形で進むにしても、単に成績だけではなく、学部の教授のきみに対する評価内容によるね。特に、同じ研究室に残るためには、教授がどう思っているかだよ」

結局、所属研究室の高森教授の意向に左右することがわかった。

しぶしぶ竜一は、高森教授にそのことを話した。

「先生、ぼくは大学院に進みたいんです」

「ん? どうして?」

「大学で研究を続けたいと思うんです」

「研究することはいいんだが、研究者として認められ、成功できるかどうか、わからないものだ。よく考えるべきだろう」

「……」

「ある意味で、企業に雇われる形でも、研究はできるんだ。企業に就職すれば、最初は現場の仕事でも、研究開発部門へ配置転換されることはいくらでもあるしね。適材適所だ。今、ぼくはきみに就職することを勧めるよ」

「そうですか」

竜一は納得いかぬまま引き下がった。

高森教授は、竜一が部屋を出たあと、近くの席の者に、つぶやいている。

「人前で研究を発表することが多い大学院では苦労するのではないか」

教授の思いは、半分当たっていた。次に、『社会でも苦労した』竜一の姿が浮かび上がる。

 

大学院進学に最も必要な教授の推薦が得られず、竜一は就職することにした。

大学卒業後の約5年間の就職状況を時系列に並べると、

04年3 卒業23歳)

  4 大手食品メーカー入社

豆乳飲料製造機械保守管理担当

  5月 退社

051月 電子情報機器製造販売会社入社

電子回路設計

3月 試用期間中解雇

0612月 電子光学関連会社入社

073月 退社

自ら辞表を提出。同社は本採用の予定だった。

8月 府中市から平塚市に転入、一人暮らしを始めた。近くのホームセンターで午前のアルバイト開始

  9月 パン工場で午後のアルバイト開始

パン工場では正社員になることを勧められる。

086月 パン工場を辞める

091月 事件(28歳)

 

卒業後すぐに入社した会社でも、その後、かれの専門に合った二社に就職したものの、試用期間内に解雇、または退社している。自主退社の形であっても、会社側から退社を勧められたものと思われる。

その退社から、次の会社に入社するまで、半年以上の空白期間がある。就職活動が大変だったと推察される。企業経営の厳しい時代に、専門的な大学卒業者を中途でも採用しようとする企業は限られているに違いない。人材派遣会社なら、求人があったかもしれないが……。

竜一が履歴書による審査を通り、面接を受けても、そこで落とされたケースも多かったろう。やっと試用にこぎつけたとしても、試用期間の終了時に退社を余儀なくされた。

 

竜一が3カ月の試用期間で、会社からを雇用関係の打ち切りを告げられた日、府中の自宅に帰ってから、母が用意した夕食をいっしょに食べていたとき、竜一はそれを報告した。

「会社を辞めることになった」

「まあ、ようやく見つけた会社だったのに、どうして?」

「ぼくには合わない職場だった」

辞めさせられたとは言いにくかった。

「入社したばっかりで、合う合わないを決めなくてもいいのに……。しばらく続けられなかったの?」

「続けられなかった」

「長続きしないのね。3カ月じゃ、失業保険もろくにもらえやしない。辞めたら、家にごろごろしないで、また職を探しに行きなさいね。無職じゃ、嫁の来てもありやしない」

口うるさい母が、またプレッシャーをかけてきた。その後、母との同居は、息が詰まり、耐え難いものになった。彼の故郷というべき平塚で借家を探し、引っ越した。家賃が安かったが、夏はうだるように暑く、冬は凍えるほどに寒くなる、安普請の家だった。彼の乏しい収入では、しかたがなかった。

本人の供述では、転職するたびに、給料が下がったという。日本の労働環境の法則に則っているのだ。

 

採用されなかったのは、周囲の人たちとコミュニケーションを図ろうとしないかれの不気味さが一番の原因だろう。

解雇した会社の幹部によると、

技術が期待通りではなかったことと,言葉ではうまく言えないが,この人とはあまり付き合えないと思った。内にしまい込み,冗談を真に受けて思い詰めるタイプだと感じた」

同様な見解として、「コミュニケーションがうまくできず、(職場に)溶け込めなかった」がある。

「かれが発言しても、声が小さく、聞き取れなかった」という発言もある。

本人もそれに気づいていたようだ。

事件前、かれは一人住まいの自宅でノートに自分の日々の思いを書いていた。

「人としゃべらない自分を変えないといけない」

「前向きにがんばらなくては」

「家族(父母)ともっと連絡を取り合って話していかないといけない」

「消極的な自分を変えたい」

 

就職活動で大学の卒業証明書や成績証明書を発行してもらうために大学を訪れた際に、高森教授に相談しに研究室に寄ったりしていた。2008年5月ごろに、研究室の周囲に、「山久保竜一君が、研究室に訪ねてきたら教えてほしい」と伝えている。

