気づかない自分の迷惑行為                                 岡森利幸   2011/6/6

                                                                  R1-2011/6/10

以下は、新聞記事の引用・要約。

毎日新聞夕刊2011/3/10 憂楽帳、『逃走の勧め』藤好陽太郎・著

「お前はいじめっ子だったからな」。小学校時代の恩師が笑顔で下した私についての評に耳を疑った。隣の席の子にシャープペンシルの先をぷすぷす刺していたりしていたという。身に覚えはない。むしろ記憶に残るのは暴れん坊に殴られ、いじめられたという意識だ。

「自分は弱い」という思いが、武道をかじるきっかけにもなった。恩師の言葉はまだ()に落ちないのだが、知り合いの精神科医いわく「やった方は覚えていないもんだ」。

(以下略)

考えさせられるコラム記事だ。この執筆者は、恩師から少年の頃「いじめっ子」だったことを知らされても、自分がそのころ「いじめっ子」だったことや、クラスメートをいじめた記憶がまったくないことを打ち明けている。おそらく、彼には「いじめる」という悪意はなく、遊び半分で「暴力的に」クラスメートと接していたのだろう。そして逆に、いじめられたという記憶がしっかり残っている。おそらく二、三十年前のことで、記憶があいまいな面があるにしても、この差は大きい。精神科医の「やった方は覚えていない」という指摘は鋭い。

自分の行為が他人にとって「嫌がられること」に、自分ではなかなか気づきにくいし、自分の行為は自分で正当化しながら実行するものだから、悪いことをしているとは思っていないのだ。おそらく、彼はその攻撃的で無作法な行為によりクラスメートから嫌われていたはずである。殴られた要因も、そんなところからきているのかもしれない。彼自身も相当に暴れん坊でありながら、いじめる側にいたということを認識せず、むしろ彼自身には、被害者的な感覚だけが残ることになったのだろう。子どもにありがちなことだ。

 

自分が悪いことをしている、道に外れている、あるいは、やましいことをしているという感覚は、自分を客観的に眺めて、初めてわかることである。外側から自分を眺めることには、ある程度、高度な想像力が必要なのだ。人間関係がうまくいかない人は、その想像力や配慮に欠けているのかもしれない。人間社会には気配り・心配りをする、あるいは礼儀をわきまえるというわずらわしい面があるが、それが嫌なら、一人で暮らすしかない。

実は私にも、近年、ある知人に敬遠されているということがあって、未だにその理由がわからないでいるが、おそらく、私は彼に嫌われるような迷惑なことをしたのだろう、あるいは気にさわるようなことを言ったのかもしれないと推測している。しかし、それが何であるのか、「やった方は覚えていない」のだ。

 

 

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