いじめ体験談で生徒に笑われた教諭 岡森利幸 2010/8/13
R1-2010/8/14
以下は、新聞記事の引用・要約。
読売新聞朝刊2010/7/14 社会面 自分のいじめ体験談を笑われたことに腹を立て、生徒に体罰を加えるなどしたとして、さいたま市教育委員会は、市立土呂中学校の男性教諭(30)を懲戒処分(戒告)にした。 教諭は1年生の道徳の授業で、「泳ぎが苦手なのに水泳教室のコーチにプールに投げ込まれるいじめにあった」とする幼少期の体験をユーモラスに語った。泳げるようになったことを伝えても生徒の笑いは収まらず、終了のチャイムがなった際に「授業つぶれちゃったね」と発言した男子生徒(12)にかっとなり、ほおを平手でたたいた。さらに、「公開処刑だ」と言って立たせ、近くの黒板をたたいたり、いすをけったりしたという。 教諭「伝えたいことが伝わらなかった。感情的になった」 |
「――あっという間に水の中にいたんだよ。おぼれちゃいけないと思って必死になって手足を動かし、もがいて水面に顔を出し、やっと息をしたけれど、ここのままじゃ沈んでしまうと思ったから、じたばたしていたんだ」
「ワッー、あははは、おかしいー、ハハハ……」生徒たちの間で、どっと笑いが起きた。
その教諭は〈自分自身がいじめられた時のつらい体験を話す〉つもりだった。いじられる側の気持ちを生徒たちに理解させることで、〈級友や弱者をいじめようとする機会があったときに、相手を思いやって、いじめにブレーキがかかればいい〉と思った。
教諭は軽い気持ちで自分自身のいじめの体験を思い出しながら語ったのだが、生徒たちにとってそれは、リアルな「笑い話」に聞こえたのだ。
教室内の笑い声が教諭に集中した。笑われることは心外だったから、教諭は困惑した。〈溺れそうになったことが、そんなにみっともないことだろうか……〉 泳げず、おぼれそうになって必死にもがいている、ぶざま姿を想像して、生徒たちは見下すかのように笑っているのだ。自分が屈辱的な立場にいることに気づかされた。教諭としてのプライドがゆらいだ。他人の不幸を喜ぶのは、悪意以外の何者でもない。怒りの感情もこみ上げてきた。
〈おのれ、未熟者たちめ、拙者を愚弄いたすか〉
その教諭は、時代劇風に言えば、そう感じたことだろう。
〈これは笑いごとじゃないんだ。そんな笑いがいじめを助長するんだ。こいつらには、弱者に対して思いやる心がないのか?〉
笑いによって辱めを受け、いじめられた過去の恐怖も思い出され、教諭の心は動揺した。
終了のチャイムが鳴るまで笑いが収まらなかったというから、生徒たちの笑いを制止しようとしても制止できなかった教諭のいらだちが募っていたときだ。追い討ちをかけるように、一人の生徒のからかうような言葉を投げかけてきたから、ついにカッとしてしまった。
「授業つぶれちゃったね」という、悪意があるとも思えない一言にキレた。
〈いうことを聞かないガキどもの見せしめだ。いたぶってやらんと、気が収まらん〉
怒りをあらわにして教諭は「処刑」を開始した――。
いじめの体験談として、水泳教室のできごとを話したのは、どうだったか。これでは、道徳というよりも「コーチのおかげでぼくは泳げるようになった」という意味では体育の時間に話す内容だろう。「いじめられて泳げるようになった」ことでは、いじめを讃美するかのような話にも受取れる。
その教諭は、へらへらして冗談めかして体験談を語り始めたのが「敗因のきっかけ」だろう。つらいいじめの体験談を生徒に語るなら、深刻そうに、こわばった表情で、声の調子を落として語るべきなのだ。すると生徒は敏感に感じて、笑いはしなかったろう。ふまじめな表情でいじめを語っては、笑われるに決まっている。
「他人事のいじめ」にはブラックユーモア的な笑いの要素が含まれているものだから、そんな「かっこわるい体験談」など、子どもたちは笑い飛ばしてしまうのだ。自分とは直接関係のない「他人の悲劇」なんて、おもしろおかしいだけだ。テレビ番組でお笑い芸人のボケ役がつっこみ役に叱咤され、小突かれた時のように、子どもたちには大人以上に、他人がいじめられる光景を楽しんでしまう習性があるといっていい。〈ボケ役をいじめること〉が、お笑い芸人の間で笑いを取るテクニックのひとつになっていることから、それがわかる。
冷静に考えれば、笑われたにしても、幼少期の自分が笑われたのであって現在の自分ではなかったはずだ。けれど、そんなことは頭の隅で理解していたにしても、教諭が「我を忘れて逆上してしまった」ほどだから、子どもたちの笑い声は大きかったようだ。
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