ビンラディンの死 岡森利幸 2011/5/7
R1-2011/5/10
以下は、新聞記事の引用・要約。
毎日新聞夕刊2011/5/2 一面 米ホワイトハウスは5月1日夜、オバマ大統領が同日中に緊急声明を発表すると伝えた。CNNテレビは、声明は国際テロ組織アルカイダの最高指導者ウサマ・ビンラディン容疑者(54)の死亡が確認されたことに関する声明だと速報した。ビンラディン容疑者は01年9月の米同時多発テロ事件の首謀者とされ、米国の「テロとの戦い」は最大目標を達成したことになる。ただ、同容疑者はすでに活動の一線から離れて「神格化」されており、アルカイダの弱体化には否定的な見方が多い。 アフガンの旧軍閥組織が01年末にアフガン東部州のパキスタン国境付近へビンラディン容疑者を逃がしたと明らかにした後、足取りも途絶えていた。(最近では)糖尿病悪化による死亡説が広がっていた。 |
毎日新聞朝刊2011/5/3 一面 容疑者が家族と潜伏していたのは、首都イスラマバードの北約60キロのアボッダバードにある建物で、4機のヘリコプターに乗り込んだ米特殊部隊が急襲作戦を展開した。米政府高官によると、作戦は約40分間続き、抵抗したビンラディン容疑者側との間で銃撃戦となった。 AP通信は、容疑者の遺体は海に流す「水葬」にしたと伝えた。 |
毎日新聞朝刊2011/5/4 一面 米メディアによって明らかにされた秘密作戦は、ビンラディン容疑者を暗号名「ジェロニモ」と呼び、米海軍の特殊部隊「シールズ」が潜伏先を模した施設で数週間にわたり強襲訓練を重ねた上での突入だった。 開始は現地時間の2日未明。隊員らが居宅(3階建て)に踏み込む際、同容疑者の側近らが反撃、銃撃戦は約40分間続いた。隊員らが3階で発見したビンラディン容疑者は女性を「盾」に銃で反撃を試みようとしたが、頭部を打たれて死亡した。 |
毎日新聞朝刊2011/5/5 一面 カーニー報道官は3日の記者会見で、米特殊部隊が殺害したビンラディン容疑者は「武装していなかった」と述べた。「彼は抵抗した」と強調、殺害は不可避だったとの認識を示した。 特殊部隊は二手に分かれて捜索を開始。一つのチームが階上の一室で同容疑者を発見。一緒にいた妻が隊員に向って突進、足を撃たれ、その後ビンラディン容疑者は射殺された。その二人とも武装していなかったという。 現地住民の一人は当日の模様について、「突然夜中にヘリコプターが飛来し、銃撃音が聞こえた。一方的に撃ったのみで、交戦にはなっていない。時間も15分程度」と証言した。 |
毎日新聞夕朝刊2011/5/6 総合 邸宅のすぐ近くに住む少年(16)が5日、毎日新聞に当夜の模様を詳しく証言した。激しい交戦の音などは聞いておらず、米軍は短時間のうちに一方的に容疑者を殺害し、遺体を運び去ったとみられる。 午後0時過ぎ、畑の中に着陸したヘリコプターのごう音で多くの住民が自宅を飛び出した。その前から地域は停電していた。「暗闇でほとんど何も見えない中、兵士の銃の先からレーザー光線が放たれた」 闇の中、邸宅の方向から女性と子どもの叫び声が聞え、小さな爆発音が3回ほど響いた(銃声と思われる)。これと前後して2機目のヘリが飛来(この機は敷地内に着陸しようとしたが、壁に接触して破損した)。現場付近に静けさが戻り、20〜30分後、さらにもう1機、ローターが二つある大型のヘリが(畑に)飛来した。ほどなく2機が離陸し、その直後に大きな爆発音が響き、敷地の中から火の手が上った(破損した2機目のヘリを意図的に爆破した)。 少年は、銃撃音は記憶にないという。だが隣に住む少年の友人は「2機目のヘリが来た頃、10発ぐらい銃声を聞いた。すぐに静かになった」と話した。 |
1.アメリカの上機嫌
アメリカがその威信をかけ、あの2001年9月11日の大惨事が起きてから躍起となってその生死を問わず捜し求めていた「お尋ね者」、ウサマ・ビンラディンがとうとう見つけ出され、殺害された。アメリカの特殊部隊が最新鋭のヘリコプター2機に分乗し、現地時間5月2日の未明に、潜伏先のパキスタン、アッボダバードにある邸宅を急襲した。抵抗したとされるウサマ・ビンラディンの家族や付人とともに、彼の頭を撃ちぬいて殺し、すぐさま大型ヘリで遺体をインド洋に待機していた空母カール・ビンソンに運び、その甲板上で形だけの葬儀を行なったあと、それを海に捨てたのだ。
アメリカでは、ホワイトハウスの危機管理室で通信装置を通じて、その用意周到な作戦の一部始終をアメリカ政府の幹部たちと見守っていたオバマ大統領が、その終了後にアメリカ時間5月1日の夜に緊急声明を発表した。大統領は、メディアを通じ、全アメリカ国民、および世界に向かって、「米国は国際テロ組織アルカイダの指導者、ウサマ・ビンラディンを殺害した。…(略)…これはアメリカの、対アルカイダの取り組みの中で最も重要な業績だ。正義が行われたのだ」と誇らしげに、演説した。
