検察に都合のいい証拠 岡森利幸 2010/10/20
R1-2010/10/21
以下は、新聞記事の引用・要約。
読売新聞夕刊2010/9/16社会面 「爪はぎ」事件、逆転無罪。元看護課長に「自白は誘導の疑い」がある。 1審は自白調書を信用した。 |
読売新聞朝刊2010/9/19編集手帳 爪切り事件、供述で爪を切ったを「爪をはがした」と捜査官が押し付けた疑いがあると裁判所は認定した。 |
1.犯罪行為を立証する
刑事事件では、警察が証拠を集める。物的証拠や目撃証言、そして問題の自供調書を作成して、まとめて送検する手続きとなる。証拠が乏しい場合は、被疑者の自供が大きなポイントになる。だから、自供に関して、それを引き出す側の苦労と、引き出される側の悲惨な状況がついて回る。検察側の構想に沿って取り調べるのだから、誘導というより強要と表現した方がふさわしい状況であることは容易に想像できる。
庶民にとって検察の権力は絶大だ。建前上、裁判所の承認をとって逮捕なり捜索なりを行う手続きをとっているが、裁判所は、検察のほとんど言いなりだ。裁判所が待ったをかければ、捜査に支障をきたすことになるから、よほどの理由がない限り承認される。自供を引き出すために別件逮捕するというケースもよく使われる。期待した自供が得られなければ、長期拘置・拘留させて、家に返さないこともできるのが検察だ。なにしろ、裁判官を納得させるためには、伝統的に、自供調書が重んじられている。裁判官には「自分に不利になるようなことを自供するのは、それが真実だからだ」と思い込んでいる人たちが多いのだ。
警察や検察の側に満足な自供が得られなければ、拘置・拘留をできるだけ長く伸ばす。「満足な自供が得られない」ということは、証拠がそろわないことであり、起訴がおぼつかないケースになってしまう。被疑者は疑惑があっても「ハイイロ」のままであり、そのまま裁判に持ち込んでも有罪にならない。有罪になりそうもないケースでは、検察としては起訴をためらうのだ。起訴不十分、あるいは起訴猶予という結論にしてしまう。つまり、検察で、検察官が事件を実質的に裁いてしまうことになる。検察官が「クロ」と断定したケースだけ、裁判に持ち込んでいる。言い換えれば、裁判官に「クロ」と断定してもらえるケースだけなのだ。もう一つ自供が得られれば起訴に持ち込めるというケースでは、検察側は簡単にあきらめたりしない。粘り強く自供を引き出す努力を続ける。
ようやく立証できると思われるレベルになれば、検察官がそれなりの書類に仕上げて裁判に持ち込む。裁判官はその書類を読んで、ほとんどの場合、「ふむふむ、なるほど」と説得されてしまう。
だから、刑事裁判で無罪になるケースは、それが新聞種になるほど数が少ない、稀なケースだ。そんなケースは、「自供調書」の作文があまりにも見え透いたケースだろう。検察側に都合のいい言葉が並べられた供述になっていたりする。そんな下手な作文が裁判官に見破られてしまっている。最近のニュースではそれが目立つ。取調室という密室の中での自白などは当てにならず、参考情報にもならないものと私は考える。そんな状況で得られた供述がいいかげんであることが、裁判官の中にも、最近ようやく理解されるようになって来ているのはよい傾向だ。
2.誘導された自供
爪はぎ事件〔爪切り事件ともいう。認知症の患者二人に対して、伸び放題の、白癬菌に侵されてボロボロの爪の手入れをした看護師が、虐待(他の看護師には爪がはがされたように見えた)と告発された〕では、被告が「爪を切った」と言っているのに、検察側は被疑者を長期間(約100日間)拘置し、「爪をはがした」という記述を含む供述証書を作成した。それが根拠になって1審では有罪になったが、2審では取調官の誘導や圧力があったと裁判官が認定した。
「爪を切った」と「爪をはがした」では、似たような動作であり、どうでもいいような表現の違いのようだが、裁判ではそれが「無罪」と「有罪」の切り替えスイッチになってしまうのだから、おそろしい。「爪をはがした」では、やはりその行為に悪意がこもってしまう。事件を「ハイイロ」のままで終わらせたくない検察官は、それがわかっているから、ねばりにねばって「爪をはがした」と供述させたのだ。
1審の裁判官〈ふむふむ、爪をはがしたの? 悪意がこめられているね、有罪だ〉――と、検察官の思惑通りに思考したのだろう。
3.検察に不都合な真実
自供が得られたケースは、裁判で日本ではほとんど有罪にされる。逆に、当事者の自供が得られないケースや被告が罪を認めない場合は、状況証拠などを積み重ね、被告の言い分を論破しなくてはならない。検察側としては、ややこしい事件になるのだ。そんな「労多くして功少なし」のような事件では、検察として敬遠してしまうケースも見られる。
最近のテレビの報道で、80キロ以上と思われる猛スピードで走っていたバイクが、道路を横断しようとしていた少女をはねて死亡させた事件で、少女がセンターライン付近で立ち止まっていたという数人の目撃証言があるのに、ドライバが「通常の速度で走っていたところ、少女が急に飛び出し、センターラインから1.4メートル飛び出したところでバイクに当たった」などという自供をうのみにし、不起訴にしたケースがあった。目撃者は、テレビ記者の取材で「証言した内容と調書が違う」と、何かにおびえたように言っていた。検察側としては、「80キロ以上と思われること」などを証明するのは、ややこしいと判断したのだろう。(ブレーキ痕や、停止した地点までの距離で推定できるのに……検察官は算数が得意でない?) 結果的に、少女の方に非があったと言われたようなものだから、その両親の方は収まりがつかないことになった。
目撃証言がはっきりしているのに、検察が証拠採用しなければ、裁判では証拠にはならないという特権もある。弁護側には、そんな目撃証言の存在さえ、知らされないというのだから、裁判では検察側有利に展開するのが「お決まり」になるのだ。目撃証言があいまいであっても、検察側に都合のいいように、検察の権力で、あるいは書類作成上のペンの力(?)で「確かな証言」にしてしまうこともできるのだ。
4.検察の威信
検察側としては、被疑者が有罪となれば事件は解決となるから、職務を全うしたことになり、庁内での自分の評価が上がり、昇進に結びつくのだ。被疑者を「有罪」にしたがるインセンティブ(意欲をかきたてるもの)が十分にある。
起訴したのに、無罪になってしまっては、検察側としては、すべて徒労に終るだけでなく、メンツが丸つぶれになる。公の場でハジをかくから、検察の威信に関わることになるのだろう。マスコミには「冤罪だ」と騒ぎ立てられ、被告に頭を下げなくてはならない事態にもなるから、どうしても、確かな証拠をそろえてからでないと、起訴しにくいのだろう。かといって起訴しなければ、検事としての実績が得られないだろうし、犯罪を野放しにしてしまってはならないという「正義感」に反することにもなるから、ハイイロのケースでは相当なジレンマになっていると思われる。(正義感よりも自分の実績の方が気になるのだろうけど)
確かな証拠をそろえたとしても、それに反するような「情報」があとから出てきたら、とんでもない事態だと検察側は思うことだろう。「郵便不正事件」を巡って、それが起きてしまった。その対応のまずさが、正義感よりも自分の実績の方が気になるという証左だろう。
虐待を正当化する親たち