ボルト痛恨のフライイング 岡森利幸 2011/9/23
R1-2011/9/26
以下は、新聞記事の引用・要約。
毎日新聞朝刊2011/9/14 スポーツ面 クロアチアのザグレブ、陸上国際大会で、ボルトが百メートルで優勝。フライイングで失格となった世界選手権の百メートル決勝(8月28日)から約2週間たっていた。「借りを返す」と誓ったボルトが今季自己ベストの9秒85で何とか意地を示した。 ボルト「スタートが悪くて、集中力がやや切れた」 |
8月28日、韓国・テグ(大邱)で開催された世界選手権の百メートル決勝で、誰もがウサイン・ボルト(25)に注目していた。何しろ、ボルトは世界最速の男と喧伝されているのだ。ボルトがまともに走ったら優勝は間違いないだろうし、世界記録を塗り替える走りさえも見せてくれるかもしれないという期待があった。ボルトは5レーンで、トラックのほぼ中央の位置にいた。ボルトは長身の男だから、すぐにそれとわかる。スターターの「位置について」の合図で、決勝の8人の選手がそれぞれスタート位置に付いた。白線の前に両手をつき、スターティング・ブロックの金具に足を乗せる。ボルトは右手をすばやく動かし、胸に十字を切り、また白線の位置に戻した。
「ん? ボルトはクリスチャンだったのか?」と私は思った。
「ヨーイ」の声がかかる。数秒の息詰まる沈黙があった。号砲の音が響き渡った。その直後に、フライングがあって出走は取り止めになった。陸上競技場内は騒然となった。明らかに、中央の選手の動きが早すぎた。フライングしたのは、何と、ボルトだった。フライングは一発で失格だ。走る前に退場だから、すべてが台無しだった。その厳しいルールは誰もがわかっていたことだった。
フライングに関しては、以前はもっと寛容だった。だんだんルールが厳しくなり、その前の世界選手権ではレースの最初の一回のフライングは許され、2回目からは誰であってもその選手は失格になるルールだった。
陸上短距離の場合、100分の1秒、あるいはそれ以下の瞬間的な時間が勝敗を左右する決め手となりうるから、一般に、選手はスタートに一番神経を使う。スタートに遅れたら、ほとんどレースに勝てない。逆に、フライングぎりぎりのタイミングで飛び出せば、優位に立てる。ただし、選手がタイミングを測って号砲を聞かずに飛び出そうものなら、昨今ではスターティング・ブロックに、蹴り出されたタイミングを計測する装置が付いており、人間の目ではわからないような微小な動きでさえも自動的にフライングと判定されるのだから、ズルはできない仕掛けになっている。音に過敏なくらい神経を研ぎ澄ませた選手は、競技場の中の物音にも、例えばカメラのシャッター音にも反応してしまうことがある。選手が「カメラの音がしたから……」と言い訳し、審判にいくらアピールしても認めらることはないから、選手には気の毒なケースもある。
ボルトの場合、人間の目で、明らかにそれとわかるタイミングで飛び出した。ボルトも「幻の号砲」を聞いたようだ。そのときのボルトのくやしがり様は、尋常ではなかった。ボルトは天を仰ぎ、白い歯を見せ、苦痛の表情を浮かべた。両手で頭を抱えてから、手のひらで口を覆った。歩きながら、シャツを脱いで上半身裸になった。黒い肌のたくましい筋骨を観客とカメラの放列に見せつけた。胸の奥からわきあがる悔しさを発散させるために、そうせざるをえなかったようだ。まもなく後ろから審判員がボルトに近寄り、退場を促した。ボルトは競技場のコーナーに引き下がったが、カメラはなおもボルトを追い続け、その姿を映していた。ボルトは、手に持っていたシャツを投げ捨て、両手のこぶしを青い壁に打ち付けた。何かをつぶやいているようだが、声は聞こえない。一連の動作をしたあと、ようやく出口のカーテンの中に消えた。
ボルトにとって、世界選手権・100メートルで金メダルをとることが、今年の一番の目標だったはずだ。それが一瞬の「気まぐれ」で、失ってしまった。ボルトは何かの音を号砲と聞きまちがえたか、あるいは、遅い号砲にじれて精神を集中するに耐えられなくなってしまったのかもしれない。それは他の誰のせいでもなく、すべて自分が悪い。そんな自分のうかつさを嘆き、悔やんだことだろう。出走前の神ヘの祈りも通じなかった。自分を見放した神を恨んだのかもしれない。
