菅直人氏が首相からおろされた理由                        岡森利幸   2012/1/19

                                                                  R0-2012/4/8

各人の敬称は略す。以下は、新聞記事の引用・要約。

読売新聞朝刊2010/7/3 政治面

首相がTV闘論に不満をもらした。「1対8はつるし上げだ」

読売新聞朝刊2010/7/3 政治面

菅首相への「ぶら下がり」が大幅に減っている。14日で8回のみ。

「首相」の立場で記者団の質問に答える「ぶら下がり取材」には事実上、応じないという対応が続いている。

読売新聞朝刊2010/7/5 総合面

党首討論で、首相が逆質問攻め。

菅首相の逆質問が目立った。

読売新聞朝刊2010/11/28 一面

首相が鳩山氏と会談した。「支持率1%になっても辞めない」と語った。

毎日新聞夕刊2011/1/28 一面

菅首相の米格付け会社による日本国債の格下げを巡り、「今初めて聞いた。……ちょっとそういうことに疎いので、改めてにさせてほしい」の発言について公明党の山口代表が「耳を疑った。危機感に乏しく、それを乗り越える決意も浅い」と強く批判した。

毎日新聞朝刊2011/12/27 総合・回顧D

「菅おろし」で6月1日に副内閣相の辞表を提出した東祥三さん(60)は語る。

――3月11日夜に政府の現地対策本部長を拝命し、仙台市に入った。現地を見て回って一週間後に東京に戻ったとき、首相に「現地に権限を渡してほしい。首相が現地に来る必要はない」と言ったが、「考えておくよ」で終わった。(菅氏は)リーダーの資質に欠けていると感じた。

毎日新聞朝刊2011/6/16 一面

再生エネ法の成立を目指し、首相が「(議会は自分の)顔を見るのがいやなら、法案を早く通したほうがいい」と公言した。

毎日新聞夕刊2011/8/2 近事片々

菅首相は、海江田さんの涙(委員会で、原発再稼動での政府側方策のブレを野党に追及されて泣き出した)を見て、「政治はもともと野良犬のけんか。向こうがかみついてきた時に『ウォー』と頑張れるか、『キャンキャン』と言って逃げるか、ということだ」とコメントした。

毎日新聞朝刊2012/2/28 一面

民間事故調が福島第1原発事故の報告書をまとめた。菅直人首相らの官邸の初動対応を「無用な混乱やストレスにより状況を悪化させるリスクを高めた。場当たり的で泥縄的な危機管理」と指摘した。

The Japan Times 2012/3/6 national

石破茂氏(自民党の前政調会長)は、先月の衆議院・予算委員会で、福島第1原発で東電の事故対策を遅らせたことになったとして、菅氏が3月12日にヘリコプターで現地を訪れたことを批判した。そのとき、メルトダウンの直接的な情報を得ることができていなかった。

菅直人が2011年8月下旬に首相を辞してから約半年、今でも、首相時の政策を評価する意見や事故対応の報告書がいくつか出されている。

彼は辞任する際に、「厳しい環境のもとでやるべきことはやった。一定の達成感を感じている。国民の皆さんのおかげ。私の在任期間中の活動を歴史がどう評価するかは、後世の人々の判断に委ねたい」と語った。私は後世の人ではないが、私なりにそれを判断してみたいと思うし、彼の内閣が比較的短命に終わったことの理由を考えてみたい。その強い個性も興味深いので、その人物像の一部分だけでも明らかにしてみたい。

 

1.質問に答えるのが下手だった

菅は、首相になってから、国会での党首討論を意識的に避けていた。攻守ところを変え、「言い訳」が要求される与党の立場で答えることには苦手だったとみえる。というより、嫌がっていたようだ。

「ぶら下がり取材」には事実上、応じなかったという。ぶしつけな質問を浴びせる「ぶら下がり取材」の記者たちには、ほとんど答えなくなっていた。答えると、その言葉尻をとらえられて、非難の種を作ってしまうを嫌ったようだ。要は、失言を恐れているのだろうし、政治的課題が多すぎて、答えにくい質問が多すぎるのかもしれない。例えば、米格付け会社による日本国債の格下げを巡り、「今初めて聞いた。……ちょっとそういうことに疎いので、改めてにさせてほしい」との発言が波紋を広げた。下手な「言い訳」があだになった。下手な「言い訳」をするのは、上手な「うそ」を言うよりは、ずっとましであるけれど……。

