虐待を正当化する親たち                                     岡森利幸   2010/10/10

                                                                    R1-2010/10/19

以下は、新聞記事の引用・要約。

読売新聞夕刊2010/7/31 社会面

厚労省は、08年度、児童相談所が対応した児童虐待4万2661件のうちネグレクト(育児放棄)は1万5905件あったことを発表した。

親たちの虐待の方法は、すさまじいものがある。手加減したのか、しなかったのかはわからないが、虐待の果てに自分の子、あるいは義理の子を死に至らしめる例がしばしば報道される。そんな虐待が昨今増えているということでなく、昔からあった。

最近のニュースから虐待の手口の拾ってみると、

・食べ物を与えなかった(そのため食料を万引きして捕まる。呼び出された親はさらに……)

・狭い箱の中に閉じ込めた(ほとんど密封した)

・正座させた上、木刀で殴りつけた

・バーベルで腰の骨や歯を折った

 

そういった親たちが、病院などからの通報によって検挙され、裁判にかけられるが、ほとんど反省の色を見せないことに私は気づく。傷害致死罪などに問われた裁判では、被告が罪を素直に認めないから、家庭という密室の中での犯行を証明することは、検察側にとってなかなか難しいことだと思いやられる。彼らは、「自分はやっていない」(もう一方の親のせいにする)としらばっくれたり、「しつけのためにやった」と主張したり、暴行を認めたとしても「(検察が頭を殴ったというのに対し)あたまを殴っていない。顔を平手で叩いたり蹴ったりしただけだ」などと言い訳し、無罪を主張することがほとんどだ。あるいは彼らは「しつけのためにやった」と自分たちの行為を正当化する。それは罪を逃れるための言い訳ではなく、本気でそう思っている節がある。子どもの成長のために、リッパな社会人にするために心をオニにしてやっているのだ、と思い込んでいるようだ。だから、周囲の者たちがいくら「やめなさい!」といっても、彼らは強い信念をもっているから、「しつけ」をやめないのだ。しつけというより、折檻(せっかん)という表現の方か適切だろう。折檻にも、悪さをした者を懲らしめるという意味が含まれる。

親たちには、他人に「虐待だ」と指摘されても、子どもの側に「折檻」に値する要因があったからであって、むやみに「折檻」をしているわけではないという言い分があるだろう。子どもが悪いから折檻するという理由だ。その悪さとは、例えば、

・子どもが言うことをきかない

・ふざけたり、悪さばっかりしている

・何べん言っても、わからない

・聞き分けがなく、だだをこねる

・言い出したら、きかない

・生意気な口を利く

・見え透いたウソをつく(言い訳がましい)

・不作法なことばかりしている。散らかしたまま、ものをかたづけない、食べ物をこぼす、ガラス類は落として壊してしまう、などなど

・寝つきがわるく、夜中にギャーギャー泣き喚く

・おねしょをしたり、時には昼間っからパンツの中に脱糞する

・下の子を(弱いものを)いじめる

・冷蔵庫の中のものを勝手に取り出す

・財布の中から金を抜き取る

・子どもが自分になつかず、声をかけてもロクに返事もしない

・何か言えば、反抗的な目で見返す

・とにかく可愛くない……

 

虐待の例では、「むしゃくしゃして娘を殴った。暴力がばれるとまずいと思った」という、言い訳にもならない動機をあげた、どうしようもない親の自供もあるのだが、多くは、子どもの悪さがきっかけになる。親と子がいっしょに生活すれば、暴行するきっかけは山ほどあるものだ。子どもが悪いことをすれば、しかったりたたいたりするのは当然だという言い分だ。子どもは、ほうっておくと、いたずらのし放題だ。わけもなくいたずらをする。何かをやっては、へましたりする。「財布の中から金を抜き取る」ことにおいても、最初、子どもはみんな〈それが悪いことだという意識〉を持っていない。(子どもは純粋だから、金は何でもほしいものが手に入る便利な紙切れであることに気づく) 親が〈うちの子は教えなくても、そんなことはしいないだろう〉と思うのは大間違いである。

親にとって、特に「子どもが言うことをきかない」ことは、最もいらだたしいことだろう。つい手が出てしまうことになる。これが少し効果的なものだから、「つい」が「いつも」になってしまう。それが常習化し、暴行を繰り返すようになると、ますます子どもがひねくれる。そうなれば、〈もうイヤッ〉という事態になるのだ。しつけなど二の次で、自分のいらだちをまぎらわすために(単に腹立ちまぎれに)、小さな子どもに暴行するようになってしまう。隣近所に聞こえるような暴言も吐く。例えば――

「このガキー、またやりやがったな」

物と物がぶつかる音や倒れる音、「バシッ、ドシン、バタン」(茶の間が柔道場と化す。あるいはサッカー場)

そして子どもの悲鳴、「ギャー、ワー、ごめんなさい」

隣近所は聞いて聞かぬふりをする。

「ウーン」(最後はうめき声で、物音が止む。)

 

彼らは自分のいらだちをコントロールできなくなっている。そんな人は、基本的に、親になるべきではない。暴行したいのなら、さっさと育児放棄してほしい。

彼らの言い分の共通項として、もう一つ、「自分も子どものころ、親にそうされて育った」と言っていることだ。そんなしつけの方法が、自分が親になったときにも受け継がれ、家の伝統になっているという。自分が親にやられたから、親になったときに子どもにやり返すという復讐の連鎖のようなことを言い訳にしているのだ。〈そのとき(自分が子どもの時)、自分がどんなにみじめで、絶望的な気持ちだったか〉、大人になって、すっかり忘れているのだろう。〈親のふり見て我がふり直す〉ことをしてほしい。

親は、子どもが悪さをすれば、殴るもけるも自由なんだ、という権利を主張しているかのような人たちもいる。古い時代はともあれ、いまではそんな権利はだれにも与えられていない。人々の苦労話を読み聞きすると、かつて、酒を飲むと、そんな権利を主張し始める人が多かったらしいことがわかる。子どもだけでなく妻に対しても……。今では、そんな人はすぐに離婚されてしまうだろう。そんな男にとっては、古きよき時代だった。

 

 

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