結局、世界選手権の百メートル決勝は、おなじジャマイカ出身の、ボルトの練習パートナーでもあるヨハン・ブレイク(21)が優勝した。タイムは9秒92で、世界選手権の優勝タイムとしては物足りない。ボルトは、この選手を意識しすぎたのかもしれない。ブレイクはボルトにとっては「練習生」にすぎない格下の選手だった。彼はちょうどボルトの隣の6レーンにいた。ボルトにとっては、いつもの練習のときのように併走して走ることになるから、逆に走りにくい面があったのかもしれない。そのときのボルトの心を想像すると、
「この男には絶対に負けたくない。いつかこの若い男が俺を追い抜くかもしれないが、それはまだ先のことだ。今はオレのほうがだんぜん速い。オレが負けるとすれば、スタートに失敗したときだ……」。
確かに、ボルトはスタートに失敗した。フライイングで……。
ボルトは短距離選手には珍しく、長身・大柄(195cm、94kg)だ。スタート・ダッシュには不向きな体つきをしている。そのため、スタートの10メートル前後までは他の選手より出遅れるのはしかたない。ボルトの目線では、スタートでは自分はまさに、他の選手の後塵を拝しているように見えるはずだ。でも、その後は長身の脚力で加速し、スピードに乗って中盤で他を追い抜き、ゴールするときには他をぐんぐん引き離すパターンで勝ってきた。自分の「遅いスタート」をボルトは相当気にしていたようだし、これからも気にしそうだ。過去には、その出遅れのためにレースを失った経験もしてきたとみえる。
ボルトが勝ったときは、体全体で喜びを表現する。時には、まだゴールに入っていないうちから、勝負は決まったといわんばかりに、喜んでだりしている。カメラの前で、斜め上方に向けて弓を引くポーズをすることが、ボルトの勝利の表現だ。勝利との関係は意味不明だが……。喜怒哀楽の激しい性格は、たぶん世界一流の競技者の資質の一つなのだろう。ただ、フライイングでの悔しがり様は、ボルトにとってマイナスに働くかもしれない、と私は思う。それが後遺症となり、スタートの迷いがさらに続きそうだし、スタートが慎重になりすぎては、スタートに出遅れる。でも、今のボルトの実力なら、フライイングさえしなければ、たとえスタートで出遅れても勝てそうだから、〈マイナスに働くかもしれない〉という思いは、余計な心配になるようだ。
ボルトの速さは、天性のものかもしれない。ただし、世界の一流選手になるためには、だれもが厳しい練習をしているのだし、ボルトも例外ではない、と私は断じたい。間違いなく、練習環境が整った場所で、優秀なコーチの元で、しっかり管理された練習内容をこなし、制約された日常生活(食事や睡眠を含む)を送る日々を過ごしているのだろう。そんなストイックで節制の行き届いた生活をしなければ、上達も、長続きもしないだろう。ボルトは、走ることを自分の天職とみなして、プロ意識を持って練習をこなし、体調管理を万全にし、徹底した生活ぶりの中にいるはずだ。優勝するために人一倍努力しているにちがいない。競技会で優勝すれば、そんな苦労は吹き飛ぶ。名声も上がり収入も増える……。ボルトの優勝したときの喜びは、つらい練習をこなしてきたことへの「反動」かもしれない。ボルトの経歴を見ると、ユースの時代には、主に中距離を走っていた。そのときは飛びぬけてよい成績を上げているわけでなく、下積みが長かったように見える。めきめきと頭角を現したのは、長身選手には不向きとされる短距離に転向してからだ。その決断が良かったことになる。
私にはボルトが観客のいない練習場で全力で走っている姿が目に浮かぶのだが、実際の競技場での映像ではなかなかそれが見られないことにやや不満を持つ。なぜなら、競技会でのボルトは、走っている途中で、自分の前に走り出る選手がいそうもないことを知ると、力を抜いてしまうことが多いからだ。それは不遜というものだろう。そこで一言、「競技会のレースでも、ふだん練習しているときと同じように、まじめに走れよ」
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