「ぶら下がり取材」は、首相にとって正式な会見の場ではないから、答える義理はないのかもしれないが、記者たちが、政府のトップから最新の情報を得るための、あるいは質問に答えてもらえる、数少ないチャンスだったはずだ。首相にとっても、直接国民に広報するための手段として活用できるものだろう。

答えるのが面倒であっても、「取材には応じない」「答えない」という姿勢は、ほめられたものではない。手の内を明かさない、あるいは〈何を考えているのか、分からない〉という態度を、記者に、ひいては国民に見せることは、大きなマイナスだろう。内閣の支持率を落とした原因の数パーセントかは、それにあるだろう。

党首闘論では、菅首相が逆質問攻めを行った。それは、「政治はもともと野良犬のけんか。向こうがかみついてきた時に『ウォー』と頑張る」というコメントによく表れている。相手が、攻めてきたら、逆に攻め返すぐらいの、気力や迫力がなければいけないのだろう。

闘論の相手は、問い詰めるための質問を投げてくる。だいたい、まともな答えなど期待していないのだ。あるいは自分で答えを知っているのに、相手に質すのだ。相手が知らなければ、勝ち誇るのだ。

言い負かすためのそれでも、質問された側は、相手の論法に引きずり込まれないに気をつけながらも、一応、答える形をとらないといけない。逆質問によって議論がまともに進行しないのであれば、闘論をする意味がない。けんかであるにしても、意味のある言葉を発しなければ、聞いている側は、面白くないし、眉をひそめるだけだ。その後、「逆質問」が各方面で批判されたから、さすがに菅も、逆質問を封じて、いやいや質問に応じるほかなかったようだ。

 

2.イラついていた

菅には、「イラ菅」という異名が定着している。いつもイライラしているから、「イラ菅」なのだ。菅のイラつきぶりは、間接的に伝え聞くところによると、相当に激しいものだったらしい。菅のイライラが高じると、気の弱い人は、恐ろしくて近づけなかったという。

特に首相になってから、いらいらぶりが激しくなったとされる。彼の周囲の者たちに対して、怒鳴りまくる場面が多かったとされる。得意の思いついたことをすぐに口に出し、関係者にせっつく。怒鳴りまくる菅に対し、官僚は近づかず、大事な情報さえも閣僚に上げず、黙りこくる、という図式があったとされる。問題のSPEEDIに関しても、公表が遅れたのも、それを進言するものがいなく、政府内のコミュニケーションがすこぶる悪かったせいだとの指摘がある。進言しようものなら、

「なぜそれを早く言わなかったのだ! 何のために大金を出してそれを開発したんだ」と怒鳴られまくられたことだろう。

 

相手を恫喝することは、政治家によるあることらしいが、菅の場合も、恫喝に近かったのかもしれない。民主党関係者の証言として「指示に対して”できません”と答えた官僚に(菅は)灰皿を投げつけた……」――週刊新潮(2010年6月17日号)というから、すさまじい。

言うとおりにすることに気が進まないとき、「できない」と言って拒絶することは、ありふれた言い訳なのだが、「できない」と言われた側がそれに対処するのは、なかなか難しい。そんな言い分が通用しては何も進展しないから、リーダーの立場としては、そんなやる気のない官僚や部下に対し、おだてたりすかしたりしながら、何とか説得しなければならない。「できなくてもいいから、やってみろ」と言うしかないのかもしれない。そんな説得がまどろっこしいならば、灰皿を投げつけるのだ。

自分の考えを部下に伝えるためには、大声を出さなくてはいけない。特にリーダーたるものは、敵対する相手だけでなく、ときには、身内の部下たちに対して()()り散らさなければない。部下が怠けていたり、おたおたして何も手につかなかったり、何度も同じへまをしているなら、怒鳴らなければいけない。ただし、自分の意に反することをした部下に対して激怒したりしてはいけない。そのときは、自分の意を正確に伝えるためによく説明することだ。

昨今は、それをパワーハラスメントだとして非難されたりするから、やりにくいかもしれないが……。

 

3.支持率1%でも辞めない発言

「支持率1%になっても辞めない」と鳩山・元首相に語った。菅は相当に強い信念の持ち主とみえる。民衆の支持が得られなくても、民主党のあるいは自分自身の政治をやって行こうというのだ。99%支持されずに政権の座に居座っているいるならば、常識的には、とんでもないことだ。民主主義の原則に反する、民衆への挑戦的な言葉なのだ。