その後、ホワイトハウス前には若者ら数千人が集まり、星条旗を振り、「USA」を連呼し、敵の死を祝うとともに、大統領の功績を賞賛したという(毎日新聞朝刊2011/5/4 総合面)。
米国がお祝い気分でうかれているのでは、アラブ諸国の反米感情を逆なですることになりそうだ。これでアメリカの威信が保たれたのかもしれないが、ウサマ・ビンラディンはアルカイダの指導者としては実質的な活動をせず、ほとんど引退したようなものであって、外部との通信手段もないような孤立した「隠れ家」に潜んでいたのだから、これでアルカイダが壊滅したわけではなく、テロの脅威がなくなったとはいえず、むしろ高まる危険もある。アメリカは、やられたからやり返すという復讐劇を演じただけだろう。それでは正義(Justice、「勧善懲悪」や応報)の意味もある)は、目的を達成しただけの自己満足になってしまう。
力ずくの正義では、フェアプレイから程遠い。悪者は法的な手続きを踏んで処罰するのが、国際的にも正当な方法だったはずだ。そのアメリカ政府が言い訳した状況報告は、アメリカ自身を正当化しているだけだろう。その状況報告には、うそが多いことに気づかされる。自分を正当化したい者はうそをつく傾向があるのだ。「抵抗した」あるいは「突進した」という表現にしても、「逃げようとした」ことを言い換えているのだろう。
2.パキスタンの関与と水葬のなぞ
ビンラディンが家族や付き人といっしょに潜んでいた3階建ての「邸宅」は、パキスタンの首都イスラマバードの北約60キロメートルという近さの地方都市アッボダバードにあった。軍事施設もあるというアッボダバードで、その邸宅は士官学校の近くにあったというから、パキスタン政府がビンラディンをかくまっていたと考えるのが妥当だろう。メディアも、その説が有力だとして紹介している。ビンラディンはアフガニスタンでアメリカ軍の掃討作戦で追い出され、パキスタン国境を超えたとされ、それからの足取りが不明になっていた。おそらく、そのときパキスタン側に捕われ、人質のような状態で、かくまわれていたのだろう。2005年からは、その年に建設されたという警備の厳重な、かつ豪勢な邸宅に住まわされていたのだ。今回の事件でパキスタン政府は、実質的に「その人質をアメリカ側に売り渡した」ことになる。アメリカ軍のヘリコプター4機(特殊部隊を乗せたヘリが2機、遺体運搬のための大型ヘリ1機、おそらく上空にいて待機・あるいは全体を統括していた1機)が堂々とパキスタン領に侵入し、現地での40分の作戦行動の後、インド洋を航行する空母まで遺体を運んでいたのにパキスタン側は何もせず、傍観していた状態だったことからも、その深い関与が推測される。パキスタン政府としては、アメリカとの裏取引で、アメリカに大きな貸しを作ったわけだ。
停電になっていた真夜中の0時ごろに特殊部隊がヘリコプターで、空から邸宅の近くに降り立った。暗視装置を用いて自分たちだけが見える状態で邸宅に踏み込み、邪魔立てする行為をした家人たちには容赦なく銃を発射し、手際よく任務を遂行したことが伺える。映画さながらの見事さだ。その居場所が確実ならば、無人機を飛ばし、上空からミサイルを打ち込めば事足りるはずだが、あえて特殊部隊を送り込んだのは、その本人死亡確認が必要だったことと、遺体を持ち去りたかったからという理由があったのだろう。アメリカ政府は、礼拝するための墓も造らせたくなかったから、水葬にしたとされる。遺体を遺族などに引き渡して墓が造られたら、その墓がテロリストたちの聖地として崇め奉られるかもしれない。そんな深謀遠慮までして作戦が練られたわけだ。空母カール・ビンソンまで動員して「水葬」したのだから、やることがすごい。しかし、アラブあるいはイスラムの世界では水葬はなじまないから、それらの国の人々にとっては遺体を海に捨てた行為になるのだ。
3.神格化
反米感情が持たれている国々で、ウサマ・ビンラディンは、その死により英雄として祭り上げられる可能性のほうが高い。アメリカの強引な武力により殉死したことで、彼は英雄の資格を得た、と私は考える。南米でボリビア政府にゲリラ戦を仕掛け、1967年に政府軍に捕えられ、山中で銃殺にされたチェ・ゲバラのように……。
その足取りが不明になってから、病死したのではないかという憶測もささやかれていたのだが、病死と殺害では大きな意味の違いがある。これで、自己を犠牲にしてアメリカにたてつき、アメリカに一矢を報いた伝説の英雄になりそうだ。あるいは神に近い聖人として、祀り上げられるかもしれない。彼の顔写真を見ていると、聖人の顔に見えてくる……。
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