「かれは問題のある人だ」とも話していた。

「どんな問題ですか?」と、竜一を知らない若い学生が興味半分に訊ねた。

「ここを卒業してから、ずっと就職できなくて悩んでいる。集中力があって、それなりにできる男なんだが、かれは、話の輪の中に入れない人なんだ。だから会社では、協調性に欠けるように見られてしまう。もうそれはかれ自身の問題だろう。企業それぞれに採用の評価基準があることだし、相談を受けても、私には解決してやれそうもないよ。相談を受ける義理も薄れてきているし……。できれば、逃げたいよ」 苦笑するように顔をゆがめた。

 

竜一が事件を起こす日が近づいてきた。多くを語らない彼だったが、秋が深まり、寒さが身にしみる季節が来るにつれ、彼の心の中で高森教授に対する憎悪が募っていた。

「先生は私の論文を評価せず、あれこれ直させた挙句、その年の最終審査期日に間に合わず、私は留年しました。留年は単位不足も一因としてありましたが、苦い経験でした。先生は自分の好きな料理を私に食べさせたがっただけじゃないですか?

私が大学院入学を希望していたのに、先生はそれに反対しましたね、というより、推薦手続きを拒否しましたね。そして就職を勧めました。それがこのざまです。今の私には、もうアルバイトの働き口しかありません。大学卒という肩書きも、大学で身に付けた技術も知識も、何の役に立ちそうもありません。私の就職活動では、大学卒というプライドなどずたずたでした。

ずいぶん疲れる就職活動が続きました。ハローワークには、まともな求人はありませんでした。これと思う求人に応募しても、企業から郵送されてきた通知の多くが不採用でした。何度も落胆させられました。一喜百憂の毎日でした。ようやく、ここなら自分に合っていると思える職場に入っても、試用期間の終了時に、会社の方から〈もう来なくてもよい〉と言われたのには、随分こたえました。

母が心配し、あれこれ言ってきましたが、私が家にいると、いやみを言うようになり、いたたまれず、この夏、私は平塚に移りました。あまりよいとも言えなかった家族関係も決定的におかしくなりました。

今のこの仕事なら、小学生にもできるレベルです。私は今、雑用係のようなことをやっています。社会保険も何もない労働条件で、最低賃金に毛の生えたようなアルバイト代をもらい、若い高卒の正社員に、あごで使われています。みじめすぎます。何のために5年間、大学で勉強してきたのでしょう。

先生は優秀な学者であり教育者であると思っていました。尊敬し、信頼していました。あこがれてもいました。しかし、それは私の見損ないでした。面倒見がいいという評判もウソでしたね。この前、私が研究室に立ち寄った時、私の話を聞こうともせず、邪険にあしらいましたね。

卒業の時、就職するなら、もっと早い時期に決めておかなければなりませんでした。完全に時機を逸しました。先生、あなたの判断は間違っていたわけです。私の進路が、あなたのために、間違った方向へそれてしまいました。私の人生が狂わされました。大学を出ても、まともな職に就けませんでした。あなたの過失でしょう?

責任があるでしょう?

責任をとってください。もうどこにも逃げないでください。消極的な自分にも、できることがあります」

 

竜一は、11月、高枝バサミを工具店で買い入れた。刺殺するための道具として……。殺傷能力の高いナイフといえば、両刃のダガーナイフが思い浮かんだ。

〈この年(2008)の6月に秋葉原で使われてからは、もうそれは市販されていないし、入手経路から足がつきやすい。実行してすぐに捕まりたくはない、できれば一生捕まりたくないから、どこにでもあるような高枝バサミを改造しよう。ハサミの刃二枚を重ねると、両刃のナイフになりそうだ〉

ハサミの中心の鋲がなかなか外れず、改造はたやすくはなかったが、竜一は執念で作り上げた。結局、40カ所も刺さなければならなかったから、それは殺傷用のナイフとしての実用性は低かったことになる。

 

年が明け、2009年1月14日、高森研一教授(45)は10時に1号館にある自分の研究室に入った。竜一はキャンパスの植え込みの陰からそれを確認し、ひそかに4階にあるトイレに入った。

教授の今日の講義は、08年度の最終だった。研究室で資料をまとめてから、講義開始時間の5分前に研究室を出た。

〈年月が経つのは早いものだ。これが終れば、雑事から解放され、自分のための研究にすこしは打ち込めるようになる〉と考えながら、研究室を出て教室に向かう途中、いつものように通路の奥にあるトイレに寄った。

〈一息入れるのにちょうどいい〉

 教授は曇りガラスがはめ込まれたドアを開けて、数歩進むと、タイルが張られた部屋の奥に、ニット帽を被り、黒ずくめの服を着た、細身の男が立っていた。男の正面向きの顔を一目見て、山久保竜一とわかった。

「きみは、そこで何をしているんだ?」

竜一は、心の中で、〈先生、ぼくはあなたを刺し殺すためにここでずっと待っていました〉と答えながら、右手に改造ナイフを握りしめ、かけよった。

 了

 

(本編は、フィクションであり、記述内容と事実とは異なります。人物描写においても、モデルとなった実際の人物とは関係ありません。)

 

参考資料

「中大刺殺事件」に関する各紙の記事(2009.12009.5)を参考にし、関係者の証言の一部を引用した。

毎日新聞

読売新聞

朝日新聞

 

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