政治家あるいは政党は、民衆に迎合した政策を実行していかなければ、支持がどんどん下がってしまう。民衆は自分たちの生活がよくなければ、政治のせいにするから、不満のタネは尽きない。政治家は、増税したりすれば民衆の反発を受け、選挙に負けるだろうからと、民衆の顔色を伺い、借金の山をこさえながら、あめ玉をばらまくという(特に口うるさい人たちに対して)政策を採りがちである。ただし民衆は、借金の山が実は自分たちの借金であることにぜんぜん気付かない。

財政再建に、彼は強い意欲を示していたのだから、支持率1%発言は、そんなあめ玉をばらまくような政策はしないという決意表明をしたのだと、私は受け取った。

日本の首相は、一国の最高権力者として重い責務を背負っている。常に批判される。菅直人の前任者、鳩山由紀夫も、さんざんな評価で退任したことを思うと、その責務を果たすことの難しさがあるということだろう。民主党だけでなく、その前の自民党政権時代にも、途中で投げ出してしまった首相は多い。記憶に新しいところでも、安倍晋三、福田康夫……。彼らは、困難な舵取りを迫られているのだろう。投げ出すように首相を辞めてしまった。やめざるを得なかったことに、少しは同情したい。

 

選挙前に増税の発言をするのは、政治家にとって禁句のはずだが、菅は、2010年7月の参院選の前に消費税を10%にすることをほのめかした。それは、菅の正直な性格の一面が現れたようだ。消費税を上げることは、財政再建のために、さしせまって必要な施策なんだろう。小沢グループが増税にいくら反対しようと……。それをほのめかしたせいで、参院選で民主党が大敗したとされ、菅は党内で責任を追及された。

消費税増税に関しては、次の野田内閣に引き継がれることになったが、大震災によって世の中の状況が大きく変わってしまい、政府は多くの出費を余儀なくされ、財政再建どころか、新年度予算では赤字がさらに増えそうだ。消費税10%でも税収が足らないとされる。(私としては、税収が足らないというなら、消費税だけでなくすべての税を均等に上げてほしいと思う。消費税が一番手っ取り早い?)

 

4.リーダーシップを発揮した?

菅直人は、2010年6月の首相就任直後から、そのリーダーシップが問われていた。もともと民主党は野党連合的で、まとまりは弱い。小沢一郎グループの金権で結びついた政治勢力は、その中では際立った存在だ。2003年9月に、当時自由党だった小沢一郎のグループを党に引き入れて以来、彼らとの対立が常にあって、菅は党の代表あるいは幹部の座を争ってきた。小沢グループを党に引き入れたことは、民主党を大きくすることに必要だったとはいえ、むずかい舵取りをしなければならなくなった。やっかいなお荷物を抱え込んだことになった。

反小沢派としての菅直人は、鳩山由紀夫の首相辞任のあと、小沢グループが立てる候補者たちを抑えて、代表に立った。代表に選ばれるためには、反小沢グループの協力が必要だったから、党や政府の要職には彼らの中から抜擢するしかない。ますます小沢グループが反発を強めることになり、党内の不協和音が鳴り響くことになつた。小沢グループとの確執があって、党内をうまくまとめられないという点では、菅は強いリーダーシップを持たなかった、と言える。

小沢といえば、金権政治だ。献金を集めるのも常にトップクラスだ。「政治権力による、集票と集金のための政治」を行なおうとすることは目に見えている。彼の判断基準はすべて、政権のためになるか、票になるか、金になるか、のいずれかだろう。互いに利得で関係を築いているから、その政治的な力は大したものだ。「豪腕」の政治家のゆえんでもある。リーダーシップの一つの形が「豪腕」だから、小沢一郎待望論が出てきてしまう。

 

菅首相に関してリーダーシップがとやかく言われるものだから、2010年12月16日には、官房長官が「首相が決断したこと」として30項目を羅列した。彼は「リーダーシップ」の言葉を14分で14連発したとされる。たしかに、菅はしばしば決断しており、決断力のある方だろう。しかし、決断力は独断にもつながるから、決断が多いからといって、リーダーシップがあるとは限らない。周りが付いて行かないような決断をしてしまっては、おかしなことになる。メンバーの合意を得ないまま、決断してしまっては、ますます反発を招く。リーダーの独断は、グループの和を乱す行為になってしまう。菅の「思い付き」のような決断に、首相という日本の最高権力者の言うことだから、周囲はそれに従わざるをえないところだが、周囲がなかなか付いていけなかったようだ。せっかくのいいアイデアであっても、周囲がそれに賛同できず、彼一人が空回りしていた様子も伺える。菅のいらだちが募ったことだろう。

