吉田茂の終戦                                             岡森利幸   2009/5/29

                                                                    R2-2009/7/1

以下は、新聞記事の引用・要約。

毎日新聞朝刊2009/3/24 「発信箱」玉木 研二・記

……吉田は戦時中、ひそかに同志とともに和平工作を企図し、軍部は「ヨハンセン」と名づけてマークした。西洋人の名みたいだが、「吉田反戦グループ」のことである。(大磯邸の)外の尾行や盗聴、私信開封のほか、住み込み書生やお手伝いになって監視し、行動は細かく報告された。

1945年4月15日早朝、憲兵らが邸宅の門をたたき、近衛文麿が天皇に戦争終結を勧めた上奏文に吉田が関与したとして(吉田茂を)東京に拘引する。……

毎日新聞夕刊2009/5/16 一面「近事片々」

(小沢代表の退陣に伴い、民主党が党内に呼びかけた)挙党一致。昔々、挙国一致なんて、自由な物言いをシャットアウトするスローガンあり。

「昔々」といっても、昭和の時代のことだ。70代、80代の人にとっては、まだ生々しい記憶として残っているものだろう。

太平洋戦争が4年近くの長きに渡り、日本の国民全体を悲惨な状況に追い込んだのは、当時の政府が戦争を早く終らせなかったからだ、と考えられる。〈そこには重大な責任があった〉と私は考えている。1942年6月のミッドウェー海戦のあたりでもう大勢は決していたのに、戦争が大好きだった軍部が抵抗したことがその原因の一つのだろう。政府が戦後も天皇制を維持するため、アメリカとの交渉をだらだらと続け、「降伏」を長引かせたことも、大きな要因だろう。吉田茂が、そんな圧力や思惑にもめげず、和平工作をしていたことは、賞賛に値する。

軍部は当時、負けを認めたくないという意地を張り、「本土決戦」のような無謀で安易な作戦に期待していたところもあるのだろうが、降伏すれば、軍部は、面目が丸つぶれになり、地に落ちるだけでなく、自分たちが責任をとらされ、あるいは戦犯として裁かれることを一番恐れていたのだ。フィリピンのマニラや沖縄などでは、現地の住民の犠牲など意に介さず、多数の住民を巻き込んだ地上戦を展開し(本土決戦までの時間稼ぎのためだったとされる)、日本のほとんどの都市が焼夷弾(クラスター爆弾の一種)や大型爆弾(原子爆弾を含む)の空爆によって効率よく破壊・殺りくされるのを、軍部はほとんど手をこまねいて見ていた。戦勲を上げるチャンスを待つかのように、自分たちの戦力を温存するのだという言い訳をして……。

アメリカ軍を中心とする連合国軍は、日本軍を直接たたくより、補給路を断ったり軍に協力していた民間人をたたいたりすることが効果的と考えていたし、その方が味方の被害が少なくてすみ、容易に攻撃できたから、軍・民の区別などしなかった。むしろ民間施設や非戦闘員を標的にしていたくらいだ。輸送船は片っ端から沈めたし、市民の頭上には爆弾や放射線の雨を降らせた。南方に進出した日本軍の死者数は、戦闘で死んだ数より、病気や飢えで死んだ数の方がずっと多かったから、作戦的には大成功だったのだろう。アメリカは〈そんな空襲によって戦争を早く終らせたのだ〉と自慢しているが、それは持久戦を目指したものだろう。日本軍を直接たたいたわけではなく、「後方支援」をたたいたものだ。

正面から日本軍を直接たたいた例では、前述のマニラ市街戦では、戦争の初期段階に司令官マッカーサーが日本軍にフィリピンから追い出されて「私は必ず戻ってくる」と宣言したように、個人的な意地があったし、沖縄戦では日本本土上陸の前哨戦として予行演習的な意味があった。

 

軍部だけが元気な昭和の時代、険悪な国際関係(国際感覚のない、時の政府が悪化させた)の中で、ジリ貧を恐れ、海外の資源をぶんどるために、日本は国を挙げて戦争に踏みきってしまった。戦争に異を唱えるもの、反対するものなど、権力や世間の圧力によっておしつぶされてしまった。全面戦争を推し進めたい軍部にとって、反戦運動など、とんでもないことだった。国民全員が戦争協力者でなければならなかった。戦争に協力してもらわないと、自分たちの勲功がおぼつかないのだ。多様な意見をもつ国民を自分たちの意に従わせることを「挙国一致」というらしい。挙国一致のスローガンによって、国民の誰もが戦争に協力していたし、後方支援をしていたのだ。(挙党一致というのは…省略)

本質的に、軍部は武力で闘うことを目的とした組織であり、それを統制しないと、すぐに暴走し、その銃口を敵にも向けるし、味方(国民)にも向けるような組織なのだ。それを統帥できる者が、万世一系を自慢し、世襲制で皇位とやらを受け継いできたような人だけではいけなかったのだ。軍部が政治権力まで握るようになったら、国民はどうしようもない。それでなくとも、戦力や防衛力を整えようとすると、お金がかかり、利権にもつながりやすい。

号令一下、ネズミの群れが行進するかのように底なし沼に落ち込む日本を救う一助として吉田が働いたことは、りっぱな仕事だった。軍部が「逆賊」とみなした吉田茂が、その後に総理大臣に上りつめたのは、「歴史の妙」だろう。(その孫の麻生太郎氏も総理大臣になったのは、祖父の七光り、あるいは世襲制によるところが大きいのだろう。始祖者はりっぱなのだが、代を重ねると……)

1945年8月、おそらく〈形だけなら天皇制を残してもいいよ〉というアメリカのお墨付きをもらって、日本はようやく降伏した。また、ソビエトが太平洋戦争に参戦したことで、両国はあわてて終戦に向かったのかもしれない。なにしろソビエトのスターリンは北海道まで領有したいと言っていたのだから。ということは、ソビエトが太平洋戦争を終らせた?

なお、スターリンは、北海道を領有する代わり、満州(中国東北部)に常駐していた関東軍の兵士ら約60万人をシベリアに抑留し、受け入れ態勢をろくに整えずに、想像を絶する待遇(文字通りの冷遇、あるいは虐待)で何年も(最長11年)こき使ったとされる。関東軍や関連業者、およびその家族は、撤収する暇もなく、終戦を迎えることになった。このあたりの悲惨な逸話はきりがない。

 

 

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