 

震災の対応で、〈菅直人前首相にはリーダーの資質に欠けていた〉との東祥三の指摘だが、「現地に権限を渡してほしい。首相が現地に来る必要はない」と進言したのに、「考えておくよ」では、東祥三にとって不満だったようだ。上司に自分の意見を言って、それが通らなかったからと言って、上司をリーダーの資質に欠けるとみなすのは部下として傲慢だろう。現地に権限を渡すということは、つまり、現地に勝手にやらせたら……ということだから、いい提案とは思えない。本部を中心として組織で対応すべきで、現地だけで動いたら、うまく行くはずがない。

ただし、政府全体を組織的に、迅速に正確に動かすためには、一人の人間が、じたばたしてもダメだろう。人を動かさなくてはいけない。多くの人を活用する必要がある。ある程度、下部組織に任せることも必要なことだ。

リーダーシップがないとするのは、首相をけなす理由として一番、挙げやすいフレーズだろう。

 

5.原発事故対応であせった

菅は、旧ソ連の原発チェルノブイリの事故に匹敵するような、福島第1原発の大事故に遭遇して、首相官邸で、ふがいない官僚たち、逃げ腰の東京電力の幹部(実際に、「作業員たちを現場から引き上げさせる」と言い出したとされる)、頼りにならない原子力安全委員会、的確な情報を出そうとしない原子力安全・保安院の面々を前にして、あせって自ら陣頭指揮を執ろうとした。

・すべての電源が喪失したことに、急遽電源車を取り寄せ、現地に向かわせる

・煮えたぎった原子炉を外部から冷やすための放水車を用意させる

・かける水がなくなったとなれば、海水をかけるかどうか判断する

……

周囲の者が「そんなことまで一国の首相がやらなくてもいいのに――」とあきれるほど、担当者に電話して確認するなど雑事に介入したとされる。

さらに、事故直後の3月12日、菅首相は、ヘリコプターで現地に飛び、福島第1原発に乗り込んで状況を視察した。このことは、あとあとまで批判される一件となった。

・現地の者がその応対に追われ、事故対応を一時中断しなくてはならなかった。

・一国の首相が、あるいは災害本部の長が本部を離れてはまずい。

 

これは、首相が現地に行かなかったと仮定しても、行かなかったことを批判されることになりそうだ。落ち着いたころ行っても、現地の人に「何しに来たんだ。いまさら来ても遅いよ」などと言われてしまうものだろう。

災害本部長がドンとかまえていられないほど、今回の事故がせっぱ詰まったものだったし、緊急時の組織的な動きが鈍かったわけで、席に座って部下の報告を聞いているだけのボンクラなリーダーなどより、菅はずっとましだったと私は思う。しかし、〈こまかいことに口を出しすぎる〉菅に対して周囲の者がますます敬遠し、菅が孤立を深めた様子がうかがえる。

 

6.脱原発方針を打ち出した

菅は、原子力推進行政から、脱原発へ大きく舵を切ろうとした。これも、菅が信念を貫いた施策であろう。脱原発方針を打ち出したのは、相当に影響が大きい。日本の社会を変えるほどだ。原発に頼ってきた日本の経済・産業が構造的に傾いてしまうかもしれないから、大きな政治判断だった。

危険な原発として筆頭に上げられていた静岡県にある浜岡原発を政治判断で停止させたことも大きい。電力の供給事情が悪い中だから、止めたことには、政府内にも強い反対もあったはずだ。しかし、福島第1原発と同様に、大地震や大津波に対してはほとんど無防備な立地条件だったから、やむをえないところだ。御前崎の沖合いで大地震が発生すれば、浜岡原発は福島原発の二の舞になるところだった。日本の太平洋沿岸では、大地震が起きると、さらに次の大地震が連動して起きる可能性が、歴史的事実からも、かなり高い。この停止は、少なくとも、不安でいっぱいの人々の心をやすめる効果はあった。

経産省が玄海原発の再稼動を進めていたとき、菅がいきなりストレステスト導入を持ち出して、その大臣の海江田を泣かせたのも、日本ではまともに原発のストレステストをしてこなかったことが背景にある。ヨーロッパなどでは、もっと厳格なテストして、あるいはもっと最悪ケースを想定して「安全である」ことを確認しているのだ。

電力会社も、国側も、原発を建設する地元には、金をばらまき、金で懐柔して、反対の声を押さえ込んできた。一度建設したら、後から判明した活断層への地震対策など防災対策をすることが、「住民が不安がる」、あるいは「地元への交付金を増やさなければならない」という理由で、ぜんぜん行おうとしなかった。原発推進が、利権の温床になっていた、ていたらくな原子力行政のつけが今回の事故につながったのだから、政治的にも技術的にも原発を見直すためのいい機会だろう。

 

7.疫病神にされた

私は、〈国難に立ち向かうためには、リーダーを刷新しなければならない〉という日本の伝統的な風潮が菅を退陣に追い込んだ一番の要因だったと考える。過去の歴史をさかのぼれば、鎌倉時代に元が北九州に襲来したとき、幕府は執権を若い北条時宗にゆだねたし、幕末期には、黒船来航により西欧の列強に武力でおどされたことにより、それに対応するには旧来の幕府ではダメだとして、薩長藩が徳川の将軍を引きずりおろし、天皇をかつぎ上げて最高権力者に仕立て上げのだ。

菅の場合、2010年7月の参院選に民主党が大敗したことの責任が問われたし、何よりも、「東日本大震災の責任を取らされた」格好だ。もちろん、菅が東日本大震災を起こしたわけでもなく、それに引き続いて起きた福島第1原発の大事故の「張本人」でもない。でも、〈菅が首相のままでは縁起が悪すぎる、日本は(たた)られている〉かのごとく、内閣を刷新しないと立ち直れないという雰囲気ができてしまった。それが、菅が不人気になった一番の原因だろうと私は考えている。

政府が情報をろくに提供せず、政府の体制も整わず、市町村との連携も悪く、適切に事後の処理ができず、復旧対策が遅々として進まなかったり、福島第1原発の危機的状況に対応できず、手に負えないかのように、あれよあれよというまにチェルノブイリ級の事故に拡大し、広い地域が放射性物質で汚染されたりしたマイナス点が積み重なったから、政府のトップだった菅直人前首相が「つるし上げられた」わけだろう。

未曾有の東日本大震災が起き、福島第1原発の大事故が起きたこと自体、菅直人の責任に転嫁されたかのようでもある。菅直人は周りの人々から疫病神とみなされはじめ、支持率がぐんぐん下がったと私は「分析」する。つまり、「菅直人=疫病神」説である。すっかり嫌われてしまったのだ。

「顔を見るのがいやなら、法案を早く通したほうがいい」と言ったように、彼自身もその嫌われぶりを自覚していたのだ。

 

8.辞任を決意した

菅の支持率が低迷していた2011年6月2日、菅内閣の震災・原発事故への対応が不十分だとして自民・公明党が内閣不信任決議案を衆議院本会議に提出し、上程されることになった。それは表向きの理由であって、自民・公明党にとって、菅を早く失脚させた方が、好都合だと判断したのだろう。これに小沢一郎や鳩山由紀夫のグループがそれに同調する構えを見せた。自党の党首でもある首相の不信任議決に賛成票を投じようものなら、除名になる。民主党分裂の危機だった。可決ともなれば、菅はその場で辞職するしかなかったろう。小沢一郎のグループは分裂して新党を作って自民党と連立を組む構想を考えていたらしい。

これには菅も退陣の覚悟をしなければならず、その本会議を前に鳩山と会談し、早期退陣を約して、不信任決議案に反対させる合意を取り付けた。その後の民主党代議士会で「震災対応にメドをつけたら若い人に責任を引き継いでもらいたい」と語った。小沢グループにとって菅は政敵であり、その菅がようやく辞任する気になったから、野党の不信任案に同調する方針を撤回した。結局、当日の衆議院本会議で内閣不信任決議案は否決された。

その「震災対応にメド」を巡って、菅は退陣時期を模索する。彼が自らの内閣としてやって置きたいこととして、三つの法案を通すことを掲げた。

・今年度第2次補正予算案

・再生可能エネルギー特別措置法案

・特例公債法案

それらが「震災対応の法案」なのかどうかは疑わしいが、与野党からの早期退陣を求める声にもひるまず、2011年8月26日にそれらをすべて成立させ、菅は民主党代表および総理大臣の辞任を表明した。

自分の仕事を放り投げるような辞め方をせず、きっちりした形で辞めるのは、好感が持てるところだ。辞めるにしても、自分の任期の間にやるべきことはやっておきたかったのだろう。その姿勢は、民衆の反対にあっても、政権の座にしがみつく独裁者のごとく見えたに違いない。あるいは、疫病神に見えたのかもしれない。

 

 

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